時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

真夏の唐招提寺に古代蓮を愛でる

2012年07月29日 | 奈良大和路散策
 暑い!連日35℃超の真夏日。ここのところ「今まで経験した事の無い猛暑」の日々。こんな時に唐招提寺に蓮の花を見に行く酔狂な人はいないだろう。近鉄西ノ京駅を降りると、観光シーズンには定番の薬師寺、唐招提寺コースを巡る観光客で混雑するこのエリアも、今日は人影もまばら。こんなに静かな唐招提寺を初めて訪ねた。拝観料を払おうと窓口へ行く。ふと見ると、係のオジさん座ったままお休みになってる。声をかけずにジッとしていると,やがて私に気付いて、「あっ、失礼しました」と。暑いし,拝観者はいないし....居眠りしてしまうでしょう。しかし,確かに暑い。入場券を買うと,私も南大門の松林の木陰で少々一休み。

 この暑い夏の季節は,少し北に向ったところにある喜光寺の蓮も人気だ。また藤原宮趾の一面の蓮畑も見に行きたかったが,さすがに炎天下,遮るものも無い宮跡まで歩く事を考えたら,メゲてしまった。それでも去年はそこへ行った。暑くて暑くて手にしたカメラが焼け石のように火照っていた。大極殿跡の木陰でほとんど休んでいたっけ... しかし,大和三山に囲まれた藤原宮趾に広がる一面の蓮は壮観だった。

 唐招提寺の蓮は、数こそ限られていて、喜光寺や藤原宮趾ほどの壮観さはないものの、その歴史的事績にまつわる品種では外せない蓮鑑賞スポットだ。1300年の時を経て蘇った大賀博士の古代蓮はじめ、中国から送られた品種や、鑑真和上ゆかりの蓮が有名だ。そもそも蓮は沼の泥水に大きな蓮の葉を広げ、気高いピンクや白の花が凛として咲き誇る姿が美しい。唐招提寺はその開祖、鑑真和上の気高い志と生涯を思い起こさせるにふさわしい蓮の寺である。一輪一輪の「蓮の台(うてな)に仏様がおわします」世界を体感する極めて適切なステージであると思う。

 2009年に平成の大修理が完成し、落慶法要を迎えた国宝の金堂も、いまでは何事も無かったかのように,天平の甍、創建当時のままのエンタシス列柱を伸びやかに再現している。解体修理のなかで、用いられている軒の木材が781年に伐採されたものであるという事もわかった。金堂建立時期を特定する有力な手がかりの一つと言えよう。10年をかけた大修理であるが、あっけないほど元のままの金堂が目の前に佇んでいる。そこが何とも素晴らしいではないか。

 意外に、というかさすがにというか、この暑いさなか,唐招提寺を訪ねる中国人旅行者が多かったのが印象的であった。それも団体の買い物ツアーのついでに,という感じではなく,明らかに個人旅行でという風体だ。なかには子供を連れて来ている人もいる。偉大なる自国の聖人の足跡を訪ねて来たのだろう。鑑真は、近代から今日にいたる日本と中国の関係をどのように眺めているのだろうか。おそらく国と国との関係性よりは,私人としての志を高く持つ事と、仏の教えをこそ学ぶべきである、と言ってるのだろう。暑さを忘れ、時空の隔たりを忘れるひと時であった。

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(撮影機材:Nikon D800E, AF-S Nikkor 24- 120 ED)


飛鳥古京散策 ー飛鳥時代とは?ー

2012年07月17日 | 奈良大和路散策
 飛鳥時代は、大和の飛鳥の地に天皇の宮殿がおかれた、6世紀末(592年)の推古天皇治世から、8世紀初頭(707年)の持統天皇時代までをいう。この時代は天皇が替わるたびに宮が建て直されて、狭い飛鳥の地を転々と遷った。この遷都遷宮の習慣は、以前の崇神天皇に始まる三輪王朝時代、応神天皇に始まる河内王朝時代から引き継ぐものであるが、飛鳥時代には大きな変換点を迎えることになる。

 飛鳥時代の歴代天皇とその宮は次の通りである:

