時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

「早良国」紀行

2016年11月12日 | 日本古代史散策
 
我が国最古の王国「早良国」を行く ~「三種の神器」が出土した吉武高木遺跡~

 飯盛山の山麓に広がる「吉武高木遺跡」発掘後は埋め戻され「やよいの風」史跡公園として整備が進められている。 ......
 

 


初期ヤマト王権とは? 〜彼らはどこから来たのか?〜

2016年10月28日 | 日本古代史散策

 

2009年秋の纒向遺跡発掘現場

 

 

 フロンティアの移動。

 

 10万年前にアフリカを出た人類は、アラビア半島からユーラシア大陸の西端に向かった一団と、ヒマラヤ山脈の北と南に分かれてユーラシア大陸の東へと進んだ一団とに分かれた。そして、その一部が3万年前には日本列島に移動して来た。主にシベリア樺太経由北方ルート、朝鮮半島ルート、琉球・奄美黒潮ルートから入り合流したとみられる。人類はグレートジャーニーの終点にたどり着いた。

 

 彼らは列島内に住み着き、のちに考古学者たちが「縄文時代」と呼ぶ長い長い安定した時代を形成する。最近再認識されているように、縄文人たち(現日本人)は長期にわたるサステーナブルな社会を形成し、縄文土器に象徴される豊かな文化を生み出した。一つの文化がこれほど継続したのは人類史上稀有なことであると。彼らは自然と共生し、漁ろうや狩猟と採集を基本とする生活を営んだ。初期には移動を旨とし、後期には徐々に定住(海岸べりや照葉樹林帯)し集落を形成するようになる(三内丸山遺跡。上野原遺跡など)。

 

 しかし、3000年ほど前、紀元前5〜10世紀頃、列島の原住民である縄文人にとって大きな生活・文化的変化を伴うパラダイム転換が起こり始めた。大陸から海を渡って列島に移動して来た人々により水稲稲作農耕が北部九州エリアに伝来する(板付遺跡、菜畑遺跡など)。安定的な食糧生産を可能とする稲作農耕は瞬く間に列島を東に伝播してゆく。列島の原住民である縄文人と外来の人々とは初めは争ったり、やがては融合したりしながら混血も進み、また列島の原住民も稲作農耕生活に適応したり、やがて新しい弥生人が列島の主役となってゆく。こうして弥生時代が始まる。そう!「豊葦原瑞穂の国」の始まりである。

 

 稲作農耕文化は、定住生活、土木/灌漑技術、高度な金属器といった道具生産、気象に対する知識経験、自然崇拝、穀霊神、祭事、労働力である人民の統率、生産物の分配、余剰生産物の蓄積と流通、交易、資源/生産物を巡る争い。首長・王の出現、環濠集落、ムラ、クニ、やがては国家の出現を促す。こうして狩猟採集生活を送っていた列島の原住民にとって新しい文明がもたらされた。

 

 こうして生まれた稲作農耕集落、ムラ、クニは徐々に国へと発展してゆき、紀元前4世紀〜紀元3世紀頃には大陸に近い北部九州が列島の中心、最先進地域となった。大陸側の視点で見ると文明の開発フロンティアが朝鮮半島から海を越えて日本列島へと移動し発展していったことを意味する。

 

 このころの北部九州の国々は、大陸の文化や技術を有した人々(中華王朝の攻防から逃れて来たり人々や、列島と半島との間を行き来していた人々)が移り住み、土着の現日本人(縄文人)と融合してできたムラ、クニ、王国であった。その指導者たちは少なくとも大陸中原の技術、文化、習俗、を理解していた人々であった。すなわち稲作農耕技術、青銅器/鉄器などの金属器生産技術、集団の統治、言語・文字、東アジア的な世界観(華夷思想、王化思想、朝貢冊封体制、神仙思想、道教、儒教的価値観など)。少なくとも中華王朝への朝貢、冊封の交渉には文字・言語、習俗、外交儀礼などの知識と経験が不可欠であったはずだ。これらを可能にしたのは大陸からの渡来人であっただろう。

 

 したがって倭国統治には中華王朝への朝貢と冊封が絶対と考えていた(早良国王、奴国王、伊都国王、邪馬台国王)。そしてこぞって朝貢冊封体制に組み込まれていった。その証拠が北部九州の首長墓から出土する「威信財」だ。これには勾玉、劍、鏡という三種の神器の他に、中華王朝・皇帝から下賜された前・後漢鏡・魏鏡、の数々が含まれる。もちろん冊封の証としての印綬(漢委奴国王、倭面土国王、親魏倭王など)がそうだ。中国のこのころの史書、すなわち「漢書」「後漢書東夷伝」「魏志倭人伝」などに登場する「倭国」の姿である。

 

 しかし、3世紀末頃には列島内のフロンティアーは徐々に東へと移動してゆく。やがてはその開拓・発展の進行ともない列島の中心が北部九州から徐々に東へ遷移してゆく。このころの列島には広範な地域にクニや国々の地域連合が生まれてくる。その中から列島内の生産、流通の結節点となる拠点地域が生まれそこに富や人が集まり始める。出雲、吉備、讃岐、但馬など。そしてやがては奈良盆地。大陸文化の窓口であり、列島の最先進地域である北部九州チクシ倭国世界から見ると列島の辺境であった地域がフロンティアとなり、やがて列島の中心として開発されてゆく。そして、理想的な位置どりと、地形的特色から安心できる囲まれ感を持った奈良盆地・ヤマトが「国のまほろば」として列島を支配する中心となってゆく。これが初期ヤマト王権(纒向遺跡)発生の背景である。

