時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

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野村碧雲荘散策 〜京都南禅寺界隈別荘群探訪(2)〜

2017年01月28日 | 京都散策

 幸運にもこのたび京都の「野村別邸碧雲荘」を見学する機会を得た。ここは野村証券や旧野村銀行/大和銀行の創業者である野村徳七翁(得庵)が私財を投じて作り上げた南禅寺界隈きっての数寄屋建築、庭園を配した別荘である。現在でも人手に渡らず創業家/その関連事業体が所有している。時代の変遷に伴い所有者が転々と変わる別荘が多いなか、ある意味珍しくなっている。さすが野村グループである。所有者が変わらないのはこのほか、住友家の「友芳園」くらいだ。6000坪に及ぶ広大な野村別邸は、大正4〜5年頃から建設、造庭が始まり昭和3年に完成した。建物は数寄屋大工第一人者の北村捨次郎、作庭は第7代小川治兵衛(植治)。ちなみに公開されている旧山県有朋別邸「無鄰菴」を含め南禅寺界隈の邸宅群の多くの庭園は七代目植治が手がけている。平成18年には文化財指定された。

 

 事業も趣味(能楽、茶道)も超一流。現在の野村グループへと続く事業を成功させた創業者であるというだけでなく、趣味人としても完成の粋に達している。こうした数寄者の極みを後世への遺産として残した野村翁だ。この境地に立てる人物は少ない。ただ金持ちだから出来る道楽、ということでなく、そこまでなんでも極めるというコミットメント。文化の保護と継続に対する感性と情熱。そういう人生を全うするとは実に羨ましい限りだ。富豪だからと言って、人品骨柄卑しからずとはいかない例を最近見せつけられることが多いだけに。

 

 当日の京都は雪模様で、寒い一日であった。西門から入り、待月軒に通される。茶会で用いられるという不老門をいったん出て再び邸内に入り、庭園、茶室や書院を見学の後、東門から出るというコースで案内していただいた。東門がこの邸宅の表門である。

 

 まずは待月軒からの池庭の全景に思わず息を飲む。東山連峰の南禅寺山、永観堂の多宝塔を借景とし、常緑の赤松と芝生が池端を彩る。左手には大きな桜の木が、右手には舟型の茶室が見える。池には白鳥が泳ぎ、一艘の舟が浮かぶ。七代目小川治兵衛の手になる名園だ。折も折、小雪がサラサラと園池に舞い、東山の山肌に白い雪が霜降り模様を生み出す。待月軒の障子窓に縁取られた庭園の全景が、まるで一幅の絵のようであった。池端に佇めば白鳥がフレンドリーに寄ってくる。がこれはフレンドリーだからではなく、縄張りを主張しているからだとか。

 

 邸内を案内されて進むと、舟型の茶室盧葉庵と観月台を兼ねる舟舎羅月がある。現存する舟型茶室としては日本に3つしかないという。数寄者の極みであろう。その脇には立方体の巨石がしつらえてある。大阪の勝尾寺から運んできた銘石だという。大きすぎて幾つかに分割して運んだらしく、よく見ると表面に切れ目がある。そこまでして運ばせる。ここにも数寄者ぶりが遺憾なく発揮されている。

 

 ところで池には水が満々と満ちているが、流れるべきところに水が流れていない。滝も落水がない。本来は水の流れの中に据えられているべき蹲が、立ち位置を失って所在無げである。聞けば、ここ数日琵琶湖疏水の水路の清掃中で、水が来ないのだそうだ。いわば断水中。図らずも南禅寺別荘群の植治作庭の池泉回遊式庭園は、琵琶湖疏水があるからこそできた名園であることを知ることとなる。

 

 茶室は、先ほどの池に浮かぶ舟型茶室盧葉庵のほかに、藪内流の花へん亭、それに続く又織庵(織部様三畳)と南光庵(利休様二畳)がある。その前には飛鳥から移築したという酒船石を配した露地庭園がある。招客、目的によって茶室を選んだと言われている。野村翁は比較的晩年になって茶道に目覚めたようだが、極め人はここまで拘って茶室を営んだ。茶号を得庵と号す。

 