 推古天皇(女帝)  :豊浦宮、小墾田宮
 舒明天皇      :岡本宮、田中宮
 皇極天皇(女帝)  :小墾田宮、板蓋宮
 孝徳天皇      :小墾田宮、難波宮
 斉明天皇(重祚女帝):小墾田宮、板蓋宮、川原宮、岡本宮
 天智天皇      :岡本宮、大津宮、小墾田宮、板蓋宮
 天武天皇      :浄御原宮
 持統天皇(女帝)  :浄御原宮、藤原宮

 この中には、火災による遷宮も含まれている。また645年の乙巳の変(いわゆる大化の改新)後には、一時、宮は飛鳥の地を離れ、孝徳天皇は難波の難波長柄豊碕宮、天智天皇は近江の大津宮へ遷ったが、孝徳天皇は難波にて崩御。天智天皇は結局飛鳥に戻っている。また、このように女帝の時代でもある。

 最近の考古学的な発掘調査の結果、飛鳥時代の後半は、板蓋宮に一期から三期に渡って宮殿が造営されたらしいことが確認され、徐々に一カ所で宮殿を建て替える方向へ変わって行ったようだ。天武天皇の浄御原宮は、板蓋宮に建て直され、穢れを除くために佳字に改名したというのが現在の定説になっているようだ。

 さて今、この飛鳥浄御原宮跡地(伝承)に立ち、あたりをグルリと眺めてみると、飛鳥は山や丘に囲まれた狭い地域だ。今の行政区域で言えばまさに奈良県高市郡明日香村内で、転々と宮を遷したことになる。そして日本の古代史を彩る重大な出来事や、歴史舞台の主人公達の生き様、死に様がここに凝縮されている。そう、国家としての「日本」はここから始まった。

 推古天皇の摂政、厩戸皇子(聖徳太子)が政務を執ったのはここ飛鳥の地。十七条憲法もここで書かれた。しかし太子は飛鳥に居住せず、離れた斑鳩の地からここ飛鳥に通ったとされている。現在の法隆寺若草伽藍跡のあるところに斑鳩宮があったと言われている。その理由は明らかではないが、母方の一族である蘇我氏との軋轢が背景にあるとの説がある。飛鳥は蘇我氏一族が支配的な地位を保っていた土地でもある。太子の死後、蘇我氏は太子の息子である山背大兄皇子を攻め、一族は滅亡している。その背景は古代史の謎の一つだ。

 皇極天皇の時代、645年の乙巳の変の蘇我入鹿の暗殺はここ板蓋宮がその現場だ。ここからは、蘇我宗家の居館があった甘樫丘が北西のすぐそこに見える。事ある時にはすぐに駆けつける事の出来る距離だ。中大兄皇子と中臣鎌足がクーデターを密談したという多武峰の御破裂山は、宮殿の東にそびえている。この山頂からは宮殿、蘇我氏居館を含め飛鳥の地を一望に見渡すことが出来る。

 聖徳太子が生まれた館、後の橘寺も、蘇我氏が初めて創建した仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)も指呼の間にある。飛鳥寺の傍らには蘇我入鹿の首塚がある。蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳も多武峰へ向う道すがらだ。また当時はまだ中級官僚であった中臣氏の小原の里は飛鳥坐神社の東にある。

 天智天皇崩御後に起こった、672年の壬申の乱。天智天皇の弟である、大海人皇子が吉野に逃れ、再起して東国(伊勢尾張)から進軍して飛鳥に入り、天武天皇として即位した歴史の舞台もここだ。

 しかし、当時の東アジア情勢、特に朝鮮半島情勢とそれに関わる唐帝国の動向は、倭国を大陸の東辺部にあるアイソレートした島でいる事を許さなかった。せいぜい狭い奈良盆地のなかの、さらにその南東の山あいの一角という狭い「世界」での権力闘争に明け暮れる、いわば「のどかな時代」は終わりを告げる。斉明天皇と中大兄皇子(後の天智天皇)は、倭国の盟友百済の救援のために朝鮮半島に出兵した。しかし663年の白村江の戦いで唐/新羅の連合軍に大敗し、ほうほうの体で逃げ帰る。今度は大陸の超大国唐による本土侵攻の脅威にさらされる事となる。こうしたグローバルな情勢変化に伴うヤマト王権存亡の危機が「国家」を意識させるようになる。

