時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

女人高野室生寺に雪が降った ~土門拳の世界に迫る?~

2016年01月24日 | 奈良大和路散策

 

 

雪の鎧坂

 

桧皮葺五重塔

 

 この冬は暖冬傾向だったが、ここに来て急速に冷え込んで大阪もことの外寒かった。そして奈良にもようやく雪が降った。雪の大和路は美しい。その中でも雪景色といえば女人高野室生寺。この室生寺に通い詰めた土門拳が、どういうわけか雪景色だけは撮ったことがないという。「全山白皚々(はくがいがい)たる雪の室生寺が一番」という当時の室生寺住職の言葉に触発されて一念発起。カメラ機材一式を持ち込み冬の橋本屋旅館でじりじりしながら雪を待って、あの写真を撮った。そのエピソードがあまりにも有名になり、室生寺の雪景色を狙うカメラ小僧が続々と現れるようになったという。

 

 私は東京から大阪に向かっていた。新幹線の車窓からは、雲ひとつない冬晴れの空の下、富士山が非常にクリアーに見えた。この分なら関西も快晴か、と思いきや、関ヶ原を通過するあたりから天気が怪しくなり始める。北陸地方は大雪で鉄道ダイヤが乱れているとの車内案内があった。。窓から空を見上げるとその雪雲が北国街道から関ヶ原あたりに流れ込んでくるのが見えた。この日は、審査委員を務めさせてもらっている関西の大学発ベンチャーのコンペの表彰式に出席するため大阪にやってきた。1日の仕事を無事終えて、翌日東京へ帰る予定であった。しかし、朝起きると「天気晴朗なれど冬寒し」しっかり寒い。ネットでチェックすると室生寺あたりは雪、とのこと。こりゃ行かずばなるまい!あの「雪の室生寺」へ。急遽、近鉄上本町を9時15分発の五十鈴川行急行で室生口大野へ向かった。電車が桜井を過ぎるあたりから車窓は雪景色に。こりゃあいいぞ! 室生口大野駅前で10時20分発のバスに乗り込んだのは三脚抱えたカメラ小僧(といっても平日のこんな時間だから私のような団塊世代(現役ご卒業)のオヤジ小僧)ばかり。少々おばさん軍団も電車から降りてきたが、こちらは皆タクシーで「お先に!」みんな雪の室生寺を目指す、さすが関西人は美意識が違う。

 

 室生寺は何度も訪れている大好きな大和古寺のひとつ。ことに新緑の頃や、シャクナゲの季節は美しい。秋の紅葉も魅力的で外せない。春や秋の観光シーズンには、桜井の「花の御寺」長谷寺とセットで回れるシャトルバスが走っていて、この山間の静寂に包まれた有名な二寺を効率良く参詣できる。当然人出もかなりなものとなる。しかし、この彩りのない人気の絶えた室生寺の冬の佇まいはどうだ。特に雪がうっすらと黒い景色を縁取るこの心象風景世界。この寂寞感。なんと哲学的であることか。本来の意味は違うが「色即是空」。色がないモノトーンの世界に仏の教えが浮き彫りになっている。そこでは目にも鮮やかな景色が如何程のメッセージを伝えてくれるというのか、という思いに浸ってしまう。季節の花々は大和路の寺を魅力的に彩る重要なエレメントである。だが仏の精神世界には、考えてみると、それほど鍵となる要素ではないのかもしれない。むしろこの世の眼に映る花々の彩りがない分だけ心の内面を静かに観照できる。

 

 学生時代最後の冬休みに一人で室生寺を訪れたことがある。この時はそれを見越したわけではなかったが、突然小雪まじりの寒風に見舞われ、薄暗い冬空の中、室生寺へ向かった。なんだか当時の気分を反映したような侘しい光景であった。あたりは残雪と枯れ木のモノトーン。訪れる人もなく誠に静寂な世界であった。室生寺デビューとしては最悪の1日であったことを覚えている。実は「雪の室生寺」が最高だということを後で知った。そのタイミングに図らずも遭遇したのだが。ただただ寒かったことしか覚えていない。鎧坂の石段を一つ一つ踏みしめながら古色蒼然たる金堂にたどり着く。釈迦如来像を始め、内陣の諸仏像を拝観。その中にあの見覚えのある仏像を発見し、これが土門拳の写真で有名な十一面観音菩薩か、と観光客的な感動を覚えた記憶だけはある。不思議に国宝である桧皮葺の五重塔はあまり印象に残っていない。なぜなのかわからない。当時の私の心には響かなかったようだ。「昔はものを思わざる」である。

