時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

葛井寺に藤を愛でる ー若き遣唐留学生の魂よ永遠なれー

2013年04月24日 | 摂河泉散策
 藤で有名な葛井寺(藤井寺:ふじいでら)は阿倍野橋から近鉄南大阪線の急行で約20分の藤井寺駅から徒歩5分のところにある。藤井寺駅から古市駅までの沿線(現在の行政区域では藤井寺市、羽曳野市)には、堺市の百舌鳥古墳群に連らなる巨大古墳群、応神天皇陵、仲哀天皇陵、ヤマトタケル陵などの大型古墳があつまる古市古墳群が広がっている。奈良盆地三輪山山麓の三輪王朝に替わる河内王朝縁の土地であると言われる。一方、百済の渡来系氏族が開いた土地であるとも言われており、葛井寺も渡来系氏族葛井氏(ふじいし)の氏寺とも言われている。この寺の南西隣にはやはり渡来系氏族の氏神をまつるとされる辛国神社(からくにじんじゃ)があり、さらに仲哀天皇陵の南には聖徳太子ゆかりの「中の太子」と呼ばれた野中寺(やちゅうじ)が存在する。

 この辺りは5世紀の倭の五王が活躍した時代以来の軍事氏族であった物部氏の基盤でもある。物部氏は、6世紀に入って仏教伝来に伴う,崇仏派(蘇我氏、聖徳太子)、廃仏派(物部氏、中臣氏)の争いの中で蘇我氏に取って代わられ、滅びて行ったが、河内に優勢な基盤を有する古代の大豪族であった。その東には太子町「近つ飛鳥」がある。こちらは蘇我氏の縁の地と言われ、蘇我系の大王墓、用明天皇、敏達天皇、推古天皇、さらには孝徳天皇の陵墓が並び、聖徳太子の墓と叡福寺(「上ノ太子」)もあり「王陵の谷」と呼ばれている。


 葛井寺は、この季節、藤が一斉に咲き始める。今年の開花は例年よりかなり早く、その報を聞きつけた善男善女(基本的に中高年のオトーさん、オカーさん達)が押し掛け、我が世の春を楽しんでいる。訪問当日はまだ満開には少し早すぎたが、3月の急速な温暖化により,桜を始め、全ての開花が早かった。藤は5月の花であるが、4月の連休前にはもう咲き始めている。藤と言えば春日大社の藤が有名であり、藤原氏のシンボルとも言うべき花であるが、藤井寺の藤棚も素晴らしい。高貴な佇まいを備えている。

 ここ藤井寺には近年になって一人のヒーローが現れた。2004年に中国の西安市、すなわち唐代の都長安跡で、「井真成」なる日本からの遣唐使の一員(留学生)の墓誌が発見されて話題になった。墓誌には734年に若くして(36才)遠く異国の地で亡くなった事が記されている。当時長安に在留していた各国の留学生の数はあまたあれど、その死にあたり墓誌を贈られた者は少ない。またその才能を悼んで時の玄宗皇帝から「尚衣奉御」という官位まで遺贈された事が記されている。この「井真成」(いのまなり。せいしんせい等の読み方もいろいろな説がある)とは、日本名は、「井上」であるとか「葛井」であるとか論争があるが、どうもここ河内の藤井寺辺りの出身者であるようだ。地元では思わぬ「郷土の英雄」の発見に沸き、今でも街角のあちこちに「井真成君」の幟旗が立ち並んでいる。キャラクターまであって盛り上がっているわけだが...

 遣唐使は正使1名、副使1~2名であり、100名ほどの随行員(留学僧、留学生など)が含まれているが、日本側の記録に随員の名前等は必ずしも残っていない。20年に一度くらいの頻度での遣使で、しかも、当時の航海能力では全ての船が無事に彼の地に到達したり、あるいは帰国出来た事は稀であった。したがって残る記録も少なく遣唐使の実情についてはいまだに不明な点が多い。

 井真成は、おそらく他界した年齢から推測すると、717年の遣唐使留学生の一人であったのだろう。そうだとすると渡唐当時は19才ということになる。阿倍仲麻呂や吉備真備と同時期の派遣と見られる。阿倍仲麻呂のように貴族の出身で唐において重用され高い官職に就き、現地で没した人物と異なり、また、吉備真備のように留学生として渡唐し無事帰国した後に、朝廷に重用されて右大臣にまで出世した人物とも異なり、この墓誌が発見されるまで、誰もその存在すら知らない無名の人物であった。日本国家建設の黎明期における海外留学生には、幕末明治期を含め、歴史に名を残す事も無く埋もれてしまった幾多の若者がいたに違いない。そういう歴史の表舞台には出て来ない「若者の夢」を、この西安の井真成の墓碑銘の発見で垣間みることが出来たわけだ。

