時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

紀州漆器の里 黒江町散策

2013年03月23日 | 旅行記
 紀州の黒江町は現在は和歌山県海南市の一部になっているが、紀州漆器(黒江塗)の産地として有名である。石川県の輪島塗、山中塗、福島県の会津塗と並んで、日本三大漆器の一つだそうだ。しかし、意外に知らない人が多いようだ。私の周りの和歌山県人に聞いても「へえ、そうでっか」と言っている。私も正直言って知らなかった。

 知っての通り、陶磁器が中国、朝鮮から伝来の技法による工芸であるのに対し、漆器は日本固有の伝統工芸で、江戸時代から明治には盛んに海外へ輸出されていた(そこから漆器を英語でJapan, Japanese Lacquerと呼ぶようになった)。ちなみに、漆は日本でしかとれないそうだ。

 とまあ、それくらいの予備知識を仕込んで黒江町を訪ねた。JR紀勢線の黒江駅で下車。山あいの狭い坂道を越えると、右手に大きな酒造会社の酒蔵と古い黒漆喰の堂々とした屋敷が並ぶ。名手酒造店だ。さらに進むと町にはいくつもの漆器問屋や工房が建ち並び、漆器が今でも町の中心的な産業である事が分かる。

 黒江という地名の由来は、海の中に牛に似た大きな岩があって,これを黒牛岩といい、辺りの海を黒牛潟、略して黒江と称したのが始まりだとか。三方を山に囲まれ、南は海に面した狭隘な土地である。いまでは海も埋め立てられているが、山あいの狭い路地にぎっしりと家々が建ち並ぶ様子は今も昔も変わっていないようだ。しかし、ごちゃごちゃ雑然とした感じが無く、古民家の集積度も高く、趣のある町並みを形成している。特色は、路地に面してのこぎり型に並んだ家屋。狭い土地に多くの家を建てるために斜めにした、とか、漆器を積み出す時に、軒下に荷積みするスペースを設けた、とかいろいろな説がある。どれがホントかよくわからない。先週行った鈴鹿の関宿にものこぎり状の家並があった。

 黒江の町は、このようにユニークな景観を持った町だが、残念ながら重要伝統的建造物群保存地域には指定されていない。したがって、建物の保存状況はそれほどよいとは言えない。建物の補修が進んでいない様子だし、あちこちで立て替えられたり、破壊された古民家があって残念だ。隣が海南市のリゾート地区になっていることもあり、国道の車の通行もかなり激しい。そこから取り残されたような路地に古い町家が集積しているが、何時までこの景観が保存されて行くのか心配だ。

 かつて町の中心には5m幅の水路(運河)があり、そこから漆器を全国に船で出荷していたそうだ。昭和の初めに暗渠化されて、今は車も通れる広い道になっている(川端通と呼ばれている)。確かに、歩いてみると集落の狭い小路を抜けると急に広い道が街中を貫いており、少々奇異な感じがした。やっぱり大きな水路の跡だったのか。其の当時の名残だろうか、川端通沿いには大きな漆器商の店や蔵が並んでいる。

 其の川端通りを再び一歩外れると、また狭い路地が碁盤の目のように縦横に走る町並みになる。西の浜,南の浜地区には数多くの漆器工房や古くて立派な漆器商の邸宅が並んでいる。その一軒の古民家が、いまは「黒江ぬりもの館」として活用されており、根来塗りの体験や、漆器の販売、喫茶を楽しめる。人々の町の交流の場にもなっているようで、中に入ると、元気な声のオカアさん達が、お茶しながらワイワイ盛り上がっている。畳の間には素晴らしい漆器の数々が陳列されていて目移りしそうだ。ゆっくりと観ていると、ここのご主人が丁寧に根来塗りの由来と、工法の解説をしてくれた。

