時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

横須賀ストーリー

2015年09月30日 | 旅行記

横須賀へ行ったら、記念艦「三笠」と横須賀海軍カレー、Navy Burger、どぶ板通りのスカジャンショップ。 おおっと、三浦按針夫妻の墓も忘れちゃいけない。しかし、横須賀と言えば基地の町、山口百恵の横須賀ストーリーの町。そんな横須賀の今を歴史散歩。

連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥像と記念艦「三笠」

 

徳川幕府はフランスの技術協力を得て横須賀奉行小栗上野介のもとで横須賀造船所、製鉄所を建設した。現在の住友重工のドックや米軍基地になっているところはその跡地。フランス人技師ヴェルニーの名を冠したヴェルニー公園が記念公園として市民の憩いの場となっている。ここからは米海軍基地と海上自衛隊基地の両方が見渡せる。そして明治維新後はこれらの施設は明治新政府に引き継がれ、やがて大日本帝国海軍の横須賀鎮守府となる。佐世保、呉、舞鶴などとともに我が国有数の軍港となる。戦後は米軍に接収され、いまは米軍海軍基地と海上自衛隊基地が共存。日米安全保障体制のシンボルとなっている。

 この横須賀に「三笠公園」がある。そう、あの日露戦争における日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破って、日本に大勝利をもたらした連合艦隊司令長官東郷平八郎と、その旗艦「三笠」が美しい勇姿を誇っている。その「三笠」が保存される場所は、広大な米海軍基地の一角にある。華々しい日本海海戦の勝利のシンボル、日本近代化の成果として展示保存されている。

 日露戦争における日本海海戦の大勝利についての歴史的な意義、解釈については司馬遼太郎「坂の上の雲」など、多くの記述がある。歴史的事件が時代の大きな転換点になった。この勝利が世界を驚かせ、日本が西欧列強と肩を並べる「一等国」になった、ということだけでなく、その後の「一等国日本」の運命を決定づける意味でも。すなわち19世紀の終わり、白色人種・西欧列強に虐げれてきた有色人種、植民地化されて劣等国にされてしまったアジア諸国の希望の星となった日本人、日本が、その後何故アジアの人々期待を裏切る敵のような扱いになってしまったのか?

 昨今の中国・韓国の政治指導者たちによる日帝侵略歴史認識のプロパガンダには、自国における彼らの不安定な政治権力基盤が見え隠れするが、それにしても日本は先の大戦で未曾有の大敗北を喫してしまう。その結果320万人もの同胞が犠牲となり、幕末明治維新であんなに恐れていた事態、すなわちわが国土が外国軍隊によって占領され植民地化されるという悪夢。それが正夢になってしまった。なんと我が国の歴史始まって以来初めての独立喪失を経験する。いわば日露戦争の大勝利を頂点に、日本は「坂の上の雲」から「焼土」に転落してしまう。日本海海戦の「トーゴーターン」が日本を勝利に導いたが、その後の国策の「トージョーターン」が日本を敗北に導く結果となってしまう。どこでどう間違ったのか?

 明治維新の志、「殖産興業」「富国強兵」という近代化政策。文明開化運動。これらを進めたその大きなモチベーションは、このままでは西欧列強の帝国主義的な植民地拡大の餌食になってしまう、という強い恐怖が基礎になっている。当時のアジア諸国の中で数少ない独立国(日本、タイ、トルコなど)のなかで、いち早く近代化を果たした日本はアジアの希望の星となった。清やロシアという大国を破り「一等国」として西欧列強と伍すアジアで初めての国家になった。しかしやがて激しい帝国主義的権益獲得競争の渦のなかに巻込まれて行くことを意味した。

 そもそもこのような権益確保、植民地争奪戦の帝国主義跋扈の時代、弱肉強食の世界の中で生きてゆこうとすると、自国のみを強くして守っていれば良いのか。周辺事態は刻々と変化してゆく。特にアジアの大国であった清の弱体化による東アジアパワーバランスの不安定化は欧米列強の東アジア進出を招くことになる。英国はアフリカ、中東、インド、ビルマ、マレー半島から香港、上海へとその帝国拡張の食指を伸ばしてきた。フランス・ドイツはこれに遅れじと中国大陸に権益を求めた。

 日本にとって直接的な脅威はロシアの南下政策。これらが先鋭化された地域が満州であり朝鮮半島であった。すなわち日本のすぐ目と鼻の先にロシアが清の弱体化の間隙をついて進出してきた。朝鮮は清の冊封国であった。朝鮮の近代化は遅れ、近代化を進めようとする動きへの抵抗勢力が王朝を支配していた。そこにロシアが食指を伸ばしてきた。幕末の日本が恐れていた事態が朝鮮半島で起ころうとしている。これを黙って新生日本は見ていて良かったのか。前近代的で保守的な旧文明諸国。そこへ跳梁跋扈する帝国主義的近代国家。こういう構図のなかでなんとか近代化を果たした新興国日本はどんなアジアのホラーストーリーを見たのか?自らの安全保障のためにどんな世界戦略、サクセスストーリーを持っておくべきなのか?極めてセンシティブで重要な国家経営の課題であった。

 こうして日清・日露の戦役で勝利し、清、ロシアの脅威を取り除いたが、気がつくと日本は帝国主義的な植民地争奪戦、権益獲得戦のど真ん中にいて、そのプレーヤーの一人となっていた。清朝が瓦解し、辛亥革命後の混乱の中、中国大陸では蒋介石率いる国民党政権との泥沼の戦いにズルズルと入って行き、果てしなき戦線拡大の先には、イギリスでもなく、オランダでもなく、フランスでもなく、新興の資本主義大国アメリカが立ちはだかっていた。そして敗北。

 広大な米太平洋艦隊横須賀基地。街を歩けばアメリカンな匂い。米兵がいっぱい乗って鎌倉見物に向かう横須賀駅。ドルが使えるドブ板通り。米国海軍ニミッツ提督が尊敬してやまない東郷元帥とその旗艦「三笠」。彼は戦後その保存に尽力し、今の記念艦「三笠」がある。かつて日本を開国に導いたアメリカ。ペリー提督は浦賀に上陸した。そして日本と戦争して日本を占領したアメリカ。日米の歴史が詰まった街だ。そして宇崎竜童と阿木耀子と山口百恵は横須賀を新しい夢のステージに変えた。「港のヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカ♫」が響く街。山口百恵の「もうこれっきりですか?」日本の近代化と帝國海軍横須賀軍港物語は、GIブルース物語へ。そしていま横須賀ストーリーへ。明治維新以降、戦後に至る日本の歴史を象徴する街になっている。

 

「さかみ」でなく「みかさ」

1902年英国ヴィッカース造船所建造

Z旗上がる

「天気晴朗なれど波高し。皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」

現在の横須賀港

左は海上自衛隊横須賀基地

右は米海軍横須賀基地

 

旧横須賀製鉄所の鍛造装置。蒸気機関で動いた(ヴェルニー記念館)

幕臣小栗上野介がフランスのヴェルニーの技術協力を得て建設した横須賀ドックと製鉄所。

小栗上野介は幕末混乱の中、官軍に斬首刑に処せられる。

のちに薩摩出身である東郷平八郎は、小栗の遺族を自邸に招き、

日露戦争に勝てたのは彼のおかげであった、と小栗の遺徳を讃え、感謝の言葉を述べた。

  

追記:「一撃講和」の夢?