 しかし、望郷の思いは阿倍仲麻呂にも劣らなかったであろう、その心に秘めた大志も決して劣らなかっただろう。あるいは帰国していれば吉備真備のように出世して歴史に名を残していたかもしれない。中国の人々に惜しまれ墓誌まで作ってもらった若き留学生の道半ばでの異国での死に思いを馳せる。墓誌には辞世として「遺体はこの地に残れども、わが魂ははるか故郷に帰る事を望む」と記されている。その心情を察すると涙を禁じ得ない。
今を盛りに咲き誇る藤の花よ、願わくばこの若者の魂を慰めたまえ。

Dscf6619
(葛井寺の藤)

 スライドショーはこちらから→

<embed type="application/x-shockwave-flash" src="https://picasaweb.google.com/s/c/bin/slideshow.swf" width="600" height="400" flashvars="host=picasaweb.google.com&captions=1&hl=ja&feat=flashalbum&RGB=0x000000&feed=https%3A%2F%2Fpicasaweb.google.com%2Fdata%2Ffeed%2Fapi%2Fuser%2F117555846881314962552%2Falbumid%2F5869524545041391729%3Falt%3Drss%26kind%3Dphoto%26hl%3Dja" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer"></embed>

(撮影機材:Leica M240+Summilux 50mm f/1.4 ASPH., Fujifilm X-Pro1+Apo Summicron 75mm f/2 ASPH.+Tri-Elmar 16,18, 21mm f/4 ASPH.)



河内王朝(倭の五王)の祖が眠る 大仙古墳(伝仁徳陵)を訪ねる

2013年03月12日 | 摂河泉散策
 前回の香椎宮探訪の時に書いたように、文字を持っていなかった倭国の実情を知るには、当時の中国の史書に記されている倭国の記述を読み解くしかない。しかし、3世紀の魏志倭人伝の邪馬台国卑弥呼,トヨの記述、5世紀の宋書倭国伝の「倭の五王」の記述はあるが、その間の4世紀は、倭国に関する記述が途絶え、「空白の一世紀」と言われている。倭国大乱の後に鬼道をよくするシャーマンである邪馬台国の卑弥呼を共立し、なんとか倭国がまとまり、卑弥呼の死後は男王が立つが再び争乱となり、トヨの擁立で落ち着く。そういう「政祭二元(ヒメ/ヒコ制)」の体制の倭国は、空白の100年の後に、突如、勇猛な男王達のもとに統一を果たし、朝鮮半島にまで勢力を広げる武断的な国家に変貌したという。この間、倭国に何が起こったのだろうか?

 一説には、3世紀の中国の史書に記述された邪馬台国の話は「チクシ倭国」での出来事であり、「ヤマト倭国」とは別の国であったのだ、という見解がある。そのチクシ倭国はやがて衰亡し、再度の倭国内の争乱の後に、ヤマトや河内に成立した倭国に取って代わられた(あるいは王権がチクシからヤマトへ東遷した)という説だ。日本列島の文化の中心が北部九州チクシから、ある時期に近畿ヤマトに移ったのは事実であるが、それがこの「空白の4世紀」の出来事なのだろうか。魏志倭人伝に記述された倭国と宋書倭国伝に記述された倭国との間にそのような断絶があるのかどうか,推測は出来ても検証は出来ていない。

 日本の8世紀の史書である日本書紀は天皇在位年をベースとした編年体で記述されているが、年代が曖昧である(神武天皇即位は紀元前7世紀、縄文後期/弥生前期、神功皇后は3世紀(卑弥呼の時代の即位)、仁徳天皇は130才で崩御したことになっているなど)ので、中国の史書と読み合わせる場合、記述された出来ごとと時代とが一致しない。

 また、日本書紀においては代々の天皇の事績について、複数の説が紹介されており(「一説に曰く」)多様な解釈が成り立つ余地が多い。そこから類推しながら読み解く必要があって厄介だ。「一説に曰く」的に解釈すると、ヤマト(三輪山山麓)には崇神大王による、三輪王朝が成立し、出雲との深い関係(出雲がヤマトに服属した(國譲り伝説)、あるいは出雲勢力がヤマトに進駐した(大国主=三輪山の大物主として祀られる))や、四道将軍の一人である吉備津ヒコによる渡来人系の国吉備の征服などにより、倭国(おそらく畿内ヤマト地方を中心に)を平定して行った(出雲の國譲り伝説は記紀では「神代」の出来ごとだが、実際にはおそらく3世紀末から4世紀初頭の出来ごとか?)。しかし、3世紀の魏志倭人伝に出てくる邪馬台国も卑弥呼も記紀では触れられていない。

