時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

猛暑の柳川で川下りを楽しむ

2016年07月11日 | 福岡/博多/太宰府/筑紫散策

 

 

 その日は梅雨の晴れ間の35℃の猛暑であった。しかも柳川駅で電車を降りるなり、突然のにわか雨に見舞われ、幸先の悪さを嘆いたものだが、やがて雨は止み青空に。今度はジリジリと太陽が照りつける猛暑。しかし不思議に雨の後の蒸し風呂のような不快さではない。水辺の街だからだろうか。意外に涼やかな風が吹きわたる。柳川はクリークが町中に張り巡らされ、城下町と町人町、沖端の漁港がセットになった独特の景観を有する街だ。旧立花家の邸宅である御花や、北原白秋の生家・資料館が観光の2大ポイントだが、なんといっても水郷の川下りとうなぎのせいろう蒸しが柳川を有名にしている。そのほかにも最近は武家屋敷の公開や、城下町の街並みが復元整備され、街並み散策ファンにも十分魅力的になった。そういえば琴奨菊も柳川出身だった。

 

 西鉄柳川駅(最近リニューアルされていい感じに。駅の建物がグッドデザイン賞を受賞したそうだ)近くの河岸から御花まで、約一時間の川下りの船が出ている。柳川にはこれまで何度か来たことがあるが、実はこれまで一度も川下りしたことがなかった。今回が初めての体験だ。静かな水面に船頭さんの名調子。川面の涼風と岸辺に生い茂る楠の木の緑陰に心癒される時間が流れる。真っ青な空と白い雲、赤いカンナとネムノキの花の綿毛。狭くて低い石橋の下をくぐるちょっとしたアドベンチャー。気温の割には涼しささえ感じる。これまでクリーク沿いの遊歩道を散策したことはあったが、ゆったりと水上から眺める風景にはまた別の情緒がある。もちろん遊歩道から川下りを楽しむ人々を眺めるのも悪くない。こうして立花家邸宅である御花、北原白秋生家へとむかった。

 

 さて、柳川に来たらうなぎのせいろう蒸しを食せばなるまい。特にこのような猛暑に見舞われた日はせいろう蒸しで元気回復!こればかりはなかなか東京や関西では味わうことができない。蒸篭(せいろう)にうなぎの蒲焼とご飯を入れてタレをかけ、じっくりと蒸し上げる。仕上げに時間がかかるのでせっかちな都会人には向かないメニューだ。アツアツをハフハフ言いながら食すわけだ。絶品だ!幸せを感じるひと時だ!

 

 こうして約一時間かけての川下りで水郷柳川の情緒を存分に味わうことができた。しかし、帰りに御花から柳川駅に向かうために乗ったバスの車窓から見る柳川の街は、なんの変哲もない普通の地方都市にしか見えなかったのが不思議だ。しかもわずか10分ほどの乗車というあっけなさもあって、さっきのゆったりした水辺の旅の柳川はどこへ行ってしまったのか。「アトラクションは終了です。お帰りはこちら」みたいな場面転換... 水路は昔の柳川の重要交通手段。自動車の走る道路は今の柳川の重要交通手段。この旅の最後に、所要時間も情緒も異なる対照的な移動手段の違いを知ることとなったわけだ。そのギャップに「時代の移り変わり」を感じた。急ぎの旅でなければ帰りは岸辺の遊歩道をブラブラ歩く方が良いかもしれない。

 

 アクセス:

 

 西鉄福岡(天神)駅から西鉄柳川駅まで特急で約45分。西鉄特急は30分ごと発車で特急料金はいらない。また柳川観光特急「水都」を走らせている。これも別料金なしで乗れるのが嬉しい。駅前からはバス、タクシーがあるが、クリーク沿いをのんびり歩いて御花や白秋生家にゆくのがオススメ。また駅近くからは川下りの船が出ている。約一時間のゆったりコースで御花まで連れて行ってくれる。水郷情緒を味わうにはこれがイチオシであることはいうまでもない。

 

 うなぎのせいろう蒸し:

 

 有名なのは「本吉屋」「若松屋」。どちらも柳川にしか店を出していない老舗。本家本元なので間違いはない。人気店なのでいつも混んでいるし、注文から出来るまで待たされることを覚悟する必要がある。チャッチャと食べてチャッチャと席を立つなどというせっかちな江戸っ子や浪速っ子を自認する人には向かない。御花には落ち着いた和風レストランがあり、庭園を鑑賞しながらのせいろう蒸しもゼッピンだ。うなぎの苦手な人向けには懐石料理や鯛茶漬け御膳などという憎いメニューもある。

 

2012年6月に柳川を散策した時のブログです。

 

 

 

柳川古文書館を見ながら出発

 

多くの橋をくぐって進む

 

川下り発着場

 

味噌屋さんの並蔵

 

緑陰を行く

 

武家屋敷あと

 

ネムノキがいたるところで

 

途中の水上マーケットで一服

 

船頭さんの後ろに入道雲

  

梅雨の晴れ間の猛暑

  

立花家御花洋館

 

御花正門

 

木造の洋館が美しい

 御花松濤園

 

柳川といえばうなぎのせいろう蒸し

  

北原白秋の生家

 

北原家は酒造業であった

 