 

 以降、ヤマト王権の都、やがては天皇の都は奈良盆地内(飛鳥、奈良)、河内(難波)、山城カドノ(京都)と近畿の中を移動はするが、基本的には近畿地方が千五百年にわたって日本列島の中心となる。のちに武家政権の時代になって鎌倉や江戸といった東国に権力の一部が移動するが、依然統治権威である天皇は京都に居続けて、本格的に関東が日本列島の中心となるのは19世紀明治維新の天皇の東京奠都の時である。

 

 このように列島内の経済発展、「蛮夷の民」の服属、政治的統合、人口の増加に伴い、開発フロンティアは東へと拡大し、それに伴って政治経済の中心は東へと移動してきた。これが列島における「国家」形成プロセスの歴史である。整理すると、

 

1)チクシが中華文明のフロンティアーであった時代(北部九州に大陸から人が移り住み稲作農耕というイノベーションをもたらした。原住民(縄文人)と融合して弥生人が生まれ、やがてムラ、クニ、国ができる)

2)フロンティアーが東へと移動し列島の中心が近畿に東遷した時代(ヤマト王権の発生・いわば日本文明勃興/列島人のアイデンティティー認識の時代)。

3)さらに近畿から関東へフロンティアーが移動した時代(北海道・東北を含む列島全体支配の完成時代)。

4)フロンティアが海外に拡がった時代(この話はまた別途)

 

 

 

 変質する朝貢・冊封体制の受容

 

 先にも見てきたが、このフロンティアの東への伸展と統治中心の東遷という動きの中で重要なのは、列島内の統治において中華文明との関係、特に朝貢/冊封体制の受容がどのように変わっていったかということである。これがチクシ倭国とヤマト倭国を分ける大事なポイントであると考える。1)のように縄文人が東海の海中の列島で平和でサステイナブル社会を形成して居た中に、大陸の先進国中華帝国から稲作農耕文明というイノベーションが持ち込まれ、列島が中華文明のフロンティアになっていった。その時代にあっては最前線である北部九州の国、王権は中国王朝の冊封を得なければ成立し得なかった。もとより初期の北部九州沿岸の国々が、文化的にも大陸渡来の人々やその末裔のいわば居留地的国(いわば華僑の国)の性格を持っていたとすればなおさらである。彼らが(仮に亡命人、難民であろうと)母国の文明、習俗、権威付けというパラダイムの中で、さらには中華世界を中心とする東アジア的世界秩序のなかでその支配の権威を得ようとしたことは不思議ではない。そうした政治的な理由だけではなく、先進国中国との交易により、貴重な財物や資源を独占的に得る事ができるという経済的な便益も無視できない。

 

 しかし、時代が進み、開発フロンティアが列島の東へ伸び、それに伴って統治の中心が列島を東遷。徐々にではあるが列島自体が新たな文明の揺籃の地へと発展し、人々も大陸系と列島系の融合が進み、列島人、倭人が生まれ(みずから倭人と名乗ったわけではないが)、やがては日本人というアイデンティティーを持ち始めると、必ずしも統治の権威を中華王朝への朝貢冊封に頼らない(最新の文化や技術は依然大陸に依存しているとしても)国つくりを目指すようになっていった。ヤマト王権は3世紀後半から巨大な前方後円墳という独特のモニュメントを王権の列島全域への拡張のシンボルとして展開してゆく。さらに7世紀には律令国家体制の整備(先進国中国から取り入れたシステムであるが)という「近代化」を進め、乙巳の変、白村江の戦い敗北、壬申の乱を経たのち迎える7世紀〜8世紀初頭の天武・持統帝の時代を迎える。国号も自分たちが名乗ったわけでもない「倭国」ではなく「日の本」とし、中華世界の頂点にいる天帝(皇帝)の向こうを張って大王(おおきみ)をもう一つの天帝、すなわち天皇(すめらみこと)と宣言する「大宝維新」の時代を迎える。まさに中国の史書が描いた「倭国」の姿ではなく、日本書紀、古事記が描く「日本(ひのもと)」という「国家観」である。

 

 すなわち2)の時代は中華的大宇宙から脱して日本的小宇宙へと移行してゆく時代の始まりだった。こうして新興の列島帝国「日の本」は天皇が天孫族の末裔という自らのルーツと、そこに依拠する権威に基づいて統治する国となった。すなわち中華皇帝から冊封された国ではない。こう理解すると魏志倭人伝に記述のある魏に朝貢し、冊封された邪馬台国とその女王卑弥呼は、2)の時代の国や王ではなく1)の時代のものだと考えるのが自然だ。つまり邪馬台国は北部九州にあったチクシ倭国で、卑弥呼やトヨなどのその系譜は、奈良盆地に発生した初期ヤマト王権とは繋がらないと考えた。だからこそ日本書紀も古事記も邪馬台国/卑弥呼について記述しなかったのである。記紀の歴史認識、思想は、日本(日の本)は天孫が降臨して建国した国である。天孫族の子孫である万世一系の天皇が支配する国であって、決して大陸からの渡来人やその末裔がルーツではない。したがって中華王朝に朝貢して冊封されたチクシ倭国の国々(奴国、伊都国、邪馬台国)はヤマト王権のルーツでは断じてない、と。少なくともそう主張した。

