時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

Leica Noctiluxという名馬を操る 〜「千里の馬は常にあれど伯楽は常にはあらず」〜

2016年08月29日 | 時空トラベラーの「写真機」談義

Noctilux-M 1:1/50 + Voigtlaender VM-E Closed Focus Adapter + SONYα7RII

 

 

 ライカにはその歴史上数々の名レンズ/迷レンズがラインアップされてきた。だいたいにおいて万人向けの使いやすいレンズといったシリーズは少ない。が、使い手を選ぶ気難しいレンズはいっぱいある。Elmar 50mmやSummicron 50mm,35mmなどは比較的扱いやすい方だが、フレアーやハレーション華々しいSummar 50mm, Summitar 50mm,旧Summarit 50mmなど50mm標準レンズクラスでもクセ玉がずらりとラインアップされる。35mm広角レンズでは名玉・迷玉で有名な初代Summilux 1.4などは素人には出来損ないレンズに見えてしまう厄介な代物だ。そしてこの高速レンズNoctilux 50mm f.1。第4世代のレンズだ。最新のものはその開放F値が0.95という最高速レンズで非球面化(ASPH)されたので多少扱いやすくはなったものの、それでもNoctiluxは代々扱いが難しいレンズの代表格だ。これらはレンズの個性・味としてライカ使いのマエストロにもてはやされてきた。レンズ設計が手計算で、レンズ研磨も手磨きの時代。コーティング技術もまだ十分に確立されていないので、収差などにバラツキが出たり、逆光フレアーが盛大に出たり、手仕事による個体差が現れる。それを「道具の目利き」よろしくマエストロたちが自分にあった個体を選び出し、一生モノとして愛でる。そういう世界だった。そういう意味で現代のライカレンズは個性がなくなってしまった、とオールドファンは手厳しい。職人芸のマイスターが創り出す「お道具」から合理的な生産ラインで生み出される「モノ」になってきたということだ。

 

 Nictiluxの話の戻るが、まず開放で撮るには正確無比なピントあわせが必要。これがなかなか至難の技。合焦部分のピントの幅が極めて薄く、かつその周辺部分はうっすらとボケる。いやフレアーが沸き起こり、ハレーション起こしてるんじゃないかと思わせるようなふんわり感。どこにピントがあっているのか目視では分かり難い。ライカのレンズはどれも合焦部分とボケのコントラストが絶妙なのだが、これは素人には絶妙を通り越している。目の慣れた達人だけが「名人芸のごとく」そのピントを嗅ぎ分けられる。

 

 しかも、LeicaMカメラのボディーで撮影するとなると、ライカ秘伝のレンジファインダーで正確にピントあわせするテクニックと熟練の技が必要だ。この辺がライカは使い手を選ぶと言われる所以だろう。デジタル化されたType240のライブビューでの撮影にはさらに別種の慣れが必要だ。フォーカスピーキングや拡大機能が搭載されて便利になったはずだが、なおピンボケの山を築いてしまうのは何故なのだろう。液晶画面は意外にMFによる細部の確認に不向きなのかもしれない。

 

 さらにMボディーだと最短撮影距離が1mという老眼なのももどかしく感じる。高速レンズのボケ(Bokeh)を生かしたクローズアップ撮影を狙っても無理。そもそもレンジファインダーカメラは近接撮影を想定してない。従ってレンズ設計も寄れない構造を是とすることとなる。せっかくのf.1, f.0.95が勿体無いと思う。もともと夜間でもavailable lightで撮影出来る高性能レンズという触れ込みで開発されたのだが、近接撮影でもこのF値を生かしたBokehを楽しみたいと思うのが人情だろう。

 

 こうして私のような、ライカMボディーという厳しい親方に、いつも駄目出しされる撮り手は、ついSONYα7RIIなどという最新テクノロジーで武装した優しい親方の方に行ってしまう。ライカ道修行が足りないのだ。さらにこのSONYα7用にコシナからライカMレンズ用クローズドフォーカスアダプターがリリースされている。これを使えば、上記のフラストレーションが解消される。まず、最短撮影距離が30cmまで寄れる。そしてSONYα7ボディーに搭載されている手振れ補正機能、フォーカスピーキング、ピント拡大機能が、有効に働いてくれる。こうしてNoctiluxというモンスターレンズで「手軽に」近接撮影によるボケを楽しむことができる。なんと便利な世の中だこと。まさに「私にも写せます」だ。