新装なった西鉄柳川駅

白秋の歌碑

 

 

 

 

 

 

 

 

さらば九州帝國大學 〜西南学派へのオマージュ〜

2016年07月07日 | 福岡/博多/太宰府/筑紫散策

 九州大学の伊都キャンパスへの全面移転(医薬歯系の堅粕キャンパスを除き、平成18年に移転開始、平成30年までに移転完了))に伴い、東京、京都に次ぐわが国で三番目の帝國大學として福岡の地に開学した九州帝國大學、その後進の九州大学は、その発祥の地、箱崎キャンパスを去ることになった。旧帝國大学でメインキャンパスを捨てて全面的に移転するケースは珍しい。43haという全国でも屈指の広さを誇り、古来からの箱崎松原に包まれたキャンパスは今や荒れ果てて、学生の姿もなく、100年という長い歴史の中で数々の研究成果を生み出した研究棟建物も次々に取り壊されている。その往時の活気を偲ぶよすがさえなくなりつつある荒涼たるキャンパスに佇み、我が青春の時を回想する。

 私が学生生活を過ごしたその時代とは、1970年代初頭、団塊世代最後尾、大学入試は史上最高の狭き門、そして大学紛争真っ只中という時代であった。

  70年反安保闘争、ベトナム反戦闘争(反日共系全学連、全共闘運動が全国に広がる)そして中国では文化大革命の嵐。紅衛兵、毛沢東語録、造反有理...

米原子力空母エンタープライズ佐世保寄港反対闘争(九大は全国の闘争拠点)

米軍ファントム九大箱崎キャンパス墜落(反米、ベトナム反戦闘争のシンボル化)

東大安田講堂攻防戦

東大入試中止

そして急遽九大受験

しかし、これは波乱の始まりに過ぎなかった

九大入学試験粉砕(六本松の試験会場封鎖。急遽、近くの予備校に用意された試験会場に移動)

記念講堂入学式粉砕(全共闘乱入)

全学バリケード封鎖(入学後数カ月で講義無し)

機動隊導入、1年後封鎖解除。しかし...

荒廃した学内、疑心暗鬼の連鎖、社会科学系研究体制への失望感...

卒業式無し(卒業証書は事務部でもらった)

 

 そんな九大になぜか5年在学。なにか砂を噛むようなザラザラとした思い出ばかりが残る。ただ、この時に得た学友達との交友関係は今日まで続いている。何も考えず馬鹿話できるポン友というより、考え方も、進んだ道もそれぞれ違う友人たち。かなり硬派な連中だ。それはこの時代の空気を共有し、カオスの時代の生き方に対する共感があったればこそだと思う。決してアパシーではないが、かといって時代にコミットする確信など持てないという、そういう時代を生きた仲間のいわば連帯感みたいなものだ。「孤立を恐れず連帯を求めて」というスローガンが心に刺さる世代だ。

 

 ところで簡単に九大創設の歴史を振り返ってみる。もともとは1867年(慶応3年)の福岡藩の医学所「賛生館」を母体とし、1903年(明治36年)京都帝国大学福岡医科大学創設。1911年(明治44年)古河財閥の寄付により九州帝國大学工科大學校が、そして1924年(大正13年)法文学部が創設された。こうして東京帝國大学、京都帝國大学に次ぐ3番目の総合大学としての九州帝國大学が生まれた。一方、その陰には地元福岡の財界人渡辺與八郎の献身的な誘致活動があった。かれは福岡に市内電車を開業したほか、循環道路を創設したり、福岡の発展に貢献した事業家であった。帝國大學創設に当たって、医科大学付近にあった遊郭を現在の清川/柳町に移転させるなど私財を投げ打って帝國大学キャンパスを確保した。さらに苦学生には奨学金を用意するなど九州帝國大学創設の恩人である。博多商人の心意気だ。その業績を市民は忘れていない。今でも福岡の繁華街「渡辺通」にその名を残している。

 

 明治維新に乗り遅れた福岡藩。明治新政府の九州統治の中心は熊本であった。帝國大学は福岡市が明治維新後、誘致に成功した唯一の官立組織(第五高等学校のあった熊本や、医専のあった長崎を差し置いて)である。福岡が今日あるのも帝國大学誘致に成功したからというと言い過ぎかもしれないが、福岡のポジションを一気に引き上げる快挙であったことは間違いない。初代総長はあの会津藩出身で東京帝國大學総長となった山川健次郎である。法文学部長は同じく東京帝國大學法学部の美濃部達吉という錚々たる創始者たち。こうしたトップリーダー始め、わが国における西南学派の学風を打ち立てんと、勇躍青雲の志を抱いて九州福岡に向かった若き研究者、教育者たち。我が父も戦後、九大薬学部創設メンバーとして、そうした若いたぎる志を胸に東京から九州にやってきた一人だ。その父を誇りに感じる。

 