 やがて4世紀末~5世紀前半になると新しい大王による倭国平定(「山河を跋渉して寧所にいとまあらず」。近畿だけでなく、筑紫を含む西日本一帯と東国伊勢)があったのだろう。これら宋書倭国伝の「倭の五王」の上奏文に記されているに事績についても、記紀に記述は無い。ヤマトタケルの東征、熊襲平定伝承があるがこれがそうなのか?ヤマトタケルは実は倭王武であり、すなわち雄略天皇の事績を過去に投影して記述したもの,とする解釈もある。しかし、ヤマトタケルは景行天皇の皇子でいわば三輪王朝に血統。さらに神功皇后(聖母)の夫、仲哀天皇はヤマトタケルの子となっている(ともに実在性が薄いとされている)。皇統が繋がっている事を示すために創作されたのかもしれないが、話に矛盾や時代の不一致が多すぎて繋がらない。この間、三輪から河内を基盤とする新王朝(河内王朝)に交代した可能性がある。

 記紀の記述によれば、神功皇后の子、応神大王の子が仁徳大王である。しかし、一人の大王の事蹟を幾代かの大王の事蹟であるように調整した可能性もある、として応神/仁徳は同一人物だという説もある。ともあれ、聖母(しょうも)である神功皇后と、河内王朝の始祖である応神/仁徳大王の時代の始まりが、万世一系の皇統の中の出来ごととして記述されている。一方、5世紀の中国の史書、宋書倭国伝によれば、倭の五王(賛、珍、済、興、武)が朝貢し、倭国内を平定したことと、さらに朝鮮半島の支配権を認めるよう上奏している。この倭の五王が記紀のどの天皇(大王)に比定されるのかが論争になっているが、もとより記紀と宋書倭国伝との間に共通のタイムスケールは存在しないので、個々の人物をあてはめる事は困難で定説は無い。せいぜい倭王武は雄略天皇(大王)であろう、ということだけが一致を見る見解となっている。

 しかし,それにしても5世紀当時の倭国王達が,自らの名を賛とか珍とか中国式の一文字で名乗ったのだろうか?という別の疑問もわいてくる。まさか現代の日本の首相がアメリカへ行って、大統領に「Call me Ron. Call me Yasu」と言った話と同じじゃないだろう。もちろん記紀にはこのような一文字名の天皇(大王)は存在しないし、和風諡の名称からも類推出来る名前ではない。雄略天皇(大王)は「ワカタケル(幼武)」と呼ばれていたらしい事は埼玉の稲荷山古墳や熊本の江田船山古墳などから出土した鉄剣の象眼文字から分かっているが、その「武」と関連があるのか。一説に、これもヤマト倭国の大王の話ではなく,チクシ倭国の話だという。九州王朝説に繋がる異説であるが、学会からは無視されているそうだ。

 王朝交代説の論者によれば、武(雄略大王)が「祖デイ、甲冑を貫き、山河を跋渉して寧所にいとまあらず...」と中国皇帝への上奏文の中で述べた祖デイとは仁徳大王だとしている。これが河内の上町台地に都を定め(高津宮)、河内の開拓に力を注ぎ、自らの宮殿が痛んでも、民の竃に煙が発つまでは(民の生活が安定するまでは)税を取らず我慢した、という聖君子伝説の主である。河内を拠点に海洋通行を支配した河内王朝(倭の五王の時代)の始まりであり、奈良の三輪山の麓の崇神王朝とは別系統の王朝だとする。

 ということは、大阪府堺市の仁徳天皇陵(最近は「大仙古墳」と呼んでいるが)はこの倭国を平定し、さらに朝鮮半島にまで勢力を伸ばした河内王朝(倭の五王)の始祖の墓であるという事になる。それにしても巨大な墓だ。全てに箱庭的でコンパクトな古代倭国のスケール感から遥かに飛び出したサイズだ。大仙古墳はその面積では世界一の大きさであり、体積では応神天皇陵とされる羽曳野市にある誉田御陵古墳より一回り小さいとされている。いずれにせよ周囲2.8キロの巨大な古墳である。しかし、周りを歩いてみても単なる壕と山にしか見えない。拝礼所に来て初めてここが陵墓である事を知る。地上で眺めてるだけではその広さは理解出来ても、前方後円墳としての巨大さをなかなか実感出来ない。やはり空中から眺めるのが一番だ。そういう意味ではエジプトのピラミッドに良く比較されるが、むしろ、ナスカの地上絵と比較した方が良いように思う。誰かが空中から俯瞰する事を想定していたのであろうか?よくこんなモノ造ったものだ。

