時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

京都東山の小路を徘徊す 〜1000年のみやこはおもしろい〜

2016年09月24日 | 京都散策

石塀小路

 

 

 京都の街には小路や路地がたくさんある。だから京都の街は面白い。京都の街歩きは楽しい。大きな通りを外れて迷い込んで見る。そこは現在を生きる生活の道。そこはいにしえのみやこへの入口。そしてそこは異界への入り口。その先に何があるのかワクワク、ドキドキしながら迷い込んで見る。

 

 

三条通北裏白川筋東入堀池町

 

並河靖之七宝記念館と小川邸

二人の巨匠の相見えるところ

お地蔵様と明治牛乳とポスト

 

京都名物「逆さ箒」

瓢亭

無鄰菴板塀

焼杉板塀

蹴上浄水

いにしえへの時空トンネル

南禅寺山門

悟り世界と煩悩世界の結界

南禅寺の空

白川筋

白川

まるで異界に通じる...

知恩院山門

白川筋を抜けると壮大な伽藍が

いもぼう平野屋

ねねのみち

高台寺通り

ライカショップ京都

祇園花見小路

京町屋の二階はライカショップギャラリー

お茶屋「松八重」

祇園花見小路

菊梅

祇園花見小路

一力

祇園花見小路

祇園白川

祇園新橋

御池の空

矢田地蔵尊

寺町通

新京極

ここにも地蔵堂が

新京極通

すき焼きキムラ

柳小路

先斗町

鴨川河畔の夕涼み

 

四条大橋

 

そしてまた先斗町

 

 撮影機材:Leica SL + Vario-Elmarit-SL 24-90 ASPH Lightroomで現像。

 

 


本薬師寺のホテイアオイ 〜藤原京の夢の跡〜

2016年09月22日 | 奈良大和路散策

 

 

 今年の夏も暑い!そして今年も本薬師寺跡にホテイアオイがいっぱい咲いた!

 

 本薬師寺跡のある橿原市城殿町は、かつての藤原京(新益京:あらましのみやこ)の西、西二坊大路、西三坊大路と七条大路、八条大路に囲まれた一角である。藤原京は690年に持統天皇により造営が開始され、694年に飛鳥浄御原宮から遷都。わが国初の唐風の条坊制を備えた都城であった。しかしわずか16年でさらに平城京へ遷都された。薬師寺は680年、天武天皇が皇后である讃良皇女(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して創建した寺院。金堂、講堂、を回廊で結び東西二塔を配した壮麗な伽藍がここには建ち並んでいた。その薬師寺は平城遷都に伴い現在の奈良市西の京町へ移転した。ただ藤原京の薬師寺はその後も平安時代中期、10世紀頃まで現在地に存続し本薬師寺と称されたが、やがて廃寺となった。

 

 ちなみに、平城京の薬師寺(現存する)は藤原京の薬師寺の大部分を移築したものなのか新造されたものなのかが、長年論争になっていたが、最近の研究では、移築ではなく新たに造営したものと考えられている。こうして本薬師寺は旧都の地に残ったのだが、今では木立に囲まれた土壇に金堂の礎石や東西二塔の心礎を残し、往時の面影をかすかに留めるのみとなった。しかし最近は遺構周辺の休耕地にホテイアオイやコスモス、ハスを植え、夏の間はホテイアオイの名所となっている。地元の小学校の生徒が毎年植えて手入れしているという。ホテイアオイはそもそも外来種で在来種を駆逐する生命力を持っているので(Blue Devilと呼ばれている)、国によっては持ち込みが規制されているそうだが、ここでは他の生態系に影響を与えないように管理され、このような壮大な景観を作り出している。

 

 倭国から日本へ移り変わる激動の時代。壮大な首都建設計画も廃都という皮肉な結末を迎えた。そういう滅びの歴史を背負い、古色漂う古代寺院の跡と、一面の外来種のホテイアオイの青という組みわせは一見似つかわしくないようにも思えるが、今では盛夏の青空と涼やかなホテイアオイの群生は、飛鳥の夏を代表する景観として定着している。

 

 「夏草やツワモノどもが夢の跡」じゃなくて「青花やツワモノどもが夢の跡」だ。

 

 

 

 

東塔跡

 

正面は金堂跡

左の土塁は西塔跡

 

金堂跡から東塔跡を望む

 

左が金堂跡

右は東塔跡

 

金堂跡

東からの景観

 

西に畝傍山を望む

すぐ近くまで住宅開発が迫る

 

元薬師寺の伽藍配置

(橿原市HPより)

 

 

 

 