 

  しかし、そうは言ったものの、なおNoctiluxの開放撮影でのピント合わせは厳しい。これだけSONYボディーの最新フォーカスアシスト機能があっても思ったところにきちっとピントを決めるのには修練がいる。なかなかピチッと決まってくれない。厳しい親方はMボディーだけかと思っていたが、このNoctiluxという親方はもっと厳しい。このモンスター名器を使いこなすにはまだまだ修行が足りない。もっともっとピンボケの山を築かないと腕は上がらないのだろう。「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」だ。名馬を名馬として見出し使いこなすには名伯楽がいなくてはならない。そしてその名馬は名伯楽を育てるのだ。



 掲載の作例は、このSONYα7RII+Voigtlaender VM-E Close Focus Adapter+Noctilux 50mm f.1という組み合わせで撮ったもの。

 

 

室内で開放で30cmほどの近接撮影。ピントの幅が極めて薄いことがわかる。

しかしボディー内手振れ補正が機能してくれるのが嬉しい。

おかげで狙ったところにピントがきちっと合った。

 

屋外で距離1mを超えると写しやすくなる。後ろのボケ方も自然だ。

 

撮影距離1m以内に寄っても上から俯瞰するように撮れば周辺がなだらかに減光/アウトフォーカスしてくれる。

 

ピント部とボケのコントラストがライカレンズ独特の立体感を生み出してくれる。

曇天の薄暗い光のなかで威力を発揮するレンズだ。

 

失敗作。

手前のエッジ部分にピントを置いたつもりが、後ピンになってしまった。手持ち撮影だと体がちょっと動いただけでピントは簡単にズレる。

 

Crazy Comparison!:

 

 Noctilux 50mm f.1と双璧をなす名レンズSummilux ASPH 50mm f.1.4による開放での撮影結果を比較してみた。Summiluxの方は非球面化(ASPH)された最新設計のレンズ。開放F値が一段暗い分、ピントあわせが楽であるほか、被写体周辺部のフレアーも少なくてさすがに解像度も高い。こうしてみるとSummiluxは使いやすいレンズということになるが、これはこれで結構なじゃじゃ馬レンズである。なにしろ、出自がXenon 50mm f.1.5を先祖に持ち、前述のクセ玉Summarit 50mm f.1.5の後継機種なのだから。収差はよく補正され、最短撮影距離も70cmとなり、最新のASPHレンズの性能は素人にも扱いやすいレベルになったが、もともとライカのレンズは開放F値が小さいほど使い手の技が求められる。したがって最も明るいNoctiluxはさらに熟練度を向上させなくてはならないというわけだ。どちらがよいレンズかという問題ではなく、自分の思った表現手段としてどう腕を磨き使いこなすかという問題だ。いずれにせよ使い手の力量、熟練度、そしてセンスを試される厳しさを持ったレンズ達だ。名器とはそうしたものだ。

 

 

Summilux ASPH 開放f.1.4

フレアーも少なくすっきりした画になっている

Noctilux 開放f.1

ロゴ部分はしっかり合焦しているが

全体に薄くフレアーがかかっている。

 

 

 

 














 

 

 


Leica SLとSONYα7RII  〜これからの高品質・高性能ブランドとは〜

2016年08月24日 | 時空トラベラーの「写真機」談義

 

初瀬の長谷寺にて

 

大森貝塚公園にて

 

 掲載の作品2点はいずれもNational Geographic Your ShotのDairy Dozenに選ばれたもの。 

Leica SL+Vario-Elmarit-SL 24-90mm ASPHで撮影。

 

  

 どうも以前から気になっていたのだが、最近のLeicaのミラーレスカメラはSonyのそれとラインアップやテイストがよく似ている気がしてならない。そう言うと両社は必死で否定するのだろうが。だが、フルサイズのLeica SLはSony α7シリーズを、APS-CサイズのLeicaTはSony α6000シリーズを、LeicaQはSony RX1を、そしてパナソニックのOEMであるLeica D-LuxはSony X100を意識しているとしか思えない。偶然ではないだろう。

 