 中書院の前庭には大きな藤棚がしつらえられている。この藤は上むきに花がつく珍しいもの。この二階は野村翁の書斎であったそうで、二階の窓から上に伸びるこの藤の花を愛でたという。また上むきに伸びる藤の花は事業の隆盛を象徴する縁起の良いものとして珍重されたそうだ。ここから見える池の真ん中には丸い丘がある。冬のこの時期は何もないが、夏にはここに半夏生の白い葉が生い茂り、まるで池面に映る満月のように見えるとか。なんと粋だこと。

 

 大書院は数寄屋建築というよりは寝殿造りに近い荘厳な建物となっている。大玄関を入ると応接間があり、その隣に能舞台がしつらえられている。野村翁の能装束の木造が置かれている。その奥が大書院となっており、昭和3年の昭和天皇即位の御大典にさいし、列席の久邇宮殿下/妃殿下が滞在された。大広間にかかる扁額「碧雲荘」は久邇宮殿下の御真筆。この翌年殿下は逝去され、これが絶筆となった。

 

 大玄関の正面に東門がある。ここがこの別邸の正門であるが、威圧的な構えではなくいかにも数寄屋風別邸を楽しむための入り口といった趣である。こうして西門からスタートしたひと時の別世界ツアーはエピローグを迎え、ここで野村碧雲荘を辞すこととした。非日常世界を堪能させていただいた後、此の東門をくぐると、いつもの観光客で賑わう鹿ケ谷通りに出た。夢の世界を徘徊したのち、いきなり現実世界へ立ち戻った浦島太郎の気分である。

 

 邸内は非公開である。定期的な公開の予定もないという。生前のスティーブ・ジョブズが是非見学したいと申し出てもなかなか実現しなかったというエピソードが語り継がれている。邸内見学ができたということはそれだけでとても幸運なことだ。当然フォトグラファーにとっては写真撮影を試みたい貴重な機会である。写欲を激しく刺激してくれるしつらえ。えも言われぬ超絶景観。どれを取っても写欲煩悩を抑えきれない。しかし基本的には撮影禁止。ただ一切の出版物やSNS,ブログなどに公開しないことを条件に、ようやく数枚の記念写真撮影が許可された。したがって残念ながらここに邸内の写真を公開することはできない。もっともこうした私的な空間である邸宅、庭園をやたらに他人が勝手に撮影して公開するのは差し控えるべきであろう。また下手な素人写真でその深遠なる静寂と華やぎ、あるいは遊び心を切り取った気になって、ネット上に流布させることが、そのイメージを傷つけることにもなりかねない。やはりできれば、実際にその場に身を置き、その空気を嗅ぎ、自分の目で見、耳で風を聞き、肌で佇まいを感じるのが良い。そういうパーソナルな経験にとどめておいたほうが良い。中々その機会を得るのが困難であるが、それだけにその機会を得たときの喜びもひとしおである。今回は「雪の碧雲荘」を深く心に刻んでおこう。

 

 

 

 

東門

鹿ケ谷通りに面する表門

 

西門

この右手に「不老門」がある

 

 

西側の景観

この左隣は「清流亭」

 

 

 

 

参考:南禅寺界隈別荘群とは

 

旧山県有朋別邸「無鄰菴」以外は非公開。

明治初期の廃仏毀釈にともない廃止された南禅寺塔頭跡を利用

ほとんどの庭園は第七代小川治兵衛(植治)の作

東山の借景

琵琶湖疏水を利用した池泉式庭園。

数寄屋作り建物

 

といった共通点がある。

 

 明治・大正・昭和初期の政財界の大物による別邸構築。山縣有朋がその嚆矢であったという。しかしこれらの豪華かつ伝統的な建物や庭園を今に伝える努力も並みや大抵ではない。次々とオーナーが変わるのは、その維持にかかる費用と労力が生半可ではないからだ。なかなかこうした文化財を所有し維持できるだけの財力を有する資産家が少なくなっているのが現状だ。その対策として創業家の資産から切り離して、法人たる会社で所有し迎賓館として利用したり、公益財団法人に資産を移管するケースが多い。また料理旅館や結婚式場などへ転換する例もある。

 

 明治以降、かつてはこうした文化や芸術は華族や政財界の大物である資産家などがパトロンとなって育成保護、継承を行なってきた。しかし、最近は突出した素封家がいなくなり、個人としてコミットできるケースは少なくなっている。ある別邸の現在のオーナーは、次々と転売され所有者が変わる現状について、「私もその一人であるが、この時期にバトンタッチした者として、この国民の文化財を大事に引き継がせていただきます」と述べている。そういう覚悟と使命を心に刻める資産家が最近は少なくなってしまったようだ。数少ない現代の個人資産家も、もう少し文化のパトロンの視点から社会に富の還元をしてほしいものだ。文化財の保護と継承はその時代の富裕層の義務である。アメリカのつまらん会社を高額買収などするのでは無く。おおっと、野村証券のコーポレートバンキング部門の商売を邪魔しちゃいけない。

