時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

Leica M9登場!

2009年09月29日 | 時空トラベラーの「写真機」談義
ライカM9がついに登場。

いわく「世界最小のフルサイズデジタルカメラ登場」。つまり36×24mmのフルサイズCCD搭載のデジタルレンジファインダーカメラというわけだ。M8では27×18mmのAPS-HサイズCCDを採用、そのため普通の35mm判(すなわちライカ判)用レンズ装着時には焦点距離が1.33倍となる。従って50mm標準レンズは65mm中望遠レンズとなる。M9ではこれが50mmは50mmとして使えるようになった,という事だ。

それにしても「世界最小」を言うか。ニコンやキャノンのフルサイズデジタル一眼レフと比べて,という事ではね。ま、そのとおりだ。

ボディーサイズはこれまでのM8, 8.2と同じ。外見上は軍艦部のバッテリー表示と撮影枚数表示用の丸い液晶窓がなくなり、旧来のM型デザインを踏襲した段付きになった。外装はブラックペイント、しぼ皮、赤ロゴ(復活)、とスチールグレーペイントという新色の2種。写真、カタログ見ても確かに変化はない。

ライカ社の発表によると、有効画素数1800万画素CCD(M8は1030万画素)を採用、レンズ性能を活かすことを主眼にローパスフィルターは今回もなし。しかしCCD前には新たにフィルターガラスが採用されて、従来のようなマゼンダかぶり防止のフィルターをレンズに取り付ける必要がなくなった。また、レンズ情報伝達用の6ビットコードは引き続き採用されるものの、ボディー側でレンズ情報を手入力出来るようになったので、古いレンズでも周辺光量などの最適化が可能となった。これはいいね。また現像ソフトとして従来のCapture Oneにかわり、Adobe Photoshop Lightroomが同梱される。

心配なのはホワイトバランス。あの不安定さは改良されたのだろうか?また撮影後にPCで現像ソフトで修正しろ、ってことだとちょっとなあ。何しろ価格が価格だけに、やっぱりカラーマネジメントソフトの開発に精力を注いだ日本製のデジタルカメラに比べてあまりにも見劣りがする。また最近の中級以上のデジタル一眼レフはダイナミックレンジを調整する機能が標準装備されているが、これもないんだろうな。

しかし、フルサイズデジタルMが出て伝統的な「ライカ判」が本家ライカのデジタルプラットフォーム上でついに復活、というファンの期待に応えた形だ。つい去年の11月にM8.2を出したときに「フルサイズは出さないのか」という問いに、ライカ社技術陣は「従来のMボディーサイズを出来るだけ踏襲し、Mレンズ資産を使えるボディーとする為にはフルサイズは無理」と断言していた。しかし一年後にYesの答えを出したのは技術陣の根性と賞賛すべきなのだろうが、その時M8.2を買ったファンはなにか割り切れない思いでM9に(M8を下取りに出して)買い換えるのだろう。

さて、9月下旬には製品出荷、とアナウンスされていたM9だが、例によって今日現在で実機を手にしたユーザは限られているようだ。時たま「ついにゲット」などとリポートするブログを目にするが、まだまだ出荷台数が限られているようだ。ライカジャパンのHPhttp://www.leica-camera.co.jp/home/では、出荷遅れのお詫びと納期が約束出来ない旨のアナウンスが出ている。ビックカメラでも予約客への配送は10月下旬以降、と。これも伝説のライカを神格化するマーケティング戦略だろうが手の内が分かってるだけにあまりインパクトもない。慌てて買う必要はない。欲しけりゃ待てば良いだけだ。でもできるだけ早く欲しい.....いや、やっぱり待てん。oon hitono ashimoto miyagatte.