 もともと紀州漆器は、室町時代の紀州渋地椀を起源とし、後に岩出の根来寺で什器として用いられた、黒漆の下地に赤漆を塗った根来漆器がルーツだそうだ。豊臣秀吉の時の根来寺襲撃で、散り散りになった僧侶、根来衆から、その製法が黒江に伝承されたものだという。その後、江戸時代に入り紀州藩の保護育成のもとに発達し、紀州漆器(黒江塗り)として、大坂、京、江戸でもてはやされ,やがては全国に広がっていった。今では蒔絵の技術を駆使した作品など多様な漆器を生産している。

 漆器の生産は、紀伊の豊かな木材を削り出して木地を作る木地師と、それに漆をかけて仕上げる塗師の分業制だそうだ。以前、富山の高岡の銅器についても同じような分業があると聞いた。鋳物師と彫金師と営業と。しかし,面白いのは、黒江にはかつては流通業者がおらず、外からの買付業者の手で全国に運ばれたようだ。特に四国の伊予の商人が紀州塗り流通に大きく貢献したという。ここ黒江は根っからの職人達の町であったそうだ。

 根来漆器は、黒漆の上に赤漆を塗り、それを磨く事によって、赤色の間から黒地がうっすらと見えるグラデュエーションを楽しむ。なかなか美しい。元々は、あまり塗の技巧を身につけていなかった根来寺の僧侶が塗った椀の赤漆が使っているうちに剥げて,黒の下地見えてしまったのが、かえって趣があるといて喜ばれた事に始まるそうだ。この故事からも理解されるように、元来は日常の生活漆器として愛用されてきたものだ。陶磁器も良いが、漆器には木地の暖かみがあってよい。

 古い伝統的な塗を伝承するだけでなく,新しいデザインや技法にも挑戦しているそうで、紀州漆器協同組合の「うるわし館」にはそうした新作が展示されている。その試み一つに、紀州蜜柑の皮を漆で固めて美しく塗った猪口がある。最近の人気作品だと言う。和歌山だから蜜柑、紀州漆器だから漆、二つを合わせたらどうなるんだろうという、ありがちだが、結果奇想天外な発想に驚くとともに、そのユニークなデザインの猪口は完全にアート作品に仕上がっている。実用としてはどうなのだろうか。あまりお酒入れっぱなしにしているとふやけるかも,と店の人は笑っていたが...

 「黒江ぬりもの館」の棚に、ひときわ美しい形の根来塗りの盛り鉢があった。赤い衣の下から黒地がうっすらと覗いている。鉢の内側には布を塗り込んでありこれも黒地が格子のように浮き出ている。その盛り鉢が陳列棚から「私を呼んでいる」。思わず目をそらすと、そらした目線の先にはこの鉢にマッチした盆が鎮座している。これも私の方を向いて「手招き」しているではないか。先ほどのご主人に「この盛り鉢と盆の組み合わせは如何?」と問うと、「どうして悪い事があろうか、いやない」と答えるので、ついでに合った塗箸を選んでもらい、とうとう3点をゲットしてしまった。私はどうも最初に良いと思ったものに最後まで惚れる質(たち)のようだ。一目惚れって大事だ。女房もこうして見つけた(余計なことだが)。私の審美眼と目利きは確かだ。

 時空を超える価値。タイムレス。プライスレス。

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(漆桶に花を生ける。黒江の街角のあちこちにこのようなオブジェが置かれている。)

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(古民家を利用した「黒江ぬりもの館」。素敵な作品達が並んでいる。つい買ってしまうことになるのでご用心)

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(紀州漆器協同組合「うるわし館」ホームページより)

 アクセス:天王寺からはJR阪和線紀州路快速で和歌山まで1時間5分。紀勢線新宮行き乗り換え約15分。黒江駅下車。駅からは徒歩15分程で「黒江ぬりもの館」。または紀勢線海南市駅下車、タクシー5分で「うるわし館」。

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(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm)


東海道の宿場町、伊勢の関宿

2013年03月18日 | 旅行記
 関宿は、江戸時代の東海道五十三次の宿場町で、品川宿から数えて四十七番目となる。東海道の宿場町は今では東海道メガロポリスの都市化の波に埋もれ、その当時の面影を残している所は極めて少なくなってしまった。例えば、私の住む東京の「名誉ある」東海道一番宿の品川宿などその典型だ。通りは北品川商店街などとして残っているが、かつて殷賑を極めた品川宿の面影を求めるのは難しくなってしまっている。しかし,ここ伊勢鈴鹿の関宿は信じられないほどの規模で昔の宿場町並が残っている。