 ここ河内の百舌鳥古墳群には、かつては100基以上の大小古墳が散在していたが、戦後の宅地開発等で破壊され現在では約50基が残っているだけだ。それでも陵墓指定の上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)、田出井山古墳(伝反正天皇陵)もあり壮観である。もっとも、大仙古墳などの考古学的調査は陵墓指定されている事から充分になされていない。大仙古墳、ミサンザイ古墳、田出井山古墳のどれが一番古いのかも明らかでないので、大仙古墳が仁徳陵であるかどうかも確認出来ていない。しかし、ここ河内の地にこれほどの巨大古墳と数多くの倍塚が並んでいる事には驚かされる。当時はこのあたりは海に近く、おそらくは海上からこの巨大な築造物が見え、倭国大王の権威を内外にアピールしたのだろう。倭の五王達が中国王朝に対し倭国の支配の権力と権威を示し、朝鮮半島の支配を認めさせようとする政治的なアピールが働いていたのだろうか。

 ちなみに、いつも疑問に思うのだが、何故、古墳(特に前方後円墳)はテンデの方角向いてで築造されているのだろう?東西南北など方角に対する法則性、こだわりは無かったのだろうか?例えば宮殿は纒向遺跡などは東西軸。飛鳥宮以降は南北軸。寺院も大抵は南北軸に配置されている。仏教や道教、風水などの外来の思想が入ってくる前の古墳時代には方向に関する考え方はおおらかだったのか?調べてみるがよく分からない。

 話を戻して、このように歴史学的な観点からも、考古学的な観点からも,「倭の五王」とは誰なのか?王朝の断絶はあったのか? 未解明な点があまりにも多い。3~5世紀の倭国における「王権」の受け渡しは、当時の記録(記憶?)をもとに、8世紀に記紀にまとめられた訳であるが、文字による記録の無かった当時の歴年はもとより正確であるべくもなく、中国の史書の歴年と合わせようとする事自体に意味が無いのかもしれない。そうなると唯一の文字による記録であり、年号の概念が使われていた中国の史書(編年体)と,実在する遺跡である古墳を考古学的に調査して付き合わせる検証作業が必要になる。

 サは然り乍ら、一方の記紀の記述についてはその年代には疑問を持たざるを得ないし、出来事にも多くの異説があり、かつストーリーに矛盾もみられるが、全くの後世の創作と断じてよいのだろうか。各代の天皇の事績についての記述は、何らかの過去の出来事の記憶のもとずく記述であるか、後の世の創作である部分があるとしても、どのような理由や動機によるものなのか、記紀編纂時のどのような政治的な背景によるものなのか、そのようなことを考察しながら読む(批判的に読む)事が必要だろう。全く鵜呑みにするか,全く否定するか、の二者択一は有り得ない。

 日本の古代史解明は、このように厄介な作業が伴う。しかし、私のような「時空の旅人」にとっては迷宮をさまようミステリーツアーのような醍醐味を味わうことが出来る。分かっていない事が多いから面白い。解明されていないエピソードほどワクワクする。想像力が働くからだ。もっともコウなるともはや歴史ではなく空想の物語の世界に踏み込んでしまっているが。

 見よ!大仙古墳という巨大な古代史のタイムカプセルが眼の前に横たわっている。まだ語ってない事がイッパイあるぞ、と目配せしている。

_

(空路大阪に入ると、伊丹着陸直前に、巨大な大仙古墳を中心とした百舌鳥古墳群を眼下に見渡すことができる。ここからの眺めは素晴らしい。)

Dsc05233

(大仙古墳の外周は2.8キロあり、その広さは充分体感出来るが、前方部にある拝礼所からだけ見てもこの古墳の巨大さはイマイチ実感出来ない。やはり空から見渡すのが一番だ。)




竹内街道を行く(太子町山田大道)

2012年04月06日 | 摂河泉散策
 以前、竹内街道の奈良側,すなわち近鉄南大阪線磐城駅下車で、葛城市の長尾神社から竹内集落までを散策した事があった。この時は、菅原神社から竹内峠を越えて、太子町まで歩くつもりであったが、途中が歩道も無い国道166号線での峠越え、ダンプカーが曲がりくねった道をビュンビュン走り抜けるので、歩くのを諦めた。

