時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

結局 「邪馬台国」はどこにあったのか? ~倭国「天下統一」の実相~

2016年04月19日 | 日本古代史散策

広大な筑紫平野と筑後川の恵み

ここが邪馬台国揺籃の地であったのであろうか

 

プロローグ:

 邪馬台国論争、すなわち「邪馬台国はどこにあったのか?」という論争。それは近畿にあったのか、あるいは北部九州にあったのか。他にも様々な場所が候補地として取りざたされる日本の古代史最大の謎のひとつだ。古くは江戸時代の新井白石、本居宣長から、明治の白鳥庫吉、内藤湖南など多くの著名な研究者から、アマチュア歴史家、ジャーナリスト、小説家、郷土史家、自治体の観光振興部門の人たち....これらの人々による数え切れないほどの論文、著作、記事、日記... であるがゆえに、最近ではむしろ専門の歴史研究者からは敬遠されるテーマにすらなっている。

 だがこれは推理小説のように面白い。「邪馬台国」「卑弥呼」に関する記述は三国志魏志倭人伝という中国の歴史書においてしか出てこない。その2000字ほどの文字情報が2~3世紀の日本列島の様子を文献上知る手がかりのすべてなのだ。不思議なことに肝心の日本の歴史書である日本書紀や古事記には「邪馬台国」も「卑弥呼」も出てこない。(唯一日本書紀の神功皇后の項で「一書に曰く」として女王が中国に使者を送ったと伝わると、軽く触れている部分はあるが)。したがって、限られた秘密のキーワードから多くの推理、仮説、物語がそれぞれの人の数だけ創出可能ということになる。みんなが歴史探偵になれる推理小説というわけだ。特に伊都国から邪馬台国への道程「水行陸行」の記述をどのように読むかが、近畿説/九州説の対立を生んでいるわけだ。しかし、もとより魏使は伊都国までしか来なかったようだし、記述された道程を実際に歩いたわけではない。おおよそ伊都国の一大卒などの役人からの伝聞にもとずく記述であろう。「女王国ははるけき彼方だ」という役人のカマシもあったかもしれない。したがって、一字一句にこだわりそれをいかに正確に再現してみてもあまり意味はない気がする。

 私もあえてこの問いは「蔵にしまって」きた。むしろ「邪馬台国」がどこにあろうと、弥生の倭国は、その中心がチクシからヤマトへと遷り、それが初期ヤマト王権につながり、やがていわゆる「大和朝廷」へと続いていったのだろう。それ以降の日本の歴史は多くの資料や考古学的成果で大方は解明されている。だったら「邪馬台国」がどこにあっても大きな歴史の流れに影響はない、くらいに考えた。

 しかし、最近、この問い(邪馬台国はどこにあったのか?)の自分なりの答えが見えてきたような気がしてならない。もちろん自然科学的な厳密さと明快さと合理性をもって証明できた、とはいかない。依然として多くの仮定、推論、偏見に基づく蓋然性のようなものではあるが。また、それは記述された邪馬台国への道程の解明ができた、ということではない。むしろそれを忘れることで見えてくるものがあるような気がし始めた。ということで久しぶりに「蔵にしまって」きた問いのホコリを吹き払って、その答えに挑戦してみることにした。

 

邪馬台国の時代とは(時代を俯瞰する):

  歴史は時に、全体の流れをマクロ的に俯瞰するということが非常に大事だと思う。あまりことの仔細に立ち入って、その分析、検証に埋没すると、結局何を知ろうとしているのかがわからなくなってしまうことがある。たとえ一定の結論に達したとしても「だからなに?」みたいな虚脱感にとらわれてしまう。まさに「木を見て森を見ず」。「理路整然と結論を間違える」ことになりかねない。「邪馬台国位置論争」などそのいい例だ。それは「では近畿だったらどうなのか?」「九州だったらどうなのか?」という次のステップの絵姿が見えてこないと論争そのものに意味がない。その結論により古代倭国の実相が見えてくるかどうかだ。それがその後の日本の歴史にどういう方向性を与えたかが見えてこなければならない。でなければ「邪馬台国地元誘致合戦」をやっている一部の地元のアマチュア郷土史家や、ご当地自治体の観光振興部門の人たちを喜ばせるだけに終わってしまうだろう。

 一方で、よく位置論争は意味がないという人もいる。実は私もそう思っていた。この終わりのないアマチュア的な趣味の世界っぽい議論に食傷気味であることもあろう。しかし位置の特定は大事だと考え直し始めた。なぜなら、当時の倭国の中心はどこで、当時の日本列島はどういう有様だったのか、どのような時代だったのかをシンボライズするからだ。ちょうど飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代と時代ごとにその時代の中心が変遷し、それぞれの様相が異なりつつ発展してきたことを我々は知っている。だからこそそれぞれの時代にはその時代の中心となった地名が冠されているわけだ。そして列島の中心が西から東へと移動してきた歴史を示してもいる。この線で行くと2世紀までの古代倭国の中心は筑紫の奴国、伊都国、あるいは邪馬台国であった。そうなるとその時代を「筑紫時代」あるいは「邪馬台国時代」として命名してもよいのかもしれない。その頃の列島がどのような政治状況/経済状況だったのかを知る手がかりとなる。邪馬台国位置論争はそうした意味で古代日本列島の実相を解明するカギになる。そしてそれは必ずしも伊都国からの「水行陸行」記述から位置を推理することではない。倭国が大陸に近いところ(北部九州チクシ)で発展してきた時代が、やがて列島の東(近畿ヤマト)へ移っていった。それは邪馬台国が九州から移ってきたのか、あるいは邪馬台国は近畿に発生したのか。そしてヤマトや京の都といった近畿中心の時代は、さらに江戸、東京といった東国の関東中心の時代へ移って行く。そういう歴史の画期「邪馬台国」の時代とはどのような時代であったのかを考えてみることで見えてくる。そのためには少し魏志倭人伝を離れて「邪馬台国の時代」をマクロ的視点で俯瞰してみる必要がありそうだ。