 こうした九州大学の歴史と伝統は新しい伊都キャンパスに引き継がれてゆくものと期待するのだが、一方、歴史的建造物・景観ファンの視点で考えると、ただでさえ近代建築遺産の少ない大都市福岡で、100年の歴史を誇る箱崎キャンパスが廃止となり、貴重な文化財級建築物や施設、松原に包まれた美しい環境が壊されてゆくのはなんとも勿体無い。幸い工学部本館や大学本部など幾つかの建物は保存されることが決まったが、旧法文系本館など歴史ある建物が取り壊しの危機に瀕している。新しい酒には新しい皮袋が必要だと言うが、一方で芳醇な酒は古い樽、古い酒蔵で醸され熟成される。大学という器にはアカデミズムの歴史と伝統という酵母(アスペルギルス・オリゼ)が住み着いていなければならない。これは一朝一夕には住み着いてくれない。長い歴史の中で育てられるものなのだ。すなわち器の保存はただの懐古趣味でないことを強調しておきたい。いつまでも「帝國大学」という亡霊に固執していてはいけないが、イノベーションは過去から持続的に営まれる人間の自由な思索とたゆまぬ研究の蓄積と伝統の中から生まれる。

 

 今更キャンパス移転の当否を、OBのノスタルジアで語るつもりもないが、首都圏や関西圏の伝統ある大学の郊外移転は、そのブームが去り、再び都心回帰が盛んであることを指摘しておきたいと思う。少子化の時代、広大なキャンパスは必要がなくなり、むしろ優秀な学生や研究者が世界中から集まりやすい魅力的なロケーションが好まれている。すなわち俗世に近い都心が好まれている。逆にそうでないと、ただでさえ少なくなっている学生が集まらない、他校との奪い合いになる(学生側のホンネで語ると、いいバイト先が近くにないとそもそも経済的に大学に行けない)。まして世界の大学と競争するには、広大なキャンパスや、近未来的な建物などではなく、世界とつながっている、優秀な研究者や教育者や学生が世界から集まっている、実社会とつながっている、そういうロケーションが求められる。特に社会科学系の研究にとっては重要なポイントだ。英国留学で過ごした社会科学研究の殿堂LSE(London School of Economics and Political Science)は、まさにロンドンのど真ん中に位置している。OxfordやCambridgeのような俗世からアイソレートした大学都市が世界のイノベーションやアカデミズムの中心となるには100年単位のスケールで考えなければならない。修道院をルーツとする欧州やアメリカの古典的な大学都市は数百年から千年くらいの時間軸でアカデミズムの歴史を積み上げてきた。日本で言えば高野山や比叡山だ。

 

 さはさりながら創立100年の九州大学の伊都新キャンパス移転構想は、その次の100年を見据えての事だろう。その100年単位の壮大なビジョンに向けて歩む道は、新たなアカデミズムの歴史を開く道のりで、それは決して平坦ではないだろう。あの時の砂を噛むような5年間という過ぎし日日を振り返る私は、ただこの一歩が新たなパラダイムに向けてのチャレンジとなり、いつの日か後世の人々が先人の英断とコミットメントを賞賛する時が来ることを祈りたい。それはかつての明治日本のコンセプト「帝國大學」と、その伝統を継承する戦後日本の国立九州大学という過去に訣別して脱皮することを意味するのだろう。

 

 「さらば九州帝國大學。新たな西南学派パラダイムへの旅立ちに栄光あれ!そして西南学派の伝統へのオマージュ、近代建築群を守れ!」

 

 

 

 

九州大学正門(明治44年)

まだちらほらと学生の姿が見える

文科系、農学部はまだ移転していない

 

旧法文学部本館

なんと取り壊し検討中とか

特に保存運動も起きていない模様

悲しいことだ

 

旧図書館

これも取り壊し対象だ

学生時代の住処であった

 

旧文学部心理学教室

取り壊し対象

美濃部達吉博士創設のわが国3番目の帝国大学法文学部

日本における西南学派の立ち上げを心に誓って創設されたとある

旧法文本館玄関

法文系はこの建物を捨て貝塚キャンパスに移転した

移転後は応用力学研究所・生産研として改造された

 

正門前の庭園跡

背後は旧法文系本館

当時としては巨大な建物であった

 

旧工学部本館

九大のシンボル的近代建築

 

堂々たる旧工学部本館

現在は九大研究博物館として保存されている

旧大学本部本館

保存が決まったようだ 

工学部系は伊都キャンパスに移転したため

研究棟の取り壊しは急ピッチで進む

50周年記念講堂

あの入学式が粉砕された場所だ

学食もあり、賑わっていたが...

 

工学部応用化学研究棟

保存検討中

 

工学部航空工学研究棟

戦時中の迷彩がまだ残る貴重な建物

保存検討中

 

正門前の守衛室(大正3年)

保存が決まった

後ろは工学部本館

 

旧中央図書館

九州大学独特の景観だ

正門前にあった喫茶店プランタン

九大生の溜まり場であった

傾いた文字が哀れだ...

旧大型計算機センター

米軍ファントム機はこの建設中のこの建物のこの壁面に突っ込んだ

あの九大闘争のシンボル的建物もいまや荒れ放題

相変わらず福岡空港発着の航空機騒音に悩まされるキャンパス

これも移転の理由の一つか

 

文科系の貝塚キャンパス

正門前の旧法文本館の重厚な建物に比べ、なんとも...