 日露戦争の背景:

 先の日清戦争による朝鮮半島における権益、遼東半島割譲へのドイツ・フランス・ロシアによる三国干渉。「臥薪嘗胆」

朝鮮王国の宗主国「清」の衰退と、朝鮮半島へのロシアの触手(朝鮮王高祖を取り込み)。三国干渉で放棄させた遼東半島旅順港の火事場泥棒的な獲得。満州への進出(東清鉄道)。

日本の地域安全保障が脅かされる事態に。日露交渉で「満州におけるロシア権益を認める」かわりに「朝鮮半島からの撤退」という妥協案を提案するも拒否。ロシアはますます軍備増強、英独仏の満州からの撤兵要請も無視し、朝鮮半島にも権益を拡大しようとしてきた。日本の存立危機へ。ロシアという大国にとって日本という極東の小国に妥協しなくてはならない理由はなかった。

 しかして日本はロシアに宣戦布告。しかし相手は国力10倍。勝てるはずがない、と誰もが見ていた。したがって「初戦で圧勝し全面講和に持ち込む」という方針。戦争を長引かせると国力が持たない、そして成功するわけだが、その背景には外交による苦心の布石があった。

 ①反露政策を伝統的に取る英国と日英同盟によるロシアの東西挟み撃ち(小村寿太郎)

②反露ユダヤ系金融資本による戦費調達。(高橋是清)

③アメリカルーズベルトによる講和仲介。(金子堅太郎)(小村寿太郎)

④ロシア国内調略、すなわちロシア革命支援(明石元二郎)

 

太平洋戦争の敗北:

 しかし、この「一撃講和」戦略は、その後の軍部の常套手段になりつつあった。戦争回避という手段を取らず戦争に持ち込む場合、国力が劣る小国が大国に対して戦争を仕掛けて勝つ方法はこれしかないと考えた。日露戦争は数々の僥倖が功を奏し、この勝ちパターンが確立したかに見えた。しかし、先述のように、それには様々な条件を満たす必要があったことをどこまで教訓として学んだのだろうか。同じ柳の下にドジョウは二匹いない。

 同じ戦略が太平洋戦争では機能しなかった。もともと英米との協調を主張し、対英米戦争に懐疑的であった山本五十六提督が連合艦隊司令長官に抜擢されたのは皮肉であった。しかしそうなった以上、なんとか手を打たねばならぬ。山本提督の真珠湾奇襲差作戦は、まさに初戦圧勝、早期講和を期待したものであった。まさに日露戦争の勝ちパターンである。しかし、山本提督自身が真珠湾に米機動部隊の中核である空母を撃滅できなかった結果を見て、これは失敗したと悟ったという。すぐにミッドウェー海戦で連合艦隊は米機動部隊に大敗を帰すことになる。この状態で長期戦に入ってしまっては戦争の早期講和は望むべくもない。ということは日本は消耗戦の泥沼から抜け出せなることを意味した。東郷も山本もこうした全体像をよく把握し戦略を策定できるリーダーであった。そのような二大海軍提督を持てたことは日本が誇るべきことであろう。

 しかし、山本提督はニューギニアで撃墜され戦死。その後の日本は太平洋での戦いで米国に次々と負け戦となり、とうとう本土爆撃、沖縄上陸、原爆投下を許すこととなる。しかし、軍部はこの期の及んでまだ「一撃講和」を主張し、特攻作戦で一撃を加えたのちに講和に持ち込もうという、大好きな勝ちパターンをここでも持ち出す。しかし事態はすでに圧倒的負けパターン。しかも同盟国ドイツは敗北。客観的な情勢判断を誤った楽観的作戦行動。最後は「本土決戦」「一億玉砕」などという捨て鉢でとても理性的とは言えない断末魔の判断すら下そうとした。

 日露戦争の「一撃講和」の勝ちパターンは、外交戦略の成功と稀代の幸運の賜物、という分析と評価がなされぬまま、根拠のない、文字通りの希望的観測のお題目に祭り上げられてしまったようだ。先に見たように日露戦争を勝利に導いたのは巧みな外交戦略とのタイアップがあったからだ。太平洋戦争にそのような外交戦略が準備されていたのだろうか。

 同盟:

国際連盟を脱退して孤立した日本が組んだ相手、ドイツは、日本の中国大陸・太平洋での戦いを展開すること力になったのか?確かに欧州戦線に英米ソを釘ずけにして戦力を東に向けさせなかった点では有利に働いた。ソ連は日本と不可侵条約を結んで欧州戦線に集中した。マレー半島・インドネシアで英国・オランダは降伏した。米国だけが太平洋での戦いに戦力を割く余裕があった。

しかし、欧州でドイツが敗北すると、連合国側は一斉に東に向かった日本との最後の戦いを挑んできた。ソ連は不可侵条約を破り、満州へ突如侵攻してくる。

 戦費調達:

一方、戦費調達・石油などの資源はどうであったか?ロシアを敵とするユダヤ資本はドイツと同盟した日本に資金を出すはずもない。アメリカのユダヤ資本があてになるはずもない。国内の戦時国債が調達源となる。国が滅びれば借金も消え失せる自滅的な戦争であった。石油はアメリカが禁輸措置を取ったために、自ら南方進出して確保しなければならない。こうしてますます戦線が拡大してしまう。

 講和:

「一撃講和」というけれど、誰に講和仲介を依頼するのか。終始、不可侵条約を結んでいたソ連を頼みにした。この判断の誤りは結果を見れば明らかだろう。ドイツが降伏し欧州戦線が収束し、背後に憂いのなくなったソ連は、連合国のヤルタ・ポツダム会談での密約もあり、またロシア伝統の南下政策を実行する好機である。、ここぞとばかり不可侵条約など無視して満州になだれ込んできた。開拓民を地獄に落としめ難民の群れに襲い掛かった。降伏し武装解除した日本軍将兵を襲ってシベリアへ抑留した。樺太と北海道の北方4島を不法占拠する。日露戦争の雪辱を果たせとばかりに。

 相手国内調略:

米国内の世論を味方につけたか?厭戦気分を喚起できたか?全く逆であった。むしろ中華民国総統蒋介石、その夫人の宋美齢の米国における反日アピールが功を奏した。

 そもそも国際連盟を脱退して世界を敵に回し、その孤立のなかから日独伊三国同盟を選択し、英米との協調路線を捨てた時点で外交は破綻していた。世界から孤立してしまったのだから。この同盟に反対した山本五十六は戦死し、広田弘毅は抵抗の術を失って外相、首相を辞任(その後極東裁判で唯一文官として絞首刑を宣告され、抗弁せず従容として死に赴いた)。自分の信念とは異なる結果を引き受けさせられる運命は得てしてあるものだ。

 このように考えると、日清/日露の勝利がのちの大日本帝國の命運を皮肉な形で決めたのかもしれない。「勝って兜の緒を締めよ」

 

 

 

 

 


伊豆散策 昔も今も「愛の流刑地」?