 

邪馬台国 近畿説vs九州説の論点とは:

  その「歴史の俯瞰」に入る前に、3世紀の日本列島にあって、魏志倭人伝に記述された邪馬台国が九州にあったのか、それとも近畿にあったのか、それが日本の古代史にどのように違いを生み出してゆくのか。近畿説/九州説の論点を少し整理しておこう。

 (邪馬台国近畿説)

 *3世紀には邪馬台国連合(30余国)を実態とする倭国は列島の「西日本全域に広がる広域連合国家」であったということになる。

 疑問点:だとすると倭人伝には、筑紫の国々、近畿ヤマトのほかの出雲、吉備、越といった地域国家/王権の記述がないのはなぜか?

*邪馬台国は初期ヤマト王権(三輪王朝)に繋がる国だ、ということを想定させることになる。すなわち女王卑弥呼は天皇家の祖先に当たるということになる。

 疑問点:記紀では卑弥呼にも邪馬台国にも言及しておらず、ヤマト王権、皇統のルーツであるという認識が一切記述されていないのはなぜか?

 (邪馬台国九州説)

 *3世紀時点では邪馬台国連合(30余国)を実態とする倭国は「北部九州の地域連合国家」であったということになる(いわば「チクシ倭国」)。

 疑問点:だとするとその時、列島の他の地域はどのような状況だったのか?近畿ヤマト地域国家は成立していたのか?

 *九州の卑弥呼/邪馬台国と近畿の初期ヤマト王権(三輪王朝)とのつながりについての説明が必要となる。

 疑問点:3世紀中に北部九州にあった邪馬台国が東征して近畿ヤマト王権に変身したのか?それとも系譜の連続はないのか?すなわち、邪馬台国はのちのヤマト王権、大和朝廷につながりを持つルーツなのか。

 結論を先に言うと、私は邪馬台国は北部九州にあったと考えるようになった。

 

邪馬台国九州説を取る理由:

  魏志倭人伝の記述を素直に読むと、その邪馬台国へ至る道程部分を除くと、邪馬台国はどう見ても北部九州にあったとしか思えないからだ。伊都国から邪馬台国に至る道程が遠いように読めることが近畿説の唯一の根拠だ(南は東の間違いだ、と強弁した上ではあるが)。しかしそれ以外は倭国連合王国の中心国、邪馬台国は九州島内、記述されている「30余国」は九州、とりわけ北部九州としか読めない(そして当時の「国」の規模から十分に収まる)。玄海灘沿岸の筑前地方(博多湾沿岸、福岡平野)には末盧国、伊都国、奴国、不弥国がおさまる。背振山系を挟んで、太宰府付近の地峡を抜けると筑後地方。筑後川、有明海を擁する広大で肥沃な地(現在の筑後平野と佐賀平野を合わせた筑紫平野)である。そこには美祢国(吉野ヶ里)、サガ国、三潴国、邪馬台国などがあった。その南の背後の肥後熊本、菊池地方には熊襲の国、キクチヒコの狗奴国があり女王国に従ってなかった。これが倭国の姿だったのだろう。

 その倭国(チクシ倭国)の範囲内を見ると、奴国や伊都国があった福岡平野と邪馬台国があった筑紫平野が広がっている。弥生の稲作農耕文化の地としては十分な広さの耕作地と河川からの水源を確保できる地の利だ。さらに両平野の広さを比べると、筑紫平野の方が広い(稲作農耕生産能力が高い)。こうしたクニの力の差がやがて争いに繋がっていったのかもしれない。「倭国の乱」は後漢王朝に冊封されていた奴国(筑前)と後漢が滅びたあとに生じた支配権の混乱により生じたものだろう。やがて国力で上回る邪馬台国の卑弥呼が「共立」され連合王国の女王となり乱は終わる。やがて魏王朝に朝貢し冊封された邪馬台国(筑後)が倭国のつかの間の平和を維持した。女王国の30カ国は筑紫倭国(福岡県、佐賀県)の範囲内におさまる。従って、博多湾。福岡平野にあった伊都国、奴国と争った邪馬台国は筑紫平野にあったと考える。魏志倭人伝に描かれた「倭国」の姿は、まさに下記地図のように北部九州の地理的ステージの中に見て取ることができる。そう読み取るのが素直な解釈だと考える。

 

邪馬台国の東遷はあったのか:

 では、いつどのように邪馬台国はチクシから近畿ヤマトに移っていったのか? いや本当に東遷したのだろうか? 倭人伝によれば、卑弥呼の使節やトヨの使節派遣はいずれも3世半ばの出来事だし、纒向遺跡や箸墓古墳に代表されるヤマトの遺跡群もいずれも3世紀のものであるとすると、そのようないわば首都移転が突然、短時間になされたのだろうか?そうは思えない。3世紀時点で邪馬台国連合はいぜんとして北部九州にあり、近畿ヤマトに起こった「ヤマト国」は、チクシ邪馬台国とは別の勢力であると考えられないか。そもそも3世紀の日本列島、倭国はどのような状況であったのか?北部九州以外の列島地域はどうなっていたのか?チクシ倭国以外は未開の荒野であったというわけではないだろう。歴史書に名を残すチクシ倭国の国々が、リニアに近畿ヤマト倭国にジャンプして行った訳でもないだろう。後世の歴史を振り返っても列島内の統一の過程はそれ程単純ではないことを我々は知っている。いよいよ歴史の流れをマクロ的に俯瞰してみることが重要になってくる。