 

 

 

 代表的な南禅寺界隈の別邸(順不同):

 

野村碧雲荘(野村別邸)

有芳園(住友別邸)

對龍山荘(ニトリホールディングス所有)

怡園(旧細川家別邸)

智水庵(旧横山家別邸)

清流亭(旧西園寺公別邸)

流響院(真如苑所有)

真々庵(パナソニック所有/旧松下幸之助別邸)

無鄰庵(旧山県有朋別邸)

何有荘(ラリー・エリソン所有)

 

桜鶴苑(株式会社目黒雅叙園桜鶴苑 結婚式場)

八千代(料理旅館)

菊水(料理旅館)

順正書院(湯豆腐順正)

 

 

 2015年1月に訪問した「無鄰菴」に関するブログをご参考まで:

「無鄰菴」庭園散策 〜南禅寺界隈別荘群を巡る(1)〜

こちらは一般公開されている。

 

 

 以下の写真で、南禅寺界隈別荘群エリア散策の雰囲気を感じていただければ幸甚。

 

この界隈の邸宅はどこもこのような長大な壁に囲まれている

 

怡園

旧細川家別邸

 

清流亭

旧西園寺公別邸

左手が野村碧雲荘

 

右の生垣内は真々庵

松下幸之助別邸

 

琵琶湖疏水

 

八千代

 

對流山荘

 

對流山荘外観

 

菊水

對流山荘の向かいにある

 

順正

南禅寺順正書院跡

 

何有荘

 

無鄰菴庭園

 

 

 

 

南禅寺界隈別荘群配置図

京阪電車HPより借用

 

 

 

 

 


京都東山の小路を徘徊す 〜1000年のみやこはおもしろい〜

2016年09月24日 | 京都散策

石塀小路

 

 

 京都の街には小路や路地がたくさんある。だから京都の街は面白い。京都の街歩きは楽しい。大きな通りを外れて迷い込んで見る。そこは現在を生きる生活の道。そこはいにしえのみやこへの入口。そしてそこは異界への入り口。その先に何があるのかワクワク、ドキドキしながら迷い込んで見る。

 

 

三条通北裏白川筋東入堀池町

 

並河靖之七宝記念館と小川邸

二人の巨匠の相見えるところ

お地蔵様と明治牛乳とポスト

 

京都名物「逆さ箒」

瓢亭

無鄰菴板塀

焼杉板塀

蹴上浄水

いにしえへの時空トンネル

南禅寺山門

悟り世界と煩悩世界の結界

南禅寺の空

白川筋

白川

まるで異界に通じる...

知恩院山門

白川筋を抜けると壮大な伽藍が

いもぼう平野屋

ねねのみち

高台寺通り

ライカショップ京都

祇園花見小路

京町屋の二階はライカショップギャラリー

お茶屋「松八重」

祇園花見小路

菊梅

祇園花見小路

一力

祇園花見小路

祇園白川

祇園新橋

御池の空

矢田地蔵尊

寺町通

新京極

ここにも地蔵堂が

新京極通

すき焼きキムラ

柳小路

先斗町

鴨川河畔の夕涼み

 

四条大橋

 

そしてまた先斗町

 

 撮影機材:Leica SL + Vario-Elmarit-SL 24-90 ASPH Lightroomで現像。

 

 


石塀小路散策 〜もう一つの伝統的建造物群保存地区〜

2016年09月11日 | 京都散策

石塀小路

高台寺通り側の入り口

 

 八坂神社(祇園社)、円山公園から南、高台寺界隈は、いわゆる「ねねの道」として観光客に人気の地区になっている。高台寺通りと下河原町通りの間には狭い路地がいくつか通っている。どれも狭くて鍵の手になっているので行き止まりのように見えるが、実は通り抜けができる。そうした閑静な一角、ここが「石塀小路」である。

 