 やがて唐の倭国本土侵攻は無いことが認識され、先述の壬申の乱も終結し、天智天皇と大化改新の功労者である中臣改め藤原鎌足を中心とする武断政治から、天武天皇/持統天皇のいわば天皇親政、律令政治への転換が果たされると、むしろ積極的に唐に学び、国家体制の強化(律令制の整備)、国家の権威を示す正史の編纂(記紀編纂)、経済基盤の確立(公地公民制、租庸調、班田収授法などの税制、土地改革)、仏教を中心とした社会基盤確立(鎮護国家)に取り組む。そして、国号を「日本」とし、唐の則天武后に承認させるに至る。さらに国家の威信をかけ、唐の長安を手本とした王城建設に着手する。すなわち藤原京(新益京)建設である。天皇を中心とした中央集権体制強化(皇祖神天照大神、King of Kings)が図られたのもこの時期である。こうした歴史的なイノベーションが意思決定されたのが、ここ板蓋宮(のちの浄御原宮)である。なんだか明治維新に似ていないか?

 軍事的外圧に屈した後に、むしろ敵国の政治,文化、技術、経済システムを吸収し、国の姿を創り直して行く事業が始まるという、いわば「日本型パラダイムシフト」とも言われるモデルはこのとき形成された。1200年後に起こった「黒船来航」をきっかけとする開国、倒幕運動、維新動乱のなかでの攘夷運動、「馬関戦争」「薩英戦争」で大敗をくらった薩長の攘夷から西欧列強に学ぶ近代化への一大転換。そして明治維新(「王政復古」はこの飛鳥の時代の天皇中心政治への復古を目指したものである)。そして日本史上最大の敗戦「太平洋戦争」後の米国指導の下での日本再生。いずれも、日本人のメンタリティーに潜む、のどかで居心地の良い「飛鳥」「大和」的パラダイムを、外的要因により大きく変換させて次のステージへシフトさせた歴史である。

 あらためて飛鳥という、この狭い箱庭のような地域の有する独特の景観と風土が、日本という国家の原点である事を再認識させる。当時の中国の歴代王朝が勝手に名付けた、異民族の住む地域としての名称「倭」から、当時のリーダーが自ら国家意識を持って称した「日本」への国家形成運動が起こった。飛鳥はこれらを育んだ胎内であり、生まれ出た若い国家の揺籃であったのだという事に気付かされる。

 しかし、であるが故にであろうか、日本が次のパラダイムシフトを求められている21世紀のこの時代に、この地を訪ね、のどかで緑溢れる風景、ゆったりと流れる空気、あちこちに現存する歴史の痕跡、よぎる古代の出来事の記憶。これらに触れ、「飛鳥という小宇宙」に身を置くと、ふと心が安らぐのは、原始倭国人のDNAが呼び覚まされるからだろうか。生来そういう空気と適度な囲まれ感を求めているのだろうか。ただ、それを「日本人の心の故郷、飛鳥」などというキャッチフレーズで片付けたくないが、そういう原点から再スタートして,新しいパラダイムを切り拓くエネルギーを放出させる力にしたいものだ。

 (話は変わるが、江戸時代、徳川幕藩体制のいわゆる「鎖国」時代や、菅原道真進言で、遣唐使を廃止した後の平安時代は、日本が独自の文化を育みながら(世界的にみれば)停頓していた時代かもしれない。平安時代は400年弱、江戸時代は約250年続いた。外敵に侵攻もされず平和な時代が長く続いた珍しい歴史だ。特に16世紀後半から17世紀の大航海時代のスペイン、ポルトガル、さらにはイギリス、オランダの極東進出を、小国ながらうまくコントロールしつつ、日本を外敵の進入から守り、かつ、貿易利権は独占するという、巧妙な「鎖国」政策を行って来た徳川幕藩体制の外交手腕は特筆に値するかもしれない。その政策が、19世紀の幕末まで240年余も続いたことが奇跡だった。それが破綻にひんした時期に、パラダイムシフトするエネルギーを失ってしまっていたのが徳川政権崩壊の原因だったのだろう。)

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(撮影機材:Nikon D800E , AF Nikkor 24-120mm, 70-400mm)