 大陸から北部九州に伝わった稲作農耕は、紀元前からすでに近畿以東に広がっていた。出雲、吉備や近畿ヤマトにも農耕集落としての環濠集落、高地性集落が形成されていた。北部九州の吉野ヶ里遺跡と同年代の紀元前3^4世紀ころには、近畿地方にも唐古鍵遺跡や池上曽根遺跡のような大規模な農耕環濠集落の存在が確認されている。しかし、まだ稲作農耕集落という性格で、政治的、宗教的、軍事的組織単位としての国邑、国、あるいは王権が成立していたとまでは言えなかった(唐古鍵環濠集落は古墳時代には消滅している)。やがては、クニとしてのまとまりができ、人民や生産手段、技術、資源、生産物を支配管理する首長が王を名乗り、さらに、他の国をアライアンスにしながら各地に地域連合王権のようなものが形成されていったであろう。しかし、それらは海を渡り、中華王朝に朝貢し冊封される王権ではなかっただろう。だからこれらは魏志倭人伝には記述がない。

  一方、この頃筑紫倭国内の紛争「倭国内乱」などにより、チクシ倭国連合から離脱した勢力が東へ移動していった可能性がある。チクシ倭国の一部(邪馬台国に敗れた奴国の王やその勢力、あるいは、邪馬台国の敵対勢力である狗奴国)が邪馬台国連合国家から離脱/敵対して東遷していった。彼らは出雲へ、吉備へ、そしてやがて近畿ヤマトへ。彼らは出雲勢力や吉備勢力を糾合しながらあたらしい倭国の中心勢力として伸張していっただろう。しかし、これらの地域の状況は魏志倭人伝には記述されていない。伊都国にいた魏の使者は近畿ヤマトや出雲、吉備などの地域の情報は把握していなかっただろう。魏からの使者は邪馬台国の出先である伊都国までは来たが、そこから先にはいっていない。伊都国の役人からの伝聞にもとずく記述である。ということはチクシ倭国(邪馬台国の代官である伊都国の役人による説明)のことだけを倭国の全てであると理解した。邪馬台国の役人は、チクシ倭国連合(邪馬台国連合)を離反して東方へ去った勢力についての説明はしなかっただろう。

  こうして、チクシ倭国連合のほかに、鉄資源の確保などで「出雲王国」が一時期大きな勢力となり、やがて近畿ヤマトへ侵入していった。そして出雲の神、大物主/大国主がヤマト三輪山に祀られた。さらにその出雲勢力が支配した近畿ヤマトに、チクシ倭国から離反して東遷した勢力が侵入して、新しい近畿ヤマト王権(崇神大王などの三輪王朝、大倭古墳文化)の基を作った(纒向遺跡はこの初期ヤマト王権の宮殿跡)。これが記紀に記述される大国主の「国譲り神話」、さらには筑紫に降臨した天孫族の子孫である「神武の東征神話」「建国神話」に投影されたのだろう。まさに一種の群雄割拠から、天下取り争いの時代であった。

 

3世紀の日本列島「倭国」の実相:

  このように3世紀の倭国は北部九州だけでなく、各地に地域連合政権、国が成立していただろう。そのなかには出雲や吉備、越、近畿ヤマトのように大きな勢力を誇る地域王権が勢力を伸ばしていった可能性が有る。このような列島の状況は、先述のように中国の史書には記述がない。したがって魏志倭人伝という限られた文献資料のみで3世紀の倭国全体を理解することは困難である。それは7世紀に編纂された日本書紀、古事記に記述された天皇の事績のなかに神話、伝承として投影されているように思われる。

  記紀は、その成立の経緯(7世紀末~8世紀初頭の倭国から日本への移行、天皇制の宣言といういわばナショナリズムの表明という政治的意図の表明)から、歴史書としては史実を正確に反映しているものとは言えない点が多く、特に戦前の記紀の記述を無批判に史実として受け入れた皇国史観への反省から、戦後は逆に全否定へと大きく振れた。そうした背景もあり文献史学の材料としては慎重な姿勢で取り組む研究者が主流である。しかし、古代日本史を研究するにあたり、中国側の史書の他に文献資料が見当たらない以上、記紀の記述を全く無視して進むこともできないだろう。ここでは記紀を批判的に読み解きながら活用する必要が有ると考える。

  やがて列島の西日本全域に広がっていった倭国は、必ずしも大陸からの資源の供給、利権確保、渡来人などの人材の流入、渡来人の定住コロニー的集落の存在という地の利を得た地域が経済/政治/文化の中心として繁栄する時代から、倭国の「国内」経済規模が一定のものとなるにつれ、むしろ倭国内の資源の集約/配分といった流通の拠点となりうる地域が中心として政治的/軍事的な力を誇示するようになる。すなわち大陸に近いところ(北部九州)が倭国の文明先進地域という時代が徐々に終焉を迎る。3世紀頃には近畿ヤマトへ倭国の中心が移っていったのだろう。その過程で、筑紫からなんらかの理由で東遷していった勢力が、技術(農耕)や資源利権(主に鉄資源)大陸の知識(文字、思想)などを武器に(あるいは渡来人勢力そのものが)近畿ヤマトに移っていった可能性もある。こうして倭国はそれなりの経済規模と政治体制と軍事力、文化力を蓄積し、それを背景に「倭」ないしは「倭人」として対外的にも認識されるようになっていった。そうした時代の倭国の中心的地域が近畿ヤマトであった。