 この辺りは、豊臣秀吉の北政所、ねね縁の地である。太閤の没後、剃髪して高台院と名乗ってから暮らしたと言われる現在の園徳院、高台寺を中心とした一帯は「祇園廻り」と呼ばれていた。江戸時代には、この辺りに芸妓街、お茶屋街ができた。明治初期までは遊郭もあったが廃絶になり、その後はお茶屋の貸家街になった。石塀小路と呼ばれるようになった意外に新しく、明治後期から大正初期に入ってからだと言われている。当時は妾宅が多かったらしく「お妾さん街」などとも呼ばれたそうだ。閑静で落ち着いた街並みで、街の格を上げるために高い石塀を築き、石畳を敷き詰めた。最近の石畳は京都市電廃止の時に出た路面の切り石を敷き詰めたものだ。今はこじんまりした趣のある旅館や料亭、貸席などが連なっている。

 

 最近は観光客にこの隠れ家的スポットの存在が気付かれて、ワイワイと押し寄せてくるようになったらしい。小路のいたるところに「静」という札が掲げられている。その札も板に墨で流れるように書かれていて町の雰囲気を壊さない配慮がある。しかし、貸衣装の浴衣姿に慣れない下駄履きでやってくる女性の集団は、自撮り棒片手に、中国語で声高にキャーピーキャーピーワメキあっている。それを欧米系の観光客が「 Look at  them! Chinese Geisha Girls!」と笑いながら写真を撮る。確かにあまりここの静謐な雰囲気を壊してほしくないものだ。地元の人にとっては迷惑なことだろうが、Visit Japan!, OMOTENSHI!と言ってる以上我慢するしかないのだろう。まったく観光客というものは...... 通りすがりの時空旅写真家である私も、この路地の閑静な雰囲気のカットをモノするのに苦労した。なかなか人がいなくなる瞬間が来ない。待ち続ける忍耐力が求められる。

 

 産寧坂地区一帯は重要伝統的建造物群指定地区に指定されているが、1996年にこの石塀小路地区が追加された。

 

高台寺通り

最近は「ねねの道」というらしい

 

石塀小路

 

 

 

京都市電廃止のときに出た敷石を利用した石畳道

京都の路地には珍しく石塀を高く築いている

 

お宿「玉半」

 

観光客が少ないように見えるが、人通りがなくなるのを待って撮影

 

円徳院

 

円徳院庭園

 

円徳院から石塀小路へ抜ける小径

 

ここは赤レンガ塀にガス灯

 

 

石塀小路

下河原町通り側出口の一つ

 

多少の高低差があるところが奥ゆかしい

 

 

 

 

(撮影機材:Leica SL+Vario-Elmarit-SL 24-90mm f.2.8-4 ASPH)

 

並河靖之七宝記念館探訪 〜靖之と植治 二人の天才ここに集う〜

2016年09月09日 | 京都散策

 

 

 

並河靖之七宝記念館

並河の自宅兼工房であった。

隣家(手前)は稀代の作庭家小川治兵衛の自宅であった。

 

 

 

 以前から訪ねてみたいと思っていた並河靖之七宝記念館。ついに今回訪問することができた。ここの見所は、七宝の超絶技巧作品もそうだが、この建物と庭園がまた明治という時代の美意識を体現する絶妙の空間となっている点である。そう七宝家の並河靖之と、作庭家の植治こと第七代目小川治兵衛という二人の巨匠。明治日本を代表する二人の天才がここで出会った。

 

 ここは並河靖之が、1893年(明治26年)に、今の人間国宝に相当する帝室技芸員に選ばれ、海外に「世界のナミカワ」として名声を博していた時代に建てた自宅兼工房である。欧米での万国博覧会などで高い評価を受け、事業としても最も成功した時期であったという。あたりは少し歩を進めると岡崎南禅寺界隈、政財界の大物が競って建てた壮大な別荘群がある地域だが、この並河邸は比較的こじんまりとした敷地に建つ。表屋は虫籠窓に駒止という典型的な京商家の佇まいを有する屋敷。しかし一歩中に入ると、超絶技巧の七宝の世界と日本庭園という、明治期の二人の美の巨人がコラボレートする独特の宇宙が凝縮されている。明治にしては珍しくガラス窓を多用した和風建築の母屋と、創作に打ち込むための工房、焼成を行う窯場、そして真ん中には植治作庭の庭が配されている。母屋には外国からの賓客を迎えるために、客の好みに応じて洋風と和風の応接間が用意されている。洋間は鴨居の高さが高く、ガラスの入った障子窓も高い位置に、そして和室は低い位置に配されており、この名庭園がどちらからも座ったまま見渡せるように意匠が凝らされている。建物も庭も当時のままで、あまり大きな改修の手も加えられないまま残されている。国指定の有形登録文化財である。