「M9_catalog_jp.pdf」をダウンロード


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飛鳥稲淵 棚田を巡る

2009年09月29日 | 奈良大和路散策
今年から出来た秋の大型連休シルバーウイーク。敬老の日が入ってるのと春の大型連休ゴールデンウイークに対抗して命名されたのだろう。日本も本当に休みが増えた。national holidayが先進国の中でももっとも多い国の一つになってしまった。日米貿易摩擦の時にアメリカに「日本人は働き過ぎ」とバッシングされたのはもう20年も前のバブル真っ盛りの頃。いまの日本はかつての日本ではない。働き過ぎどころか「働くところがない」。ゆとり教育世代は「働く気がない」で、「休んでばかりでなくてもっとしっかり働かんかい」のはずが、国民の祝日は増えるばかり。

で、そんな秋晴れの一日を飛鳥の稲淵で過ごし彼岸花に彩られた棚田散策を楽しんだ。飛鳥から飛鳥川に沿って芋峠を越えて吉野へ向かう上市古道。山と谷に挟まれた稲淵はその途中にある美しく豊かな山里である。この地形と人々の営みのコラボレーションが美しい棚田の景観を生んだ。

この道は、かつて持統天皇が足繁く吉野へ通った道だ。その後も多くのみやこ人達が吉野詣でに通った道だ。そして大海人皇子が皇位継承争いに巻き込まれて芋峠を越えて吉野へ身を隠した道。その後決起して大和へ向かい、戦いに勝利して皇位につく。壬申の乱の舞台の一つになったところでもある。こうして即位したのが天武天皇、すなわち持統天皇の夫である。この歴史に名を残した夫婦の天皇は飛鳥の天武/持統合葬陵墓に仲良く葬られている。

シルバーウイークの稲淵はこうした古代の出来事をゆっくりと思い起こさせるような静かな佇まいとは無縁の連休狂想曲なまっただ中であった。棚田は美しく秋の実りを誇示し、地元の農家の人々は刈入れ前の最後の稲田の手入れに余念がない。しかし、普段は静かな山里もこのときばかりは押し寄せる車の波とヒトの波。高速道路一律1000円で安近短トラベラーの車はこんなところにも殺到。山道は路上駐車の県外ナンバーの車で埋め尽くされ、片側しか通れなくなった道をワレ先に通ろうとする車で大混乱。クラクションの応酬。河内弁の罵声! 田んぼのあぜ道はヒトの列でおすなおすな。そう言ってる我々もその人の波の中にいた訳だが、元来人ごみが嫌いな私は、都会の喧噪を避けてきたのに「よりによってなんでこんなところにいるんだろう」とため息。

稲淵ではちょうど地元の人々の企画で「案山子祭り」が催されていた。100体近くの手作りの案山子が棚田沿いのあぜ道に並びアイデアとユーモアを競っている。ハイキングしながら見て回って好きな作品に投票するという趣向だ。なかなかユニークなものや微笑ましい案山子があって楽しませてくれる。地元の元気な小学校生たちが案山子の説明をしてくれたり、飲み物の世話をしてくれたりで、けなげでかわいらしかった。商業主義的な店や看板や幟旗が乱立するでもなく、村のお祭り的な雰囲気で安らぐではないか。

そう思ってみればあながち行楽地の喧噪を恨めしく語るのではなく、のどかな秋の日の一日を楽しむ場を地元の人たちが提供してくれたことに感謝する気持ちがわいてくる。あくまでも青い空、黄金色の棚田、畦を彩る真っ赤な彼岸花、ユーモラスな案山子に象徴される人々の暖かさ。やはり大和は國のまほろば。

ありがとう稲淵のみなさん。

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土佐の高知 我がルーツ

2009年09月25日 | 四国散策
仕事で高知へ行った。
まず松山に用事があったので伊丹からボンバルディアで飛ぶ。松山からは高速バスで高知まで2時間半。時間距離は意外と近い。しかし心理的な距離は遠い。四国山脈をくぐって太平洋まであと00キロの表示を見ながら、延々と続くトンネルを抜け、連続する峻険な峡谷を渡りたどり着いた高知はすっかり日が落ちていた。
こんなに小さな島に2000m級の山々がそそり立って行く手を阻んでいるんだ。それにしても日本の土木技術はすごい。瀬戸大橋もすごいがこの四国縦断高速道路もすごい。

高知は我が父祖の地。父方だけでなく、母方も、連れ合いの父方も、皆一族の故郷は高知。
といっても自分自身が生まれた訳でも、育った訳でもなくて、祖父母から高知なまりで聞かされた「故郷」の思い出が、父母から聞かされた「帰省先」としての高知の話があるだけだ。