 古道散策はクルマ無しで願いたいものだ。時空を超えるイメージに合わないのと,危険でノンビリブラパチどころではない。そこで,今回は上ノ太子駅から、南河内郡太子町,すなわち近つ飛鳥側からの散策を楽しんだ。太子町、磯長(しなが)の里は前回の「時空トラベラー」で紹介した通り、聖徳太子の御廟を始め、王陵の谷と言われ,天皇陵墓の多いところである。駅からは金剛バス(一時間に一本ぐらいしか無い)がちょうど間に合い、太子前バス停まで乗車。叡福寺聖徳太子御廟を参拝してから、六枚橋まで歩く。これも車道を歩いたのでは面白くないので、路地を入り一本メインストリートから中を歩く(これが古道歩き、町並み散策の鉄則)。

 太子町春日集落の古い町並みを愛でながら、六枚橋から、いよいよ竹内街道の標識に従い、左手に二上山を仰ぎ見ながら、ゆるい坂道を上り始める。道はいたるところに標識が整備され,さらにお勧めルートがわかりやすいように、カラー舗装、石畳となっているが、チと整備され過ぎで,古道の趣が薄れてしまっているかな。まあ,贅沢いわずダラダラと上り坂を行く。

 この辺りは大和棟の民家が多いところと聞いていたが、今は少なくなってしまっているようだ。それでも風格ある古民家が点在する街道を歩くと、徐々に高低差を感じる峠道になり、ビューポイントの山本家住宅あたりでは、遠く河内平野、PLタワーのある富田林辺りまで見渡すことが出来る。ここは山田字大道地区。まさに古代官道、「大道」が地名として残る集落だ。しかし,残念な事に、建物は改築されて現代的になってしまったものが多い。それ故か、この辺りはその歴史的な重要性に比して、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されていない。朽ち果てた土蔵や古民家が街道沿いに無惨な姿をさらしているのは、趣があると言えばあるが、むしろ哀れだ。

 大道旧山本家住宅はその中でも,古民家の修復保存活動がうまくいって、見事に大和棟が復元されている例の一つだ。ちょうど訪れた日は運良く一般公開日であった。オリジナルに忠実な「完全復刻」大和棟の農家住宅。室内も農作業する庭先も、まるで今も生活中であるかのようにディスプレーされ、籾殻までそのまま保存修景されている。訪れる人も無く、私一人で往時の生活を彷彿とさせてくれる贅沢な時間を堪能する。江戸末期の豊かな農家の姿だ。

</embed>Takenouchimap
(大道/竹内街道ルートマップ:大阪府のホームページから転載)

 大道は図の通り、大和の飛鳥から西に走る大道、二上山麓の竹内峠を越え、河内飛鳥から堺へ向い、そこから真北の難波に宮へ向う難波大道へと繋がる古代の官道である。推古天皇の時代に造られたと言われ、難波津から瀬戸内を通じて、筑紫、朝鮮半島、中国、さらには天山南路のシルクロードをへてインド、ペルシャ,ローマ帝国へと繋がる「文明の回廊」、その東の端でもある。東西交流の歴史を表す様々な文物、そして仏教、律令制などの政治制度、技術、などがこの道をへて飛鳥にもたらされた訳である。その中の葛城竹内集落から竹内峠を越えて太子町山田、羽曳野市飛鳥をへて堺へ向うルートを「竹内街道」と呼称しているようである。

 時代を下っても様々な歴史の舞台となった道である。、孝徳天皇が難波宮で取り残されて憤死し、飛鳥古京へ越えれなかった道であり(孝徳天皇陵はこの竹内街道沿いの山田にある)、斉明天皇の新羅征討のための、筑紫進駐の軍を進めた道であり、壬申の乱の時には大海人皇子進軍のルートとなり...  大和と難波を通じて外界とをを結ぶ重要な交通の要衝であった。また、都が奈良盆地から北のカドノの平安京に遷都した後は、伊勢参りや大峰山参りの参詣道として,庶民にも親しまれる街道となって行った。

 しかし、この官道が造られる以前から、4ー5世紀の築造と思われる古市古墳群(応神天皇陵とされる誉田山古墳が最大の古墳)と百舌鳥古墳群(仁徳天皇陵とされる大山古墳が最大の古墳)を結び、二上山から東西軸上の奈良盆地の大倭古墳群を結ぶ線上にあり、古くから人の往来が盛んであったであろうと想像される。三輪山山麓の初期ヤマト王権(崇神王権)と河内王権(応神王権)の変遷を巡る「王権の断絶」論争の謎を解くカギとなる舞台であり,考古学的にも興味の尽きないエリアだ。