 

 大和路風景写真のマエストロ入江泰吉も室生寺の諸仏や四季の写真を多く撮っているが、室生寺の冬景色は意外に少ない。「吹雪く室生寺五重塔」という作品があるが、入江調にしては雪のボリュームが多くてどこか重苦しい。どのような心象風景を狙ったのだろう。一方、土門拳の作品は雪景色といってもうっすらとした雪が黒々とした景観を縁取るような効果を生み出し、あるいは山肌をモノトーンのグラデュエーションで表わして水墨画を見るような作品だ。土門の言葉を借りれば「さあーっと一刷毛、刷いたような春の雪」であった。むしろ室生寺住職がかつて絶賛した「白皚皚たる」よりももう少し白と黒の階調がある淡く薄い景観。こちらのほうが仏教的な心象世界を感じることができる。普段は入江調の圧倒的ファンである私も、室生寺の雪景色に関しては土門拳の作品の方が好きだ。

 

 この室生の仏の里には、静かな冬の雪景色こそふさわしい、との思いに至るまでには、結局40年ほどの時間が必要であったということになる。以下に、今回の訪問で撮った私の写真作品を掲載してみた。言うまでもなく入江調、土門調のはるか足元にも及ばないが、両マエストロの作品に啓示を受けて、自分なりに感じた世界を精一杯表現してみた。しかし、それでもなお「雪の室生寺」の精神世界を垣間見たつもりでも、ただ馬齢を重ねたというだけで、あの学生時代の私からどれほど人間として成長したのだろうか。「日暮れて道なお遠し」だ。

 

 

鎧坂の石段を登り切ると金堂が

石段に重ねられた雪

 

 

五重塔と灌頂堂

 

室生山の雪景色

霊気すら感じる冬の佇まいだ

 

雪の地蔵尊

蓑笠をかけて差し上げたい

 

樹齢幾星霜、杉木立ちの中の五重塔

 

境内には神社

室生の神が守ってくださる仏の世界

日本人の精神世界を表す

 

室生山

山肌の白黒の階調が好きだ

 

奥の院に向かう参道

 

 

モノトーンの中の朱塗りの欄干

左は土門拳の定宿「橋本屋旅館」

「十一面観音菩薩像」などの作品が欄間に並んでいる。

 

室生川

 

 

 

 

 

 

 


なぜ大和の三輪山に出雲の神が祀られているのか?

2016年01月21日 | 奈良大和路散策

 

 

三輪山

 奈良の三輪山は不思議な伝承を今に伝える山だ。その山容は見るからに恐れ多い神奈備型であり、悠然と大和国原を見守る聖山だ。三輪山山麓一体は箸墓古墳など巨大古墳が集中していおり、ヤマト王権発祥の地とされている。だがそこには「出雲」の大国主命の別神、和魂、大物主神が鎮座ましましている。なぜ出雲の神が大和に鎮座しているのか。それは何を意味するのだろうか。

 古事記・日本書紀の伝承によれば大国主命が弟の少彦命が常世に旅立ったのち、この国(葦原中つ国)をどうやって治めようかと悩んでいた時、大物主神が現れ、大和の三輪山に自分を祀れば安泰であると告げたという。以来三輪山の神は葦原中津国を見守る守護神・祖霊神となる。しかし、その後大国主命(国つ神)は天照大神(天つ神)に国譲りを迫られ葦原中つ国の政権交代を許す。かわって「筑紫の日向の高千穂」に三種の神器とともに降臨してきたアマテラスの孫のニニギの子孫がこの葦原中つ国を治めることになる。その子孫が筑紫から東征して大和の橿原に即位する。すなわち神武天皇に始まるとされる天皇家がこの国の支配者となるわけである。これが古事記や日本書記に描かれた日本の始まりのストーリー(出雲神話、日向神話)だ。しかし、天皇家は祖霊神天照大神を大和の三輪山に祀らず、遠く離れた東国の伊勢に鎮座させた。