しかし、「土佐の高知」と聞くだけで何か懐かしい想いにとらわれるのは、やはり私にも土佐の血が流れているからだろうか。ワクワクしながらの高知到着だ。

街を歩くと、父母、祖父母、親戚の叔父叔母、から聞かされた懐かしい地名が次々に現れる。
枡形、乗出、八百屋町、唐人町は父方の本家、分家一族の居所。桜馬場、永国寺町は母方の一族。上町、水通町は連れ合いの父方一族の地。鏡川を隔てて向うにそびえる山が潮江山。最近は筆山と呼ばれてるようだ。ここには我が一族の墓所がある。高知支店の人たちの尽力で墓も見つけることが出来た。何しろ古い墓所だけに所在が不明な墓や荒れ放題の墓が多い。幸い市役所が管理している墓地なのでとろく情報があったのと、墓守の方が我が一族の墓を管理してくれていたのとで見つけることが出来た。感謝感謝だ。ヤブ蚊にいっぱい刺されたが。

高知は背後を壁のような四国山脈、前を広大な太平洋に挟まれた狭隘な町だ。かつてはここに住む人たちは容易に京都や大阪や東京へ出て行けた訳ではない。土讃線が開通したのは長い歴史の中ではつい最近のこと。大阪へは浦戸湾から船で天保山へ行くしかない。山内一豊公も船で浦戸から入国している。太陽に恵まれた明るくて恵まれた土地だが、かといって高知にとどまっても何か出来る訳でもない。食い扶持も限られている。そんな土地に育った若者はやはりハングリーになる。瀬戸内海を見て育ったわけではない。太平洋を見て育ったのだ。この海の向うはもうアメリカだ。そしてここを出てゆく。青雲の志を持って故郷を後にする。たまりにたまったエネルギーをやがて新天地で爆発させることになる。坂本龍馬をモデルとする土佐人像だ。

鹿児島もそうだ。そうした若者のエネルギーが日本を動かす。世界を動かす。高知も鹿児島も人口の少ない、県民所得も最下位に近い地域だが、出身者で世界をまたにかけて活躍している人たちが多いのには驚かされる。県人会が強力な人的ネットワークを形成している点も同じだ。鹿児島に行ったときに、地元のヒトから鹿児島県の人口よりも鹿児島県人会の会員数の方が多い、と言っていた。表現に多少の誇張はあるが県外にいる鹿児島県出身者が多いのは事実だろう。ちょうどアイルランド本国は人口800万人なのに、アイルランド系アメリカ人は3000万人いるのと同じ理屈だ。

我が一族の本家筋の人たちは地元高知で実業家一族として活躍しているが、わたしの祖父のような分家の次男坊は高知を出て行かざるを得ない。当時日本でもっとも繁栄した大大阪へ出て行って一家を成した。銀行から転じて今はやりのベンチャー事業を起業し、西宮に屋敷を構えた。母方の祖父も同じだ。三男坊で、継ぐべき財産がなければ学問で身を立てる。東京へ出てゆき官僚として活躍した。つれあいの一族も次男坊以下は皆東京や大阪や上海へ出て行って立身出世していった。みんなハングリーで、豊かな未来を信じていた。そしてみな故郷高知を懐かしんでいる。集まると高知弁で話が尽きない。

ルーツの旅が出来る幸せをかみしめている。父祖の地を出て我々一族の新天地での基礎を築いてくれた祖父母、父母、叔父叔母に感謝の念を抱くとともに、私の世代の後に続く子々孫々の益々の繁栄を祈念するを禁じ得ない。

高知龍馬空港から、再びあの双発プロペラ機ボンバルディアに乗って高知を後にした。この峻険な四国山脈をエンジンを唸らせながらかろうじて飛び越て、わずか40分で大阪に着いた。

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天領日田 豆田町を歩く

2009年09月09日 | 旅行記
福岡での少年期、毎夏、都会の暑さを避けて一家でくじゅうへ避暑に出かけるのが我が家の年中行事であった。
父の運転する赤いコンテッサ1300で風を切って走る。父は車の運転が好きであったのであちこち連れて行ってもらった。