手前の道路にはかつての西鉄貝塚線が走っていた「九大中門」電停はここにあった 

現在の法文系本館。

バラバラで統一感のないつぎはぎ建物が九大法文系のステータスを表しているように感じる

まだ伊都キャンパスに移っていないが

理工系と違って山奥に引っ込んで優秀な学生や研究者が集まるのだろうか

 

箱崎キャンパスマップ

参考サイト: 箱崎九大跡地ファン倶楽部のサイトです。

 

 

 


梅雨の太宰府は紫陽花の里だった

2016年06月19日 | 福岡/博多/太宰府/筑紫散策

 

 

観世音寺の紫陽花

 

 

 遠の朝廷、太宰府の梅雨の季節はアジサイが真っ盛り。太宰府といえば梅を思い起こす。あるいは都府楼の桜。あまりアジサイのイメージがなかった。しかしこんなに古都の季節を彩っていたとは、元・地元住民の私も気づかなかった。きっと最近の事なのだろう。世界各国からの観光客で賑わう太宰府天満宮のざわめきを離れ、本来の太宰府都城の中心部であった観世音寺から戒壇院、太宰府政庁跡(都府楼跡)あたりの散策は楽しい。古刹に官衙の遺構、万葉歌碑、いわくありげな杜や塚、都城を守る山城。古代史を物語るセッティングが用意されている。このあたりの佇まいは、かつての栄華を思い起こさせるのに十分だし、静けさが時間を巻き戻してくれる。どの季節に来ても良いものだが、雨のそぼ降る梅雨の太宰府もまた風情があって良い。煙霧にけぶる四王寺山(大野城)を背景に瑞々しい緑をまとった太宰府政庁跡の広大な敷地、観世音寺の杜、戒壇院の土塀、学校院跡の田んぼ。山上憶良、小野老や大伴旅人などの筑紫歌壇のトップスターたちの歌碑やそこにアジサイが彩りを添える。なかなかの風情ではないか。太宰府のもう一つの季節の味わいを知った。訪れるたびに新たな発見がある。

 

 

 

戒壇院

 

戒壇院山門

 

戒壇院の紫陽花

 

観世音寺講堂

講堂横の紫陽花

 

 

 

 

観世音寺宝蔵の菖蒲

 

 

観世音寺の裏手は太宰府散策のゴールデンルートだ

 

僧坊跡の紫陽花が見事!

 

 

里では田植えが始まっていた

戒壇院

 

学校院あたりも田植えが

 

太宰府政庁跡(都府楼跡)

 

都府楼から四王寺山(大野城)を望む

 

 

 

 

 

歩き疲れたら

光明禅寺門前の茶屋で「梅が枝餅」を

 

水城小学校・学業院中学前の案内

 

 

 

 


修猷館と西新商店街 ~我が青春の街は今~

2016年01月11日 | 福岡/博多/太宰府/筑紫散策

我々が通っていた頃の本館。六光星の校章が掲げられた塔がシンボルだった。

今は建て替えられて跡形もない...

現在の本館。当時の面影を残すため塔は復元されたようだ。正門は当時のまま。

随分立派な校舎と施設で恵まれた教育環境に見える。

きっとオンボロ、バンカラのイメージは薄らいだのだろう。

 

 修猷館は筑前黒田藩の藩校(東学問所)であった。その名は中国の古い歴史書「尚書」から引用され、「その猷(王者の道)を修める」という意味があるそうだ。古色蒼然たる名前は、子供の頃にはなにか硬派で恐ろしげな響きすらあった。しかし近所の修猷館のお兄さんは賢そうなのでそのギャップが不思議だった。藩校修猷館、バンカラ、弊衣破帽、げた履、六光星の校章。スポーツは剣道、柔道、ラグビーが強かった。ヨットも全国制覇したことがある。全国でも有数の進学校だ。要するに文武両道ということ。かといって受験勉強など特別な指導はなかった。本人が勝手に勉強するんだろといった気風であった。もちろん校則などというものもなく、自由闊達、自主性が何よりも重視された。県立であったので学区制があったのに越境入学が多かった。私が入学した時の同級生は福岡はもとより全国から来ていた。また、いわゆる修学旅行がなかった。かつてはあったが「ある事情」で廃止されたという。在学中、生徒会で修学旅行を復活してくれと決議したが、先生方から「お前らを修学旅行に連れて行くぐらいなら辞表を出す」とキッパリ断られた。てんでに勝手な行動をする奴らを引率するような牧童役は真っ平ごめん、というわけだ。最近は復活したとみえ、私がニューヨークにいた時に、「先輩の仕事を見学/意見交換させて欲しい」と学校から頼んできた。やってきたのは真っ黒に日焼けした精悍な面構えの男女10名。応対に出た米人秘書が一瞬ドン引きしていた。聞けば、手分けして世界各国で活躍する先輩方を訪ねているんだと!さすがだなあ。ちなみに先生の引率はなかった。やっぱり...