 Leicaはレンジファインダーカメラの頂点に立ち、その歴史的な勝利を手にした。押しも押されもせぬ大御所としての地位を誇り、そして一転して一眼レフに市場を奪われるというの敗北の時代を迎えた。そのトラウマからNikonやCanonのような一眼レフカメラ(ミラーあり)に大きな対抗心とコンプレックスを抱いていた違いない。ちょうどNikonが、LeicaM3という不動の名機にの登場にほぼ絶望感に似たコンプレックスと対抗心を抱いたように。渾身の技術力でNikon SPを出したが、市場での評価はM3に及ばず、やがて敗北感を胸に一眼レフNikon F開発へと方向転換。これが逆転の成功劇の始まりであった。そして今、デジタル時代になって、出遅れていたLeicaは一生懸命アナログMボディーにフィルムの代わりにCCDやCMOSセンサー詰め込んで、デジタルカメラでございます!とやってみたが、「何じゃこりゃ」反応に戸惑ったに違いない。全くこれまでのカメラ作りとは異なるテクノロジーの変化にとても日本勢には追いつけない。第二の敗北かと思われるなか、10年が経ってしまった。しかし、新たにミラーレスというカテゴリーに気づくと、ヤッタ〜!ここでリベンジしないともうリベンジする時は来ない、とばかりに矢継ぎ早にミラーレスカメラを打ち出してきた。Mデジタル化での試行錯誤とパナソニックとの協業、モンスター一眼レフカメラSの開発で追いついてきたLeica型のデジタルカメラ。ようやくミラーレスで、LとMの成功とライカ判の創始者という名門のジレンマ、保守的なユーザ層、オスカー・バルナックの亡霊から解放された感がある。

 

 このミラーレス戦略は実はSonyも同じだ。Sonyはそもそもカメラメーカーではなかった。世界に冠たるSonyブランドも陰りを見せているなか、デジタルカメラ市場に参入した。Sonyのカメラの前身は買収したMinoltaのカメラ部門であるから、本来はPentaxと同様に日の丸一眼レフの巨頭の一角を占めていたはずだ。現に旧Minolta αシリーズを引き継いだデジタル一眼レフをSony αとしてラインアップしているところがLeicaとは異なる。しかしデジタル一眼レフの市場ではやはり二巨頭Nikon, Canonの背中は遠かった。一方でSonyは画像センサーやチップなどの電子的デバイスの自社製造という優位点を持っているので、光学プリズムファインダーを排したミラーレスカメラは競争優位を打ち出すにはうってつけの製品だ。しかも軽小短薄路線はSonyの社是みたいなものだ。一時代を築いたトップランナーの成功と挫折、こうした背景を共有していることが、両社のラインアップ戦略とブランド戦略を似たものにしているのかもしれないと勝手に推測している。ちなみにLeicaの新社長が元Sonyの役員出身だということも関係あるのかな?

 

 こうしたミラーレス重点開発というモチベーションは同じでも、出来上がってくる製品には違いが現れる。この辺は両社のカメラ造りのDNAの違いだろう。

 

1)コンセプト

 

Leica SL:ミラーレスは軽量小型カメラ、という常識を見事にぶち破った(!?)カメラ。重厚長大カメラ(バズーカ砲を常時携帯!)になってしまった。日本製のフラッグシップデジイチに比べても重量級である。別に軽量化しようなんて考えてもいないだろうが。

 

Sony α7:フルサイズにしては軽小短薄ボディー。APS-CサイズのEマウントα6000シリーズのボディーとレンズの異様なアンバランスという軽小短薄路線からスタートしたわけだから。しかし(その意に反して?)結構本格的なレンズ群GやG-Masterを開発するにつれ重量級システムになってきた。

 

2)レンズへのこだわり

 

Leica SL:渾身の重厚長大ズームレンズ(ズームでも画質の妥協はない。鏡胴は全金属製でこちらも妥協がない)。現時点では標準ズームの24−90mmと望遠ズームの90−280mmがラインアップされている。一見、長さはNikon, Canonのそれと同レベルに見えるが、その質量は超弩級。焦点距離とf値は同じでも描写性能を重視するとこういうアウトルックになる、という例だろう。

 