飛鳥稲淵は豊穣の時を迎えた 〜棚田の風景と古代飛鳥〜

2016年09月15日 | 奈良大和路散策

稲淵の棚田風景

飛鳥から吉野へ向ける道すがら

 

 石舞台古墳のあるあたりは嶋庄と呼ばれ、蘇我氏の奥津城であった地域。蘇我氏は嶋の大臣(しまのおおおみ)と呼ばれていた。そもそも飛鳥は蘇我氏が勢力を有する地域。その地が舞台であった飛鳥時代は蘇我氏の時代だったとも言える。初期ヤマト王権が3世紀中盤以降奈良盆地に起こったのだが、その場所は盆地の東、三輪山山麓(ヤマト:山の麓)であった。居館跡や運河などの跡が見つかった巻纒遺跡や、最古の前方後円墳である箸墓をはじめとする大型前方後円墳文化を作った「三輪王朝」はここからスタートした。

 

 6世紀にはヤマトの大王の宮都は三輪山麓を離れ、盆地の南の飛鳥の地を転々とすることになる。飛鳥の地は奈良盆地の中では大和川から難波、瀬戸内海、筑紫を通じて大陸とつながる地の利を有する土地であった。もともとは東漢氏などの渡来人一族が住んでいたところであったが、蘇我氏はこの飛鳥の地を重視し、渡来系一族との交流を通じて外来文化、ことに仏教を積極的に取り入れた。他の有力氏族、大伴氏や物部氏を凌駕して大王家の外戚となり政権運営に影響力を有することとなる。今日、明日香村は稲穂がたわわに実りまさに豊穣の時を迎えている。嶋庄、祝戸からさらに吉野に通じる峠に向かって進むあたりが稲淵。ここは棚田が有名だ。もう一つは、石舞台から多武峰に向かう冬野川沿いの登り坂あたりにも棚田が広がっている。まさに「豊葦原瑞穂の国」の姿を彷彿とさせる景観だ。

 

 しかし、いつの頃から飛鳥にこのような棚田の風景が形成されたのだろう。こうした景観はおそらく弥生の姿ではなかっただろう。初期ヤマト王権も後の飛鳥王朝も稲作農耕に経済基盤を置く王権であった。しかし3世紀以前の北部九州のチクシ王権と異なり、弥生的な農村集落たる環濠集落や高地性集落を政治拠点とする王権ではなかった。耕作地/農村集落と王都(宮)は截然と分かれていた。奈良盆地における初期の環濠集落である唐古鍵遺跡も「王都」としての性格はなく純然たる農耕集落(ムラ)であった。初期ヤマト王権の「王都」たる纒向遺跡は完全位離れた場所に形成されている。6世紀の飛鳥も「王都」の地であった。飛鳥は転々と移り変わる宮殿や外来宗教である仏教寺院などの異国風建築物がひしめく「近代的な」人工的都市であった。その周辺部には大王家や有力氏族の古墳が散在していた。これまでの弥生倭国的な地域とは異なっていた。今感じる「国のまほろば」「豊葦原瑞穂の国」といった田園景観は、むしろ奈良盆地の中央部から北に広がっていたのだろう。すなわち古代奈良湖が干上がった跡に稲作耕作地が拡げられた。舒明天皇が天香山に登り、そこから北に広がる豊かに実る奈良盆地を展望して「うまし国ぞ秋津洲大和国は」と読んだ風景だ。

 

 稲淵、栢野森は飛鳥の中でも南の果てである。吉野へと抜ける峠道(芋峠)へと続く山がちな地域、すなわち飛鳥世界の絶界である。大海人皇子が吉野へ逃れ、壬申の乱で飛鳥に凱旋して天武天皇として即位。その皇后、のちの持統天皇が度々吉野行幸を行った道だ。また都に疱瘡が伝染せぬように峠に疱瘡除けの猿石を置いたりもした。今の稲淵や飛鳥のこの田園風景は、必ずしも飛鳥時代を代表する風景ではなかったにちがいない。当時は水利に恵まれた平地以外は稲作には向かない土地柄だったであろう。棚田という耕作形態はずっと後世になってからのものだろう。

 

 ここ稲淵にも一時期宮都が営まれた。飛鳥稲淵宮だ。発掘調査の結果、祝戸地区にその遺構らしき物が見つかった。どの時代の宮都なのか?確定できていないが、645年の乙巳の変後、皇極上皇、中大兄皇子は一時都を難波に移したが、やがて孝徳天皇を難波宮に置き去りにして再び飛鳥に戻った。その時に造営された行宮(仮宮)ではないかと言われている。だとするとなぜこのような辺鄙なところに行宮を置いたのだろう。