2014年01月29日 | 旅行記
 この週末はいつもの伊豆の隠れ家へ。吹きすさぶ都会の寒風を避け、ここは東京からも行きやすい避寒地だ。加茂郡東伊豆町奈良本、といっても知らない人が多いだろうが、伊豆熱川温泉といえばその名を知らない人は居ない。伊豆熱川駅からだと、温泉街は急な坂を下った海岸ベリだが、奈良本の里は、急な坂を上らねばならない。天城山系の東側の山麓に佇む集落で、みかん園やイチゴ園などの広がる農村地帯である。

 伊豆と言えば海を思い浮かべるかもしれないが、伊豆半島は娥娥たる山に覆われた平地の少ない半島。小さな尾根や谷間に隠れ里のような集落が点在している。この山里に築300年の豪壮な古民家がある。かつては奈良本の名主の家であり、一時は奈良本村の役場であったこともあるそうだ。伊豆独特のナマコ格子塀の土蔵や、黒光りした大黒柱、太い梁といった骨格のしっかりした母屋。内装は板戸を改修して組子を入れた障子、へっついのあった台所を改装して玄関とするなど、多少の改装はあるが、江戸時代中期の庄屋建築の特徴を今にとどめる。縁側からは庭が楽しめるし、居間には昔ながらの囲炉裏があり、なんとも心和む空間になっている。また年季の入った立派な組子細工の作り付けの仏壇があり、ご先祖様と一緒に家族で食事をするのだそうだ。

 地元の新鮮な海の幸、山の幸をあしらった食事を囲炉裏端でいただきながら聞く、ここの女将の話が興味深い。元々旧名主である名家に嫁いできたのだが、今は我々のような隠れ処族に和みの場を提供してくれている。女将は熱川から南に行った、蓮台寺の生まれで、ここ奈良本に嫁いできたのだそうだが、自分の実家は山の中の隠れ里のような所にあるそうだ。子供の頃から祖母や母から、下田の人は、みやこにいにしえのルーツを持つ高貴な家系の人が多くて、嫁入りや嫁取りはなかなか大変、と聞かされてきたという。奥さんのことは「お方様」と呼ばなくてはいけない、など、何かと「みやこ風」だ、と。この女将もとても風格があり、言葉使いにも品があって、どっしりとした存在感がある。奈良本にも落人伝説があり、下田ほどではないが、やはり古くからの風習や言葉に、どこか鄙にはまれな雅が残っていると言う。

 そもそも「奈良本」という地名で想像するのは、やはり「奈良」に関係あるところなのだろうか?ということだ。奈良本の真ん中にある水神社には、その昔、奈良からやってきた人々により開かれた里であることから「奈良本」という地名がついた、と由来が記されている。やはりそうなのか。ではどういう人々がどういう理由でここ伊豆の天城山の東にやってきたのか?

 伊豆(伊豆諸島を含む)はいにしえより、流刑の地であったことが知られている。源頼朝が伊豆の蛭が小島に流され、のちに挙兵、源氏再興の決起した話は有名だが、そのずっと前、奈良時代、平安時代から流刑地であった。律令制の時代の724年、配流地として、伊豆(静岡)、安房(千葉)、 常陸(茨城)、佐渡(新潟)、隠岐(島根)、土佐(高知)が 遠流の地と定められた。以降、江戸時代にかけて、伊豆諸島(大島や八丈島など)が遠流(しまながし)の地としては有名だが、伊豆半島にも多くのみやこ人が流されたという。多くは罪人というよりは,政治的な敗者。無念の思いを抱いて送られた人々が多かったのだろう。じっさいに流刑になった人々で、記録に残っているものは少ないようだが、天城山の南、下田にトキノミツクリ(石偏に蠣のつくり+杵、道作)を祀る小さな祠、箕作八幡宮がある。かの壬申の乱後に、大津皇子が謀反の疑いをかけられ非業の死を遂げているが、その舎人であったトキノミツクリが668年に、伊豆箕作に流され、この地で果てたのだそうだ。記録に残る伊豆最初の流刑者だといわれている。

 この他にも天城山の北、伊豆市の善名寺には館山薬師如来という、流刑者の霊を鎮める仏像が祀られている。小さなものでは路傍に塞の神様やお地蔵様などが、地域の守り神として今も祀られている。1300年以上も前の出来事と、その一族の記憶が受け継がれているのも、その子孫が地元に血脈を受け継いでいるために他ならない。同時に非業の死を遂げた人々が怨霊となって祟りをなす、という奈良時代、平安時代の怨霊信仰によるものでもあろう。みやこにも数々の怨霊鎮めの社や寺があることは既知の通りであるが、こうした遠くはなれた伊豆にも、疫病や、天変地異は、こうした怨霊のなせる技、という考えがあったのだろう。

 今は首都圏から簡単に訪れることの出来る温泉地、避寒地で、夏場は海辺や高原のリゾートとしてにぎわう伊豆であるが、こうした歴史を知るのもまた楽しい。まして地元の人から聞く話は、時空を超えていにしえ人と直接会話しているようでワクワクする。女将は、最近は温泉地が寂れて、熱川の駅前も閑散としているし、老舗旅館も二代目、三代目になって人手に渡り、変わってしまったと嘆いていた。それでも、熱川駅で見ていると、電車から降りてくるのは年齢に関係なくカップルが多いようだ。なるほどここは「愛の流刑地」なのだ。私も「温泉付き流刑地」で女房とのんびりするのも悪くないな。

20140124l1007946

(下田の港。1854年米国ペリー艦隊(黒船)がここに停泊し、ペリー一行が上陸。了仙寺で幕府と下田条約が締結された)

Dscf1896

(築300年の古民家のいろりが心和む時間をくれる)

20140125l1008044

(奈良本の水神社のご神木。ここに奈良本の地名の由来が記されている)


Dsc00552

(奈良本の里の路傍には、このようなお地蔵様や,塞の神様が祀られている。お供えが蜜柑というのが伊豆らしい)


スライドショーはこちらから。春を告げる花の写真がイッパイです。⇒

<embed type="application/x-shockwave-flash" src="https://static.googleusercontent.com/external_content/picasaweb.googleusercontent.com/slideshow.swf" width="600" height="400" flashvars="host=picasaweb.google.com&captions=1&hl=ja&feat=flashalbum&RGB=0x000000&feed=https%3A%2F%2Fpicasaweb.google.com%2Fdata%2Ffeed%2Fapi%2Fuser%2F117555846881314962552%2Falbumid%2F5973035729438428481%3Falt%3Drss%26kind%3Dphoto%26hl%3Dja" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer"></embed>


鎌倉 ~休日はカオスの迷宮?~

2013年10月15日 | 旅行記
 生活基盤を東京に戻してしまうと、やはり関西にいるときのように気軽に古代史への時空旅が出来なくなってしまった。特に週末の時間を有意義に使えない。これが一番のフラストレーションだ。関東には「鎌倉があるではないか」と人は薦める。確かに首都圏で一番歴史を感じるところと言えば鎌倉。鎌倉は若き日には彼女とのデートコースであったし、今は親戚縁者の住む町なので時々訪れる町だが、あまり「時空旅」と言う視点で散策したことがなかった気がする。意外に知らないところが多い。「そうだ,鎌倉行こう」しばらくは鎌倉を探検することにしよう。

 で、先日の源氏山、扇が谷、鶴岡八幡に続き、この連休、鎌倉初心者コース第二弾として高徳院の鎌倉大仏と長谷寺を訪ねた。しかし、時期を選ばないと鎌倉が静かな雰囲気の中で歴史を振り返り、思索を巡らすのにふさわしくない場所であることを、たちまち思い知らされる結果となった。