 

 とは言え、倭国が大陸の文化圏、東アジア世界秩序に無縁で、中華王朝やその伝達者である朝鮮半島の国々からなんらの影響をも受けずに、独自に列島に自生した国家であるという記紀のストーリーはフィクションであることは言を俟たない。7世紀末という時代を背景としたある政治的意図を持った主張である。しかし、新生ヤマト王権も初期の頃は朝貢冊封体制を意識していた。中華王朝の朝貢冊封体制に組み込まれていた邪馬台国などチクシ倭国との王統の系譜に繋がりはないものの、4世紀に入っても列島の支配を強める「天下統一」の過程では、ヤマトの大王たちは中華王朝に、その支配権威の正当性を認めさせるべく遣使し、冊封を求めていたのではないかと思われる(いわゆる「空白の4世紀」。魏から晋、さらには晋の分裂、五胡十六国という中国王朝興亡の騒乱が260年も続いた時代で中国側の史書に記録が見つかっていないが)。5世紀に入ると朝鮮半島における、鉄資源を巡る権益を認めさせるためにも高句麗や新羅に対抗して中華皇帝に爵号や軍号を求めている(5世紀の晋書、宋書の「倭の五王」の記述)。

 

 こうして奈良盆地のヤマト倭国王権も(邪馬台国などチクシ倭国ほどではなかったが)列島内の「天下統一」、朝鮮半島における鉄資源権益確保のためには、利用できる権威は利用しようと考えた。やがて青銅器生産に必要な銅資源や錫、水銀などの鉱物資源が列島内でも供給可能となり、経済的にも自給力を徐々に獲得するにつれ、また、政治的にも中華王朝が必ずしも倭国大王が期待するほどに権威の承認をせず(特に朝鮮半島諸国との関係上)、自国の統治と権益にとって思うように朝貢冊封体制が機能しなくなったと感じた時に、そこからの離脱と新しい権威の源泉を自ら創出し始めたと考えられる。これが3世紀末の初期ヤマト王権の「大王」からスタートして、5世紀の「治天下大王」の自称を経て、7世紀末の「天皇」宣言まで、約400年の列島統治の権威と権力確立の闘いと、中華世界的秩序からの離脱の歴史である。

 

 

 

 「初期ヤマト王権」とは何か? 彼らはどこから来たのか?

 

 さて、その初期ヤマト王権とは一体どのような王権であったのか。どこから来たのか。奈良盆地に土着の首長達のなかで抜きん出た首長が王、さらには大王に発展したのか? 振り返ってみると、(信じられないことだが)これまでヤマト王権のルーツについてしっかりと考えてみたことがなかった。神武天皇が九州から東征してきてヤマトで即位した、という記紀のストーリーが、九州からヤマトに「なんらかの勢力」が移ってきたらしい事を示唆しているのではないか、くらいの推測にとどまっていた。そもそも神武天皇はなぜ奈良盆地を選び、わざわざ九州から入ってきてそこで即位した、というストーリーが必要なのか? ただ今回は古事記や日本書紀の記述については立ち入らないでおこう。

 

 結論を先に言うと、この初期ヤマト王権は奈良盆地に自生した土着の首長が権力闘争(武力闘争)の末に獲得した王権ではなさそうだ。ヤマト王権(王のなかの王、すなわち大王)が有力豪族を氏族化し、優勢な武力で周辺諸国や「蛮夷の民」を平定服属させてゆく「天下統一」物語はこののち(3世紀末以降)の話である。考古学的に見ると、3世紀後半の初期前方後円墳が出現する前のヤマトには有力な首長の墳墓が見つかっていないし、よって北部九州の首長墓から多く見つかる威信財も出てこない。奈良盆地には幾つかのムラ・クニがありそれぞれに首長がいたが、「王」として認知される(冊封される)首長はおらず(ヤマトの王墓からは初期古墳時代を含めて中国製の鏡は一枚も見つかっていに。ちなみに卑弥呼に下賜された魏鏡ではないかと話題になった三角縁神獣鏡は全て仿製鏡(日本国内製)であることがわかっている。チクシ倭国の諸王が大陸との交流で倭国の覇権を競っていた2世紀から3世紀前半ころまでは、ヤマトは未だ辺境の地であった。王を自称し盆地内の主導権をめぐっての争いごともあったであろう。しかしチクシ倭国の「倭国大乱」のような天下の覇権を争うような事態にはならず、土着勢力がそのまま列島の支配者にのし上がる状況ではなかった。ところが3世紀末になると、突然のようにヤマトが倭国の中心として登場してくる。何が起こったのだろうか?