 今、大阪の私のオフィスは難波宮にすぐそばにある。ここから眺めると、上町台地も河内平野もビルと住宅に埋め尽くされて、古代の面影は無いが、それでもここから河内平野のむこうにかすむ二上山ととその麓に広がる高地の風景は、はるけき飛鳥古京に思いを馳せる眺めであり、はるばる大陸からの長旅の果てに難波にたどり着いた賓客や渡来人にとっては,これから向う倭国の都を夢想して心高鳴る風景であたことだろう。また、これから波頭を越えて、彼の地、彼の国へ旅立つ人々にとっては、振り返って別れを惜しむひと時の風景でもあったのだろう。


<embed type="application/x-shockwave-flash" src="https://picasaweb.google.com/s/c/bin/slideshow.swf" width="600" height="400" flashvars="host=picasaweb.google.com&captions=1&hl=ja&feat=flashalbum&RGB=0x000000&feed=https%3A%2F%2Fpicasaweb.google.com%2Fdata%2Ffeed%2Fapi%2Fuser%2F117555846881314962552%2Falbumid%2F5726648959602677697%3Falt%3Drss%26kind%3Dphoto%26hl%3Dja" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer">
(撮影機材:Fijifilm X-Pro 1, Fujinon 18, 35, 60mm)








河内飛鳥 王陵の谷 ー もう一つの飛鳥 ー

2012年04月03日 | 摂河泉散策
 日本の古代史には、不明な点が多く、様々な論争がある。何も邪馬台国論争ばかりではない。4世紀に現れたという、河内政権(王朝)の存在もその一つだ。崇神天皇に始まる初期ヤマト王権(三輪政権/王権)と、4世紀の応神天皇・仁徳天皇に始まる河内政権/王権とは連続しているのか?あるいは断絶があったのか?というものだ。

 中国南朝の宋の史書(488年)に記されている倭の五王の時代が河内政権/王権の時代なのだろうか。五王の一人、倭王「武」は雄略天皇ではないかと言われているが、4世紀は中国の史書にも倭人の記録が無い空白の時代と言われている。しかし、「空白の時代」は必ずしも倭国の停滞の時代を意味するものではなく、むしろこの時代は三輪山の麓に佇む初期ヤマト政権の時代から、ヤマトの国家の統一と発展に向けた画期的な時代であったのでは、とされている。そこには王朝の連続があったのか、あるいは新たな王朝が起こり、既存勢力が打倒されたのかが論争となっている。

 記紀にあるヤマトタケルによる東国、熊襲征討伝説や、前述の倭王武の「ソデイ(変換不能)甲冑を貫き山河を跋渉し寧所にいとまあらず」、埼玉や熊本の古墳で見つかった鉄剣の「ワカタケルの金石文字」等、ヤマトが次第に国家として日本全体に広がっていった事を示す状況証拠が見つかっている。しかし,いかんせんそれを証明する文献や資料が整ってない,謎の時代でもある。

 それだけ日本の古代史解明には、文献史学的には困難がつきまとう。推古天皇が編纂させたという天皇記/国記は、巳支の変の蘇我宗家滅亡時に失われたとされ、8世紀の天皇制確立期に、その正統性を内外に誇示する目的で編纂された日本書紀と古事記が、ほぼ唯一無二の日本側での文献である。戦前には記紀の記述が日本の古代史の全てである,とされ、神話の世界から天照大神一族の子孫である神武天皇に始まる万世一系の天皇制が史実であると理解されていた(あるいは理解させられていた)。

 戦後は、日本古代史をより自由かつ客観的に研究できる環境が出来た。しかし、依然として、その記紀の記述を検証するための主な文献としては中国の史記、朝鮮半島の史記しか無い。この辺が文献史学の困難さを示している。一方、考古学的な物証で補強するにも限りがある。特に宮内庁が管轄する天皇陵墓はいまだに,考古学的な調査が許されず、幾多の古代史論争に考古学的な側面から解明のメスを入れる事も出来ていない。

 話がドンドンそれて行く。河内政権/王権の話に入り込むとそれだけで別に稿を起こさなくてはならなくなるのでこのヘンにしたい。今日の話は、聖徳太子の時代、7世紀初頭、河内にもう一つの飛鳥があった,河内が日本古代史の謎を解くための重要地域であった,という事に留める。

 現在の大阪府南河内郡太子町、羽曳野市辺りは「近つ飛鳥」と呼ばれている。竹内峠、長尾峠を越えた向こう側の(大和の)飛鳥は「遠つ飛鳥」と呼ばれている。日本古代史においては、三輪、飛鳥、藤原京、平城京と、奈良盆地の中でヤマト王権が遷都、発展して行ったかのごとく錯覚しがちだが、上述のように、4世紀5世紀まで時代を遡れば、河内が大和に匹敵する古代史の重要地域である事は百舌鳥古墳群の巨大古墳の出現を見ても明らかだろう。