  

群雄割拠から天下統一へ:

 後世の歴史でもこのような列島内の統一政権樹立(天下統一)の動きは何度か繰り返され、そのモデルが踏襲されてきた。歴史の大きな流れは繰り返す。天武/持統朝における豪族/氏族割拠時代から天皇支配体制の確立(いわば天皇中心の天下統一)は、ヤマト王権の完成形であったであろう。さらに時代を下るとすなわち戦国時代の全国の大名/土豪/国人たちの群雄割拠状態の中から抜け出して、織田、豊臣、徳川といった中部地方の有力大名により天下統一されていった。武家政権による天下統一の完成形である徳川幕藩体制は、やがて19世紀帝国主義的グローバル時代に合わない制度となり、ついには、地方の西南の雄藩である薩摩、長州、肥前、土佐などにより倒幕運動が起こり、明治維新がなされ、王政復古(天皇中心の)、廃藩置県により中央集権的近代国家が誕生した。これはもう一つの「天下統一」だ。

  同じことが、3~4世紀の倭国内でもおこった。地域ごとに成立し、争っていた国や地域連合王権が徐々にヤマト王権に集約されていった。その初期にはチクシ連合王権(邪馬台国連合)が中国王朝の冊封を得て最も力を持っていたが、やがて倭国内の生産活動、経済力が大きくなるにつれその中心勢力がチクシからヤマトへ移っていった(途中イズモが一時期中心となった時期もあった)。これに伴い大陸との交易利権(主に鉄資源の確保を目的とした)、外交権、安全保障もヤマトへ移っていった。

  ちなみに、「天下統一」がなると、次は国外進出が歴史の常道となることを我々は学んでいる。国内の戦国乱世がほぼ終息すると秀吉は朝鮮出兵、明国侵略を企図する。朝鮮半島までは出兵するが、無謀な対外進出活動は秀吉の死とともに終了する。このころの明国は国力が充実しており日本の敵でなかった。また、明治維新が終わり国内体制の整備が一段落すると、アジア初の近代国家として富国強兵、殖産興業を果たした日本は朝鮮併合、日清・日露の対外戦争、満州進出、資源を求めての南方進出などの対外進出を果たそうとした。このころの清王朝は弱体化しており西欧列強の植民地化を許す状況であった。

  さて4世紀末のヤマト王権の「天下統一」の後はいかに?「空白の4世紀」と言われるように、このころの倭国の状況についての記述が中国の史書から消える時期である。しかし、この時期は倭国がヤマト王権の下に統一され国外に勢力を伸ばし始めた時期でもあったようだ。すなわち御多分に洩れず対外戦争に出て行った時代だ。幾つかの金石文からは、大陸の利権を求めて朝鮮半島に進出する倭国の様子が見て取れる。朝鮮半島鴨緑江で見つかった好太王碑文にあるように倭軍が大軍を半島に出兵し、高句麗と新羅を巡って戦闘している。また百済王から倭王に対して同盟の証として七支刀(物部氏の石上神宮にある)贈られるなど、ヤマト王権が朝鮮半島の政治情勢、権益に深く介入してゆく時代に突入している様が見られる。記紀にも、年代は特定できないが、神功皇后の三韓征伐説話が記されており、4世紀末ヤマト王権が国内平定をほぼ手中に収めようとする時期に、対外戦争に進出していたかのエピソードが記述されている。また5世紀に入ると中国の晋書、宋書に「倭の五王」が朝貢し、冊封を求める記事が出てくる。これらの倭王は「安東大将軍」の称号を求めている。すなわち高句麗王よりも高い称号で、朝鮮半島にも一定の地位を保証する内容を要求した。結局これは認められず、以降ヤマト王権は中国王朝への遣使、朝貢をやめることとなるのだが。

 

エピローグ。邪馬台国のその後:

  一方、ヤマト王権がほぼ「天下統一」を果たしたのちも、北部九州には、いぜんとして地域連合王権、すなわちチクシ倭国/邪馬台国連合が存続していた。しかも朝鮮半島の新羅との同盟により無視できない大きな勢力を保持していた。近畿ヤマト王権に服属しない旧勢力が2世紀以降連綿として九州北部に、その地の利を生かして勢力を維持し続けていたとしても不思議ではない。そのチクシ倭国/邪馬台国連合がヤマト王権に服属するのは4世紀末から5世紀になってのことだと考えられる。この間の倭国「天下統一」事業の物語は、空白の4世紀、中国の史書にそれと特定できる記述がないが、記紀の記述から類推すると、3世紀崇神天皇時代の四道将軍伝承では、せいぜい近畿周辺の国々の征討。4世紀と思われる景行天皇/ヤマトタケル伝承では、東国と熊襲征討、さらに4世紀中になって仲哀天皇、神功皇后時代に熊襲征討、三韓征伐。その後ようやく筑紫の伊都国、奴国を帰順させて香椎宮に入った。最後に神功皇后は山門国(邪馬台国)の田油津媛(卑弥呼の末裔とされる)を破って筑紫平定を完成させた。最後までチクシ倭国連合/邪馬台国連合をヤマト王権に服属させるのに苦労した様子が記紀には見て取れる。