 

 また最近話題になった都塚古墳。今年の発掘で石積みの階段状ミラミッド構造の方墳であることがわかった。誰の墓であるか決定的な証拠は出ていないが、かなり手の込んだ方墳であることや、蘇我氏の奥津城で蘇我馬子の石舞台古墳に近いことから、蘇我稲目の墓ではないかと言われている。

 

 飛鳥から吉野へ向かうここ稲淵から栢野森辺りはなかなか謎の多い場所だ。今は長閑で豊かな棚田風景が広がる田園地帯だが、おそらく飛鳥人はこうした風景をここに見ることはなかっただろう。稲作農耕を行う土地というより、聖なる地、異界へつながる土地という理解であっただろう。今でもこの地区では毎年1月には綱掛け神事(男綱)が執り行われ、「子孫繁栄」「五穀豊穣」「家内安全」「無病息災」を祈念する習わしだ。この時飛鳥川をまたいで結界が張られていることを見ても、ここは彼の地、此の地を隔てる場所だった。飛鳥なる世界の鄙の地は奥が深い。

 

稲淵の棚田

 

嶋庄あたり

 

都塚古墳

最近の調査で階段ピラミッド状の方墳であることがわかった

蘇我稲目の墓ではないかと言われている

 

石棺がそのまま残る珍しい古墳

 

石舞台付近の棚田

 

石舞台地区の背後には多武峰が

中大兄皇子と中臣鎌足がクーデタの謀議を行った談合(語らい)山からは飛鳥の全体が見渡せる

 

毎年1月に行われる綱掛け神事

(男綱を掛けて、子孫繁栄、五穀豊穣、家内安全、

無病息災を祈る)

対をなす女綱は下流に掛けられる。

聖なる世界、異界との結界だ。

(写真はmahonoHPより)

飛鳥稲淵宮跡

(明日香村世界遺産HPより)

 

 

 

 

 


石塀小路散策 〜もう一つの伝統的建造物群保存地区〜

2016年09月11日 | 京都散策

石塀小路

高台寺通り側の入り口

 

 八坂神社(祇園社)、円山公園から南、高台寺界隈は、いわゆる「ねねの道」として観光客に人気の地区になっている。高台寺通りと下河原町通りの間には狭い路地がいくつか通っている。どれも狭くて鍵の手になっているので行き止まりのように見えるが、実は通り抜けができる。そうした閑静な一角、ここが「石塀小路」である。

 

 この辺りは、豊臣秀吉の北政所、ねね縁の地である。太閤の没後、剃髪して高台院と名乗ってから暮らしたと言われる現在の園徳院、高台寺を中心とした一帯は「祇園廻り」と呼ばれていた。江戸時代には、この辺りに芸妓街、お茶屋街ができた。明治初期までは遊郭もあったが廃絶になり、その後はお茶屋の貸家街になった。石塀小路と呼ばれるようになった意外に新しく、明治後期から大正初期に入ってからだと言われている。当時は妾宅が多かったらしく「お妾さん街」などとも呼ばれたそうだ。閑静で落ち着いた街並みで、街の格を上げるために高い石塀を築き、石畳を敷き詰めた。最近の石畳は京都市電廃止の時に出た路面の切り石を敷き詰めたものだ。今はこじんまりした趣のある旅館や料亭、貸席などが連なっている。

 

 最近は観光客にこの隠れ家的スポットの存在が気付かれて、ワイワイと押し寄せてくるようになったらしい。小路のいたるところに「静」という札が掲げられている。その札も板に墨で流れるように書かれていて町の雰囲気を壊さない配慮がある。しかし、貸衣装の浴衣姿に慣れない下駄履きでやってくる女性の集団は、自撮り棒片手に、中国語で声高にキャーピーキャーピーワメキあっている。それを欧米系の観光客が「 Look at  them! Chinese Geisha Girls!」と笑いながら写真を撮る。確かにあまりここの静謐な雰囲気を壊してほしくないものだ。地元の人にとっては迷惑なことだろうが、Visit Japan!, OMOTENSHI!と言ってる以上我慢するしかないのだろう。まったく観光客というものは...... 通りすがりの時空旅写真家である私も、この路地の閑静な雰囲気のカットをモノするのに苦労した。なかなか人がいなくなる瞬間が来ない。待ち続ける忍耐力が求められる。

 

 産寧坂地区一帯は重要伝統的建造物群指定地区に指定されているが、1996年にこの石塀小路地区が追加された。

 

高台寺通り

最近は「ねねの道」というらしい

 

石塀小路

 

 

 

京都市電廃止のときに出た敷石を利用した石畳道

京都の路地には珍しく石塀を高く築いている

 