 関宿は,江戸時代には東海道の中でも重要な宿場町で、伊勢別街道、大和街道へと分岐する交通の要衝にあり、参勤交代や伊勢参りの旅人で賑わった。本陣、脇本陣ともに2カ所ずつあり,宿役人が大名行列を出迎えたり見送ったりする「御馳走場」も4カ所あった。また、玉屋、鶴屋,会津屋などの代表的な大旅籠も旅人には知られていたようで、どれも現存する。中でも玉屋は正面に千鳥破風を有した格式高い旅籠。また玉屋はも正面に美しいレリーフを有す貴重な旅籠建築だ。

 古代には越前の「愛発(あらち)の関」、美濃の「不破(ふわ)の関」と並ぶ三関の一つ、伊勢の「鈴鹿の関」あったことから「関」の名がついたという。672年の壬申の乱の時には大海人皇子が鈴鹿の関、不破の関を固めて、大和に進撃したとされている。こうして、古代より、東国から畿内に至る幹線街道の要所としての重要性が認められてきたのではあるが、しかし、今は東京,大阪を結ぶ東海道線も、東海道新幹線,東名/名神高速道路もみな鈴鹿山脈の北を迂回、関ヶ原から米原を通るルートに変更されてしまい、関宿はひっそりと寂しい山間の忘れられた町になってしまった。

 こうした古い町並が残っている地域によくある事ではあるが、ここ関宿もまた、皮肉にも現代的な発展から取り残される事によってタイムカプセルのように過去の町並みや景観、佇まいが保存される事となった。それにしてもここの宿場町としての保存度には驚かされる。この旧宿場町は、東西1.8キロ、面積25ヘクタールに、江戸時代から明治にかけての建物が400軒ほど残り、うち200軒が保存指定されるという。そのスケール感、濃密度に圧倒される。江戸時代の東海道宿場町がまるで、凍結保存されたかのような状態で現代に命をつないでいる。

 さらに驚く事に、ここにある一軒一軒はそれぞれ今でも人々の生活の場としてとして生き続けているということ。決して観光化されたテーマパークとして保存されているのではなく、地域の拠点集落として、米屋、八百屋、自転車屋、電器屋などの生活必需品を扱う店がずらりと並ぶ。あるいは宿場町の伝統を色濃く残す家業(家内工業的な)を連綿として引き継ぐ町として今に生きる続けている。本陣、脇本陣、旅籠、遊郭(さすがに現在は廃業しているが)、鍛冶屋、桶屋、火縄屋、皇室献上和菓子屋等々。もちろんいくつかの歴史的な建物は資料館や休憩所として整備活用されているし、空家となった家もあるが、それも上手に再利用されている。ようは歴史の町が現代の町として生きている。江戸時代とちがうのは狭い街道筋を自動車やロードバイクがやたらに走り回っている事くらいだ。

 東の追分では、伊勢別街道へ分岐する。ここには大きな鳥居がある。伊勢神宮を遥拝する鳥居だそうだ。今年の式年遷宮では建替えられるという。伊勢街道方角を向くと、ちょうど鳥居の真上に太陽が輝いていた。まさに太陽神アマテラスをここで拝むことが出来た。

 一方の西の追分では、大和街道へ分岐する。ここには「南無妙法蓮華経、ひだりハいかやまとみち(左は伊賀、大和道)」と記された元禄年間に建てられたという道路標識がある。その先にかつての鈴鹿の関跡の一部が発掘されている。加太(かぶと)越えで大和街道、坂下宿から鈴鹿峠越えで東海道と進み、いよいよ奈良、京へと向う。