 三輪山山麓に発生したヤマト王権(三輪王朝)とはどのような出自の王権だったのだろう?その大王とは誰なのか?祖霊神を大国主命・大物主神とする出雲から来た一族ということを暗示しているのだろうか? そしてのちに筑紫から入ってきた天孫一族に政権を奪われたということを暗示しているのだろうか。その政権交代の正当性を示すために、古事記は「国つ神」より上位の神「天つ神」天照大神を祖霊神とするストーリーを創出したのだろうか。

 古事記に描かれた神話のなかの神観念を整理してみよう。

  大和的神観念

天つ神:天照大神。高天原に存在する神(天神)

大王の祖霊神は三輪山の神、大物主神であった。しかしやがてより格の高い太陽神、天照大神を祖神とする。

天皇を中心とした支配体制を正当化するため地域の神/各氏族の神々の上位に太陽神、天上界の神を創出した。それが大王/すなわち天皇家の祖神だというストーリーを創出。神の体系化・序列化を行った(8世紀前半)

弥生的神概念:精霊信仰+祖霊神信仰が加わる

 出雲的神観念

国つ神:大国主命・大物主命。葦原中津国に発生した神(地祇)

大国主命は、天つ神アマテラスの弟で高天原から葦原中津国に降臨したスサノヲの子孫である。しかし大国主は国つ神とされる。

もともとは多数の地域ごとの豪族/氏族支配の神の観念。神々は平等。序列はない。八百万(八十万)の神々が存在。大王家の初期の祖霊神は三輪山の神、すなわち大物主神(出雲的神)であった。これは大勢の神々のワンオブゼムであった。

縄文的神概念:自然神・精霊信仰(アニミズム)

 そして出雲の「国つ神」から大和の「天つ神」への「国譲り」が行われたとする。

やがて天上界(高天原)から葦原中津国の「筑紫の日向の高千穂」(おそらくは架空の地)に天照大神の孫ニニギが三種の神器を携えて降臨する。その子孫が東征し、大和の橿原で即位して初代天皇、神武天皇となったとする。こうして天皇が支配の権威を有する国家「日本(ひのもと)」を確立した。実際にはそうした権威づけするために古事記神話が創出された。

 古事記の神話に出てくる数多くの神々は、もともとはそれぞれの地域に存在していた自然神、氏族の神々(精霊・祖霊)であった。まさに八百万の神々であった。大王・天皇の優位性を示す最高神『皇祖神」を創出しようとする過程で、それらの神々が体系化、序列化されてゆく。すなわち、その神々はなんらかの形で最高神(天神、天つ神、天照大神)の下位に序列化されていることを記述する。一方、ヤマト王権に従おうとする氏族や豪族は最高神/天皇家となんらかの関係を有する神/氏族の子孫であることを記述してもらい、そうすることで権威を保とうとした。すなわち八百万の神々が先にあって、そのなかから最高神が生まれたのではなくて、最高神がいてその系列下に八百万の神々が序列化されている、という整理がなされた。本来は逆なのだが。