 その混雑ぶりである。まず、普段なら余裕で座れる横須賀線の電車は、休日の今日は品川から既に満員。鎌倉駅に到着すると、一本しかないホームは下車した人々の群れで身動きが取れない。上りの電車を待つ人とぶつかりながら改札へ出るのに押すな押すなの渋滞。ようやく江の電ホームにたどり着くと、今度は電車待ちの列がホーム下まで並んでる。なんと車両の乗降口を示すラインに沿って人が何重にもとぐろを巻いて待っている。一本目の電車には満員で乗れず。15分待って次の電車にようやく乗れたが、最近珍しいほどのぎゅうぎゅう詰め。長谷寺駅でなんとか人をかき分け降りると、これまた出口に向かって渋滞。改札を出るのに5~6分ほどかかる。駅からの道は狭くてそこに車と歩行者が充満していてこれまた大渋滞。歩道など人がようやくすれ違い出来るほどしかない。当然車道を歩く人もでてくる。通りの両側は土産物屋がぎっしり...もうこれ以上記述したくないほどの大混雑。カオスとはこのことだ。長谷寺も高徳院ももちろん観光客でいっぱいだ。帰りはちょうどバスが来たので飛び乗り、一目散に鎌倉駅まで、と思ったが、甘かった。乗ったは良いが渋滞の中で立ち往生。動かない。鎌倉時空旅に最初から高いハードルが立ちはだかり、前途に暗雲が垂れ込め始めた。

 鎌倉という町は、三方を山と谷に囲まれ、海に面した狭い町だ。守るに容易、攻めるの難しい、そのような土地だからこそ武家政権が幕府を開設、統治の拠点に選んだ訳だから。しかし、首都圏3000万人の人々にとって、手軽に出かけられる「歴史の町」として人気があり、休日ともなればこの狭い町に電車や車でどっと押し掛ける。明治以降は、静かな郊外の住宅地、別荘地であった町だけに、町中は交通機関もそれなりのトラフィックしか想定していない。切り通しと狭い道が特色の町だし、人気の江の電がいい例だ。こののどかな海岸線を走る単線のローカル電車に、怒濤のように押し掛ける観光客を許容できるキャパはない。狭い土地で拡張の余地もない。元々そういう風に出来てないのだ。

 つくづく東京生活は、どこへ行っても大勢の人の波との戦いだ。移動も居住も食事も観光も休息も... 新幹線や高速道路が出来て郊外や地方の観光地へも簡単に行ける。それだけに軽井沢や富士山のようなリゾート地へ行っても人出だけは都心並みだ。シーズン中の京都の混雑も新幹線で2時間の首都圏からの人の流入が大きい。「心の休日」なんてキャッチコピーが心に響かない。鎌倉が世界遺産に選ばれなかった理由の一つに、この大渋滞問題があったとも聞く。鎌倉の住人にとっては迷惑な話だろう。

 という訳で、いきなり愚痴の方が先立ってしまい、長谷寺の十一面観音も高徳院の阿弥陀如来(大仏)も、その混雑ぶりの印象が強すぎる分、参拝のご利益が薄れてしまったような気もする。いや、雑踏くらいでめげていてはいけない。ただ、よくよく世俗の欲望と煩悩の沼に足を取られた私のような凡人には、仏の道は遠い。

(1)長谷寺の十一面観音立像(長谷の観音様)

 長谷寺の観音様は大和の長谷寺の観音様によく似た立ち姿で美しい。言い伝えではこの十一面観音像は奈良時代723年に二体造られ、一体を大和の長谷寺に、もう一体は海に流した。それが15年後に鎌倉に流れ着いてまつられたのが鎌倉長谷寺の観音様だと。しかし仏像の制作年代を測定してみてもこの伝承の真実性は疑わしいが、その由来、創建の歴史があまり解明されていない寺、仏像であるが故に、このような言い伝えが後世になって語られたのだろう。寺伝によれば長谷寺の開基は藤原房前、開山は徳道とされ、奈良時代の738年の創建とされているが、鎌倉時代から室町時代、江戸時代の建物や仏像が多く、中世以前の歴史は謎である。

 大和の長谷寺は、平安時代に入ると観音信仰の霊場として、都の貴族たちの人気スポットとなり、長谷参りが盛んになった。一方、鎌倉時代に開かれた武家の町鎌倉に何時頃から観音信仰が盛んになり、誰がそのブームを支えたのか興味深い。武家の町らしく臨済禅の寺が多い土地柄だし、また日蓮宗発祥の地で日蓮宗寺院も多い。鎌倉はあまり商業地や町人の住む地域の少ない政治都市であったので、庶民による観音信仰が盛んになったとしても鎌倉幕府滅亡以降、室町時代のことであろうか。ちなみに大和長谷寺は現在は真言宗豊山派の総本山。鎌倉長谷寺はどの宗派にも属さない単立寺院である。長谷寺からは由比ケ浜が展望出来る。海の見える古刹というのも鎌倉ならではだ。

(2)高徳院の阿弥陀如来座像(鎌倉の大仏様)

 一方、奈良東大寺の大仏様に並ぶ有名観光地である鎌倉の大仏様の方も、その創建の起源は謎に包まれている。創建時は真言宗、今は浄土宗である高徳院は、その開基、開山、時期を含めて不明である。大仏建立の由来についてもあまり多くの記録が残ってないと。吾妻鏡などいくつかの記録を寄せ集めてみると、創建当初は木造仏であったが、大風で仏殿もろとも倒壊し、再建したのが金銅仏である現在の大仏だとされている。やはり同時期に再建された大仏殿は、明応7年1498年の明応地震、津波で倒壊し、金銅仏のみが残った。以来500余年のあいだ露座のままとなったと言われている。

 大仏鋳造にあたっては、当時日本で産出量が少なかった銅の確保が課題であったと言う。結局、中国の宋から多くの銅銭を輸入し、これを鋳潰して鉛を混ぜて使ったと言われている。一説に一人の僧が勧進元となり民衆の喜捨による再建であったと言われているが、これだけの金銅仏を鋳造する技術、宋からの銅銭の大量輸入、やはり時の権力者、すなわち鎌倉幕府のイニシアティブとコミットメントがなければ出来まい。しかし、それらに関する記述は残されていない。いったい何のために誰が建立したのか謎なのだ。ちなみに、鎌倉の大仏様は阿弥陀如来だ。奈良東大寺は盧遮那仏を本尊とする華厳宗で、鎮護国家思想の下にいわば国家事業として聖武天皇により創建された官寺である。鎌倉の大仏様は、浄土信仰、阿弥陀信仰の盛んになった平安時代の以降の創建なのだろうか。

 ところで明応地震では、このように長谷が津波に見舞われ、大仏殿が流され倒壊している訳だから、今でも鎌倉の町は津波の警戒を怠ってはいけないということだろう。

 長谷寺も大仏様もこのように大勢の人が、大混雑をものともせずに押し掛ける有名観光地なのに、その由来、歴史的背景がこれほど解明されていないことも珍しいのではないか。長谷観音様は奈良時代、平安時代にさかのぼる「大和由来」に思える節があるものの、それを示すきちんとした記録が見つかっていない。東国の武家の都に、上方の都の歴史に起源を求め、その文化との繋がりと信仰を移植しようとした痕跡なのだろうか? 週末に鎌倉に押し掛ける群衆にとっては、きっとそんな曰く因縁などどうでもいいのだろうが。



Kannon

(鎌倉長谷寺の十一面観音立像:寺のHPから引用)

20111205_2361765

(大和長谷寺の十一面観音立像:寺のHPから引用)

20131013dsc_9319

(鎌倉の大仏様。高徳院阿弥陀如来座像。この正面からのアングルが一番見慣れた姿だ)


20131013dsc_9357

(鎌倉の大仏様。この角度から見ると末広がりの安定したフォルムに見える)

20131013dsc_9345

(大仏様の後ろ姿は少し猫背。なにか人間の苦悩を背負う姿に見える...)