 

 

 住所は東山区三条通北裏白川筋東入ル。いかにも京都らしいアドレスだが、文字通り三条通の一歩北側、白川に沿った裏白川筋との角から東に入って所にある。京都の住所表示は道案内そのものでわかりやすい。

 

 実は右隣が稀代の作庭家第七代小川治兵衛(植治)の自宅であった。現在も「小川」の表札がかかっているが、住んではいないそうだ。こうした隣同士の縁もあり、並河家に作庭を依頼された小川治兵衛。元々は植木職人であったそうだが、これをきっかけに作庭、造園の道に踏み出したと言われる、南禅寺界隈別荘群の名園を数多く手がけた植治にとっても記念すべき庭園第一号というわけだ。

 

 この庭の特色は琵琶湖疏水から水を庭園に引き込み、池と流れを生かした点。京都に多い禅寺の枯れ山水とは異なる趣を醸し出している。水の流れによる植栽のみずみずしさや涼しさ、流水の視覚的、聴覚的効果が京都の庭園に新しい風情を与えている。そもそも琵琶湖疏水は明治維新後の東京奠都で、元気が失われつつあった京都の産業・工業振興のための一大土木プロジェクトであった。琵琶湖から延々水を引き、この蹴上の山筋を開削して、南禅寺境内にローマの水路橋よろしく水路を作り、水力発電所を起こしたもの。したがって別荘や個人の邸宅の庭に水を引くなど想定外であったようだが、並河家は七宝工房用に、として水を引いたという。その後、この琵琶湖疏水が南禅寺界隈別荘群に水を配り、多くの名園を生み出すこととなった。これらこそ植治のなせる技である。同じく植治が作庭した山県有朋の別邸無鄰菴もこの近くである(2015年1月のブログ:「無鄰菴」庭園散策 〜南禅寺界隈別荘群を巡る〜)

 

 この辺りには明治期には20数軒の七宝焼きの事業者があり、それぞれにしのぎを削っていたそうだが、中でもその質と量で並河靖之が群を抜いていた。もともと七宝は大勢の職人を抱えて営むものではなく、どれも事業者としては小規模であったようだ。明治日本の殖産興業政策により、外貨の獲得に七宝は重要な輸出品としてもてはやされた時期であった。こうして並河靖之の超絶技巧が世界に名を轟かせることになった。

 

 しかし、時代は移り、並河家は1923年に七宝製作を廃業。七宝家としては断絶している。現在のご子孫は医者であるそうだ。この記念館の真向かいに住んでおられる。一方、小川家は現在も「植治」として造園業を引き継いでおられ、京都を中心に盛業中だ。現在の社長は12代目である。

  

和室側からは庭の全景を展望できる

 

洋風応接間

鴨居が高く設計されている

 

植治作庭の庭園

水は琵琶湖疏水から引き込んでいる。

 

礎石に見立てた踏み分け石から和室を眺める

 

二階部分

明治期の和風建築としては珍しい大きなガラス窓

 

母屋の柱は池の石に立っている。

 

右は洋風応接、左が和風応接

障子のガラス窓の高さが左右で違っているのがわかる。

 

母屋玄関

 

台所

通り庭という形

 

 

(撮影機材:Leica T+Vario-Elmar-T 18-56mm f.3.5-5.6 ASPH)

 

 

 

 Another Story: もう一つの「美の巨人たち」「二人のナミカワ」

 

 七宝界に名を残す巨人にはもう一人のナミカワがいる。濤川惣助である。奇しくもふたりのナミカワは共にほぼ同世代の七宝家。並河 靖之は1845年京都生まれ、一方の濤川 惣助は1847年千葉県生まれ。後にふたりは京都の並河、東京の濤川 と呼ばれライバル関係を築く。そして並河靖之:有線七宝。濤川惣助:無線七宝という伝統と革新のそれぞれの旗手である。

 

 並河靖之は元々は武家の出で、青蓮院付きの寺侍並河家の養子。明治に失職し七宝製作の道へ。一方の濤川惣助は江戸の商家で奉公ののちある有名商家の養子となり、その後陶器の輸出業に取り組み成功を収める。のちに家業を後継に譲り自らは七宝の革新に没頭する。