当時は高速道路もなくて、福岡から国道3号線を南下し、西鉄朝倉街道駅から別れて甘木方面、日田街道へ折れ、夜明けダムまで一気に走る。ここまで来るとやっと山間の涼しげな空気を感じることが出来た。夜明けダムの駐車場で一休みしたら、もう日田はすぐ。三隈川沿いに日田の町に入る。九州の小京都とか天領日田とか称される静かで美しい町である。

しかし、当時は早く久住高原にたどり着くことばかり考えていたので日田は単なる通過地点でしかなかった。何となく雰囲気のいい町だなあとは感じていたものの降り立つことはなかった。そのまま日本三大美林の一つ、日田杉の林の中を抜けて、杖立温泉、小国経由で長者原へでるか、豊後中村から十三曲りをくねくねとよじ上ってやまなみハイウエーに合流するコースか、どちらかで天上界へ向かうのだ。当時のクーラーもない車でたどり着くくじゅうの涼しさ、さわやかさは筆舌に尽くしがたいものがあった。

そういう訳で、実は今回生まれて初めて日田の町を歩いた。広瀬淡窓の咸宜園も初めて訪ねた。
豆田町は昔はあまり話題になっていた記憶がない。最近、特に町並み保存や景観の修復が盛んになり、伝統的建造物保存地区に指定されたりしてから急に有名になったのだろう。

日田は江戸時代には徳川幕府の天領として栄えた町だ。西国筋郡代が置かれ(郡代が置かれたのは江戸と飛騨高山の三カ所だそうだ)、九州の外様大名達の動きを見張る、という戦略的にも、幕藩体制維持的にも重要な役割を果たしていた。
権力あるところにヒト/モノ/カネ集まる。もとより日田は林業が盛んな土地柄であったところに、日田金と呼ばれた金融、川や街道を利用した諸国からの物資の集散拠点、交通の要衝としても栄えた。豆田町はこうしたにぎわいを見せる天領日田の商業地として殷賑を極めた町であった。

栄枯盛衰、おごれるものは久しからず。幕府が倒れ、時代は明治へ。日田の最大のパトロン、徳川幕府という権力構造が崩壊した後の日田は、山間の町の静けさを取り戻し、美しく老いた婦人のように、豊かではないが気品を忘れない大人の熟成した町とした今に残っている。

首都圏や関西圏の「小京都」と違って、これだけの「観光資源」がありながら観光客で賑わっている訳でもなく、商業的にはもっとプロモーション出来そうな余地があって、もったいない気もするが、そもそもこれで金儲けしようと言うのはもう止めた方が良い。奈良の今井町なども。あれだけの中世、近世以降の町家がタイムカプセルのように密度濃く集積しているにもかかわらず、住民の方々のポリシーとしてお土産ややレストランなどの商業施設への転換を極力抑えている例もある。であるが故に町に気品と歴史を感じる。経済合理性で文化財や史跡の価値を計るのは止めようよ。

しかしそれにしても、かの有名な広瀬淡窓の咸宜園も広大な敷地がほとんど手つかずの空き地状況でわずかに母屋といくつかの離れや井戸が現存しているだけである。訪れる観光客もなくやや哀れをもようす。無料で公開されている建物は受付にボランティアとおぼしきおじさんが一人座ってるだけだ。隣の敷地で建物の復元移築の作業が進められているようだが、こうした地道な自治体や地域の人たちの活動には頭が下がる。

一方、豆田町は伝統的重要建造物保存地区に指定されたこともあり、町家の修復、復元、電柱の地中化、通りの舗装など、良く町が整備されお金がかかっている様子が分かる。町は八百屋さんや理髪店、電気屋さん、歯医者さん、薬屋さんから銀行、と日常の生活の場としての豆田町の顔と、文化財としての保存建築やお土産や、飲食店、駐車場、と観光地としての豆田町が混在している。住んでいるヒトにとって以前より住みやすくなったのだろうか?