  5世紀の中国の史書「晋書」「宋書」に記述がある「倭の五王」の倭国天下統一事業、すなわち「ソデイ甲冑をつらぬき山河を跋渉して寧所にいとまあらず」のなかにもチクシ倭国/邪馬台国連合平定が含まれているのか、それと特定できる記述はないが、おそらくその時代に邪馬台国は滅んだのだろう。

  ただ一旦平定したかに見えるチクシ倭国(ヤマト王権の国造すなわち地方長官、という記述であるが)の最後の抵抗が6世紀継体天皇時代の「筑紫国造磐井の乱」である。新羅と結んだチクシ王権と、百済と結んだヤマト王権の最終決戦。その乱の拠点は邪馬台国があった筑後の八女であった。ここには巨大な「最後のチクシ倭国王」磐井の岩戸山古墳が今も残る。磐井の子葛子は奴国(儺縣)にあった粕屋の屯倉を差し出してヤマト王権(継体大王)の恭順する。こうして最後の抵抗勢力「邪馬台国」は永遠に消滅した。

 

結論:

  話が長くなったが、私の結論は、このように魏志倭人伝に記述のある邪馬台国は3世紀の北部九州(筑後地方の山門郡)にあった。その実態は中華王朝の朝貢/冊封体制に組み込まれたチクシ倭国連合王国(邪馬台国連合)という地域連合であった。そしてその性格は弥生的な稲作農耕的集落の集合体であった。一方、近畿ヤマトは九州の邪馬台国が東遷してできた国ではなく、倭人が列島東へその版図を拡大してゆくなかで、奈良盆地を拠点になんらかな形で出雲勢力や吉備勢力、さらにはチクシ邪馬台国連合から離脱してきた勢力が建てた国である。換言すれば奈良盆地に自然発生的に生まれた稲作農耕集落たるクニが主体となって成長した国ではなく、他の地域の勢力が移り住み、人為的に統治拠点として打ち立てた国/王権であったと考えている。三輪山の麓に開かれた王都の遺跡(纒向遺跡、箸墓古墳などの大倭古墳群)は3世紀の初期ヤマト王権のそれであって、邪馬台国や卑弥呼の遺構ではない。そして、最後まで手を焼いたチクシ邪馬台国連合王権は、ヤマト王権の倭国天下統一事業のなかで服属し、滅亡した。すなわち初期ヤマト王権(崇神大王の三輪王朝)は邪馬台国や卑弥呼の系譜とは繋がっていない。だから記紀にその皇統としての言及がない。まして天武・持統朝のいわば「大宝維新」ともいうべき時代背景を考えると、中華王朝への朝貢・冊封により「倭国」支配の権威を維持してきた邪馬台国などのチクシ倭国連合体制は、中国皇帝に対抗する天皇制と天皇支配を宣言した新生「日本」のルーツとして記紀に記述する訳にはいかない存在であった。

  以上が結論である。

 

過去の参考ブログ記事:

 チクシ王権からヤマト王権へに変遷はどのようにして起こったのか?

 なぜ古事記、日本書紀には卑弥呼がでてこないのか?~記紀編纂の時代背景を読み解く~

  倭国の「神」と「仏」 ~「倭国」から「日本」へ~

 

3世紀魏志倭人伝に記述された倭国、邪馬台国連合の範囲

律令時代の筑前国/筑後国、現在の福岡県内である

博多湾、福岡平野周辺にあった奴国、伊都国が後漢時代に朝貢/冊封されて「倭国」の盟主として勢力を有していたが、後漢が滅亡し、その混乱のなか「倭国争乱」が起こると、広大な筑紫平野を背景に経済的優位を保っていた邪馬台国が、その争乱を制し、女王卑弥呼が邪馬台国連合(チクシ倭国)の女王となる。帯方郡の公孫氏を通じて魏王朝に朝貢し、倭国支配を冊封された。これが魏志倭人伝に記述されることに。

一方、3世紀には邪馬台国とは別の「ヤマト国」が近畿奈良盆地にあった。三輪や葛城、さらには河内などの勢力の緩やかな地域連合国家としてスタートしたが、これが初期ヤマト王権(崇神大王の三輪王朝)の揺籃となった。しかし、筑紫や出雲、吉備などに比べて狭い耕作面積と周囲を山に囲まれた盆地という地形が、稲作農耕で経済力、ひいては政治権力を生み出したとは考え難い。これまでの平野と河川を軸に発展した弥生農耕型国家とは異なる成立経緯を有しているように思われる。

出雲国が大きな勢力を有した時代があった。考古学的には背後に筑紫勢力の影響があったと考えられている。後に近畿ヤマトへ進出する。三輪山に出雲由来の大物主を祀る。しかし、その出雲勢力も、筑紫邪馬台国連合から離脱して東遷してきた別勢力に「国譲り」「天孫族子孫による建国」を許すことになる。しかし、これらの経緯につては魏志倭人伝や中国王朝の史書には一切記述されていない。

中国大陸、朝鮮半島側から倭国を俯瞰する。

古代の倭国にとっては日本海や東シナ海側が文明の海であった。太平洋は何もない空白のスペースであり死の世界であった。歴代中国王朝も東に向けた「海洋大国」を目指すインセンティブは全くと言って良いほどなかった。もっぱら大陸の西方、北方、南方の異民族との中原を巡る攻防に心血を注ぎ、これらと対峙する時の東の同盟国になるかどうかが「倭国」に関する関心事の全てであった。東の海中にある東夷「倭国」が朝貢してくれば遠交近攻の同盟国として冊封する。しかし、実は朝貢してこなくてもそれほど大きな外交上の問題とはならなかったであろう。倭国が日本と国号を替え、大王が天皇と名乗って、中国王朝への朝貢をやめても、わざわざ渡海して倭国(日本)を攻めることはなかった。ある意味鷹揚な大国であった。現代中国は少々事態認識が違うようだが。

(富山県作成の地図をHPより引用)

 

 

 


大和路桜紀行(3)甘樫丘に桜華やぐ飛鳥を睥睨する

2016年04月11日 | 奈良大和路散策

甘樫丘は桜満開!