Sony α7:Zeissブランドでスタートしたが、ミノルタロッコールレンズの伝統を引くGシリーズ、さらにはG-Masterシリーズを新たに投入してきた。イメージセンサーの高画素化に対応したレンズ群、すなわち高解像度に加えて滑らかなボケ味を追求した高性能レンズをこれから投入してくる予定だ。こちらも画質に妥協はないが鏡胴の質感はLeicaに比べるとさすがにそこそこだ。適度にエンジニアリングプラスチック素材を使い軽量化を試みる、というの日本的な合理化、コスパ追求、ユーザ利便性追求の結果だが。

 

3)価格

 

Leica SL:びっくり仰天価格!SLボディーだけで95万円。標準ズーム24−90が65万円。望遠ズーム90−280が75万円!Nikonのプロ用フラッグシップD5でも60万円だからかなり強気なプライスタグ。しかし、Mシリーズに比べればこれでもリーズナブルと言いたげなプライシングだ。名機は安売りしないというわけだ。

 

Sony α7:ライカの半分以下の価格、それでもα7R・SIIは頑張って40万円越えの値付け。Gマスターレンズシリーズは20万円越えを設定。またライカが「あんな」値付けをしてくれるので、安心して「こんな」高値がつけられる。

 

 

4)コストパフォーマンス

 

それを言っちゃあお仕舞いよ!なんだろうな。それを求めてはいないのだ。少なくともLeica社は。しかし、Sony α7の描写性能、操作性はLeica SLのそれに劣らないどころか上回っているくらいだ。最新の技術と機能のフルスペックを余すところなく小さなボディーに詰め込んでいるその姿はさすがSony! ボディーやレンズ鏡胴素材を軽量化している分、お道具としての「いい仕事してますね〜感」でLeicaが高得点しているぐらいの感じだ。こういうLeicaに分の悪い比較コメントは、必ず(高い金払ってしまった)ライカファンからのブーイングがあるのでこれくらいにしておこう。「いちいち他と比べるなよ、そんなカメラじゃないんだから、コッチは」と。

 

5)写り

 

デジタルカメラもここまで来たかというこの両システム。特にSony α7RIIの4240万画素CMOSセンサーが叩き出す画は何か一線を超えた感がある。Leica SLのほうはやはりそのレンズの性能へのこだわりが強烈だ。重くなっても、大きくなっても構わない。ズームでも画質優先に妥協はしないという頑固さが際立っている。これもズームレンズによる異次元の写真表現の世界を拓いた感じがする。ライカがズームレンズを作るとこうなる、と言いたげ。もっともこのシステムを撮影現場に持ち出すには、しっかりしたストラップと、見合った頑丈なカメラバッグと、三脚と、そして筋トレが必要だが。ちなみにSonyが軽小短薄路線にもかかわらず、レンズが高解像度を目指すに連れ重厚長大化しているのは皮肉。まだまだ軽小短薄高性能レンズへの挑戦は続く、という訳か。35ミリフルサイズカメラも高画素化に伴い解像度では中判カメラを凌駕した。ハッセルブラッドが最近中判デジタルカメラを発表したが、結構厳しい戦いになるのだろう。

 

 

 これからの「高品質」とブランド・エクイティー

 

 安くて高性能/高品質。それが誰でも手に入れられる。大量生産、大量消費。これを目指してきたモノ造り哲学の結果がすなわちコモディティー化の道であったことに気づいて久しい。革新的と言われる技術の陳腐化のスピードが速くなっている。昨日の差異化要因はすぐに目新しいモノではなくなってしまう。誰でも作れる。ならば製造コストが安い方が(特に途上国)競争優位に立てる。こうして安くていいモノが大量に出回る。製品単価は下がり続け、したがって利益は薄い....というモノ造りビジネスモデルのジレンマに陥ってゆく。「高付加価値」は別の形で実現されるべきだ。SonyもLeicaも感性に訴える高品質ブランドの代表であるが、これからの「高度成熟期」のブランド戦略は「高度成長期」のそれとは異なる。コモディティーよりちょっと高級、ちょっと感性をくすぐってカッコイイくらいの差異化要因では存在価値がなくなってきている。それはすぐに後発競争相手に追いつかれるからだ。これまでのブランドとは違うイメージを再構築せねばならない。例えば、誰もが共有できるみんなと同じ価値ではなく、自分しか持てないストーリー、私だけの喜び。得難い希少性。すなわちexclusivityのような。「モノより経験」といった、モノから出てそのモノを超えた世界を提示してみせるような。その点ではLeicaの挑戦が興味深い。「遅れてきた名門ブランド」が勝ち組の世界を築いてゆくのか...