 

 並河 靖之は長い歴史と伝統の技法を持つ七宝界の頂点を極め、濤川 惣助は従来の基本形であった有線七宝(色を入れるときに線で境界を築き、色が混じらないようにすることではっきりした模様となる)から、無線七宝(色を入れると早いタイミングで境界の線を取り除き水彩画のような柔らかい模様となる)という独自の技法をあみ出しその頂点を極めた。技法は違えど同じ七宝界の頂点に君臨する両巨頭である。現在の人間国宝にあたる帝室技芸員も七宝界ではこのふたりだけ。時代は同じ時期にふたりの天才を世に送り出したといえる。しかしこの二人の天才は生涯相見えることはなかったという。

 

 現在、これだけの巨頭、両ナミカワの作品を日本で見ようとすると結構苦労する。明治日本の輸出品として外貨を稼ぐ重要産品であったことから、作品の90%以上が海外市場で流通し、残りが皇室などの賓客向けの贈答品、下賜品として買い上げられた。こうして「世界のナミカワ」として海外でもてはやされたが、日本にはあまり作品が残っていない。これまで京都の産寧坂美術館や東京日本橋の三井記念美術館などで作品の展示会があったが、なかなかまとまって見ることができない。今回訪れた並河靖之七宝記念館収蔵作品でも全数で140点ほどだそうだ。これでも国内では圧倒的な数である。実際の記念館での展示は思いの外少ないことに気づく(撮影が許されていないのでお見せできないが)。独特の黒生地の小ぶりな作品が多く展示されているが、海外のコレクター所有の作品に匹敵する規模の花瓶などのものは少ないように思う。濤川惣助の作品はさらに少なく、まとまった作品を収蔵するところはないと言って良いくらいだ。一時期この両巨頭の存在も忘れ去られかねない有様であった。以前にも古伊万里や、幕末・明治期になって確立した有田などの超絶技巧作品が海外に流出し、いまや取り戻すことができない話を書いたが、ここでも海外へ渡った明治期の超絶技巧七宝は、その生誕の地である日本へ帰ってくることは稀である。世界に日本の美が評価されるのは嬉しいことだが、それを日本で見ることができないのは悲しい。

  

並河靖之作品

宮内庁蔵

濤川惣助作品

ウォルター美術館(マサチューセッツ)蔵

  

並河靖之

濤川惣助

 

  

記念館の詳細はここを参照:

並河靖之七宝記念館ホームページ

 

 

 


妙心寺退蔵院再訪 ~そして太宰府観世音寺の兄弟鐘に再会!~

2016年02月26日 | 京都散策

妙心寺山門

 

 

 京都花園の妙心寺は、室町時代の1342年、花園天皇が落飾して法皇となり、花園御所に開基した寺である。山号を正法山という。臨済宗妙心寺派の総本山。全国の臨済宗6500ヶ寺のうち3500ヶ寺を有する最大の宗派の総元締めだ。鎌倉時代に栄西が中国から臨済禅を持ち帰り、最初に我が国に創建した禅寺が博多の聖福寺である事は以前のブログでも述べたが、この「扶桑最初禅窟」聖福寺も江戸時代に藩主黒田家の意向で、建仁寺派から妙心寺派に変わっている。

 妙心寺は七堂伽藍、40余の塔頭からなる広大な境内を有する京都でも有数の大寺院だ。室町幕府は京の主要な臨済宗の禅寺を保護統括するために五山十刹を指定した(南禅寺を五山の上位に置き、天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山という。鎌倉五山にならった)。これらの寺は禅林と呼ばれた。一方これらとは別に林下と呼ばれる禅宗寺院があった。厳しい修行を旨とする禅寺で、妙心寺や大徳寺はこの林下である。

  

堂々たる甍の伽藍群

 

法堂

ここに狩野探幽の雲龍図と国宝の梵鐘がある

(1)退蔵院

 妙心寺境内には40数か院の塔頭があり、広大な寺域はさながら寺内町の様相を呈している。石庭で有名な京の観光スポット、龍安寺も妙心寺の域外塔頭だと今頃知った。しかしそのなかで一般に公開されている塔頭は退蔵院、桂春院、大心院の三院のみだ。