 町は西から新所、北裏、中町、木崎の四つに分かれ、それぞれに特色ある町並みを形成している。建物は平入の商家が多いが、中には妻入りの建物もあり、様式も多様で見て回って飽きない。虫籠窓、漆喰彫刻、駒留め(馬をつなぐ)、出格子、幕板(庇の下に取り付けられた風雨避け)、庵看板(瓦屋根のついた看板。京側が漢字、江戸側がひらがなになっている)など、バラエティーに富んだの昔ながらの造作もよく残っている。

 あまり観光化されていないのがよい。春めいてきた日曜日だと言うのに観光客の姿は少なく、この日も建築系の学生らしい一行が数人でで建物の検分しながらスケッチしたりして歩いていたが,それ以外はチラホラ団塊世代の夫婦が。倉敷や祇園、飛騨高山、馬籠宿、妻籠宿、のような観光地として整備された感はない。しかし、伝統的建造物群保存地区に指定されており、古い建物はよく修復整備されたものが多い。電柱も完全に地下化されており、通りの景観がすっきりしている。地場の百五銀行の関支店が町家建築で平成9年に新築されており、「もどき」とはいえなかなか良い。

 町の丁度中心に寺院がある。関の地蔵院である。行基の開基による由緒ある古刹であるが、周りに塀が無く開放的な境内で、辺りが一種門前町の様相を呈している。そもそもこの地区は地蔵院の門前町として発展してきたらしく、後の宿場町としての発展につながっている。ちなみに、この寺以外の10寺院や関神社は街道の北側の一歩奥まったところに静かに並んでいる。これがまた宿場町の雰囲気を保つ効果を醸し出している。意図的な都市計画なのだろうか。


(追記)

 今回は天王寺からJR大和路快速で加茂まで行き、そこで関西本線の亀山行きの各駅停車に乗り換え、亀山の一つ手前の関まで一時間、というのどかなローカル線の旅であった。関西本線は小学校2年生(?)の時に、東京から奈良の祖父母の家まで行く時に乗った記憶がある。当時は東京から関西本線経由の直通列車があったのだろうか。長い長い旅路であった。「急行なにわ」とか『急行関西」とかいった、そのまんまの名称の列車だったように記憶する。車内は混んでいて四人向かい合わせの座席にぎっしり大人が座っていて通路には人が立っていた。子供の私は確か母の膝に座らせられていたような気がする。暑いし、揺れるし、窓からは蒸気機関車の吐き出す煤煙が遠慮なく入ってくるし、カーブやトンネルの多い路線だった。東海道線の優等列車、特急「つばめ」や「はと」の颯爽としたイメージからは遥かにかけ離れた「快適さ」であった。エエしのボンボンだった私(?!)にとっては、ただ疲れた、という思い出しか無い。

 ウン十年ぶりの関西本線は、天王寺から加茂までは電化されており直通の大和路快速が一時間に四本走っていて快適だ。しかし天王寺からの名古屋やそれ以遠の直行の優等列車はもはや存在しない。加茂から先はいまだに単線無電化路線。亀山までは一時間に1本のディーゼル二両編成のワンマンカー運転。「ICOCAは使えません」と何度もアナウンスしている。しかし、車窓からの風景は、青い空、迫り来る山肌、谷を渡る鉄橋、短いトンネルの連続...と、古典的な鉄道旅風景を楽しむことが出来る。途中、月ヶ瀬梅園を通るので、この時期は少々花見の乗客が多い。伊賀上野を通る。沿線随一の大きな町だ。柘植は草津線乗換駅。なんと草津線は電化区間で、関西本線のディーゼルカーより立派な電車が走っているじゃないか。

 やっと関に着いた。ICOCAで乗った私は,運転手から下車証明をもらう。運転手が証明書に手書きで記入し「これを天王寺の駅に戻ったらICOCAと一緒に窓口に示して下さい」。「帰りは関で切符買って乗って下さい」と丁寧な説明。その間、ディーゼルエンジンのアイドリング音を響かしたまま,列車の乗客は私が降りるのをジッと待っている。私以外降りる人はほとんど居ない。「お手数かけてスミマセン」と言うと、運転手は「こちらこそICOCAが使えなくてスミマセン」と。ノスタルジック関西本線。ウン十年前とあんまり変わってない気がする。ここでは時間はユックリとしか進まない。それが心の安らぎになっている今の自分がいる。あの頃の自分もいる。いいじゃないか。新幹線で突っ走るよりもローカル線でゆっくり行こう!