 

 おそらくこの時代の列島には、邪馬台国を盟主とするチクシ倭国連合の他にも、各地に有力な地域連合/王権(出雲、吉備、讃岐、但馬、越など)が出現していたと考えられる。列島内のフロンティアが東へと伸びていくに従ってこうした地域連合/王権は相互に覇権争いしたり、同盟したり、ちょうどのちの戦国時代のような様相を呈していたと考えられる。こうした列島情勢のなかから抜け出して力を蓄える国(例えば出雲など)が現れ、奈良盆地に進出した可能性もある(三輪山の神は出雲の神)。あるいは各地域の首長によって共立された大王が、有力勢力の支配権が及んでいない第三の地(すなわちフロンティアであるが)、奈良盆地に新連合王国の王都纒向を建設した可能性もある。あるいは、チクシ倭国の奴国や伊都国などの勢力の一部が2世紀の倭国大乱などで邪馬台国連合に敗れ、チクシ倭国から離反して東へ移り、各地の勢力とも合従連衡しながら辺境フロンティアの地である奈良盆地に新連合政権を打ち立てたことも考えられる。

 

 何れにせよ奈良盆地土着勢力が成長していったものではなく外来勢力が奈良盆地に入ってきたものであろう。それはチクシ以外の中華王朝の朝貢冊封体制に入らない(入れない)勢力や、チクシでの主導権争いに破れて離脱した勢力などの外来勢力だ。もちろん、その後の覇権を確立するプロセスは一本調子に突き進んだわけではないことは想像に難くない。初期ヤマト王権成立後も地方豪族や畿内の有力豪族を巻き込んだ王権のへゲモニー争いの連続であったことはのちの歴史が示している通りである。そういう点では「天下統一」の争いを繰り広げた群雄割拠勢力の戦国時代に似た状況があったのだろう。ただ大きく異なるのは、16世紀の武士団の棟梁である戦国大名は、武力平定を果たしたのちに、京都の天皇からの統治権威を獲得する(征夷大将軍、関白、太政大臣などの官位)ことで「天下統一」を果たすわけであるが、この時代はどうであったのだろう。チクシ倭国的な統治権威観によれば中華皇帝への朝貢/冊封(漢委奴国王、親魏倭王など)ということになるのだが。はたして列島内の地域王権の合従連衡による王の共立、連合王国という「戦国時代」を決着させた権威、すなわちヤマト王権を認めた権威はなんだったのか。

 

 前述のように、4世紀から5世紀初めの頃までのヤマト王権初期には、国内の統治、大陸との交易(主に鉄資源)を巡って、中華王朝の冊封体制下での権威を利用しようとした形跡がある。しかし、それはそれとして前述のように列島各地にはそれぞれの小国の王(自称)や首長(豪族)がおり、それぞれに自律的な存在であっただろう。だが先進的な文物や知識、資源、なかんずく鉄資源の獲得がそれぞれの地域における支配権を安定的なものにするためには必須であった。しかし、それは地域によって地勢的な有利不利があり、比較優位に立つ国、地域と連携したほうが自らの権威/権力を担保できる場合が出てくる。そこに緩やかな国の連合体を形成する「国の形」が生まれる経緯があった。それは1〜3世紀にはチクシ倭国連合(奴国、伊都国、そして邪馬台国女王卑弥呼を「共立」する)であったし、3世紀後半以降はヤマト倭国連合(ヤマト王権)であった。やがて、そうやって「共立」された王の王(King of Kings)、大王(おおきみ)は有力な首長たち(豪族/氏族)の支援を得ながら、軍事力も高め、列島内の支配権を得ていった。そのなかで、中華朝貢冊封型パターンをコピーしながら、徐々に大王(おおきみ)自らが他地域の王/首長/豪族に対して「統治権威を認証する」仕組み、すなわち「日本型の冊封体制」を築き上げていった。各地の首長/豪族にとっては地域における自律とヤマト王権への従属という二面性を持つこととなるが、王権に寄り添うことで、地域の対抗勢力/新興勢力との競合に有利に働くことともなり、比較的抵抗なく受容されていった。やがて6世紀には氏姓制(豪族の承認)が整備され、さらに7世紀後期になると律令制(豪族/氏族の官僚化)へと、天皇中心の中央集権的なヤマト政権が出来上がっていく。前方後円墳というシンボリックな墳墓形態がヤマトから地方に広まっていったことに、その考古学的な証左を見ることができる。

 

 残念ながら、この間の事情については文献資料がほとんどないので文献史学的に解明することは困難である。何度も述べているように日本側に資料である古事記、日本書紀は編年体で記述されていないし、時の編纂者の意図に合わせた潤色や脚色が多くて、史実を解明するにはかなり批判的に読み解かねばならない。一方、中国の史書である魏志倭人伝は2〜3世紀の倭国の事情を比較的詳細に記述している。しかし、魏の使いがどこまで倭国内を自ら見聞した結果を記述しているかは疑問だ。おそらく伊都国にいて邪馬台国の役人からの聞書きで倭国を描写したのだろう。少なくともこの記述では邪馬台国がどこにあったのかもはっきりしないのが実情だし、まして邪馬台国(女王国30カ国)支配の及ばない倭人の世界(傍国や倭種)の詳細は聞いてもいないだろうし、報告もしていない。倭人も説明もしていないだろう。特にこの時代に繁栄を誇っていたと思われる出雲や吉備についての記述も見当たらない。当時の倭国(列島)の全容を知るには、その記述には自ずと限界がある。さらに彼らが見聞した倭国の姿は、当然ながら限られた時間スペースでの出来事、すなわち彼らが生きた時代をスポット的に記述したものである。よって倭国の歴史を通史的に俯瞰することはもとより不可能だ。そこには卑弥呼/イヨ以降の倭国の王権の消息に関する記述もない。

 