 今回の大和路桜紀行の最後は飛鳥路。昨日の雨も上がったし、なんといっても甘樫丘の桜を観賞せずばなるまい。季節ごとに心休まる風景を眼前に展開してくれる飛鳥。ここまでくるとさすがに外国人観光客もいない。この桜満開の素晴らしい風景を楽しんでいるのは家族連れや地域の仲間といった地元のグループだけだ。のどかな伝統的な日本の花見行事がここには残っている。低経済成長時期の日本はインバウンド観光資源の開発にもっと力を入れるべきだという。経済評論家や政府は、地域に金を回すには、積極的にインバウンドを東京、京都から地方に回す手立てをとる必要あり、と力説している。要するに「爆買い」効果を地方に回せ、と言っている訳だ。こののどかな明日香の里を「爆買い」ツアーの団体バスの列で何をしようというのだろう。日本の歴史や文化に関心を寄せず、バスで免税店に直行し電気釜や化粧品を「爆買い」して空港や港に直帰する「観光客」はここには来ないし、来てもらうこともないでしょう。静かにしていてほしいなあ。金はいらんから...

 

 それにしても、桜は満開の時を迎え、この飛鳥の風景を華やいだものにしてくれている。もともと飛鳥時代には桜はそれほど愛でられなかっただろう。彼の時代に「花」といえば、万葉集などに歌われるように梅。中国の文化の影響が強かったこの時代は桜より梅であった。馬酔木や厳樫(いつかし)や両槻も古代文献に出てくる。桜はいつ頃この飛鳥の里を彩るようになったのだろう。桜は古来より稲作農耕を生業とする弥生的世界にあっては、田植えなどの農事生産活動を開始する時期を知らせる樹木であった。しかし和歌に詠まれるなど、桜が梅に変わって人々に愛でられるようになるのは国風文化が盛んになる平安時代に入ってからと言われている。いまやすっかり飛鳥の春の風景の主役になっている桜だが、意外にその歴史は新しい。しかし、樹齢何百年といった枝垂桜の巨木や、これでもか!という桜並木などの密集度はない。要するに伸びやかな飛鳥の風景の中に適度に、しかし要所要所に咲き誇っているのが飛鳥の桜だ。この歴史の舞台では、桜はこの季節の主役ではあるが、うまく脇役と共演してくれている。

 

 甘樫丘に登るたびに思うのは、360度の視界に収まるこの奈良盆地という囲まれた世界が古代倭国、ヤマト王権の揺籃の地であったのだということ。こののどかで平和な里がかつて凄まじい権力闘争の舞台であったとは。大和三山、三輪山、生駒山、藤原京跡、飛鳥古京、飛鳥寺、川原寺、石舞台古墳、多武峰、歴史の舞台が全てが一望できる。そういった悠久の時の流れを経て、熟成し、さらに枯れた大人になった里に桜はよく似合う。

 

 ここから西を展望すると畝傍山や二上山、葛城・金剛の山々が見える。弥生のヤマト人が河内、瀬戸内海、筑紫を経て海の向こうの大陸の文化に憧れ、仏教伝来以降の飛鳥人が夕陽の沈む西方浄土の世界に憧れた方角だ。しかし、ふと目を落とすと足元まで住宅開発の波が押し寄せ、ようやくのところでプレハブ住宅群の明日香村への侵入を食い止めている様を見ることができる。日本の高度成長期、バブル真っ盛りの時期、この辺りは大阪のベッドタウンとして怒涛のような住宅開発の波に襲われた。なんとか飛鳥の歴史的景観地域までの侵入は食い止められた。その後空白の10年、20年、日本経済にとっては低迷の時代が続いたが、それが幸いして、こうした古代飛鳥の歴史的景観と里の生活は守られた。これからの日本はどういう道を選んで生きてゆくべきなのか。甘樫丘に立つとそれを考えさせられる。「バブル」にせよ「爆買い」にせよ、GDPはどこかに線を引いて、こっちには来ないようにしてもらいたいと考えてしまう。成熟した「大人の国」になるためには金が全てではないのだから。

 

 参考:2013年に甘樫丘を訪ねた時のブログ。甘樫丘の歴史を知りたい方はどうぞ。

 甘樫丘 神聖な山の変遷 

 

明日香の里は春爛漫

 

なんという長閑な風景

 

 

明日香めぐりはバスと徒歩で

 

飛鳥坐神社参道

 

甘樫丘から飛鳥寺を展望する

 

里の春

 

耳成山と藤原宮跡

 

畝傍山、二上山、葛城・金剛山系を望む

 

 

 

 

島の庄、石舞台方面

 

飛鳥寺

 

真神原から橘寺を望む

 

河原廃寺あたり

 

 

三葉躑躅

 

飛鳥寺から甘樫丘を見上げる

 

大和路桜紀行(1)(2)(3)後記:

 撮影機材はLeica SL + Vario Elmarit SL24-90mm + Vario Elmar R80-200mm

何しろカメラ本体とレンズだけで総重量3キロを超える。とにかく重い!の一言。標準ズームSL24-90mmの手持ち撮影はライカ初のレンズ内手振れ補正機能でよくブレが止まってくれたが、重くて腕がプルプル震えた。特に縦位置撮影は体力勝負。腕力つけなきゃ無理だ。望遠ズームR80-200mmの方はもちろん手振れ補正なしなので、手持ち撮影では手ぶれ、ピンボケの山を築いてしまった。連日1万歩超の徒歩撮影旅行で、久しぶりに筋肉痛と腰痛に。足腰それに腕を鍛えねばなるまい。しかし、新しいライカシステムの写りには大満足。あとはウデを機材に見合うまでにどう高めるかが課題。

 

 

 

 


大和路桜紀行(2)雨にけぶる當麻の里に枝垂桜を愛でる

2016年04月10日 | 奈良大和路散策

 

當麻寺護念院のしだれ桜

背景は二上山

 

 大和路桜紀行の二日目は雨であった。暖かい春の雨であった。ネットで調べると、長谷寺(長谷寺の桜)も大野寺の枝垂桜(大野寺の枝垂桜)も満開になったとの報。しかし、雨の似合う桜はやはり大宇陀の又兵衛桜か當麻寺の枝垂桜だろう。長谷寺も大野寺も両方ともこれまで毎年訪れているので今回はパスしよう。大宇陀の又兵衛桜も一昨年訪問して、雨に佇むその孤高の美しさに息を呑んだ。さらに人知れず咲き誇る天益寺の枝垂桜の華麗さにも心奪われた(大宇陀の又兵衛桜)。しかし、今回は、まだ満開には間があるのと、十分な観賞時間が取れないことから見送ることにした。

 

 そこで満開となった當麻寺のしだれ桜を訪れることとした。當麻寺は飛鳥古京から見ると西の方角、東の三輪山の真西の二上山の麓に建立された。しかしその建立の由来、伽藍配置、ローケーションに謎が付きまとう不思議な寺だ。もちろん中将姫の曼荼羅伝説もミステリアス。曼荼羅浄土信仰が盛んになり、真言宗寺院でありながら浄土宗共立の寺になった。その詳細については以前書いた下記のブログを読んでいただきたいが、私の大和古寺巡礼の中でも最も心静まる寺の一つだ。なんといっても飛鳥人、みやこ人が憧れた西方浄土を望む土地、夕日の沈む二上山山麓、大和国と河内国の境というその立ち位置、そして里の佇まいがなんともよい。今の季節は有名な枝垂桜だけではなく、美しい花のご坊、西南院のシャクナゲも咲き始めた。護念院のハクモクレン、花蘇芳、椿、山茱萸と桜のコラボレーション。やがては中之坊庭園の芍薬、牡丹... どれを取っても心洗われる。

 

 そして何よりも里の春。大和路の古刹にはその周辺になつかしくなるような美しい里がある。ここ当麻の里は當麻寺を中心に二上山の麓に美しく静かに佇む村里だ。ようやく春を迎えて田植えまでまだ時間がある。静かな田園風景はこれから始まる豊穣の時を迎える準備が静かに進行しているのだろう。あたりは野の花が咲き乱れ、木々の芽吹きの季節を迎えている。山桜、スモモ、花桃、レンギョウなどが雨にけぶる二上山を背景に咲き誇っている。あまり自我を主張しないこれらの花々は、日本中が桜満開に沸くの桜狂騒曲の裏方だ。私はこうした裏方の楚々とした美しさに心惹かれる。やがて桜が散ると、瑞々しい新緑の季節を迎える。ワクワクする季節だ。

 

 追記:今回は、近鉄當麻寺駅前の中将餅をめでたく入手できた。いつもだと帰りに買おうと思って店に寄ると売り切れていることが多い。この店で自然素材だけでの手作りなの人気がある。この素朴だが豪華なよもぎ餅を食すたびにこの當麻の里を思い出す。

 

参考:2014年9月のブログで「當麻寺の謎」について解説しています。

    當麻寺の謎 ~豊穣の時を迎えた當麻の里を散策~ 

 

日本最古の三重塔二基

西南院庭園より

 

雪柳

 

白木蓮

 

雨に濡れて

 

椿

花蘇芳

石楠花

なんとカラフルな...

西南院庭園

山茱萸(さんしゅゆ)

護念院庭園

雨にけぶるしだれ桜

護念院

 

護念院

 

 

護念院庭園

枝垂れ桜

  

護念院全景

 

當麻寺曼荼羅堂(本堂)

 

當麻寺境内

 

當麻寺参道

 

竹内街道

ツバキ

 

當麻の里の春

 

雨にけぶる二上山

レンギョウ

 

葉牡丹

 

スモモ

 

二上山

 

 

 


大和路桜紀行(1)氷室神社・東大寺・若草山・春日大社

2016年04月08日 | 奈良大和路散策

氷室神社のしだれ桜

奈良で一番に満開となる

 

 3月下旬から4月初め、毎年この季節になると、慌ただしくて心が落ち着かなくなる。木の芽時で精神状態が不安定になるという意味ではない。年度末と新年度開始という会社人間にとって節目の時期であるという理由でもない。そう、今年は桜がいつ開花するのか?いつ満開になるのか?雨は降るのか?人出は如何に? ニュースと天気予報に食い入る毎日だ。桜を堪能できる時間は短い。その限られた時間で最大限桜を楽しもうという忙しさ。まさに桜狂想曲の始まりだ。連日SNSは桜の話題が満載だ。