 大阪阿倍野橋から近鉄南大阪線の電車に乗り、上ノ太子駅下車。ここをスタートに太子町を散策した。駅周辺は大阪の通勤圏内という事で、奈良盆地以上に開発が進み、第2阪奈道路の高架橋や新興住宅が建ち並び,もはや時空トラベラーとして古代の面影を探すのも容易ではない。しかし、いつもは大阪のオフィスの窓から遠望する二上山、葛城山が、今日は眼前にそびえる。歩を進めて行くうちに景観が徐々に変わって行き、タイムスリップしてゆくことが出来る。推古天皇の時代に建設されたという、飛鳥宮から難波宮に至る古代の大道、すなわち横大路、二上山の脇を抜ける竹内街道、堺から真っ直ぐに北へ伸びる難波大道。その途中の山の鞍部を越えた河内側の一帯が、「河内飛鳥」、「近つ飛鳥」と呼ばれるエリアである。

 この古代官道、竹内街道散策については,別に書く予定だ。今の太子町一帯は古代から「磯長(しなが)の里」あるいは「磯長谷」と呼ばれており、ここには、聖徳太子御廟/叡福寺、敏達天皇陵、用明天皇陵、推古天皇陵、孝徳天皇陵がある。五枚の花弁に例えて「梅鉢御陵」と呼ばれている。この他にも、聖徳太子が派遣した遣隋使、小野妹子、乙巳の変の立役者の一人、倉山田石川麻呂(蘇我氏の傍流家)など、王家ゆかりの人々の墓もあり、「王陵の谷」とも呼ばれている。

 しかし、何故に、大和飛鳥を宮都とし、歴史の表舞台で活躍した日本古代史のスター達の墓が、ここ山を隔てた河内の飛鳥にあるのか。もちろん聖徳太子伝説はいたるところにある。太子創建の難波の四天王寺、斑鳩の法隆寺はもとより、ここ河内飛鳥にも、叡福寺(上ノ太子)、野中寺(やちゅうじ)(中ノ太子)。大聖勝軍寺(下ノ太子)が太子信仰の場として今も参詣者を集めている。しかし、太子は生前、自分の墓所をここ河内の磯長の地と決め、陵墓建設を進めたという。その太子御廟を守る為に後の建立された寺が叡福寺だ。今見ると太子の墓は円墳であり、母である穴穂部間人皇后と、妃とともに埋葬されていると言う。

 聖徳太子の父、用明天皇、その兄すなわち太子の叔父、敏達天皇もここに御陵がある。そして太子が摂政として輔佐した、叔母の推古天皇の陵墓もここだ。ともに巨大な方墳である。なぜ陵墓なのに前方後円墳や八角墳でないのか、という考古学的な研究テーマもある、また宮内庁管理の陵墓比定地が果たして本当に太子や推古天皇の陵墓であるのか、先述のように調査されていないために論争がある。現に推古天皇の本当の墓は、近くの二子塚古墳であるという地元の言い伝えがある。が、それはさて置いておいて、なぜこの一族は河内に安寧の場を求めたのか?

 一説には、ここ河内の磯長は蘇我氏の発祥の地であるという。乙巳の変で蘇我宗家が滅ぼされるまで、天皇外戚として権勢を振るった蘇我一族はここから、山を越えて大和の飛鳥に進出したのだという。その蘇我氏ゆかりの故地、河内飛鳥の磯長が、蘇我一族の血筋を引く用明天皇、推古天皇、太子の心の故郷になったのだ、という説だ。ここには蘇我馬子創建と伝わる寺院跡もある。

 蘇我氏の出自については、渡来人の末裔だとか、大和曾我辺りの豪族だ、とか、諸説あって定まらないが、いずれにせよこの河内磯長谷辺りも勢力範囲だったのだろう。この地は大和飛鳥と難波宮、さらには瀬戸内海を通じて、筑紫、朝鮮半島,中国、さらにはインド、ペルシャ、ローマ帝国へと通じる、いわば文明の回廊(シルクロード)の東端に位置する重要な場所であった。蘇我氏はこうした外来の文物、文化、技術をいち早く取り込む格好の位置を確保し、渡来人や帰化人をオーガナイズして、守旧派の抵抗勢力、大伴氏や物部氏を打倒して、飛鳥にイノベーションを起こしたグローバル派だった。その最たるものが仏教の導入であった事は改めて言うまでもないだろう。

 冒頭に触れた、河内政権の始祖,すなわち応神天皇の御陵はここから近い古市古墳群の中のもっとも大きな前方後円墳である誉田山古墳が比定されている。仁徳天皇陵は竹内街道の終点で、かの有名な百舌鳥古墳群の大仙古墳が比定されている。両方とも群を抜く巨大古墳である。ちなみに人民から慕われたという仁徳天皇の宮は、難波の上町台地の高津宮とされている。