スライドショーはここから→

<embed type="application/x-shockwave-flash" src="https://static.googleusercontent.com/external_content/picasaweb.googleusercontent.com/slideshow.swf" width="600" height="400" flashvars="host=picasaweb.google.com&captions=1&hl=ja&feat=flashalbum&RGB=0x000000&feed=https%3A%2F%2Fpicasaweb.google.com%2Fdata%2Ffeed%2Fapi%2Fuser%2F117555846881314962552%2Falbumid%2F5934204320721617057%3Falt%3Drss%26kind%3Dphoto%26hl%3Dja" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer"></embed>
 
 (撮影機材:Nikon D800E+AF Nikkor 24-120mm f.4)



筑前の珠玉 秋月

2013年09月24日 | 旅行記
 秋月は、よく筑前の小京都と言われる。今は福岡県朝倉市秋月になっているが、かつては朝倉地方一帯を治める城下町であった。地元の観光パンフレットにも「筑前の小京都 秋月」と記されている。しかし私はこの「小京都」という形容に出会うたびに違和感を感じる。地方に古い町並みが残っているとなんでも「小京都」という。島根県の津和野などもそうだ。「山陰の小京都 津和野」という具合だ。多分、ある時期の観光キャンペーンの時に誰かが言い出したキャッチフレーズなのであろう、歴史的には何の根拠もない形容だ。秋月は京都のコピーでもなければ、小さな京都でもない。れっきとした黒田家秋月藩5万石の城下町だ。「小京都」とか「なんとか銀座」とか、中央の成功モデルをそのまま地方に展開コピーするその手法と思考は、そもそも分国化されていた時代のそれぞれの国の「国府」であった町を形容するにふさわしく無いのは明白だと思う。秋月は、その美しい名前と、城下町としての景観、古処山と美しい田園風景、自然環境とがうまく調和した独特の魅力を持った町だ。

1)秋月氏の時代
 秋月は、古くは箱崎八幡宮の荘園秋月荘であったが、鎌倉時代に入ると豪族秋月氏が山城を構えた。秋月氏は鎌倉時代以来の武家一族で、秋月の町の背後にそびえる古処山城を拠点に朝倉地方を支配していた。戦国乱世の世になると、大友氏の支配下にあった朝倉地方で反旗を翻し、島津氏と組んで大友領に進出。筑前、筑後、豊前11郡36万石の戦国大名に成長する。しかし、大友方の立花道雪や高橋紹運に阻まれてついに博多には進出できなかった。戦国時代の九州は豊後の大友氏。肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏の三つ巴の争いの渦中にあった。日向の支配権を巡って島津氏と大友氏が激突、耳川の戦いで大友氏が破れる。こうして島津氏は薩摩、大隅、日向三国の支配を確立。さらに九州支配に向けて大きく前進する事となったが、その島津氏の北上を阻止したのは大友宗麟の救援要請を受け出陣した豊臣秀吉の軍師黒田官兵衛であった。黒田官兵衛は島津を南九州に追いやり、荒廃した博多の町を復興した。こうして秀吉の九州平定は終わった。このとき島津側についていた秋月氏は豊臣軍に降伏する。やがて秀吉によって秋月氏は日向高鍋3万石に移封される。

 ところで、戦国時代の九州における覇権争いの歴史は意外なほど後世に語られていない。これも司馬遼太郎史観のなせる技だろうか。司馬が取り上げたストーリーだけが日本の歴史であるかのように。どうしても近畿/中国/東海/信越/関東を中心とした天下統一物語りがメインになるのは仕方ないとしても、平家の財力の根拠地であった西日本と、源平合戦以降、鎌倉から派遣されて来た西遷ご家人達の末裔である西国武士団と地元の国人武士団の動きが、なぜ天下統一物語りのもう一本の伏線にならないのか。中国の覇者毛利氏の背後には、豊後の大友氏や、薩摩の島津氏、肥前の龍造寺氏といった有力大名がいて、天下の形勢に影響を与えていた。しかし大陸との交易上も重要な国であるはずの筑前は、太宰府以来の少弐氏や、肥前の龍造寺氏、さらには長門の大内氏、豊後の大友氏など、博多を巡る権益争いは熾烈であったが、一国を支配する大名はなかなか現れない。名島城に入城した小早川隆景が初めての筑前国主となるが、本格的な筑前一国統治は関ヶ原後、黒田氏の入国を待たねばならない。いずれも「天下人」となった豊臣秀吉や徳川家康の九州支配のプロセスの結果なのだ。やはり島津氏の薩摩や龍造寺氏の肥前(後には鍋島氏に引き継がれるが)、そして毛利氏の長州が「天下」に影響を及ぼすのは明治維新を待たねばならなかったようだ。

2)黒田氏の時代
 関ヶ原の戦いの後に、東軍勝利に功績のあった黒田長政は52万石の大大名となり、筑前に入国した。長政(孝高すなわち官兵衛すなわち如水の長男)はまず小早川隆景が築いた名島城に入城。やがて福崎に居城を築き、一族の出身地である備前福岡の名を取って福岡城とした。このとき長政は叔父の黒田直之を筑前のもう一つの重要な拠点である秋月に配した。直之は孝高と並ぶ敬虔なクリスチャンであり、教会を建て、宣教師を集め、秋月は信者2000人を数える九州の布教拠点となった。しかし直之は秋月に遷りわずか10年で世を去った。

 その後、長政は死に臨んで、3男の長興に秋月藩5万石を分知するように遺言する。長男で二代福岡藩主忠之は、遺言通り長興を秋月5万石の藩主とした。これが黒田秋月藩の始まりだ。その後,福岡本藩藩主忠之による、秋月藩の「家臣化」、すなわち大名として認めずとする措置や、幕府の一国一城令で,黒田筑前領内のの東蓮寺藩などの支藩が廃止されたりしたが、秋月藩は幕府から大名としての朱印状を貰い、藩主は甲斐守の官位を朝廷から授けられ、江戸出府が認められる大名として明治維新まで存続する。

 秋月藩は初代の長興(ながおき)や中興の祖と言われる8代長舒(ながのぶ)など、領民に慕われる名君を生んでいる。もともと秋月藩領内には豊かな田園地帯も殷賑な商業地もなく、藩はのっけから財政難に見舞われていた。長興はそれでも狭い山間部の新田開発を取り組み、山林事業を起こし、領民の年貢を低く抑え、まさに治山治水、質素倹約、質実剛健を旨とした藩政に取り組んだ。島原の乱では、財政が苦しい小藩ながらも藩主家臣一丸となって乱鎮圧に当たり、武功を上げた。またその恩賞を公平に分け、以来、藩主としての長興のリーダーシップ、君主としての名声を確立したと言われている。