 そうなると、考古学的な調査研究が重要になってくる。初期ヤマト王権とは何者なのか?は今後の考古学的な発掘成果から徐々に解明されてゆくだろう。初期ヤマト王権の遺構と考えられる纒向遺跡(これ自体画期的な考古学的発見である)がこれまでの弥生的な農耕集落的性格を持たない人工都市であること(東西軸に配置された居館、神殿。運河など)や、纒向遺跡からはチクシから尾張にいたる全国からの土器が検出されていること。そして纒向都市の成立とともに奈良盆地内に紀元前3世紀から続いた弥生の環濠集落唐古・鍵遺跡が急速に衰退消滅する様など、何かしらの人為的な外圧により急速にフェーズ転換が起こり、王都が出現し、人が集まり、列島の中心として発展していったらしいことを想像させる。このころ箸墓古墳などの巨大な前方後円墳が奈良盆地の東の山麓に出現し、ヤマト王権の全国支配に伴い、中華王朝による冊封に代わる、統治権威を認証するものとして広がっていった。こうしたモニュメント的な墳墓形態と威信財を副葬する形は、奈良盆地に自生したものではない。吉備や出雲、筑紫の王達の葬祭習俗をさらに発展させたものであろう。その一方で、前述のように初期の大型古墳(メスリ山古墳、黒塚古墳など)からは中国製の鏡は一枚も発見されていない(卑弥呼が魏から下賜されたのではと話題になった大量の三角縁神獣鏡は仿製鏡(日本国内製)であることはすでに述べた通り出ある)。一方で北部九州のこの時期の王墓(伊都国の三雲南小路遺跡や平原遺跡など)からは魏鏡、漢鏡が大量に出土している。チクシ倭国とヤマト倭国の相違を際立たせる考古学的成果だ。結局、これは親魏倭王とされ印綬と魏鏡100枚を下賜された邪馬台国の女王卑弥呼はヤマトにいた訳ではなく、纒向の初期ヤマト王権には繋がらないということを示唆している。これをもう少し検証するにはさらなる発掘調査の成果(例えば箸墓古墳の副葬品など)が期待されるが、ヤマトの大型前方後円墳はどれも陵墓指定されていて調査ができないことがネックになっている。

 

 これから期待される考古学的発見の中では、邪馬台国遺構(纒向遺跡が卑弥呼の宮殿であるとする考えには組しない)がどこでどのような形で発見されかが一番の関心であろう。例えば「親魏倭王」の印綬や、魏鏡100枚、卑弥呼の墓などが見つかれば「邪馬台国位置論争」は一挙氷解だ。邪馬台国卑弥呼と初期ヤマト王権の関係(別の系譜であるということ)が確定するであろう。他にも奴国王や伊都国王などのその後の消息や、魏志倭人伝に記述のない列島内の(卑弥呼の女王国30カ国以外の)国々、地域王権の実情、チクシと出雲とヤマトの関係などを解明する発見などがあれば、初期ヤマト王権を形作った人々の実像が見えてくるだろう。期待は膨らむ。しかし、そのような画期的な考古学的発見が謎を一気に解明するまでは、記紀を批判的に読み込み、その中から丁寧に史実に基づくであろうエピソードを取り出し、あれやこれや推理し、何か見えてこないか、感じないか「匂いを嗅いでみる」というカンの研ぎ澄ましが必要だ。イザナギ/イザナミの国生み神話、出雲国譲り神話、ニニギの天孫降臨神話、神武天皇の東征伝承。それら筑紫、出雲、大和を舞台とする建国ストーリーはなぜ生み出されたのか。そのなかにはヤマト王権の発生、出自、実態に肉薄する史実や記憶が潜んでいるのだろうか。ただ初期ヤマト王権の全貌解明を記紀の記述の解析に頼ろうとする以上、それらは科学的な手法ではなく、推理と空想の世界に止まらざるを得ない。なんらかの結論を導き出したとしても、それは事実をもって証明されるまでは「仮説」にすぎない。フリードリッヒ・エンゲルスの「空想から科学へ」とは異なり、「科学から空想へ」がしばらくは幅をきかせそうだ。楽しい空想だ... だから私のような古代史ファンが生まれる余地がある訳なのだが。

 

 

龍王山から展望する奈良盆地の風景

左から箸墓古墳、渋谷向山古墳、行灯山古墳

背景は右が二上山、正面が葛城山、金剛山

 

渋谷向山古墳の上方、アパート群左の集落内に纒向遺跡発掘現場

 

いわゆる大和国中

正面は二上山

手前は行灯山古墳

 

 

 

 


結局 「邪馬台国」はどこにあったのか? ~倭国「天下統一」の実相~

2016年04月19日 | 日本古代史散策

広大な筑紫平野と筑後川の恵み

ここが邪馬台国揺籃の地であったのであろうか

 

プロローグ:

 邪馬台国論争、すなわち「邪馬台国はどこにあったのか?」という論争。それは近畿にあったのか、あるいは北部九州にあったのか。他にも様々な場所が候補地として取りざたされる日本の古代史最大の謎のひとつだ。古くは江戸時代の新井白石、本居宣長から、明治の白鳥庫吉、内藤湖南など多くの著名な研究者から、アマチュア歴史家、ジャーナリスト、小説家、郷土史家、自治体の観光振興部門の人たち....これらの人々による数え切れないほどの論文、著作、記事、日記... であるがゆえに、最近ではむしろ専門の歴史研究者からは敬遠されるテーマにすらなっている。