 全国には、米沢興譲館、福山誠至館、柳川伝習館、久留米明善校、熊本済済黌、鹿児島造士館、萩明倫館等々、藩校を起源とし、今もその名を校名にしている学校は多い。しかし、修猷館ほど卒業生の量質ともに多士済々な藩校も珍しいだろう。幕末の福岡藩は維新に乗り遅れ、多くの有為な人材を新政府に送り込めなかった。その無念の思いがそうさせたのか、明治以降、黒田奨学会とともに修猷館は、世界に羽ばたく福岡の若人の人材育成機関として、福岡県立に移管されたにもかかわらず黒田家や卒業生/同窓会の支援で隆盛を極める稀有な学校となった。黒田藩が城下町福岡に残した文化的な遺産のひとつだろう。

 戦前は男子校だった。戦後昭和24年に共学校になった。私の在学当時も女子(女史)は全体の10%くらいしかいなかった。クラスは男女共学組と男オンリー組に分かれる。ちなみに私は一年病気留年し4年も通ったのに一回も男女クラスにならなかった。別に羨ましくもなかったが...(負け惜しみ)。圧倒的少数の女子のほうが断然に男子を睥睨していたような気がする。いま社会で活躍する女性のなかで修猷館出身者が多いことを見てもわかる。最近は女子生徒の数が大幅に増えたと聞く。これからは女子力パワーの名門校になることは間違いなかろう。

 一方、西新にはもう一つ学校がある。西南学院。米国南部バプティスト連盟の宣教師により設立されたミッションスクール。中学高校は男子校。大学は共学校で、輝くような女子大生もいた。しかしバンカラ修猷生は目もくれなかった。いや正確に言うと相手にされなかった。汗臭い九州男児君ばかりだもんねー 近くに女子校もなく(城南線の電車で「練塀町」や「古小烏」「薬院」あたりの山の手まで遠征しないと女子校はなかった)、いやでもバンカラを標榜せざるを得なかったのかもしれない。

 修猷館/西南学院、両校はかなり対照的な隣人だ。教室の窓からすぐ隣に西南学院が見える。冬になると蔦のからまるレンガ造りの瀟洒な校舎の煙突からは煙が立ち上る。窓は全部閉まっている。全館暖房中だ。こっちは、戦前の歴史的建造物。鉄筋とはいえ古い校舎は隙間風がスースーよく通る。教室にはストーブもなし。海からの風が吹きつけ寒い、とにかく寒い。なのに窓は開けっ放し。閉めてても寒いのでせめて明るく!

 しかし、最近行ってみたらあの歴史的な校舎が完全に無くなって建て替えられている。立派で堂々とはしているが平凡な今風の校舎に。惜しいことだ。なんか福岡人って、歴史的建築遺産にあんまり頓着しない傾向にあるようだ。街中には意外に近代建築遺産が少ない。都市景観にどこか重みがないのはそのせいか。中心部にあった古い堂々とした銀行の建築物や旧博多駅舎、ネオゴシックの県庁舎や市庁舎だって全部取り壊されてしまった。思いっきりがいいのか。価値がわかってないのか。九州大学も伊都キャンパス移転に伴って箱崎の校舎の取り壊しが盛んだ。明治後半に我が国第三番目の帝国大学として創立され、堂々たる名建築が立ち並んだ箱崎。これだけの歴史地区が廃墟になる様は哀れとしか言いようがない。修猷館よお前もか... 学校ってのは校舎が新しけりゃいいってもんじゃないだろう。伝統校ほど歴史を感じる建築物をシンボルにしているのに。

当時は市内電車貫線が正門前のこの道を走っていた。今では「サザエさん通り」なんてのが出来た!

正面の塔屋に六光星。この旗の配列は同じだ。

旧制中学修猷館時代の正門

石柱の文字にわずかに伝統の痕跡が残っている。

今の東門付近に保存されている

 その我が母校、修猷館があるのが西新町:江戸時代に福岡城下、樋井川の西の松原に新たに形成された町だ。それまでは樋井川にかかる今川橋が城下町の西の果てだった。幕府の一国一城令により廃城になった黒田家の支藩、直方の東蓮寺藩の家臣たちを福岡本藩の城下に住まわせるために新たに開発した新市街だそうだ。やがて唐津街道沿いに町が広がっていった。いまでも古い商家が残り、姪浜宿あたりまでは古い町並みがかろうじて残っている。

 また鎌倉時代にはモンゴル・高麗の大群が博多湾に来襲してきた。いわゆる元寇である。二度目の来襲ではこの辺りに上陸してきたが、先の来襲以降、防塁が築かれ鎌倉御家人たちは九州の武士団の助けでなんとか防衛を果たした。一部、陸上戦の激戦地となった祖原山や日本側の前線基地となった紅葉八幡などの元寇ゆかりの遺跡がある。西南学院のキャンパス内には防塁跡が保存されている。電車が走ってたころは「西新町」の次に「防塁前」という電停があった。

 明治になるとお城の大手門にあった藩校東学問所修猷館が西新町に移転、福岡県立中学修猷館となる。さらに西南学院が同じく西新町に移転してきた。こうして新興武家屋敷だった街が学生の町となった。

 西新商店街はいまでも賑やかな商店街。有名なのは、糸島のおばちゃんリヤカー部隊の露店。常設だ。すぐ西隣りの旧糸島郡(今は一部が福岡市西区、一部は糸島市に。倭国の時代の伊都国、志摩国のあったところ)は福岡の台所と言われる近郊農業地帯。新鮮な野菜、果物、花、そして魚が取れる。おばちゃんたちが朝早く起きて大きな背負い籠を担いで、筑肥線に乗って、市内に行商に来たのが始まり。西新町はロケーションとしては一番便利で、こうした「市」が出来たのは全く不思議ではない。

 もう一つの名物は、修猷館生御用達「蜂楽饅頭」という回転焼き(今川焼きとも太鼓焼きともいうが我々はこいう呼んだ)屋さん、当時は小さな店だったが、今でいうイートインコーナーがあった。なにより綺麗なお姐さんがいた。いわゆる看板娘!生意気な修猷館生にも優しく接してくれた。「あれから40年?!」。いまは大きくて立派な店になり結構な繁盛店に。そう、「行列のできる店」になっている。天神の岩田屋本店のデパ地下にも出店してるそうだ。あの看板娘さん、どうしてるんだろう?