 

 「デジタル化」という究極の合理化テクノロジーのなかに、どのように「味」とか「感覚」「感性」といった非合理的な「曖昧さ」を伴う価値を醸し出すか。それを所有し使うことによって、人とは異なる世界を表現できるか、体験できるか。新たなパラダイムシフトの時代に入った。そうでなければどんどんコモディティー化という負のスパイラルに巻き込まれてゆく。ビジネスをする側もブランド価値を高めて行かないと事業継続の意欲を失って行くだろうし、買い手もワクワクしない。スマホのカメラで十分だ。いやスマホの方がワクワクする。あらたなブランド・エクイティーを築くのは誰なのだろう。こんなビジネスの世界も、線形物理学的な合理性ではなく、1+1=2にならない非線形系と、連続性が保証されない離散系といった複雑系の「合理性」の時代へと突入してゆく。イノベーションとはそうした中で起こるべきものだろう。

 

  

左から、Sony α7, Leica SL, Nikon D800

Nikonは一眼レフ(ミラーあり)だ

 

Leica SLと Sony α7サイズ比較

Sonyも最新のレンズを装着するとかなりの重量級となるが

 

 

 

 


私の「青い山脈」 〜青というモチーフ〜

2016年08月04日 | 日記・エッセイ・コラム

 大阪から高知へ飛ぶ双発プロペラ機ボンバルディア。エンジンをうならせながら高度を上げようとするが低空飛行のまま四国山地の険しい山々に差し掛かる。越えられるのかと心配になるが、健気に機体を震わせながらようやく飛び越えると、視界に突然太平洋が広がる。青い山脈、幾山河。そこを越えれば青い大海原だ。

 

 今月で40余年のサラリーマン生活に終止符を打った。これからは肩書きと他人が決めたスケジュールから解放された自由人。資本主義のロジックと、所属する組織独特のロジックからも解き放たれる。出世欲、名誉欲、物欲といった煩悩とは無縁の閑人人生をスタートさせるのだ。ま、少しくらい欲は残るかもしれない。いや、なかなか煩悩から解脱できないだろうから、ちと覚悟しておく必要があるが...

 

 「青雲の志」を抱いて飛び出した故郷。あこがれの「青い山脈」から始まった私の人生は、その画期となる通過点に達した。確かに大きな節目ではあるが、新しい人生の出発点でもある。そこにはあの頃の「青い山脈」や「坂の上の青空に浮かぶ一朶の雲」はない。他の人から示されるゴールや目標ではなく、これまでに自分で歩んだ道のりを観照して、自ら設定する目的地に向かって歩み始める。

 

 「幾山河越えさりゆかば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく」(若山牧水)

 

 「人間到処有青山」 人間到る処 青山有り(釈月性)

 

 そう、旅はまだまだ続く... 日暮れて道遠し。だが、急がず慌てず、脚下照顧。自分の足元を見ながら歩を進めよ。行け「青二才」!夜明けの来ない夜はない。

 

 

 


静嘉堂文庫美術館探訪 〜東洋の至宝と英国調建築の調和〜

2016年08月02日 | 東京/江戸散策

静嘉堂文庫

英国調の洋館に日本や東洋の貴重な古書籍が収められている

 

 

 人気のエリア東急二子玉川駅から、商店街を抜けて20分ほど歩いた閑静な住宅街に静嘉堂(せいかどう)文庫と付属の美術館がある。世田谷区岡本。この辺りは雑木林が未だあちこちに残っており、坂と水路が交錯する武蔵野の面影を色濃く残す街である。明治以降は政財界で活躍した人物の別邸が多くあったところだ。

 