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(関宿伝統的建造物群保存地域全体図:亀山市HPから引用。以下の各図も同様)

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(新所地区古図)

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(中町地区古図)

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(木崎地区古図)

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(中町の「眺関亭」からの西方向の眺め。地蔵院の甍と,はるかに鈴鹿の山々が展望出来る。関宿の町並みを代表するショットの一つだ。)


(スライドショーはこちらから。枚数がたくさんありますが、素敵な町並みをご堪能下さい)
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(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm, AF Nikkor 80-400mm)



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河内王朝(倭の五王)の祖が眠る 大仙古墳(伝仁徳陵)を訪ねる

2013年03月12日 | 摂河泉散策
 前回の香椎宮探訪の時に書いたように、文字を持っていなかった倭国の実情を知るには、当時の中国の史書に記されている倭国の記述を読み解くしかない。しかし、3世紀の魏志倭人伝の邪馬台国卑弥呼,トヨの記述、5世紀の宋書倭国伝の「倭の五王」の記述はあるが、その間の4世紀は、倭国に関する記述が途絶え、「空白の一世紀」と言われている。倭国大乱の後に鬼道をよくするシャーマンである邪馬台国の卑弥呼を共立し、なんとか倭国がまとまり、卑弥呼の死後は男王が立つが再び争乱となり、トヨの擁立で落ち着く。そういう「政祭二元(ヒメ/ヒコ制)」の体制の倭国は、空白の100年の後に、突如、勇猛な男王達のもとに統一を果たし、朝鮮半島にまで勢力を広げる武断的な国家に変貌したという。この間、倭国に何が起こったのだろうか?

 一説には、3世紀の中国の史書に記述された邪馬台国の話は「チクシ倭国」での出来事であり、「ヤマト倭国」とは別の国であったのだ、という見解がある。そのチクシ倭国はやがて衰亡し、再度の倭国内の争乱の後に、ヤマトや河内に成立した倭国に取って代わられた(あるいは王権がチクシからヤマトへ東遷した)という説だ。日本列島の文化の中心が北部九州チクシから、ある時期に近畿ヤマトに移ったのは事実であるが、それがこの「空白の4世紀」の出来事なのだろうか。魏志倭人伝に記述された倭国と宋書倭国伝に記述された倭国との間にそのような断絶があるのかどうか,推測は出来ても検証は出来ていない。

 日本の8世紀の史書である日本書紀は天皇在位年をベースとした編年体で記述されているが、年代が曖昧である(神武天皇即位は紀元前7世紀、縄文後期/弥生前期、神功皇后は3世紀(卑弥呼の時代の即位)、仁徳天皇は130才で崩御したことになっているなど)ので、中国の史書と読み合わせる場合、記述された出来ごとと時代とが一致しない。

 また、日本書紀においては代々の天皇の事績について、複数の説が紹介されており(「一説に曰く」)多様な解釈が成り立つ余地が多い。そこから類推しながら読み解く必要があって厄介だ。「一説に曰く」的に解釈すると、ヤマト(三輪山山麓)には崇神大王による、三輪王朝が成立し、出雲との深い関係(出雲がヤマトに服属した(國譲り伝説)、あるいは出雲勢力がヤマトに進駐した(大国主=三輪山の大物主として祀られる))や、四道将軍の一人である吉備津ヒコによる渡来人系の国吉備の征服などにより、倭国(おそらく畿内ヤマト地方を中心に)を平定して行った(出雲の國譲り伝説は記紀では「神代」の出来ごとだが、実際にはおそらく3世紀末から4世紀初頭の出来ごとか?)。しかし、3世紀の魏志倭人伝に出てくる邪馬台国も卑弥呼も記紀では触れられていない。