 私は子供のころ西新町の東隣りの今川橋に住んでいた。今川橋には西鉄電車の車庫があり、かつてはここが市内電車の終点であったという。それが西新町より更に西の姪浜、室見まで伸びた。西新町は、市内電車、城南線と貫線の分岐点であった。映画館や積文館書店があり、ボーリング場もあった。商店街だけでなく賑やかな街だった。やがて修猷館に通うころには私は樋井川の上流の別府に引っ越し、六本松からここまで電車通学していた。電車の分岐点であっただけでなく、昔から唐津街道の要衝として賑わう街であった。今でも福岡市の西の副都心と考えられている。一時は地元老舗デパート岩田屋の西新店がオープンしたが、やがて閉店してしまった。そんな副都心、なんて気取った町柄ではないのだ。普通ならデパート・スーパーなど大型店舗ができて商店街がシャッター通りになるのだが、ここでは逆。商店街がいまも健在。その後デパートもスーパーも建たないという、珍しい賑やかな商業地であり続けている。

西新商店街

紅葉八幡

蜂楽饅頭。修猷館生御用達

商店街から福岡タワーが見える

かつては百道の海水浴場だったところだ

???このカオスな佇まいがいいなあ!

西新商店街名物リヤカー部隊

糸島のおばちゃんが新鮮な野菜や果物、花、魚を運んでくる常設露店

この頃は糸島のおばちゃんもファッショナブル。

当時はモンペに久留米絣、頭には手ぬぐいのほっかむりが定番だった。

 西新商店街を更に西へ行くと、中西商店街、高取商店街、藤崎商店街と延々1.4Kmも商店街が続く。賑やかな下町の佇まいを今も残している場所だ。高取商店街辺りまで来るとかつての唐津街道の商家、町屋が今も残っている。やがて姪浜宿も間近だ。忘れてならないのは高取焼の窯元があることだ。ビートルズやベンチャーズに熱狂していた高校生の私に、陶磁器など興味があるはずもなく、もちろん一度も訪ねたことはなかった。しかし、この歳になると「なんだこんなところにお宝が...」と気づく。早速行ってみたが、この日はあいにく誰もおらず、陳列館もガランどう。登り窯を見学させてもらい引き上げた。ここまで来ると福岡城下の西の果て、旧早良郡、糸島郡との境だ。

 

 

 

 

筑前藩高取焼窯元「味楽窯」

 ともあれ、「あれから40年?!」なのだからすっかり辺りも変わってしまった。浦島太郎なのだ。樋井川は臭くて汚い川だったが、いまは綺麗になった。今川橋も古い木造橋で電車が上を通るとグラグラ揺れた。やがてコンクリート橋に架け替えられたが、砂埃舞う未舗装の電車道がしばらく続いた。「サザエさん通り」なんて通りが出来た(修猷館東門の横を百道海岸へ)長谷川町子が一時期住んでいて、百道の浜で磯野一家を構想したという。そんなことがあったなんて全く知らなかった。百道の海水浴場も地行浜も埋め立てられて新しいウォータフロント新市街が出来た。湾岸を都市高速道路が走ってるではないか!気分はまるでシカゴのレイクショアードライブ、ニューヨークのヘンリーハドソンパークウェー! 住んでいた海辺の我が家のあったところも、いつの間にかすっかり内陸の殷賑な地区になってしまっている。それにしてもこのウォーターフロント、シーサイドももち、すっかり福岡の新しい顔になっていて、近未来的な都市景観を生み出している。福岡ってかっこいい町になったなあ!しかし、子供の頃凧揚げした地行浜も、毎夏大腸菌汚染度が気になっていた百道海水浴場も、父が百道海水浴場からボート借りてきて子供の私を迎えに来てくれた樋井川河口の防波堤も無くなってしまった。あの頃のあの町。でもやっぱり記憶の中の西新町と今川橋は、いまだに当時のままだ。市内電車が走り、海水浴場があって、六光星の校章つけた学帽かぶった若者が闊歩し、蜂楽饅頭で放課後を過ごしている修猷館生がいる街だ。血気と汗と涙と夢とに満ち溢れた若者の町... 枯れてしまった今の私には眩く輝くような街だ。

 

 

 


磁器創業400年の町 有田を徘徊する ~静かな山間の町に「超絶の美」が育まれた~

2015年11月20日 | 福岡/博多/太宰府/筑紫散策

 

陶祖 李参平記念碑から有田の町を展望

 

伝統的建造物群保存地域リストより

 