お宿「玉半」

 

観光客が少ないように見えるが、人通りがなくなるのを待って撮影

 

円徳院

 

円徳院庭園

 

円徳院から石塀小路へ抜ける小径

 

ここは赤レンガ塀にガス灯

 

 

石塀小路

下河原町通り側出口の一つ

 

多少の高低差があるところが奥ゆかしい

 

 

 

 

(撮影機材:Leica SL+Vario-Elmarit-SL 24-90mm f.2.8-4 ASPH)

 

並河靖之七宝記念館探訪 〜靖之と植治 二人の天才ここに集う〜

2016年09月09日 | 京都散策

 

 

 

並河靖之七宝記念館

並河の自宅兼工房であった。

隣家(手前)は稀代の作庭家小川治兵衛の自宅であった。

 

 

 

 以前から訪ねてみたいと思っていた並河靖之七宝記念館。ついに今回訪問することができた。ここの見所は、七宝の超絶技巧作品もそうだが、この建物と庭園がまた明治という時代の美意識を体現する絶妙の空間となっている点である。そう七宝家の並河靖之と、作庭家の植治こと第七代目小川治兵衛という二人の巨匠。明治日本を代表する二人の天才がここで出会った。

 

 ここは並河靖之が、1893年(明治26年)に、今の人間国宝に相当する帝室技芸員に選ばれ、海外に「世界のナミカワ」として名声を博していた時代に建てた自宅兼工房である。欧米での万国博覧会などで高い評価を受け、事業としても最も成功した時期であったという。あたりは少し歩を進めると岡崎南禅寺界隈、政財界の大物が競って建てた壮大な別荘群がある地域だが、この並河邸は比較的こじんまりとした敷地に建つ。表屋は虫籠窓に駒止という典型的な京商家の佇まいを有する屋敷。しかし一歩中に入ると、超絶技巧の七宝の世界と日本庭園という、明治期の二人の美の巨人がコラボレートする独特の宇宙が凝縮されている。明治にしては珍しくガラス窓を多用した和風建築の母屋と、創作に打ち込むための工房、焼成を行う窯場、そして真ん中には植治作庭の庭が配されている。母屋には外国からの賓客を迎えるために、客の好みに応じて洋風と和風の応接間が用意されている。洋間は鴨居の高さが高く、ガラスの入った障子窓も高い位置に、そして和室は低い位置に配されており、この名庭園がどちらからも座ったまま見渡せるように意匠が凝らされている。建物も庭も当時のままで、あまり大きな改修の手も加えられないまま残されている。国指定の有形登録文化財である。

 

 

 住所は東山区三条通北裏白川筋東入ル。いかにも京都らしいアドレスだが、文字通り三条通の一歩北側、白川に沿った裏白川筋との角から東に入って所にある。京都の住所表示は道案内そのものでわかりやすい。

 

 実は右隣が稀代の作庭家第七代小川治兵衛(植治)の自宅であった。現在も「小川」の表札がかかっているが、住んではいないそうだ。こうした隣同士の縁もあり、並河家に作庭を依頼された小川治兵衛。元々は植木職人であったそうだが、これをきっかけに作庭、造園の道に踏み出したと言われる、南禅寺界隈別荘群の名園を数多く手がけた植治にとっても記念すべき庭園第一号というわけだ。

 

 この庭の特色は琵琶湖疏水から水を庭園に引き込み、池と流れを生かした点。京都に多い禅寺の枯れ山水とは異なる趣を醸し出している。水の流れによる植栽のみずみずしさや涼しさ、流水の視覚的、聴覚的効果が京都の庭園に新しい風情を与えている。そもそも琵琶湖疏水は明治維新後の東京奠都で、元気が失われつつあった京都の産業・工業振興のための一大土木プロジェクトであった。琵琶湖から延々水を引き、この蹴上の山筋を開削して、南禅寺境内にローマの水路橋よろしく水路を作り、水力発電所を起こしたもの。したがって別荘や個人の邸宅の庭に水を引くなど想定外であったようだが、並河家は七宝工房用に、として水を引いたという。その後、この琵琶湖疏水が南禅寺界隈別荘群に水を配り、多くの名園を生み出すこととなった。これらこそ植治のなせる技である。同じく植治が作庭した山県有朋の別邸無鄰菴もこの近くである(2015年1月のブログ:「無鄰菴」庭園散策 〜南禅寺界隈別荘群を巡る〜)

 