 したがって出雲にいた地域の守護神、オオクニヌシもそうした体系化・序列化のなかで矛盾なく語られる必要があった。先述のように彼はスサノヲの子孫だと定義された。すなわち、天地が混沌としたカオスの状態だった時の神々、造化三神。その子孫の子孫がイザナギ/イザナミで、日本を生み出した(国生み神話)。そしてそのイザナギの禊から生まれた三貴子、太陽神(女神):アマテラス、月の神(女神):ツキヨミ、嵐の神(男神):スサノヲが生まれたとされる。このように昼と夜をそれぞれ司る二女神だけでなく、荒ぶる男神を設けたのには理由がある。すなわち出雲という強大な国の長である「オオクニヌシ」の位置付けを定義する必要があった。そこで次のようなストーリーを創出した。アマテラスはその弟であるスサノヲと対立する(天の岩戸伝承など)。スサノヲは高天原から追放され地上界(葦原中津国)へ(出雲ヤマタノオロチ伝承など)。やがてその子孫であるオオクニヌシが地上の国の支配者(国つ神)となる(因幡の素兎伝承など)が、その「国つ神」は高天原の「天つ神」へ「国譲り」をして従うこととなった。やがてアマテラスの孫のニニギが高天原から筑紫に降臨して葦原中つ国を支配する。すなわち出雲が大和に従うプロセスを神話的に解説したのがオオクニヌシの治世と国譲り、天孫降臨のストーリーなのだ。

 この「天つ神」と「国つ神」という観念は、ちょうど5世紀に大陸から渡来した原始的儒教思想の「天神・地祇」「礼」にもとずく神々の序列化の思想によるものとされる。古事記や日本書記の編纂時にこの考えが建国神話の記述整理に役立った。律令制下の重要官職である神祇官の名称もここから来ている。しかし、古事記にはこうしたいわば弥生的祖霊神の観念と、それ以前からある縄文的精霊・アニミズムの観念とが神話に並存しているのが特色だ。

 記紀神話の記述は、これまで述べたように、7世紀後半から8世紀初頭に創出された天皇の支配権のルーツを説明するストーリーであるが、特に「出雲神話」の部分は日本(このころはまだ倭国であったが)の支配権が出雲から大和へと移っていったことを暗示していると考える。あるいは出雲勢力が初期の大和を支配していたが(これが邪馬台国だ、とする研究者もいる)、やがて筑紫(天孫降臨神話)からやってきた勢力が大和に入り出雲勢力に変わって支配していったのかもしれない。出雲勢力の祖神たる三輪山(国つ神)はその後もヤマト王権、朝廷の重要な祭祀の場として存在し続ける。天照大神(伊勢大神)が皇祖神(天つ神)となり、東国伊勢に鎮座した後も、三輪山は「元伊勢」として皇室の崇敬を集める。確かにそのヤマトの地に聳える神奈備型の山容に畏敬の念を自ずと感じる三輪山が、縄文的アニミズム、弥生的祖霊信仰を問わず、時を超えて人々の心に響く存在であることは間違いないが。

 ところで、ここからはいつもの私の疑問、すなわち、我が国の発祥に関わる倭国の中心の移動、筑紫から大和への変遷の問題に立ち返ってみよう。考古学的研究成果によれば出雲は強く筑紫の影響を受けていることから、倭国の中心が筑紫→出雲→大和と変遷していった歴史がうっすらと見えてくる。弥生的な稲作農耕社会であった倭国においては農耕器具にしろ武器にしろ鉄器生産能力の確保は不可欠だが、当時その鉄資源は朝鮮半島南部からしか入手できなかった。したがって倭国は半島南部の伽耶国や百済との通交を重視したし、そういう点で北部九州は大陸の鉄資源権益を握る倭国の中心であった。しかし、出雲で鉄生産の技術が盛んになり(たたら製鉄は今も盛んであるし多くの遺跡が見つかっている)、鉄資源の獲得が直接大陸から出雲へと行われるようになると、国内の勢力図が変わっていった可能性がある。筑紫から出雲へ鉄をめぐる勢力の変遷が起こった。歴史の一時期ではあったかもしれないが、出雲が倭国の中心になった可能性がある。