 有田は来年、磁器創業400年を迎える。朝鮮の役で肥前に連れてこられた朝鮮人陶工李参平を始祖にその歴史が始まった。彼は泉山に良質の陶石(カオリン)を発見し1616年有田に築窯する。その後江戸時代には肥前鍋島藩の育成・保護のもと、窯元が有田皿山・内山に集められ、皿山代官所が設けられた。また赤絵町を中心に鍋島染付が盛んになる。製品は主に伊万里の港から出荷されたので「伊万里焼」の名で流通した。日本国内はもとより、長崎のオランダ東インド会社を介して遠くヨーロッパまで輸出され、これが王侯貴族の垂涎の逸品として広まってゆく。ドレスデンのツヴィンガー宮殿は数多くの伊万里コレクションで有名だ。後に有田を手本にマイセン窯が開かれることになる。現代まで続く酒井田柿右衛門や今泉今右衛門(鍋島藩お抱えの赤絵付師)といった名工が生まれる。こうして伊万里焼は鍋島藩の重要な収入源となる。また、鍋島藩は、市場に流通する磁器を焼く私窯と、藩のために焼く藩窯を分け、後に技術の流出を防ぐために後者を伊万里の大川内山に集めて、藩専用に門外不出磁器を焼かせたことは以前のブログで紹介した通りだ。

 

 18世紀後半になると、これまで盛んだった磁器輸出の停滞が始まり、国内市場も瀬戸や美濃などの産地の台頭で有田苦難の時代となっていった。また、1828年の有田千軒の大火では壊滅的な被害を受けた。しかし、先人達の努力で、伝統の火を絶やさず、幕末・明治初期には、開国した日本の重要な輸出品としてその製造に力を入れる。ウィーン万博、フィラデルフィア万博への出展で海外市場マーケティングの経験と製品評価を積み、積極的な海外市場開拓が始まった。やがて廃藩置県により鍋島藩の皿山代官所が無くなり、藩の管理から離れる。こうして今度は地元の有力な事業家を中心に輸出陶磁器として、欧州の磁器製造技術や絵付け、デザインを逆輸入しつつ、新たな「有田焼」を生み出してゆく。その工芸品としての「超絶の美」は特にパリ万博で高い評価を確立することとなる。明治期の有田磁器は、江戸期の伊万里磁器(今では「古伊万里」とカテゴライズされている)と異なり、大皿や大壺などの生産が盛んになり、細密な絵付け、装飾的でデザインも凝りに凝った、いわゆる「超絶技巧」を駆使したものが多くなる。いわば西欧市場受けする色付け、デザインとサイズの製品が生み出されていった。

 

 こうして、鍋島藩お抱えでエクスクルーシヴな「伊万里焼」から、その伝統と歴史に裏打ちされながらも、グローバルな「有田焼」へと変身してゆく。まさにジャポニズム、今でいうクールジャパンここにありという訳だ。職人たちの熱いこだわりと心意気が感じられる。肥前有田内山、この静かな山間の街は世界に輝く至宝の里となった。

 

(参考)明治の磁器輸出の担い手

 

 香蘭社(深海墨之助、辻勝蔵、手塚亀之助、八代深川栄左衛門によって1875年設立

     された日本最初期の磁器製造販売会社)

 精磁社(1879年、手塚、辻、深海が香蘭社から分かれて創業。しかし1897年終

     焉。辻勝蔵が1903年に辻精磁社を設立)

 深川製磁(深川栄左衛門の次男深川忠治により1911年設立。) 

 

(参考)古伊万里伝統的技法の継承(いわゆる有田の「三右衛門」)

 

 柿右衛門様式:酒井田柿右衛門(私窯、濁手、柿右衛門赤)14代

 鍋島様式:今泉今右衛門(鍋島藩窯、お抱え絵付け師、鍋島染付)14代人間国宝

 源右衛門様式:館林源右衛門(260年前に築窯。衰退。昭和45年に6代源右衛

        門が再興。海外ともコラボしながら新しい「有田焼」を生み出し

        ている)

 

 こうして創業以来400年もの間、栄枯盛衰はあったものの、連綿と有田磁器を生み出し、育んできた。ビジネスコンティニュイティー、すなわち事業継続の基本となるのは、やはり「伝統と革新」。それはここでも当てはまる不変の法則だった。

 

 平成3年に有田内山は伝統的建造物群保存地区に指定される。町を歩くと、有田駅から上有田駅付近まで続く細長い通りの両側に家並みが続く。表通りは江戸期の町家と明治期の洋館、大正期の商家と、昭和に入ってからの建物と、各時代の建造物が多様に混ざり合いつつも、美しく調和した町並みを形成している。また表通りから一歩裏に入るとトンバイ塀(窯のレンガの廃材などを利用した塀)の町並みが残されており、工房や工場、窯元が軒を連ねる独特の景観を作り出している。またそこには生産活動に従事する匠やその家族の人々の日々の生活がある。過去を封じ込めた「歴史的景観保存地区」ではない。ここは現代を生きる町なのだ。

 

 一方、表通りに出て、世界の香蘭社や深川製磁の本店ショールームをめぐるのは楽しい。眼に眩い日本の至宝が現代的なセンスを纏い並んでいる。もちろん古伊万里の陳列館では、その至宝の原器たる磁器名品の数々を楽しむことができる。谷あいの静かな町に400年の伝統と歴史が今も保存され、かつそれが時間とともに熟成されて、新たな美を生み出し続ける。今もアクティブに革新的な製品を世界に発信し続けている町だ。歴史的景観として保存されるだけでなく、今に生きるモノ作りの町、いや超絶技法の町なのだ。