 静嘉堂文庫も小高い丘陵の上にあり、鬱蒼とした緑の塊が遠くにいても目に入ってくる。入り口から続く上り坂をゆるゆると歩む。この道は木立に覆われ、今日のような梅雨の晴れ間の蒸し暑い日でも緑陰の涼しい風がそよいでいて気持ち良い。とやがて目の前に英国風の堂々たる近代建築が現れる。これが静嘉堂文庫だ。その左手には付属の美術館が。これらは岩崎彌太郎の長男で三菱財閥の二代目総帥岩崎弥之助(静嘉堂)の墓所のある敷地に建てられている。岩崎弥之助、小弥太親子が収集した古典籍、東洋美術品のコレクションが収蔵されている。

 

 

(以下、静嘉堂文庫美術館のHPから引用)

 

 父子二代によるコレクション


 静嘉堂は、岩﨑彌之助(1851~1908 彌太郎の弟、三菱第二代社長)と岩﨑小彌太(1879~1945 三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、国宝7点、重要文化財84点を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500点の東洋古美術品を収蔵しています。静嘉堂の名称は中国の古典『詩経』の大雅、既酔編の「籩豆静嘉」(へんとうせいか)の句から採った彌之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整うとの意味です。


明治期の西欧文化偏重の世相の中で、軽視されがちであった東洋固有の文化財を愛惜し、その散亡を怖れた岩﨑彌之助により明治20年(1887)頃から本格的に収集が開始され、さらに小彌太によって拡充されました。彌之助の収集が絵画、彫刻、書跡、漆芸、茶道具、刀剣など広い分野にわたるのに対して、小彌太は、特に中国陶磁を系統的に集めている点が特色となっています。


 文庫創設から美術館開館まで


 図書を中心とする文庫は、彌之助の恩師であり、明治を代表する歴史学者、重野安繹(成齋 1827-1910)、次いで諸橋轍次(1883-1982)を文庫長に迎え、はじめは駿河台の岩崎家邸内、後に高輪邸(現在の開東閣)の別館に設けられ、継続して書籍の収集が行なわれました。

大正13年(1924)、小彌太は父の17回忌に当たり、J・コンドル設計の納骨堂の側に現在の文庫を建て図書を収蔵しました。そして、昭和15年(1940)、それらの貴重な図書を広く公開して研究者の利用に供し、わが国文化の向上に寄与するために、図書・建物・土地等の一切と基金とを寄付して財団法人静嘉堂を設立しました。

美術品は、昭和20年(1945)、小彌太逝去の後、その遺志によって、国宝・重要文化財を中心とする優品が孝子夫人から財団に寄贈され、昭和50年(1975)、孝子夫人の逝去に際し、同家に残されていた収蔵品の全てと鑑賞室等の施設が、岩﨑忠雄氏より寄贈されました。

1977年(昭和52年)より静嘉堂文庫展示館で美術品の一般公開を行ってきましたが、静嘉堂創設百周年に際して新館が建設され、1992年(平成4年)4月、静嘉堂文庫美術館が開館しました。世界に3点しか現存していない中国・南宋時代の国宝「曜変天目(稲葉天目)」をはじめとする所蔵品を、年間4~5回の展覧会でテーマ別に公開しています。(曜変天目は常設展示ではありません。展示期間については美術館までお問い合わせください)



 以前訪問した駒込の「東洋文庫」も岩崎家創設の私設図書館である。こちらは岩崎弥之助の弟で、三菱財閥三代目の総帥である岩崎久彌のコレクションである。なかでもモリソン書庫の圧倒的な古書空間が印象的だ。(東西文明の邂逅 〜知のラビリンス「東洋文庫」探訪〜

 

 

 上述のように静嘉堂文庫美術館には多くの国宝・重要文化財が収蔵されているが、なかでも有名なのは、中国南宋時代の「曜変天目茶碗」。現在、完全な形で残っているものは世界に三個しかない。しかもその全てが日本にあるという貴重な逸品だ。一つはここ静嘉堂文庫美術館のもの。もう一つは大阪の藤田美術館所蔵のもの。そしてもう一つは京都の大徳寺龍光院所蔵のものだ。なぜ窯元があった中国に一個も残っていないのか(破片は見つかっているが)謎である。静嘉堂文庫美術館所蔵の曜変天目は元は徳川家の所蔵で三代将軍家光が春日局に贈ったもの。その後春日局の子孫である淀藩稲葉家に伝わったため「稲葉天目」とも呼ばれている。不思議な魔力を秘めた椀だ。見ての通り一椀のなかに宇宙が見える。

 