 学生時代、わが故郷の筑紫太宰府の観世音寺にある日本最古の梵鐘と兄弟鐘が京都妙心寺にあると知り、歴史好きの私としては是非一度見ておく必要があると考えた。やはり冬の寒い時期であったと思う。博多から列車を乗り継いでの京都旅行でようやく訪問できたわけだが、肝心の梵鐘の方はあまりしっかり鑑賞した記憶が残っていない。たしか鐘撞堂に、観世音寺と同じ形の鐘を見て「ああこれか...」と思っただけだったのだろう。むしろその折に訪れた塔頭の一つ、退蔵院の枯れ山水庭園のシンプルで静かなな佇まいに心奪われてしまった。それ以来ずっと京都の侘び寂びイメージの原点として心に残り、いずれまた訪ねてみたいと思っていた。今日、ようやく45年ぶりの再訪となったわけだ。

 現在は結構有名な観光スポットになっているようで、この時も「京の冬の旅」と銘打ったツアー(シニア層ばかり)の一団で賑わっていた。となりの普段は公開していない霊雲院が限定特別公開中で、こちらはさらに賑わっていた。しかし境内に一歩入ると、建物内、庭園すべて撮影禁止。縁側や襖絵や柱にまで「撮影禁止」の張り紙がベタベタと貼られていて少々興ざめ。マナーの悪い撮影者から場の雰囲気を守ろうということなのだろうか。それとも... 何を守ろうとしているのかよくわからないが、結果的には禅寺の雰囲気が「張り紙」という雑念に邪魔されてしまった感が有る。残念だ。

 退蔵院の方は撮影OK。狩野元信作庭と伝わる枯れ山水の庭と、禅問答の公案を題材にした瓢鮎図(本物は京都国立博物館に寄託され、ここにあるのはコピー)が有名。この日は2月下旬のいかにも京都らしい冷え込み厳しい一日で、美しい花々や、桜、新緑、紅葉を楽しむ季節ではなかった。しかし禅寺に色彩を求める必要はなさそうだ。このモノトーンの観念的で抽象化された景色の中に様々な心象世界が見えてくる。ただ、東屋の脇に佇む紅白の枝垂れ梅と、黄色い花をつけたマンサクが精一杯に咲き誇り、控えめだが色を添えていた。なかなかよろしい風情だ。

 こうして禅寺という空間に佇み、冬枯れの庭園を眺めながら、学生の時からどれくらい成長した自分に出会えたのかはなはだ心もとない。だが、世界を駆け巡った忙しい社会人人生に区切りをつけて、資本主義のロジックと組織人のロジックの狭間で呻吟する世界から開放され、具体的かつ問題解決型(それを戦略的と言ってきた)の意思決定を強いられる日常からも離れ、抽象的な観念の世界の入り口に立ってみる。その先には新しい宇宙が広がっているような気がした。まさに「小さな瓢箪で大きな鯰を捕まえるにはいかにすべきか」との問いは、これまで解決を求められてきた現世的煩悩にまつわる課題とは大いに異なることに気づかされた。

退蔵院

陽の庭

 

陰の庭

方丈

元信の作庭の枯れ山水

一般公開のエリアからは一部しか見えない 

瓢鮎図:如拙筆

国宝 京都国立博物館蔵

 

(2)日本最古の梵鐘

 ところで妙心寺の梵鐘である。先ほども述べたように筑紫太宰府の観世音寺との兄弟梵鐘と言われている。鐘の銘文には698年文武天皇の時代に筑紫糟屋郡で鋳造されたとの記述がある。鋳造年がわかる最古の鐘である。吊るし部分などを除き細部まで同じで観世音寺の鐘と同じ型から鋳造されたものと考えられている。両方とも国宝。

現在、オリジナルは法堂に収蔵されており、鐘撞堂に吊るされているのはレプリカ。なんかお堂の片隅に安置されていて、CDで音色を再生するのは寂しい気がする。老朽化が激しく保存のため致し方ない。

 一方、太宰府観世音寺の梵鐘はほぼ創建時の伽藍配置にしたがった場所に現在もつるされている。金網でこそ囲ってあるものの、風雨にさらされた屋外に普通の鐘然としてぶら下がっている。同じ年代なのにこちらは老朽化してないのだろうか?あるべき場所にある姿が、往時を思い起こさせて好きだが、ちょっと心配になる。

 

太宰府観世音寺の鐘楼。オリジナルの梵鐘が元の位置に置かれている

妙心寺の鐘楼。中の梵鐘はレプリカ。オリジナルは法堂に安置されている。

 