 古事記の神話部分には、この後の出雲から大和への変遷部分だけが描かれている。「国つ神」から「天つ神」への支配権の移譲というメッセージこそが重要であって、出雲以前の話は、天皇中心の国家体制確立プロセスには関係ない、いや日本のルーツは筑紫(北部九州)ではない、との歴史観表明に違いない。すなわち「筑紫の神」「筑紫神話」は意図的に創出されなかった。これは天武・持統天皇時代の天皇支配、律令体制国家を宣言した8世紀の時代、自ら名乗ったわけでもない倭国という国号を捨て、日本(ひのもと)を新国号とした時代背景と大きな関係を持っている。すなわち日本は中華皇帝に朝貢/冊封された倭国王(中国の史書の出てくる奴国、伊都国、邪馬台国などの筑紫中心の冊封国家の長)をルーツに頂く国ではなく、天から降臨した天神の末裔が(独自に)建国した国である、という歴史観・国家観の創出である。古事記においては、我が国発祥の地、すなわち天孫降臨の地が「筑紫」(当時は九州全域を指した)であることは否定しないが、大陸に近い北部九州ではない「何処か」を暗示するに止めている。すなわち「筑紫の日向(ひむか)の高千穂」だとする。神武天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)の東征伝承も、その出発地点は日向美々津だとしている。この筑紫の「何処か」から東征した勢力が大和で出雲勢力を凌駕してヤマト王権を確立していった(これが「国譲り」「天孫降臨」「神武東征」「橿原即位」伝承の実態?)。

 その「何処か」は「日向国」である、としたのは江戸時代の「古事記伝」を著した本居宣長である。しかし、記紀編纂時はまだ律令制が未完成の時期で、「日向国」は存在していない。それが記録に見えるのは奈良時代後期の8世紀後半。現に「日向」という地名は全国いたるところにあり、要するに太陽に向かう土地、という意味で、「高千穂」は神々しくて高い峰だから、ますます特定はできない(ゆえに西日本全域に天孫降臨伝承や高天原伝承がある)。まして記紀編纂時期の南九州「日向地方」は隼人がまだ大和王権に服属していない「夷狄」の地であった。むしろ弥生的神観念よりも縄文的神観念がまだ支配していた地域であった。我が国発祥の地が九州南部であることにはならない。この「筑紫」はやはり奴国や伊都国、さらには卑弥呼の邪馬台国が倭国の中心をなした弥生先進地域、北部九州にちがいない。しかし、上記の理由から、それを言いたくないのであえて「筑紫の日向の高千穂」という特定できない架空の地にした、というのが古事記の編者の意図であったろう。しかし、編者はニニギに「この地は朝日の直刺す地、韓国を望む地、夕日の火照る地...」と言わせている。直接的表現ではないが、この地が南九州の山の中でないことは明らかだろう。はるか海の向こうに大陸を望む我がルーツの地を暗示して見せたように思える。

 古事記・日本書紀が創出された時代は、上述のように7~8世紀の天皇支配確立に向けた激動の時代(天武・持統天皇以降)であり、倭国大王から治天下大王、日本天皇という、中華世界(華夷思想)とは一線を画した独自世界(日本版華夷思想)を宣言したナショナリズムが横溢していた時代である。記紀の記述、特に建国神話部分のストーリー理解には、それらが編纂された時代背景、意図を理解する必要がある。日本の古代史に関しては文献資料が乏しく、比較的新しい時代である8世紀に編纂された古事記・日本書紀が数少ない資料であるが、こうした時代の時の権力者が選定した「公式定本」、それを記述通り正しいものとして受け入れた江戸後期の国学や、その影響を強く受けた尊王攘夷思想、そして戦前の皇国史観。逆に戦後はその反動として、記紀の文献資料としての意義の全否定のような主観的で極端な取り組みではなく、考古学成果と合わせて客観的かつ批判的に読みこんでゆくという取り組みが必要であることを改めて痛感する。

 

 

 

 


修猷館と西新商店街 ~我が青春の街は今~

2016年01月11日 | 福岡/博多/太宰府/筑紫散策

我々が通っていた頃の本館。六光星の校章が掲げられた塔がシンボルだった。

今は建て替えられて跡形もない...