 一方、この時期、福岡本藩の藩主をついだ長男忠之は、その不行跡や暴君ぶりが、遂には御家騒動に発展する事態を招いた。孝高以来の忠臣栗山大膳は、幾度も君主に諫言したが取り入れられず、ついに窮余の一策として幕府に「我が君主に謀反の疑念有り」と訴え出る。いわゆる「黒田騒動」である。幕府は結局、筑前一国を一旦黒田家から召し上げ、ついで再度黒田家に知行するという苦肉の策で事態を乗り切る。栗山大膳は奥州盛岡藩お預けとなり、そこで生涯を閉じる。栗山大膳は盛岡藩では罪人として扱われるのではなく、忠義の人として厚く遇されたという。こういう事もあって、人はよく忠之と長興を比較する。長政は長男忠之ではなく、有能で人望も厚い3男長興に福岡本藩を継がせたかったのだ、という言い伝えが後世まで伝わっている。

 一方、秋月藩中興の祖と言われる8代藩主長舒は、米沢藩上杉鷹山の甥に当たる。この偉大なる叔父を尊敬し、その志を藩政に生かし領民に善政を施したと言われている。学問を重視し、7代藩主長堅の時に創設された藩校稽古館に福岡本藩から亀井南冥などの高名な学者を招聘し、その弟子、林古処を訓導として多くの弟子を育てた。やがて稽古館は、文人墨客の集まるいわば「秋月文化サロン」の中心となり、米沢の興譲館に勝るとも劣らない繁栄を謳歌する。

 秋月藩は福岡本藩同様、幕府から長崎勤番を仰せ付けられており、長舒の時代には長崎の警備の任に当たった。小藩としては厳しい役務であったことであろう。しかし、したたかに長崎で多くの西欧文化を吸収し、秋月に医学や土木技術を導入した。現在野鳥川に架かる眼鏡橋は、長崎から石橋の建築技法を取り入れ築造したのもである。野鳥川が氾濫するたびに橋が流されて困っていた領民の悲願達成で大いに感謝されたと言う。

 ちなみに長舒は日向高鍋藩の秋月種実の次男であった。秋月家と言えば、あの戦国武将にして秋月朝倉の領主であった秋月氏の子孫である。秀吉の九州平定で降伏し、祖先伝来の地秋月から遠く日向高鍋3万石に改易された無念の歴史を持つ家である。時代をへてその子孫が、秋月黒田家8代藩主として父祖の地のに返り咲いた訳だから感慨無量であった事だろう。

3)秋月の乱
 時代は下り、明治になっても秋月は歴史の表舞台から退場していない。明治新政府のの廃藩置県、廃刀令、俸禄廃止が強行される。すなわち武士が士族としての身分は残すものの、サムライとしてのアイデンティティー、生活存立基盤を失うことになるのだ。新政府内の征韓論の路線対立もあって、下野した西郷や江藤、前原らの参議有力者を中心に西南諸藩の士族の間にしだいに新政府への反感が募り、不平士族の反乱に発展して行くことになる。江藤新平らの佐賀の乱を皮切りに、ここ秋月でも、熊本の神風連の乱に呼応して宮崎車之助等が蜂起する。秋月の乱である。豊前豊津の同志が決起に呼応するはずであったが裏切りに会い、新政府の小倉鎮台軍に制圧され失敗する。ちなみにこのときの鎮台司令官は若き日の乃木希典。その後、前原一誠の萩の乱などの不平士族の反乱が遼遠の火のごとく広がってゆくが、その最大にして最後の乱が西南戦争である事はいうまでもないであろう。秋月には決起士族が結集した田中神社がある。しかし、今はそんな血気にはやった人々がいた事が信じられない穏やかさだ。

4)エピローグ、そしてプロローグ
 廃藩置県、秋月の乱でラストサムライ達が去った秋月は、静かな田園集落へと変貌してゆく。そして、歴史の表舞台から静かにフェードアウトして行く。今ここ秋月の地に立つと、往時の黒田家居館跡や稽古館跡、杉ノ馬場(いまは桜の名所となって桜馬場と呼ばれている)、眼鏡橋やわずかに残された武家屋敷に往時の面影を見ることが出来る。しかし驚く事に、今も残る城下町としての縄張りは初代藩主黒田長興が行った縄張り以来ほとんど変わっていない。士族が城下を去ったため、武家屋敷の多くが田畠になったが、今日まで大きな災害もなく、都市化の波にも洗われず、昔の城下の町の構造をそのまま残している。奇跡のように。かつては文化の中心として古処山麓に栄えた城下町も、今は自然との調和が美しい静かな田園集落となっている。秋月城趾に位置する秋月中学の生徒達の元気な「こんにちわ」の挨拶が心地よい。秋月人の矜持と心は時代が変わっても残っているのを感じる。さてこれからの秋月はどんな歴史を歩むのだろう。


 秋月への行き方:
 福岡から車なら高速で甘木インター経由であっという間に到着出来る。しかし、秋月を訪ねるなら,もう少し「遥けき所へ来たもんだ」感を味わうべきだろう。やはり「ローカル線と路線バスの旅」が一番だ。

 西鉄福岡天神駅からは天神大牟田線急行で小郡下車(約25分)。レイルバス甘木鉄道(旧国鉄甘木線。通称あまてつ)乗り換えで甘木駅下車(約20分)。ないしは天神大牟田線宮の陣乗り換えで西鉄甘木線経由甘木というルートもある。駅前のバス停から甘木観光バス(路線バス)で野鳥、だんごあんへ(約25分)。

 JR博多駅からなら、鹿児島本線快速で基山下車(30分)。ここが甘木鉄道の始発駅。甘木までは25分。あまてつは一時間に2本、バスは一時間に1本しかないので、乗り換え時間がた~ぷりある。ゆったり、のんびり、せかせかせず、辺りの田園風景を眺めながら旅すべし。ちなみに甘木/朝倉地方は邪馬台国九州説の比定地である(甘木駅前に卑弥呼の碑、日本発祥の地の石碑有り)。また、バーナード・リーチ絶賛の小石原焼の窯元も近くだ。

Dsc08940
(左が黒田家の居館、秋月城。壕を隔てて右は杉ノ馬場、今は桜が植えられて桜の馬場と呼ばれている。春は九州でも有数の桜の名所となる)

L1005872
(黒門。元は秋月城の大手門であったが、後に初代藩主長興を祀る垂裕神社への門となっている。秋の紅葉が美しい)

Dsc08947
(古処山の麓に広がる田園風景。コスモスが秋の訪れを告げる)

L1005842
(実りの秋。桜の馬場沿いの田圃に彼岸花が咲く)

Dsc08969
(眼鏡橋。野鳥川に架かる石橋)

スライドショーはこちらから→
<embed type="application/x-shockwave-flash" src="https://static.googleusercontent.com/external_content/picasaweb.googleusercontent.com/slideshow.swf" width="600" height="400" flashvars="host=picasaweb.google.com&captions=1&hl=ja&feat=flashalbum&RGB=0x000000&feed=https%3A%2F%2Fpicasaweb.google.com%2Fdata%2Ffeed%2Fapi%2Fuser%2F117555846881314962552%2Falbumid%2F5926284832004385329%3Falt%3Drss%26kind%3Dphoto%26hl%3Dja" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer"></embed>