 だがこれは推理小説のように面白い。「邪馬台国」「卑弥呼」に関する記述は三国志魏志倭人伝という中国の歴史書においてしか出てこない。その2000字ほどの文字情報が2~3世紀の日本列島の様子を文献上知る手がかりのすべてなのだ。不思議なことに肝心の日本の歴史書である日本書紀や古事記には「邪馬台国」も「卑弥呼」も出てこない。(唯一日本書紀の神功皇后の項で「一書に曰く」として女王が中国に使者を送ったと伝わると、軽く触れている部分はあるが)。したがって、限られた秘密のキーワードから多くの推理、仮説、物語がそれぞれの人の数だけ創出可能ということになる。みんなが歴史探偵になれる推理小説というわけだ。特に伊都国から邪馬台国への道程「水行陸行」の記述をどのように読むかが、近畿説/九州説の対立を生んでいるわけだ。しかし、もとより魏使は伊都国までしか来なかったようだし、記述された道程を実際に歩いたわけではない。おおよそ伊都国の一大卒などの役人からの伝聞にもとずく記述であろう。「女王国ははるけき彼方だ」という役人のカマシもあったかもしれない。したがって、一字一句にこだわりそれをいかに正確に再現してみてもあまり意味はない気がする。

 私もあえてこの問いは「蔵にしまって」きた。むしろ「邪馬台国」がどこにあろうと、弥生の倭国は、その中心がチクシからヤマトへと遷り、それが初期ヤマト王権につながり、やがていわゆる「大和朝廷」へと続いていったのだろう。それ以降の日本の歴史は多くの資料や考古学的成果で大方は解明されている。だったら「邪馬台国」がどこにあっても大きな歴史の流れに影響はない、くらいに考えた。

 しかし、最近、この問い(邪馬台国はどこにあったのか?)の自分なりの答えが見えてきたような気がしてならない。もちろん自然科学的な厳密さと明快さと合理性をもって証明できた、とはいかない。依然として多くの仮定、推論、偏見に基づく蓋然性のようなものではあるが。また、それは記述された邪馬台国への道程の解明ができた、ということではない。むしろそれを忘れることで見えてくるものがあるような気がし始めた。ということで久しぶりに「蔵にしまって」きた問いのホコリを吹き払って、その答えに挑戦してみることにした。

 

邪馬台国の時代とは(時代を俯瞰する):

  歴史は時に、全体の流れをマクロ的に俯瞰するということが非常に大事だと思う。あまりことの仔細に立ち入って、その分析、検証に埋没すると、結局何を知ろうとしているのかがわからなくなってしまうことがある。たとえ一定の結論に達したとしても「だからなに?」みたいな虚脱感にとらわれてしまう。まさに「木を見て森を見ず」。「理路整然と結論を間違える」ことになりかねない。「邪馬台国位置論争」などそのいい例だ。それは「では近畿だったらどうなのか?」「九州だったらどうなのか?」という次のステップの絵姿が見えてこないと論争そのものに意味がない。その結論により古代倭国の実相が見えてくるかどうかだ。それがその後の日本の歴史にどういう方向性を与えたかが見えてこなければならない。でなければ「邪馬台国地元誘致合戦」をやっている一部の地元のアマチュア郷土史家や、ご当地自治体の観光振興部門の人たちを喜ばせるだけに終わってしまうだろう。

 一方で、よく位置論争は意味がないという人もいる。実は私もそう思っていた。この終わりのないアマチュア的な趣味の世界っぽい議論に食傷気味であることもあろう。しかし位置の特定は大事だと考え直し始めた。なぜなら、当時の倭国の中心はどこで、当時の日本列島はどういう有様だったのか、どのような時代だったのかをシンボライズするからだ。ちょうど飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代と時代ごとにその時代の中心が変遷し、それぞれの様相が異なりつつ発展してきたことを我々は知っている。だからこそそれぞれの時代にはその時代の中心となった地名が冠されているわけだ。そして列島の中心が西から東へと移動してきた歴史を示してもいる。この線で行くと2世紀までの古代倭国の中心は筑紫の奴国、伊都国、あるいは邪馬台国であった。そうなるとその時代を「筑紫時代」あるいは「邪馬台国時代」として命名してもよいのかもしれない。その頃の列島がどのような政治状況/経済状況だったのかを知る手がかりとなる。邪馬台国位置論争はそうした意味で古代日本列島の実相を解明するカギになる。そしてそれは必ずしも伊都国からの「水行陸行」記述から位置を推理することではない。倭国が大陸に近いところ(北部九州チクシ)で発展してきた時代が、やがて列島の東(近畿ヤマト)へ移っていった。それは邪馬台国が九州から移ってきたのか、あるいは邪馬台国は近畿に発生したのか。そしてヤマトや京の都といった近畿中心の時代は、さらに江戸、東京といった東国の関東中心の時代へ移って行く。そういう歴史の画期「邪馬台国」の時代とはどのような時代であったのかを考えてみることで見えてくる。そのためには少し魏志倭人伝を離れて「邪馬台国の時代」をマクロ的視点で俯瞰してみる必要がありそうだ。

 

邪馬台国 近畿説vs九州説の論点とは:

  その「歴史の俯瞰」に入る前に、3世紀の日本列島にあって、魏志倭人伝に記述された邪馬台国が九州にあったのか、それとも近畿にあったのか、それが日本の古代史にどのように違いを生み出してゆくのか。近畿説/九州説の論点を少し整理しておこう。

 (邪馬台国近畿説)

 *3世紀には邪馬台国連合(30余国)を実態とする倭国は列島の「西日本全域に広がる広域連合国家」であったということになる。

 疑問点:だとすると倭人伝には、筑紫の国々、近畿ヤマトのほかの出雲、吉備、越といった地域国家/王権の記述がないのはなぜか?