現在の本館。当時の面影を残すため塔は復元されたようだ。正門は当時のまま。

随分立派な校舎と施設で恵まれた教育環境に見える。

きっとオンボロ、バンカラのイメージは薄らいだのだろう。

 

 修猷館は筑前黒田藩の藩校(東学問所)であった。その名は中国の古い歴史書「尚書」から引用され、「その猷(王者の道)を修める」という意味があるそうだ。古色蒼然たる名前は、子供の頃にはなにか硬派で恐ろしげな響きすらあった。しかし近所の修猷館のお兄さんは賢そうなのでそのギャップが不思議だった。藩校修猷館、バンカラ、弊衣破帽、げた履、六光星の校章。スポーツは剣道、柔道、ラグビーが強かった。ヨットも全国制覇したことがある。全国でも有数の進学校だ。要するに文武両道ということ。かといって受験勉強など特別な指導はなかった。本人が勝手に勉強するんだろといった気風であった。もちろん校則などというものもなく、自由闊達、自主性が何よりも重視された。県立であったので学区制があったのに越境入学が多かった。私が入学した時の同級生は福岡はもとより全国から来ていた。また、いわゆる修学旅行がなかった。かつてはあったが「ある事情」で廃止されたという。在学中、生徒会で修学旅行を復活してくれと決議したが、先生方から「お前らを修学旅行に連れて行くぐらいなら辞表を出す」とキッパリ断られた。てんでに勝手な行動をする奴らを引率するような牧童役は真っ平ごめん、というわけだ。最近は復活したとみえ、私がニューヨークにいた時に、「先輩の仕事を見学/意見交換させて欲しい」と学校から頼んできた。やってきたのは真っ黒に日焼けした精悍な面構えの男女10名。応対に出た米人秘書が一瞬ドン引きしていた。聞けば、手分けして世界各国で活躍する先輩方を訪ねているんだと!さすがだなあ。ちなみに先生の引率はなかった。やっぱり...

 全国には、米沢興譲館、福山誠至館、柳川伝習館、久留米明善校、熊本済済黌、鹿児島造士館、萩明倫館等々、藩校を起源とし、今もその名を校名にしている学校は多い。しかし、修猷館ほど卒業生の量質ともに多士済々な藩校も珍しいだろう。幕末の福岡藩は維新に乗り遅れ、多くの有為な人材を新政府に送り込めなかった。その無念の思いがそうさせたのか、明治以降、黒田奨学会とともに修猷館は、世界に羽ばたく福岡の若人の人材育成機関として、福岡県立に移管されたにもかかわらず黒田家や卒業生/同窓会の支援で隆盛を極める稀有な学校となった。黒田藩が城下町福岡に残した文化的な遺産のひとつだろう。

 戦前は男子校だった。戦後昭和24年に共学校になった。私の在学当時も女子(女史)は全体の10%くらいしかいなかった。クラスは男女共学組と男オンリー組に分かれる。ちなみに私は一年病気留年し4年も通ったのに一回も男女クラスにならなかった。別に羨ましくもなかったが...(負け惜しみ)。圧倒的少数の女子のほうが断然に男子を睥睨していたような気がする。いま社会で活躍する女性のなかで修猷館出身者が多いことを見てもわかる。最近は女子生徒の数が大幅に増えたと聞く。これからは女子力パワーの名門校になることは間違いなかろう。

 一方、西新にはもう一つ学校がある。西南学院。米国南部バプティスト連盟の宣教師により設立されたミッションスクール。中学高校は男子校。大学は共学校で、輝くような女子大生もいた。しかしバンカラ修猷生は目もくれなかった。いや正確に言うと相手にされなかった。汗臭い九州男児君ばかりだもんねー 近くに女子校もなく(城南線の電車で「練塀町」や「古小烏」「薬院」あたりの山の手まで遠征しないと女子校はなかった)、いやでもバンカラを標榜せざるを得なかったのかもしれない。

 修猷館/西南学院、両校はかなり対照的な隣人だ。教室の窓からすぐ隣に西南学院が見える。冬になると蔦のからまるレンガ造りの瀟洒な校舎の煙突からは煙が立ち上る。窓は全部閉まっている。全館暖房中だ。こっちは、戦前の歴史的建造物。鉄筋とはいえ古い校舎は隙間風がスースーよく通る。教室にはストーブもなし。海からの風が吹きつけ寒い、とにかく寒い。なのに窓は開けっ放し。閉めてても寒いのでせめて明るく!