 やがて4世紀末~5世紀前半になると新しい大王による倭国平定(「山河を跋渉して寧所にいとまあらず」。近畿だけでなく、筑紫を含む西日本一帯と東国伊勢)があったのだろう。これら宋書倭国伝の「倭の五王」の上奏文に記されているに事績についても、記紀に記述は無い。ヤマトタケルの東征、熊襲平定伝承があるがこれがそうなのか?ヤマトタケルは実は倭王武であり、すなわち雄略天皇の事績を過去に投影して記述したもの,とする解釈もある。しかし、ヤマトタケルは景行天皇の皇子でいわば三輪王朝に血統。さらに神功皇后(聖母)の夫、仲哀天皇はヤマトタケルの子となっている(ともに実在性が薄いとされている)。皇統が繋がっている事を示すために創作されたのかもしれないが、話に矛盾や時代の不一致が多すぎて繋がらない。この間、三輪から河内を基盤とする新王朝(河内王朝)に交代した可能性がある。

 記紀の記述によれば、神功皇后の子、応神大王の子が仁徳大王である。しかし、一人の大王の事蹟を幾代かの大王の事蹟であるように調整した可能性もある、として応神/仁徳は同一人物だという説もある。ともあれ、聖母(しょうも)である神功皇后と、河内王朝の始祖である応神/仁徳大王の時代の始まりが、万世一系の皇統の中の出来ごととして記述されている。一方、5世紀の中国の史書、宋書倭国伝によれば、倭の五王(賛、珍、済、興、武)が朝貢し、倭国内を平定したことと、さらに朝鮮半島の支配権を認めるよう上奏している。この倭の五王が記紀のどの天皇(大王)に比定されるのかが論争になっているが、もとより記紀と宋書倭国伝との間に共通のタイムスケールは存在しないので、個々の人物をあてはめる事は困難で定説は無い。せいぜい倭王武は雄略天皇(大王)であろう、ということだけが一致を見る見解となっている。

 しかし,それにしても5世紀当時の倭国王達が,自らの名を賛とか珍とか中国式の一文字で名乗ったのだろうか?という別の疑問もわいてくる。まさか現代の日本の首相がアメリカへ行って、大統領に「Call me Ron. Call me Yasu」と言った話と同じじゃないだろう。もちろん記紀にはこのような一文字名の天皇(大王)は存在しないし、和風諡の名称からも類推出来る名前ではない。雄略天皇(大王)は「ワカタケル(幼武)」と呼ばれていたらしい事は埼玉の稲荷山古墳や熊本の江田船山古墳などから出土した鉄剣の象眼文字から分かっているが、その「武」と関連があるのか。一説に、これもヤマト倭国の大王の話ではなく,チクシ倭国の話だという。九州王朝説に繋がる異説であるが、学会からは無視されているそうだ。

 王朝交代説の論者によれば、武(雄略大王)が「祖デイ、甲冑を貫き、山河を跋渉して寧所にいとまあらず...」と中国皇帝への上奏文の中で述べた祖デイとは仁徳大王だとしている。これが河内の上町台地に都を定め(高津宮)、河内の開拓に力を注ぎ、自らの宮殿が痛んでも、民の竃に煙が発つまでは(民の生活が安定するまでは)税を取らず我慢した、という聖君子伝説の主である。河内を拠点に海洋通行を支配した河内王朝(倭の五王の時代)の始まりであり、奈良の三輪山の麓の崇神王朝とは別系統の王朝だとする。

 ということは、大阪府堺市の仁徳天皇陵(最近は「大仙古墳」と呼んでいるが)はこの倭国を平定し、さらに朝鮮半島にまで勢力を伸ばした河内王朝(倭の五王)の始祖の墓であるという事になる。それにしても巨大な墓だ。全てに箱庭的でコンパクトな古代倭国のスケール感から遥かに飛び出したサイズだ。大仙古墳はその面積では世界一の大きさであり、体積では応神天皇陵とされる羽曳野市にある誉田御陵古墳より一回り小さいとされている。いずれにせよ周囲2.8キロの巨大な古墳である。しかし、周りを歩いてみても単なる壕と山にしか見えない。拝礼所に来て初めてここが陵墓である事を知る。地上で眺めてるだけではその広さは理解出来ても、前方後円墳としての巨大さをなかなか実感出来ない。やはり空中から眺めるのが一番だ。そういう意味ではエジプトのピラミッドに良く比較されるが、むしろ、ナスカの地上絵と比較した方が良いように思う。誰かが空中から俯瞰する事を想定していたのであろうか?よくこんなモノ造ったものだ。