どこへ行っても思うのだが、古い伝統的な町並みの保存は難しい。そこの生活を破壊してしまったら、その町並みを形成してきた歴史は終わる。テーマパークのような生活臭のない、非日常的なスケルトン都市になってしまう。地元の人々の日々の暮らしが保存された町並みと一体化されるのが望ましいが、生活の糧を旧来の伝統的な仕事から得られなくなってしまった時、なおかつその場にとどまって生きてゆく為には「観光」で食っていくしかなのも現実だろう。あるいは都会の子供夫婦を頼って街を捨てるか。空き家も目立つ。地元の人々の戸惑いと自分たちの街なのに自分たちの居場所を探している姿が気になる。

イギリスの田舎町を訪ねたときにも同じことを感じた。コッツウオルドが美しいのはそこにヒトが生活しているからだ。自分が住んでいる家を自慢し、愛し、自分の手で修復し、芝を手入れし、花を植え、歩道を掃除する。街並みの保存に常に関与し、地元自治体にも働きかける。そこに暮らしている人たちは必ずしも伝統的な産業に今でも従事している人たちではない。ロンドンから移り住んだヒトや、キャッスルクームのようにホテルにして観光客に提供しているケースもあるが、共通しているのは、そこで稼いだり、一時期を楽しんだらまたどこかへ移動するのではなく、そこでの生活を自分たちのquality of lifeとして楽しみ、自分たちをlocalizeすることに絶え間なく努力している姿だ。よそ者として過ごすのではなく、permanent residentsとして暮らす覚悟をしていることに感銘を受けた。
自分の人生の価値やライフスタイルをどう考えるかによるのだが。

けっしてNational Trust活動を否定するものではないが、博物館化した町や建物は寂しい。そうはいっても最後は破却されて、後世に歴史的な文化遺産が残らないのでは元も子もないのでlast resortとしてのNational Trustの役割は大きいが。

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柳本古墳群 古代ヤマトを歩く (その2)

2009年09月07日 | 奈良大和路散策
JR桜井線の柳本駅からまず黒塚古墳を目指す。暑い!真っ青な夏空の下、太陽が容赦なく照りつける。遮るモノもなし。買ったばかりの帽子が役に立つ。そもそも帽子姿の自分がとっても嫌いなのだが、そんな事言ってられない。
カメラが熱くなっている。

柳本はこの辺りでは比較的大きい集落だ。古代の官道「上つ道」が集落を南北に貫く。この「上つ道」を横切り、駅から5分ほど東へ歩くと右手に黒板塀の堂々とした屋敷が見え、その左手に掘割と前方後円墳が見える。ここが景初3年の年号入りの三角縁神獣鏡が33枚と画文帯神獣鏡1枚が出土した黒塚古墳だ。このときは、これこそ魏志倭人伝に記述がある卑弥呼に贈られた魏鏡100枚の一部で、邪馬台国がここ大和地方にあった事を証明するものだ、と騒がれたものだ。

その後、三角縁神獣鏡は九州を含め全国の古墳から続々と500枚余り出土し、どれがオリジナルの魏鏡でどれが国内で製造されたコピーなのか解明出来ないこと、そもそも中国では一枚も出土していないことなどで、本当にこれらが魏鏡なのかが確認出来ていない。結局、邪馬台国論争における黒塚古墳熱は冷めてしまったかに見える。

古墳そのものは円墳部の頂上に埋葬する竪穴式で、古墳時代初期、すなわち3世紀後半から4世紀前半の築造であろうと言われている。被葬者は特定出来ていない。石室部分は古墳の規模に比してかなり大きく、また盗掘を受けていないため副葬品もよい状態で出土している。その出土状況は隣接する資料館に復元されている。現地は埋め戻されており、石室を示す表示が設置されている。

円墳部頂上は眺望が開けており、遠くに箸墓古墳、さらには三輪山、大和三山が見渡せる。一体は発掘後美しい公園として整備され、周囲は掘割を隔てて重厚な屋敷群に囲まれており、古墳というよりは城跡のような雰囲気をただよわせている。