*邪馬台国は初期ヤマト王権(三輪王朝)に繋がる国だ、ということを想定させることになる。すなわち女王卑弥呼は天皇家の祖先に当たるということになる。

 疑問点:記紀では卑弥呼にも邪馬台国にも言及しておらず、ヤマト王権、皇統のルーツであるという認識が一切記述されていないのはなぜか?

 (邪馬台国九州説)

 *3世紀時点では邪馬台国連合(30余国)を実態とする倭国は「北部九州の地域連合国家」であったということになる(いわば「チクシ倭国」)。

 疑問点:だとするとその時、列島の他の地域はどのような状況だったのか?近畿ヤマト地域国家は成立していたのか?

 *九州の卑弥呼/邪馬台国と近畿の初期ヤマト王権(三輪王朝)とのつながりについての説明が必要となる。

 疑問点:3世紀中に北部九州にあった邪馬台国が東征して近畿ヤマト王権に変身したのか?それとも系譜の連続はないのか?すなわち、邪馬台国はのちのヤマト王権、大和朝廷につながりを持つルーツなのか。

 結論を先に言うと、私は邪馬台国は北部九州にあったと考えるようになった。

 

邪馬台国九州説を取る理由:

  魏志倭人伝の記述を素直に読むと、その邪馬台国へ至る道程部分を除くと、邪馬台国はどう見ても北部九州にあったとしか思えないからだ。伊都国から邪馬台国に至る道程が遠いように読めることが近畿説の唯一の根拠だ(南は東の間違いだ、と強弁した上ではあるが)。しかしそれ以外は倭国連合王国の中心国、邪馬台国は九州島内、記述されている「30余国」は九州、とりわけ北部九州としか読めない(そして当時の「国」の規模から十分に収まる)。玄海灘沿岸の筑前地方(博多湾沿岸、福岡平野)には末盧国、伊都国、奴国、不弥国がおさまる。背振山系を挟んで、太宰府付近の地峡を抜けると筑後地方。筑後川、有明海を擁する広大で肥沃な地(現在の筑後平野と佐賀平野を合わせた筑紫平野)である。そこには美祢国(吉野ヶ里)、サガ国、三潴国、邪馬台国などがあった。その南の背後の肥後熊本、菊池地方には熊襲の国、キクチヒコの狗奴国があり女王国に従ってなかった。これが倭国の姿だったのだろう。

 その倭国(チクシ倭国)の範囲内を見ると、奴国や伊都国があった福岡平野と邪馬台国があった筑紫平野が広がっている。弥生の稲作農耕文化の地としては十分な広さの耕作地と河川からの水源を確保できる地の利だ。さらに両平野の広さを比べると、筑紫平野の方が広い(稲作農耕生産能力が高い)。こうしたクニの力の差がやがて争いに繋がっていったのかもしれない。「倭国の乱」は後漢王朝に冊封されていた奴国(筑前)と後漢が滅びたあとに生じた支配権の混乱により生じたものだろう。やがて国力で上回る邪馬台国の卑弥呼が「共立」され連合王国の女王となり乱は終わる。やがて魏王朝に朝貢し冊封された邪馬台国(筑後)が倭国のつかの間の平和を維持した。女王国の30カ国は筑紫倭国(福岡県、佐賀県)の範囲内におさまる。従って、博多湾。福岡平野にあった伊都国、奴国と争った邪馬台国は筑紫平野にあったと考える。魏志倭人伝に描かれた「倭国」の姿は、まさに下記地図のように北部九州の地理的ステージの中に見て取ることができる。そう読み取るのが素直な解釈だと考える。

 

邪馬台国の東遷はあったのか:

 では、いつどのように邪馬台国はチクシから近畿ヤマトに移っていったのか? いや本当に東遷したのだろうか? 倭人伝によれば、卑弥呼の使節やトヨの使節派遣はいずれも3世半ばの出来事だし、纒向遺跡や箸墓古墳に代表されるヤマトの遺跡群もいずれも3世紀のものであるとすると、そのようないわば首都移転が突然、短時間になされたのだろうか?そうは思えない。3世紀時点で邪馬台国連合はいぜんとして北部九州にあり、近畿ヤマトに起こった「ヤマト国」は、チクシ邪馬台国とは別の勢力であると考えられないか。そもそも3世紀の日本列島、倭国はどのような状況であったのか?北部九州以外の列島地域はどうなっていたのか?チクシ倭国以外は未開の荒野であったというわけではないだろう。歴史書に名を残すチクシ倭国の国々が、リニアに近畿ヤマト倭国にジャンプして行った訳でもないだろう。後世の歴史を振り返っても列島内の統一の過程はそれ程単純ではないことを我々は知っている。いよいよ歴史の流れをマクロ的に俯瞰してみることが重要になってくる。

 大陸から北部九州に伝わった稲作農耕は、紀元前からすでに近畿以東に広がっていた。出雲、吉備や近畿ヤマトにも農耕集落としての環濠集落、高地性集落が形成されていた。北部九州の吉野ヶ里遺跡と同年代の紀元前3^4世紀ころには、近畿地方にも唐古鍵遺跡や池上曽根遺跡のような大規模な農耕環濠集落の存在が確認されている。しかし、まだ稲作農耕集落という性格で、政治的、宗教的、軍事的組織単位としての国邑、国、あるいは王権が成立していたとまでは言えなかった(唐古鍵環濠集落は古墳時代には消滅している)。やがては、クニとしてのまとまりができ、人民や生産手段、技術、資源、生産物を支配管理する首長が王を名乗り、さらに、他の国をアライアンスにしながら各地に地域連合王権のようなものが形成されていったであろう。しかし、それらは海を渡り、中華王朝に朝貢し冊封される王権ではなかっただろう。だからこれらは魏志倭人伝には記述がない。