 ここ河内の百舌鳥古墳群には、かつては100基以上の大小古墳が散在していたが、戦後の宅地開発等で破壊され現在では約50基が残っているだけだ。それでも陵墓指定の上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)、田出井山古墳(伝反正天皇陵)もあり壮観である。もっとも、大仙古墳などの考古学的調査は陵墓指定されている事から充分になされていない。大仙古墳、ミサンザイ古墳、田出井山古墳のどれが一番古いのかも明らかでないので、大仙古墳が仁徳陵であるかどうかも確認出来ていない。しかし、ここ河内の地にこれほどの巨大古墳と数多くの倍塚が並んでいる事には驚かされる。当時はこのあたりは海に近く、おそらくは海上からこの巨大な築造物が見え、倭国大王の権威を内外にアピールしたのだろう。倭の五王達が中国王朝に対し倭国の支配の権力と権威を示し、朝鮮半島の支配を認めさせようとする政治的なアピールが働いていたのだろうか。

 ちなみに、いつも疑問に思うのだが、何故、古墳(特に前方後円墳)はテンデの方角向いてで築造されているのだろう?東西南北など方角に対する法則性、こだわりは無かったのだろうか?例えば宮殿は纒向遺跡などは東西軸。飛鳥宮以降は南北軸。寺院も大抵は南北軸に配置されている。仏教や道教、風水などの外来の思想が入ってくる前の古墳時代には方向に関する考え方はおおらかだったのか?調べてみるがよく分からない。

 話を戻して、このように歴史学的な観点からも、考古学的な観点からも,「倭の五王」とは誰なのか?王朝の断絶はあったのか? 未解明な点があまりにも多い。3~5世紀の倭国における「王権」の受け渡しは、当時の記録(記憶?)をもとに、8世紀に記紀にまとめられた訳であるが、文字による記録の無かった当時の歴年はもとより正確であるべくもなく、中国の史書の歴年と合わせようとする事自体に意味が無いのかもしれない。そうなると唯一の文字による記録であり、年号の概念が使われていた中国の史書(編年体)と,実在する遺跡である古墳を考古学的に調査して付き合わせる検証作業が必要になる。

 サは然り乍ら、一方の記紀の記述についてはその年代には疑問を持たざるを得ないし、出来事にも多くの異説があり、かつストーリーに矛盾もみられるが、全くの後世の創作と断じてよいのだろうか。各代の天皇の事績についての記述は、何らかの過去の出来事の記憶のもとずく記述であるか、後の世の創作である部分があるとしても、どのような理由や動機によるものなのか、記紀編纂時のどのような政治的な背景によるものなのか、そのようなことを考察しながら読む(批判的に読む)事が必要だろう。全く鵜呑みにするか,全く否定するか、の二者択一は有り得ない。

 日本の古代史解明は、このように厄介な作業が伴う。しかし、私のような「時空の旅人」にとっては迷宮をさまようミステリーツアーのような醍醐味を味わうことが出来る。分かっていない事が多いから面白い。解明されていないエピソードほどワクワクする。想像力が働くからだ。もっともコウなるともはや歴史ではなく空想の物語の世界に踏み込んでしまっているが。

 見よ!大仙古墳という巨大な古代史のタイムカプセルが眼の前に横たわっている。まだ語ってない事がイッパイあるぞ、と目配せしている。

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(空路大阪に入ると、伊丹着陸直前に、巨大な大仙古墳を中心とした百舌鳥古墳群を眼下に見渡すことができる。ここからの眺めは素晴らしい。)

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(大仙古墳の外周は2.8キロあり、その広さは充分体感出来るが、前方部にある拝礼所からだけ見てもこの古墳の巨大さはイマイチ実感出来ない。やはり空から見渡すのが一番だ。)