ちなみに、この古墳部は「黒塚」と呼ばれ、中世から戦国時代にかけて砦として利用されたようで、その遺構も見つかっている。また江戸時代には柳本織田家の拠点として活用され、黒塚の東には広大な織田家屋敷が(いまは小学校になっている)、また堀割り周辺には武家屋敷が(先ほどの堂々たる黒板塀のお屋敷もそうか)広がっていた。だからなんだ。柳本の集落がやや城下町的な雰囲気を保っているのは。大和におけるその後の織田家と言えば、大宇陀の松山も織田信雄の末裔が住んだ城下町だった。

黒塚古墳から東へ向かうと、国道を隔てて行燈山古墳(宮内庁管理の崇神天皇陵)が威容を誇っている。ここからはいわゆる「山辺の道」が南北に山麓を縫うように様々な史跡をつないでいる。「山辺の道」をやや南に下るとやはり大型の渋谷向山古墳(宮内庁管理の景行天皇陵)が。いずれも濠に取り巻かれた大王の陵墓にふさわしい堂々たる造りだ。

柳本古墳群にはこの二つの大型古墳を中心に、廻りには中小の古墳が集積している。先ほどの黒塚古墳も行燈山古墳が立地する丘の稜線上に位置している。すぐ後ろ(東側)には竜王山がそびえ、その山麓に繋がる傾斜地の高台から見渡す大和盆地の景観は素晴らしい。ヤマト王権の地にふさわしい位置だ。逆に、これらの威容を誇る巨大建造物は、下から見上げる民にとっては大王や豪族達の権威のシンボルに見えたことだろう。

多くの中小古墳群は天皇陵の培塚だと言われているが、そもそもこの二つの大型古墳が天皇陵であるかどうかはまだ調査、確定されていないので、培塚と言い切れるか結論付けは出来ない。また濠も後の世に農業用として構築されたものもあり、天皇陵だから周濠があるという訳でもなさそうだ。

被葬者と言われている崇神天皇は、日本書紀に「ハツクニシラススメラミコト」と記されており、事実上の最初のヤマト王権の大王であったと言われる。神武天皇と、その後の八代の天皇は「欠史八代」として実在せず、8世紀の日本書紀編纂期に創出された天皇であろうとされている。崇神天皇の四道将軍伝承や景行天皇の皇子、日本武尊が東征、西征して倭国を平定した事など、史実であったかどうか確認できない点もあるが、どうやら崇神天皇が実在の大王であった事は学会の定説になっているようだ。また崇神、垂仁、景行と続く3代の大王全て実在したかどうかは議論があるが、初期ヤマト王権あるいは第一次ヤマト王権(三輪王権)がこの地に打ち立てられたのはこの頃だとされている。。

そうだとすると3世紀半に現れたという崇神天皇は、魏志倭人伝に記述がある3世紀初頭に亡くなった邪馬台国の女王、卑弥呼、その跡を継いだとされる女王、薹与(トヨ)とどのような関係なのか興味深い。魏志倭人伝以降、薹与が遣使したという記述の後、中国の史書に倭国の名が現れるのは5世紀に入ってからで、倭王武が時の南朝に上奏し、安東将軍の称号を得たという記述まで「倭国情報」は途絶えている。いわゆる空白の4世紀である。この間の倭国の政権交代の状況が分からない。ちなみに崇神天皇が実在の人物だとしても、その事と行燈山古墳が崇神天皇の墓である、という証明とは別の事である。

大和古墳群のなかでも、ここ柳本古墳群は大型古墳とそれを取り巻く数々の古墳に彩られたいわば「王家の谷」ならぬ「王家の丘」とも言うべき景観を作り出している。ただ問題は、これだけの墓がありながら、後の時代に破壊されたり、宮内庁管理で出入りを禁じられたりで、充分な考古学的調査が出来ておらず、正確な被葬者を特定出来ないのがもどかしい。ヤマトの歴史、古代の日本の歴史の解明にはまだまだ時間が必要なのか。

帰りは、渋谷向山古墳から田んぼの中のだらだら坂を真っ直ぐ西へ向かい、「上つ道」で左折して古い町並みを見ながら桜井線巻向駅から帰途についた。暑い一日だった。
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