(撮影機材:Leica M Type 240+Summilux 50mm f.1.4, Elmarit 28mm f.2.8 歴史ブラパチ散歩に最適のセット)


<iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="https://maps.google.co.jp/maps?f=q&amp;source=s_q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%B8%82%E7%A7%8B%E6%9C%88%E9%87%8E%E9%B3%A5+%E7%A7%8B%E6%9C%88%E5%9F%8E%E8%B7%A1&amp;aq=2&amp;oq=%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%B8%82%E7%A7%8B%E6%9C%88&amp;sll=36.5626,136.362305&amp;sspn=35.655214,72.070313&amp;brcurrent=3,0x35417749ab34ddef:0xe741408125b079f6,0&amp;ie=UTF8&amp;hq=%E7%A7%8B%E6%9C%88%E5%9F%8E%E8%B7%A1&amp;hnear=%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%B8%82%E7%A7%8B%E6%9C%88%E9%87%8E%E9%B3%A5&amp;t=m&amp;ll=33.465387,130.695591&amp;spn=0.025061,0.036478&amp;z=14&amp;iwloc=A&amp;output=embed"></iframe>
大きな地図で見る


筑前福岡から薩摩鹿児島への旅

2013年08月14日 | 旅行記
 九州新幹線の開通で、博多から鹿児島中央までたった1時間20分で行けるようになった。鹿児島も近くなったものだ。子供の頃、鹿児島といえば、心理的には東京、大阪よりも遠い「異国」であったような気がしていたものだ。東京から夜行寝台特急ブルートレイン「はやぶさ」で博多駅に降り立つと、そこからさらに4~5時間かけて西鹿児島まで。博多で降りる乗客のホッとした表情と対照的に、西鹿児島まで行く乗客の「まだ旅は終わっとらん」という充血した眼が印象的だった。私自身、博多から先のことはあまり考えきらんかった。熊本ですら「遠い」と思っていた...

 そもそも、人は「九州」とひとくくりにして語るが、九州は九州でも、福岡・博多と鹿児島では全く違う。よく「ご出身はどちらですか?」と聞かれて「福岡です」と答えると、必ずと言ってよいほど「ああ、九州ですか」と再確認するような反応が返ってきたものだ。私は「いや福岡です。つまり博多です」と改める。この返事には2つの内包するの意味があると思っていた。一つには、「九州」とひとくくりにしないでくれ。福岡と熊本と鹿児島はそれぞれ違う。二つには、福岡という町の九州における存在感の薄さ、換言すれば、福岡と言われてもピンと来ないので「九州」という大きな概念に包摂される「福岡」という捉え方に対する反発。せいぜい「つまり博多です」と言って個性を主張しようとするが、博多と福岡も実は違う町だから、なんとなくもどかしい。いまでこそ福岡は人口150万の九州一の大都会になっているが、当時は門司や熊本、長崎、鹿児島に比べると単なる通過都市のイメージであった。

 「九州」というある種強烈なイメージは、おそらく薩摩隼人や肥後モッコスのような九州男児(反権力、しかし保守、男尊女卑、酒が強い等等)のステロタイプイメージに起因するものなのかもしれない。しかし、九州は実に歴史的文化的背景を異にするクニグニの集まりである。鎖国以降発展した長崎はもう一つの異文化圏だ。大分、宮崎は九州の中では少し影が薄いように思われているが、大分は豊後の大友氏中心に栄えたの瀬戸内文化圏。宮崎は薩摩島津氏の影響を強く受けた地域である。

 北部九州は、魏志倭人伝にでてくる「倭国」の世界だ。邪馬台国の位置が論争になっているが、いずれにせよ今の北部九州の玄界灘沿岸が大陸との接点で、稲作文化を始め、日本における先進的な弥生文化の発祥の地であり、後の邪馬台国連合の重要な国々があったところであることには変わりがない。ヤマト王権が本格的に北部九州、筑紫に支配権を及ぼすのは「筑紫の磐井の乱」以降だ。最初は九州全体を「筑紫」と呼んでいたが、のちに、律令制が確立する時期には、筑紫国(筑前、筑後)、肥の国(肥前、肥後)、豊の国(豊前、豊後)、薩摩国(薩摩、大隅、日向)に分けられて、「九州」の文字通り九つの国名が定められることになる。

 考古学的に見ると鹿児島や宮崎などの南九州は、朝鮮半島の影響を受けた北部九州の稲作弥生文化圏の延長というよりは、その以前の縄文文化圏の影響を後世まで引きずっているように思われる。黒潮に乗って、琉球・南西諸島経由で南方の文化が上陸した地域だ。飛鳥。奈良時代には「隼人」と呼ばれる人々が勢力を保ち、奈良時代も後半になってようやくヤマト王権・大和朝廷の支配下に入るという歴史を持っている。ちなみに記紀によれば中津国である大和、日本発祥の地、天孫降臨の地は、なぜかこのまつろわぬ民「隼人」の土地、日向の高千穂であることになっている。一方、九州中央部の阿蘇山系に位置する熊本・菊池地方の土着勢力は「熊襲」と呼ばれる人々だ。3世紀半ばに中国の魏王朝から冊封を受けた北部九州の邪馬台国連合と対抗した、すなわち魏志倭人伝にいう「狗奴国」ではないかとも言われている。

 中世以降、鹿児島は、島津氏の領国支配の拠点となる。島津氏の出自には、源頼朝御落胤説、藤原摂関家筆頭である近衛家の荘園島津荘代官説、様々な説があるようだが、鎌倉幕府から、平氏の勢力が強かった西国九州をおさめるために派遣されてきた御家人であったのだろう。いわゆる西遷御家人である。また元寇のとき以降、任地である薩摩に本格的に定住し始めたと言われる。以来、曲折はありつつも薩摩、大隅、日向諸県郡と三州をおさめる君主として800年にわたってこの地に君臨した。このような例は日本史においても世界史においても希有であると言われている。

 しかも歴代名君が続き、「島津に暗君なし」と言われた。戦国大名として、一時は覇権を競った豊後の大友氏を破り、博多では大友氏、周防の山内氏の貿易利権を奪う勢いであったが、豊臣秀吉の九州平定作戦の下、黒田官兵衛の軍に破れ、薩摩に引きこもる。また1600年の関ヶ原合戦時には西軍に属し出陣したが、島津義弘は合戦に兵を出さず不動を保った。しかし西軍の負けが決まると、あの勇猛果敢さを歴史に残す敵中突破で鹿児島に帰国する。その後の徳川家康への恭順、和議工作に勝利し、本領を安堵され明治維新に至っている。この辺りが同じ敗軍の将となった毛利輝元と大きく異なる。中国地方の覇者であった毛利家は周防・長門二カ国に減封されて、長く苦渋を味わう。そしてその関ヶ原の恨みが250年後の幕末期、反徳川運動を爆発させる原動力となった訳だ。

 島津家は、江戸時代を通じて、徳川将軍家と浅からぬ姻戚関係を持ち、外様大名としては異例の二代の将軍の正室を出している。その一人が斉彬公の養女篤姫である。このような徳川幕府との関係から、幕末においては、倒幕一辺倒の長州とは異なり、幕府政権中枢に影響力を有していた。幕府に影響力を持つという辺りは同じ外様の土佐藩主山内容堂も同じスタンスであった。特に島津斉彬は先見性を持った英明君主である。生麦事件などの行きがかり上、薩英戦争で英国と戦ったが、その実力を双方共に認めあい、薩英同盟を結んで、欧米の文化、技術を積極的に導入した。薩摩藩英国留学生を送り込んだのもこの頃だ。そして斉彬のような開明的な君主の先見的な領国経営、世界戦略と、能力に応じた人材登用が時代のパラダイムシフトの原動力となり、明治新体制を作り出した。