(3)兄弟鐘の謎

  考えてみると7世紀後期の飛鳥時代の鐘が、なぜ14世紀室町期に創建された妙心寺にあるのか?筑紫太宰府の観世音寺と妙心寺との間には空間的、時間的隔たりがあり、なぜ兄弟鐘を共有しているのか不思議だ。そもそも筑紫生まれのこの鐘はどのように渡ってきたのだろう。空白の700年を辿ってみたい。

 鎌倉時代の吉田兼好の徒然草にこの鐘のことが触れられている。それによればこの鐘は京の淨金剛院という寺の鐘で、その音色は黄鐘調である、と記されている。これが何を意味するのか。やがて淨金剛寺は後述のごとく廃寺となる。その鐘を地元の民が売りさばこうとして荷車で運んでいたのを妙心寺の僧が見つけ引き取ったと言い伝えられている。

 ではその淨金剛院とはどのような寺なのか? 鎌倉時代、後嵯峨天皇が嵯峨離宮に創建した浄土宗の寺院だという。1272年の後嵯峨天皇崩御後はこの寺院に葬られた。またその子亀山天皇も崩御後はこの寺に埋葬された。そののち室町時代に入ると、寺域は足利尊氏が天竜寺を造営するために再開発され、その際に淨金剛院は廃絶された。さらに時代を下り、江戸時代になって幕府により山陵の特定作業が進められ、後嵯峨天皇陵、亀山天皇陵が現在の地に定められた。すなわちこの天皇陵があるところがかつての淨金剛院跡であるということになる。

 また鎌倉時代に著された「とわずかたり」という後深草院に使えていた女官の日記がある。ここに後深草院が淨金剛院の鐘の音を聴き、かつて平安時代に太宰府に流された菅原道眞が観世音寺の鐘の音を聴きながら読んだ漢詩「一従謫落就柴荊/万死兢々跼蹐情/『都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声』/中懐好遂孤雲去/外物相逢満月迎/此地雖身無撿繋/何為寸歩出門行(『不出門』)」の一節を口ずさんだとするエピソードが記されている。京のみやこの淨金剛院の鐘の音が、筑紫太宰府の観世音寺の鐘と同じ黄鐘調の音高であることを当時のみやこ人は知っていたようだ。この黄鐘調は「無常感」を表す音色であり、みやこの他の寺の鐘の音と聞き分けられたのであろう。

 さて、このようにこの鐘の歴史を鎌倉時代までさかのぼることはできたが、その淨金剛院に至るまでの500年余の鐘の旅路は依然として謎だ。7世紀後期に創建された筑紫太宰府の観世音寺は、筑紫で崩御した母である斉明天皇を菩提を弔うための天智天皇勅願寺で、奈良時代には鑑真によって戒壇院が設けられるという「官寺」である。そこに奉納された梵鐘の片割れはどのように山城国葛野(かどの)の地(7世紀後期は飛鳥時代でまだ平安京も京のみやこもない)に運ばれたのであろう。あるいは飛鳥京や藤原京、近江京、平城京あたりを転々とした挙句に平安京にたどり着いたのだろうか? 後嵯峨天皇をどこからこの鐘を入手して淨金剛院に奉納したのか? 歴史の糸はここで再び途切れてしまった。ドラマのフィナーレじゃないが「この謎解きの挑戦はまだ始まったばかりだ。終わりのない旅はまだまだ続く」だ。

 2010年に太宰府にある九州国立博物館で両方の鐘を並べて鳴らし比べをする、といういイベントがあった。行くことはできなかったが、なかなか貴重なイベントでもう二度とないだろうと思うと行けなかったのが残念だ。YouTubeで聴き比べができる。素人ながらなるほどこの兄弟鐘の黄鐘朝の音高が同じであるような気がする。

妙心寺/観世音寺両方の鐘が一堂の展示され鳴らされるのは貴重だ

九州国立博物館「妙心寺鐘、観世音寺鐘 鳴鐘会』

 

   

妙心寺/退蔵院の点描写真集

 

紅白の枝垂れ梅

退蔵院余香苑

マンサク

白梅

境内の道

背景に衣笠山が

幼稚園児のお散歩

佐久間象山の墓所へ向かう道

特別公開中の霊雲院

西田幾多郎墓所(霊雲院)

歴史上の人物の墓所も多い。