 これら河内政権の応神天皇に始まる代々の天皇(正確にはまだ天皇制を確立しておらず,大王と呼ぶべきか)が活躍した時代は4世紀後半から5世紀であり、武烈天皇で一旦血統が途切れたらしく、越の国(現在の越前福井)から(応神天皇の血筋を引くと言われるが)継体天皇が大和に入っている。やがて継体王朝系譜の欽明天皇の血を引く敏達天皇、用明天皇、推古天皇、聖徳太子へと繋がってゆく。こうして「血統の断絶」を見ると、7世紀前半の人、聖徳太子は河内政権/王権の大王達と血統的な繋がりはないだろう。ただ、この地を支配した母方の蘇我氏との縁で河内と繋がっているのだろう。

 この時期は大和飛鳥に統一王権が収斂されつつあった時期であって、4~5世紀の河内政権/王朝の時代はすでに終わり、河内に独自の王朝や政権が存立していた訳ではない。やがて、大化の改新、壬申の乱をへて、都も奈良盆地内で、藤原京,平城京と遷都して行き、「ヤマト王権の倭国」が、「天皇中心の日本」に変わってゆく。河内は蘇我氏の故地、王陵の谷、太子信仰の地となった。もちろん、奈良盆地に都がある限り、百済人も、新羅人もここを通り、遣隋使も、その答礼使も、後の遣唐使も通った、大陸との交流の要衝としての意味が失われる事はなかった。

Img_1497050_57567817_3jpeg
(大阪府南河内郡太子町辺りの地図。敏達天皇陵は画面左に外れている)

<embed type="application/x-shockwave-flash" src="https://picasaweb.google.com/s/c/bin/slideshow.swf" width="600" height="400" flashvars="host=picasaweb.google.com&captions=1&hl=ja&feat=flashalbum&RGB=0x000000&feed=https%3A%2F%2Fpicasaweb.google.com%2Fdata%2Ffeed%2Fapi%2Fuser%2F117555846881314962552%2Falbumid%2F5726638908797872945%3Falt%3Drss%26kind%3Dphoto%26hl%3Dja" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer"></embed>
(撮影機材:Fijifilm X-Pro 1,Fujinon 18,35,55mm)





富田林寺内町

2009年12月29日 | 摂河泉散策
富田林は大阪市の南のベッドタウンだ。あべの橋から近鉄南大阪線で30分ほどで着く。今年最後の時空旅はこの中世末に成立した一向宗の寺内町だ。こんな都心に近いベッドタウンの中に、タイムカプセルのようにこの一角だけ歴史的な景観が良く保存されている所がすごい。地区の総面積は約3万㎡で周辺部との境界には土手が巡らされていた。近畿地方によく見られる掘割が巡らされた環濠集落は低地に建設されているが、ここは高台に位置していて、集落の外縁部からは各方面とも道が大きく下っている。東からは下に石川を、遠くは葛城、金剛山が望める。当時は高台の要塞都市的な性格だったのだろう。

富田林は、このように街の中心に今でもある興正寺を中核とした宗教自治としとして建設された。江戸期以降はそうした自治都市としての特権的な地位は失われたが,交通の便の良い地の利から在郷町と呼ばれる商業の中心としての発展を遂げた。ここ富田林寺内町は多くの木綿、油、酒等を商う商家が栄え、豪壮な町家が今でも良く残っている。

こうした寺内町は,隣の大和の今井町が有名である。その建築物群の密集度と保存状態の良さなどの点では他に類を見ないが、ここ富田林は都市化が進む大阪の郊外でこれだけの景観が保存されている点が驚嘆に値する。近畿圏は総じて今でも長い歴史の上に人々の生活や文化、習俗、経済活動、町並みが成り立っていることにいつも驚かされるが、この富田林の寺内町はその象徴と言っても良いかもしれない。東京のような町は、江戸開府400年と言っても歴史的に見れば新興都市であることを認識させられる。

<embed type="application/x-shockwave-flash" src="http://picasaweb.google.com/s/c/bin/slideshow.swf" width="600" height="400" flashvars="host=picasaweb.google.com&captions=1&hl=ja&feat=flashalbum&RGB=0x000000&feed=http%3A%2F%2Fpicasaweb.google.com%2Fdata%2Ffeed%2Fapi%2Fuser%2Ftatsuokawasaki%2Falbumid%2F5418779412853139169%3Falt%3Drss%26kind%3Dphoto%26hl%3Dja" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer"></embed>