 しかし、最近行ってみたらあの歴史的な校舎が完全に無くなって建て替えられている。立派で堂々とはしているが平凡な今風の校舎に。惜しいことだ。なんか福岡人って、歴史的建築遺産にあんまり頓着しない傾向にあるようだ。街中には意外に近代建築遺産が少ない。都市景観にどこか重みがないのはそのせいか。中心部にあった古い堂々とした銀行の建築物や旧博多駅舎、ネオゴシックの県庁舎や市庁舎だって全部取り壊されてしまった。思いっきりがいいのか。価値がわかってないのか。九州大学も伊都キャンパス移転に伴って箱崎の校舎の取り壊しが盛んだ。明治後半に我が国第三番目の帝国大学として創立され、堂々たる名建築が立ち並んだ箱崎。これだけの歴史地区が廃墟になる様は哀れとしか言いようがない。修猷館よお前もか... 学校ってのは校舎が新しけりゃいいってもんじゃないだろう。伝統校ほど歴史を感じる建築物をシンボルにしているのに。

当時は市内電車貫線が正門前のこの道を走っていた。今では「サザエさん通り」なんてのが出来た!

正面の塔屋に六光星。この旗の配列は同じだ。

旧制中学修猷館時代の正門

石柱の文字にわずかに伝統の痕跡が残っている。

今の東門付近に保存されている

 その我が母校、修猷館があるのが西新町:江戸時代に福岡城下、樋井川の西の松原に新たに形成された町だ。それまでは樋井川にかかる今川橋が城下町の西の果てだった。幕府の一国一城令により廃城になった黒田家の支藩、直方の東蓮寺藩の家臣たちを福岡本藩の城下に住まわせるために新たに開発した新市街だそうだ。やがて唐津街道沿いに町が広がっていった。いまでも古い商家が残り、姪浜宿あたりまでは古い町並みがかろうじて残っている。

 また鎌倉時代にはモンゴル・高麗の大群が博多湾に来襲してきた。いわゆる元寇である。二度目の来襲ではこの辺りに上陸してきたが、先の来襲以降、防塁が築かれ鎌倉御家人たちは九州の武士団の助けでなんとか防衛を果たした。一部、陸上戦の激戦地となった祖原山や日本側の前線基地となった紅葉八幡などの元寇ゆかりの遺跡がある。西南学院のキャンパス内には防塁跡が保存されている。電車が走ってたころは「西新町」の次に「防塁前」という電停があった。

 明治になるとお城の大手門にあった藩校東学問所修猷館が西新町に移転、福岡県立中学修猷館となる。さらに西南学院が同じく西新町に移転してきた。こうして新興武家屋敷だった街が学生の町となった。

 西新商店街はいまでも賑やかな商店街。有名なのは、糸島のおばちゃんリヤカー部隊の露店。常設だ。すぐ西隣りの旧糸島郡(今は一部が福岡市西区、一部は糸島市に。倭国の時代の伊都国、志摩国のあったところ)は福岡の台所と言われる近郊農業地帯。新鮮な野菜、果物、花、そして魚が取れる。おばちゃんたちが朝早く起きて大きな背負い籠を担いで、筑肥線に乗って、市内に行商に来たのが始まり。西新町はロケーションとしては一番便利で、こうした「市」が出来たのは全く不思議ではない。

 もう一つの名物は、修猷館生御用達「蜂楽饅頭」という回転焼き(今川焼きとも太鼓焼きともいうが我々はこいう呼んだ)屋さん、当時は小さな店だったが、今でいうイートインコーナーがあった。なにより綺麗なお姐さんがいた。いわゆる看板娘!生意気な修猷館生にも優しく接してくれた。「あれから40年?!」。いまは大きくて立派な店になり結構な繁盛店に。そう、「行列のできる店」になっている。天神の岩田屋本店のデパ地下にも出店してるそうだ。あの看板娘さん、どうしてるんだろう?