 

 この日も、町にはヨーロッパ諸国からの訪問者が多く見られた。深川製磁の陳列館に横付けされたバスからは、シルバーカップルの一団が降りてきた。長崎に寄港したクルーズ船からのツアー客だそうだ。なかなか魅力的なツアーだ。裏通りにはバックパックの若者達が一軒一軒工房を巡っている。有田駅の観光案内所ではフランス人の家族連れが説明を聞いている。地元のガイドさんや駅員の人たちも、立派に英語やフランス語で応対している。ここは国際都市なのだ。陶磁器の聖地、ジャポニズムのルーツの地らしい交流が楽しい。

 

 日本のものづくりのあり方が問われている。高度な生産技術で、低コスト化・低価格化を実現した日本のモノ作りの技術は大したものだが、そういう競争優位性はもはや日本だけのものではなくなって久しい。さらにコスト競争による安い大量生産品はますます利益を生み出しにくくなり、逆に競争優位性を失う。むしろ高付加価値、誰にも真似できない技術(テクノロジー)/技(わざ)/芸(アート)の領域に入ってゆく必要がある。こうした感性を刺戟する商材はすなわち誰にでも買えるという分けではない。「手のかかった本物」はそれなりの対価を求める。誰でもできる、誰でも買える、はもはや競争優位にはならない。この人しかできない、この会社しかできない、ここでしかできない「差異化ポイント」が「高付加価値」か「コモディティー」かを分けることになる。しかし、そんなことは言い古されて当たり前のこと、誰もが分かっていること...のはずなのに、ではそれが具体的になんなのかが分かっていない。

 

 伊万里大川内山を巡った時も感じたが、「有田」「伊万里」を所有するということにはなにか特別な体験がある。人に語りたくなる物語がある。そしてそういうものを生み出してきた町や里を巡ることにもう一つの体験と物語が生まれる。ここ有田内山に来て、静かな谷あいの町を歩き、伝統と歴史と、その世界的な評価に裏打ちされた名品に酔いしれる。そうするうちになにかヒント(すなわち差異化とはなにか?)が見え隠れしているような気がしてくる。技術(テクノロジー)/技(わざ)/工芸(デザイン)/芸(アート)、人々を感動させる要素はどのプロセスで生み出されてゆくのか。モノより体験、あるいはモノを通じての自分のストーリーを語る。そういう新しい世界を感じさせる。案外、日本再生のヒントは佐賀にあり!かもしれない。

 

 

 

 以下、有田での写真をアップしてみた。上で述べたような体験、物語を写真で表現しようと試みたが、やはりそうした有田の情景・情感を伝える力量の不足を強く感じる。写真の数が多ければ多いほど、言葉数が多ければ多いほど、伝えたいメッセージは曖昧になる。今の自分の限界だから仕方ない。ともあれご覧あれ。

 

 (1)明治期に創立となった、香蘭社、深川製磁、精磁社を巡る。それは江戸の伝統を今に伝える三右衛門(柿右衛門、今右衛門、源右衛門)の窯、工房を巡る旅に加えられるべきもう一つのハイライトだ。ちょうど佐賀県立九州陶磁文化館では「明治有田 超絶の美 万国博覧会の時代」展を開催中だった。明治期に海外に輸出された有田ブランドはこの三社が競い合って確立されたものであったことがわかる。

香蘭社本店

香蘭社展示館からの眺め

深川製磁本店

ロゴマーク富士山

深川製磁本店横には工房が

辻精磁社

代々禁裏御用達の辻家が元祖

 

 (2)表通りを一歩中へ入ると、そこには「トンバイ塀」に囲まれた工房や工場、窯元が軒を連ねる路地が続く。こちらの方が有田の伝統的な街並みなのかもしれない。

 

 

 

 

 

  

(3)再び表通りへ。

有田内山地区の街並み

江戸時代、明治、大正、昭和とそれぞれの時代の建物が混在する

その多様性の調和が町の歴史の熟成を感じさせる

今泉今右衛門

江戸時代の建物がそのまま使われている

 

陶山神社参道。JR佐世保線が横切る

大鳥居は有田焼 

陶祖 李参平を祀る。扁額には有田焼の大皿が

これも有田焼の狛犬

本殿は町を見渡す山の上だ

陶祖 李参平記念碑

有田駅近くの川にかかる橋

JR有田駅

 

 (4)佐賀県立九州陶磁文化館では、前述のように「明治有田 超絶の美 万国博覧会の時代」展開催中であった。ここはこうした企画展のほか、九州全域の陶磁器の歴史、コレクションを総覧する常設展示を行っている。陶磁器の歴史がわかりやすく展示されていて勉強になった。そのほかにも見所満載で陶磁器マニアにとっては見逃せない。中でも古伊万里の「柴田夫妻コレクション」は必見。

佐賀県立九州陶磁文化館から展望する有田の町

少し黄葉が始まった 

圧巻!

充実した旅の心地よい疲れを癒してくれる一幅の画