国宝「曜変天目茶碗」

静嘉堂文庫美術館のHPより引用

 

 この洋館はジョサイア・コンドルの弟子である桜井小太郎の設計。1924年(大正13年)に竣工。スクラッチタイル、鉄筋コンクリート造りの英国風の建物だ。英国の田舎を散策すると、よくこのようなマナーハウスやコテッジに出会うことがある。そうした雰囲気がこの武蔵野の林によく似合う。明治期のセレブには英国風の建物を好む傾向があったようだ。駒場の旧前田侯爵邸もそうだ。駒込の旧古河邸も。今回は撮影できなかったが、岩崎弥太郎の墓所はジョサイア・コンドルの設計だ。コンドルは岩崎家の洋風建物を多く手がけている。岩崎家高輪邸(現在三菱開東閣)、岩崎家茅町本邸(現在旧岩崎邸庭園)、岩崎家深川邸(現在清澄庭園。建物は現存せず。)などがそうである。また三菱一号館もそうだ。こうした洋館が日本や東洋の文化財を収集、保存する器として建設されたことに時代を感じる。明治以降の日本における西洋文明と東洋文明の調和を象徴するものだろう。

 

 中国/日本の古籍や東洋美術の海外流出を憂え保存しようという動きは、明治初期の西欧文化優先の風潮への反省から起こったものだ。岩崎家は代々こうした文化財の収集と保存、海外流出を食い止める活動を進めてきた。確かに大英博物館やメトロポリタン美術館、ボストン美術館を訪れるたびにそこに収蔵されている日本の古典や美術品の山を目の当たりにして、なぜこのようなところにこれほどの逸品が集まっているのか不思議、かつ、日本にないことを残念に思っていた。こうした古美術品や文化財級の逸品は、えてしてその時代に富を蓄積した国に集まるものだ。19世紀のこの時代は欧米列強諸国というわけだ。すなわちそれらの国の支配層、貴族や富裕層の財力で集められたものだ。残念ながら近代化を進めるに必死であった当時の日本では、一時期日本や東洋の古い文化を「遅れた文化」と捉え、こうした日本や東洋に固有の文化財を「文化財」と認識しない風潮があった。廃仏毀釈の嵐が貴重な仏像や寺院を破壊してしまった。さらに、版籍奉還、藩主の身分の剥奪により封建領主としての生活基盤を失った大名、そしてその大名に金を貸していた富裕大商家は債権の焦付きで倒産する。藩主や上級武士や富豪が生活のために大量に放出したお宝は、安値で西欧の富裕層の手に渡った。かつて江戸文化のパトロンであった家系は没落していった。一方で、なんとか日本にこうした文化的な遺産を残そうという動きが出てきた。岩崎家のような明治維新以降の新興財閥がこうした運動の中心になった。時代はめぐるわけだ。

 

 しかし一旦海外に流出したお宝は、日本が経済大国になっても、なかなか戻ってこない。その価値が認識されず、海外の博物館の収蔵庫の奥深くや個人の屋敷の片隅に今も眠り続ける文化財も数多あることだろう。バブル時代の日本の成金たちは、金になりそうなゴッホの絵やヨーロッパの城などを投機の対象として買って喜んでいたが、江戸末期から明治期に流出した貴重な文化財の買い戻しには金を使わなかった。もちろん、その価値に早くから気付いていた欧米のコレクターたちがそうやすやすとは手放さなかったし。文化の破壊や無関心は取り返しのつかない結果を将来に残すことを痛切に感じる。そしてもはや日本では、岩崎家のような芸術や文化のパトロンになる事業家は数少なくなってしまったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文庫正面

 

 

 

 

 

 静嘉堂文庫のある地域は現在、岡本静嘉堂緑地として整備され、岡本民家園が隣接する。江戸時代の豪農の屋敷で、よく保存されており市民に公開されている。静嘉堂文庫の英国調建物とはある意味対照的な純日本風の茅葺の建物だが、不思議なコラボレーションを感じる。この辺りは明治時代には東京市の郊外で、武蔵野の丘陵や林が残る田園地帯だった。このころから政財界の大物がこの豊かな田園地帯という環境を求めて別邸を建て始めた。現在その建物はほとんど残っていないが、今この辺りは東京の閑静な住宅街として人気のエリアになっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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