 

 今年は3月20日頃に開花したものの、寒の戻り、冷たい雨などで、結局満開は4月に入ってから。2、3日の週末に一気に気温も上がり満開となった。しかし例年よりも遅い満開である。しかも、冷たい雨が金曜日に降った。花見宴会組には厳しい状況であった。

 

 私の今年の「日本の原風景、桜を求める旅」は奈良大和路と決定。いつも「桜紀行は京都へ」を考えないわけではない。今年も当然考えたがこの季節に京都の桜の名所は凄まじいことになることは想像に難くない。関西在住時には醍醐寺や嵐山、三尾の桜を楽しんだものだが、桜を見に行ったのか、人を見に行ったのかわからない混雑ぶりなら、何も京都くんだりまで足を伸ばさなくても東京の桜の名所で十分だ。基本的に、人出を避けて静かに桜花を愛でる、という相矛盾した条件を満たそうとするからいつも苦労する。大勢の人が出てワイワイやってる花見を楽しむのも一興だが、理想は人知れず咲き誇る山里の桜観賞なのだ。

 

 新大阪行きの新幹線車内、そして到着した京都駅構内、その外国人観光客の怒涛のような有り様を見れば、この時期に限って京都が私にとっては「心の旅」を求めて出かけるところではないことが理解できる。今話題の爆買い中国人御一行様ほか、韓流カップル韓国人御一行様、そしてナイコンを首から下げたバックパック欧米人御一行様も、今年は半端でなく発生している。新幹線のグリーン車はほぼ「欧米か」に占拠されていた。ちなみにめでたく「ジパング倶楽部世代」となった私は、3割引料金で「ひかり」のグリーンに乗れる特権を享受しているわけだが、考えることは皆同じ。シニア世代の団体、カップルが大勢グリーン車の客となっている。しかも訪日外国人はジャパンレイルウェーパス(昔ヨーロッパ旅行に必須の一等車に乗れるユーレイルパスと同じ)を持っているので、これまた団体、個人を問わず大挙して「ひかり」グリーン車に押しかけてくるというわけだ。

 

 この一団が申し合わせたように、ドット京都で下車する。「京都の桜も捨てがたい」という未練がましい迷いを振り払う。ということで混雑「想定内」の京都を避け、やはり奈良大和路へ。京都駅から近鉄に乗り換えた。しかし、チと「奈良は意外に穴場」想定が甘かったことにすぐ気づかされることになる。今年の奈良はいつもと違った。奈良公園、大仏殿、春日大社などの定番スポットは、これまた外国人観光客に占拠されている。東大寺の駐車場には大型観光バスが列をなしている。道という道は大渋滞。いつもなら幅を利かせている関西弁も、ナンチャッテ「東京弁」も影を潜める。聞こえてくるのは北京語、広東語、台湾訛りの中国語、韓国語、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、それに不可思議なヨーロッパ諸国語ばかり。とうとう訪日外国人が年間2000万人を突破したというから、奈良ももはや「意外な穴場」ではない。観光客がみんな京都に吸い取られる時代は終わったようだ。いや京都から溢れ出始めたのかもしれない。経済効果としては嬉しいことだし、日本ファンが増えることも嬉しい。

 

 しかし、私の密やかなる楽しみ、心の大和路紀行が「観光客」に踏み荒らされるのはいやだ。外国人かどうかに関わらず、そもそも「観光客」というもの自体が、けたたましくも品がない。旅は人を開放的にするし、それはそれで良いのだが、ともすれば「旅の恥は掻き捨て」。受け入れる側もそんなこと分かっていて、「おもてなし」「Welcome!」「歓迎光臨!」といいながら、「金落とせ!」「Spend more money!」と、これまた品がない。日常を離れて非日常の世界を楽しむためにやってきたこの私、品格が服着てカメラ持っているような(!?)この私としては物欲煩悩の世界をここでも見せ付けられるのは楽しくない。旅という非日常の中、その土地の日常をひっそりと楽しみたいのだが。桜の季節は限られているだけにこうしたジレンマに苛まれることになる。どこかで「勝手な観光客はお前だろ!」という声が聞こえた。

 

 ともあれ、奈良で一番に開花、満開となる氷室神社のしだれ桜を観賞し、東大寺大仏殿脇の、いつもの二月堂への道を歩く。そこからは勝手知ったるルートで若草山、春日大社、春日若宮、禰宜の道をぬけて新薬師寺、高畑町界隈を散策。入江泰吉記念館は本日休館日。残念。ということで足早に奈良市内を後にして、翌日は当麻寺、明日香へ向かうつもりだ。さすがにここまでくると外国人観光客はいない。もっとも近鉄桜井駅で、欧米観光客の一団がガイドに伴われて移動するところに遭遇してしまった。すごいな!何見に来たんだろう。まさか邪馬台国ツアーじゃないよな?!かなりの通だ。こうしてやがては穴場は穴場として有名になり、もはや穴場で無くなって行く。

 

柳の新緑が美しい大仏殿

 

大仏殿参道

 

二月堂へ向かう道

コブシの巨木

 

二月堂へ向かう道

南大門、大仏殿の喧騒を離れて静かに散策できる

 

若草山から大仏殿

 

興福寺五重塔が

 

春日若宮

椿が盛りだ

 

 

春日大社の燈籠

新薬師寺への道

レンギョウの黄色が桜と良いコントラスト

ここまで来るともはや観光客の姿はない