 この辺りには明治期には20数軒の七宝焼きの事業者があり、それぞれにしのぎを削っていたそうだが、中でもその質と量で並河靖之が群を抜いていた。もともと七宝は大勢の職人を抱えて営むものではなく、どれも事業者としては小規模であったようだ。明治日本の殖産興業政策により、外貨の獲得に七宝は重要な輸出品としてもてはやされた時期であった。こうして並河靖之の超絶技巧が世界に名を轟かせることになった。

 

 しかし、時代は移り、並河家は1923年に七宝製作を廃業。七宝家としては断絶している。現在のご子孫は医者であるそうだ。この記念館の真向かいに住んでおられる。一方、小川家は現在も「植治」として造園業を引き継いでおられ、京都を中心に盛業中だ。現在の社長は12代目である。

  

和室側からは庭の全景を展望できる

 

洋風応接間

鴨居が高く設計されている

 

植治作庭の庭園

水は琵琶湖疏水から引き込んでいる。

 

礎石に見立てた踏み分け石から和室を眺める

 

二階部分

明治期の和風建築としては珍しい大きなガラス窓

 

母屋の柱は池の石に立っている。

 

右は洋風応接、左が和風応接

障子のガラス窓の高さが左右で違っているのがわかる。

 

母屋玄関

 

台所

通り庭という形

 

 

(撮影機材:Leica T+Vario-Elmar-T 18-56mm f.3.5-5.6 ASPH)

 

 

 

 Another Story: もう一つの「美の巨人たち」「二人のナミカワ」

 

 七宝界に名を残す巨人にはもう一人のナミカワがいる。濤川惣助である。奇しくもふたりのナミカワは共にほぼ同世代の七宝家。並河 靖之は1845年京都生まれ、一方の濤川 惣助は1847年千葉県生まれ。後にふたりは京都の並河、東京の濤川 と呼ばれライバル関係を築く。そして並河靖之:有線七宝。濤川惣助:無線七宝という伝統と革新のそれぞれの旗手である。

 

 並河靖之は元々は武家の出で、青蓮院付きの寺侍並河家の養子。明治に失職し七宝製作の道へ。一方の濤川惣助は江戸の商家で奉公ののちある有名商家の養子となり、その後陶器の輸出業に取り組み成功を収める。のちに家業を後継に譲り自らは七宝の革新に没頭する。

 

 並河 靖之は長い歴史と伝統の技法を持つ七宝界の頂点を極め、濤川 惣助は従来の基本形であった有線七宝(色を入れるときに線で境界を築き、色が混じらないようにすることではっきりした模様となる)から、無線七宝(色を入れると早いタイミングで境界の線を取り除き水彩画のような柔らかい模様となる)という独自の技法をあみ出しその頂点を極めた。技法は違えど同じ七宝界の頂点に君臨する両巨頭である。現在の人間国宝にあたる帝室技芸員も七宝界ではこのふたりだけ。時代は同じ時期にふたりの天才を世に送り出したといえる。しかしこの二人の天才は生涯相見えることはなかったという。

 

 現在、これだけの巨頭、両ナミカワの作品を日本で見ようとすると結構苦労する。明治日本の輸出品として外貨を稼ぐ重要産品であったことから、作品の90%以上が海外市場で流通し、残りが皇室などの賓客向けの贈答品、下賜品として買い上げられた。こうして「世界のナミカワ」として海外でもてはやされたが、日本にはあまり作品が残っていない。これまで京都の産寧坂美術館や東京日本橋の三井記念美術館などで作品の展示会があったが、なかなかまとまって見ることができない。今回訪れた並河靖之七宝記念館収蔵作品でも全数で140点ほどだそうだ。これでも国内では圧倒的な数である。実際の記念館での展示は思いの外少ないことに気づく(撮影が許されていないのでお見せできないが)。独特の黒生地の小ぶりな作品が多く展示されているが、海外のコレクター所有の作品に匹敵する規模の花瓶などのものは少ないように思う。濤川惣助の作品はさらに少なく、まとまった作品を収蔵するところはないと言って良いくらいだ。一時期この両巨頭の存在も忘れ去られかねない有様であった。以前にも古伊万里や、幕末・明治期になって確立した有田などの超絶技巧作品が海外に流出し、いまや取り戻すことができない話を書いたが、ここでも海外へ渡った明治期の超絶技巧七宝は、その生誕の地である日本へ帰ってくることは稀である。世界に日本の美が評価されるのは嬉しいことだが、それを日本で見ることができないのは悲しい。

  

並河靖之作品

宮内庁蔵

濤川惣助作品

ウォルター美術館(マサチューセッツ)蔵

  

並河靖之

濤川惣助

 

  

記念館の詳細はここを参照:

並河靖之七宝記念館ホームページ