 これまでも薩摩藩は、琉球を通じて中国や南方諸国との貿易で大きな利益を揚げてきた。鉄砲はポルトガル人により薩摩領の種子島にもたらされ、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、日本への布教にあたってまず鹿児島にその一歩を記している。大航海時代、16世紀末のオランダで作成された日本の地図に都市名が記載されているのは、Miaco(みやこ、京)の他には、Cangaxuma(鹿児島)、Facata(博多)、Firando(平戸)、Sacay(堺)のみである。鎖国政策の徳川幕藩体制下においても海上貿易は活発に行われ(江戸幕府からみれば密貿易だが)、ついには琉球を薩摩藩領にしてしまう。江戸や京都といった「中央」からの目線では南九州の辺境の地である薩摩は、幕末には西欧列強の北上戦略の危機にもさらされており、外に向かって世界戦略を持たざるを得ない地政学的位置にあったといえる。

 話はかわるが、薩摩の二大英雄、西郷隆盛、大久保利通は古くからの盟友であったが、新政府内の政争で西郷は野に下り、西南戦争で悲劇的な最期を遂げる。大久保は明治新政府の中枢にあって辣腕を振るうが、やがては不平氏族に暗殺される。西郷が倒幕/維新を導き、大久保が新しい日本の仕組みを作った。しかし、地元鹿児島では、圧倒的に西郷さんの人気が高く、大久保は全く人気がない。西郷さんの子孫は今でも地元の名士であるが、大久保の子孫は誰も残っていないそうだ。そういえば銅像一つない。最近になってようやく鹿児島中央駅前に「維新の群像」の一人として故郷に錦を飾ったが、このときも地元では大きな論争があったそうだ。故郷をあとにして中央で舵取りした大久保よりも、地元に帰って不平士族に担ぎだされた西郷さんの方が慕われる、という、中央政府を牛耳るようになった薩摩にあっても、なおアンチ中央意識はくすぶり続け、今に至っているのだろう。

 鹿児島の町を歩くと、他の城下町とは異なる空気を感じる。それはもちろん仙巌園などの島津氏の存在感や、西郷さんなどの維新の志士たちにまつわる旧跡、遺構が随所にみられることもあろう。まず城下町としてみると、鶴丸城は、城山を背負った平城で大きな天守閣などはない。しかも頑丈で無骨な石塀(石垣?)に囲まれている。昔の上級武家屋敷跡も石塀を連ねた堂々たる構えのものが多い。旧制第七高等学校跡や西南戦争ゆかりの私学校跡もその長大な石塀が残されており、歴史の移り変わりに関係なくその存在感を示している。白漆喰に瓦屋根といった典型的な城下町の趣ではなく、ここは石の文化の城下町だ。戦災で町が破壊されているにもかかわらず、「石の町」は往時の薩摩の都の風格を今に残している。

 明治維新後の廃藩置県で、多くの大名家は、領国を離れ、華族として東京で暮らし始めたが、ここ鹿児島は、今でも島津家が様々な事業や文化活動の中心にいる。島津家の別邸であった磯御殿、仙巌園も未だに島津家が所有し、運営している。斉彬公の手がけた近代化プロジェクトの遺構である尚古集成館(機械工場)や異人館(紡績工場外人技術者寮)も島津家により保存運営されており、有名な薩摩切り子も現在の島津家が復刻させ、工房を運営している。

 以前、福岡に大名文化の痕跡はあるか、というブログを書いたことがある。福岡が黒田氏の城下町であった趣があまりにも薄れていると感じたので書いたものだ。今回福岡から鹿児島へ旅して、改めて福岡藩と薩摩藩の違いを感じた。同じ外様大名、西南の雄藩と言われた藩であり、ともに徳川宗家との姻戚関係をも有する名家である。それが明治維新においては、それぞれにスタンスが微妙にずれて、薩摩は倒幕をリードした維新の功労者にして、新政府の主導的な役割を担うのに対し、かたや、福岡は最後の最後になって勤王倒幕派を大弾圧して維新に逆噴射する。維新直後には贋札事件なども起こし、版籍奉還の前に領国を没収される。そして新政府では福岡藩出身者は懲罰的冷遇を受ける。おなじ九州といってもこのギャップは大きい。

 黒田家は、江戸時代後期には世継ぎがなくて、他家からの養子が代々藩主を務めた。中でも蘭癖大名といわれた黒田長ヒロ(さんずいに専)は薩摩島津家からの養子で、島津重豪の13番目の子であった。島津斉彬の大叔父でにあたるが二歳年下で仲が良かったとされる。筑前福岡藩は、隣の肥前佐賀藩とともに、幕府から長崎勤番を仰せつかった藩で、長崎における西欧文化や技術にいち早く触れる機会に恵まれた。このように福岡、佐賀、鹿児島は蘭癖大名が育つ環境にあったと言えよう。薩摩藩は先述の通りであるが、肥前佐賀藩も鍋島直正(閑叟)は、藩内に日本で初となる反射炉を造り、また洋式の造船所を建設する等、藩の殖産興業につとめた。筑前福岡藩の長ひろも開明的な君主で、父島津重豪や斉彬の影響を受けて先進技術の導入に関心を示し、中洲に反射炉をもうけたりしたが、肥前や薩摩ほどの広がりを持たず、福岡藩内の近代化遺産は、いまその痕跡すら残っていない。

 同じように西欧の文化技術に触れ、近代化に意欲的であったにもかかわらず、筑前は、先述の如く明治維新では薩摩、肥前においてかれてしまう。皮肉な対照を見せることとなった訳だ。薩摩の島津、肥前の鍋島、ともにもともと関ヶ原以前から地元に根を生やした一族である。黒田のように、関ヶ原以降に他国から入国してきた大名とは異なる。いわば転勤してきたサラリーマン社長と地元の創業者社長の違いみたいなものを感じてしまうのは考え過ぎだろうか。そして、これは今も昔も変わらないような気もする。

Dsc07974
(尚古集成館。斉彬公の近代化プロジェクトの一つで集成館機械工場跡。石造りの洋風建築だ。今は薩摩藩の産業遺産の博物館になっている)

Dsc08185
(復刻された薩摩切り子。ぼかしの技法は薩摩独自のもの。その美しさも価格も宝石並みだ。店頭在庫は限られておりすべて職人の手仕事なので、注文してから入手まで最低半年待つことになる。)

<embed type="application/x-shockwave-flash" src="https://static.googleusercontent.com/external_content/picasaweb.googleusercontent.com/slideshow.swf" width="600" height="400" flashvars="host=picasaweb.google.com&captions=1&hl=ja&feat=flashalbum&RGB=0x000000&feed=https%3A%2F%2Fpicasaweb.google.com%2Fdata%2Ffeed%2Fapi%2Fuser%2F117555846881314962552%2Falbumid%2F5911558756773296753%3Falt%3Drss%26kind%3Dphoto%26hl%3Dja" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer"></embed>
(撮影機材:Leica M+Summilux 50mm, Sony RX100)