 私は子供のころ西新町の東隣りの今川橋に住んでいた。今川橋には西鉄電車の車庫があり、かつてはここが市内電車の終点であったという。それが西新町より更に西の姪浜、室見まで伸びた。西新町は、市内電車、城南線と貫線の分岐点であった。映画館や積文館書店があり、ボーリング場もあった。商店街だけでなく賑やかな街だった。やがて修猷館に通うころには私は樋井川の上流の別府に引っ越し、六本松からここまで電車通学していた。電車の分岐点であっただけでなく、昔から唐津街道の要衝として賑わう街であった。今でも福岡市の西の副都心と考えられている。一時は地元老舗デパート岩田屋の西新店がオープンしたが、やがて閉店してしまった。そんな副都心、なんて気取った町柄ではないのだ。普通ならデパート・スーパーなど大型店舗ができて商店街がシャッター通りになるのだが、ここでは逆。商店街がいまも健在。その後デパートもスーパーも建たないという、珍しい賑やかな商業地であり続けている。

西新商店街

紅葉八幡

蜂楽饅頭。修猷館生御用達

商店街から福岡タワーが見える

かつては百道の海水浴場だったところだ

???このカオスな佇まいがいいなあ!

西新商店街名物リヤカー部隊

糸島のおばちゃんが新鮮な野菜や果物、花、魚を運んでくる常設露店

この頃は糸島のおばちゃんもファッショナブル。

当時はモンペに久留米絣、頭には手ぬぐいのほっかむりが定番だった。

 西新商店街を更に西へ行くと、中西商店街、高取商店街、藤崎商店街と延々1.4Kmも商店街が続く。賑やかな下町の佇まいを今も残している場所だ。高取商店街辺りまで来るとかつての唐津街道の商家、町屋が今も残っている。やがて姪浜宿も間近だ。忘れてならないのは高取焼の窯元があることだ。ビートルズやベンチャーズに熱狂していた高校生の私に、陶磁器など興味があるはずもなく、もちろん一度も訪ねたことはなかった。しかし、この歳になると「なんだこんなところにお宝が...」と気づく。早速行ってみたが、この日はあいにく誰もおらず、陳列館もガランどう。登り窯を見学させてもらい引き上げた。ここまで来ると福岡城下の西の果て、旧早良郡、糸島郡との境だ。

 

 

 

 

筑前藩高取焼窯元「味楽窯」

 ともあれ、「あれから40年?!」なのだからすっかり辺りも変わってしまった。浦島太郎なのだ。樋井川は臭くて汚い川だったが、いまは綺麗になった。今川橋も古い木造橋で電車が上を通るとグラグラ揺れた。やがてコンクリート橋に架け替えられたが、砂埃舞う未舗装の電車道がしばらく続いた。「サザエさん通り」なんて通りが出来た(修猷館東門の横を百道海岸へ)長谷川町子が一時期住んでいて、百道の浜で磯野一家を構想したという。そんなことがあったなんて全く知らなかった。百道の海水浴場も地行浜も埋め立てられて新しいウォータフロント新市街が出来た。湾岸を都市高速道路が走ってるではないか!気分はまるでシカゴのレイクショアードライブ、ニューヨークのヘンリーハドソンパークウェー! 住んでいた海辺の我が家のあったところも、いつの間にかすっかり内陸の殷賑な地区になってしまっている。それにしてもこのウォーターフロント、シーサイドももち、すっかり福岡の新しい顔になっていて、近未来的な都市景観を生み出している。福岡ってかっこいい町になったなあ!しかし、子供の頃凧揚げした地行浜も、毎夏大腸菌汚染度が気になっていた百道海水浴場も、父が百道海水浴場からボート借りてきて子供の私を迎えに来てくれた樋井川河口の防波堤も無くなってしまった。あの頃のあの町。でもやっぱり記憶の中の西新町と今川橋は、いまだに当時のままだ。市内電車が走り、海水浴場があって、六光星の校章つけた学帽かぶった若者が闊歩し、蜂楽饅頭で放課後を過ごしている修猷館生がいる街だ。血気と汗と涙と夢とに満ち溢れた若者の町... 枯れてしまった今の私には眩く輝くような街だ。