  一方、この頃筑紫倭国内の紛争「倭国内乱」などにより、チクシ倭国連合から離脱した勢力が東へ移動していった可能性がある。チクシ倭国の一部(邪馬台国に敗れた奴国の王やその勢力、あるいは、邪馬台国の敵対勢力である狗奴国)が邪馬台国連合国家から離脱/敵対して東遷していった。彼らは出雲へ、吉備へ、そしてやがて近畿ヤマトへ。彼らは出雲勢力や吉備勢力を糾合しながらあたらしい倭国の中心勢力として伸張していっただろう。しかし、これらの地域の状況は魏志倭人伝には記述されていない。伊都国にいた魏の使者は近畿ヤマトや出雲、吉備などの地域の情報は把握していなかっただろう。魏からの使者は邪馬台国の出先である伊都国までは来たが、そこから先にはいっていない。伊都国の役人からの伝聞にもとずく記述である。ということはチクシ倭国(邪馬台国の代官である伊都国の役人による説明)のことだけを倭国の全てであると理解した。邪馬台国の役人は、チクシ倭国連合(邪馬台国連合)を離反して東方へ去った勢力についての説明はしなかっただろう。

  こうして、チクシ倭国連合のほかに、鉄資源の確保などで「出雲王国」が一時期大きな勢力となり、やがて近畿ヤマトへ侵入していった。そして出雲の神、大物主/大国主がヤマト三輪山に祀られた。さらにその出雲勢力が支配した近畿ヤマトに、チクシ倭国から離反して東遷した勢力が侵入して、新しい近畿ヤマト王権(崇神大王などの三輪王朝、大倭古墳文化)の基を作った(纒向遺跡はこの初期ヤマト王権の宮殿跡)。これが記紀に記述される大国主の「国譲り神話」、さらには筑紫に降臨した天孫族の子孫である「神武の東征神話」「建国神話」に投影されたのだろう。まさに一種の群雄割拠から、天下取り争いの時代であった。

 

3世紀の日本列島「倭国」の実相:

  このように3世紀の倭国は北部九州だけでなく、各地に地域連合政権、国が成立していただろう。そのなかには出雲や吉備、越、近畿ヤマトのように大きな勢力を誇る地域王権が勢力を伸ばしていった可能性が有る。このような列島の状況は、先述のように中国の史書には記述がない。したがって魏志倭人伝という限られた文献資料のみで3世紀の倭国全体を理解することは困難である。それは7世紀に編纂された日本書紀、古事記に記述された天皇の事績のなかに神話、伝承として投影されているように思われる。

  記紀は、その成立の経緯(7世紀末~8世紀初頭の倭国から日本への移行、天皇制の宣言といういわばナショナリズムの表明という政治的意図の表明)から、歴史書としては史実を正確に反映しているものとは言えない点が多く、特に戦前の記紀の記述を無批判に史実として受け入れた皇国史観への反省から、戦後は逆に全否定へと大きく振れた。そうした背景もあり文献史学の材料としては慎重な姿勢で取り組む研究者が主流である。しかし、古代日本史を研究するにあたり、中国側の史書の他に文献資料が見当たらない以上、記紀の記述を全く無視して進むこともできないだろう。ここでは記紀を批判的に読み解きながら活用する必要が有ると考える。

  やがて列島の西日本全域に広がっていった倭国は、必ずしも大陸からの資源の供給、利権確保、渡来人などの人材の流入、渡来人の定住コロニー的集落の存在という地の利を得た地域が経済/政治/文化の中心として繁栄する時代から、倭国の「国内」経済規模が一定のものとなるにつれ、むしろ倭国内の資源の集約/配分といった流通の拠点となりうる地域が中心として政治的/軍事的な力を誇示するようになる。すなわち大陸に近いところ(北部九州)が倭国の文明先進地域という時代が徐々に終焉を迎る。3世紀頃には近畿ヤマトへ倭国の中心が移っていったのだろう。その過程で、筑紫からなんらかの理由で東遷していった勢力が、技術(農耕)や資源利権(主に鉄資源)大陸の知識(文字、思想)などを武器に(あるいは渡来人勢力そのものが)近畿ヤマトに移っていった可能性もある。こうして倭国はそれなりの経済規模と政治体制と軍事力、文化力を蓄積し、それを背景に「倭」ないしは「倭人」として対外的にも認識されるようになっていった。そうした時代の倭国の中心的地域が近畿ヤマトであった。

  

群雄割拠から天下統一へ:

 後世の歴史でもこのような列島内の統一政権樹立(天下統一)の動きは何度か繰り返され、そのモデルが踏襲されてきた。歴史の大きな流れは繰り返す。天武/持統朝における豪族/氏族割拠時代から天皇支配体制の確立(いわば天皇中心の天下統一)は、ヤマト王権の完成形であったであろう。さらに時代を下るとすなわち戦国時代の全国の大名/土豪/国人たちの群雄割拠状態の中から抜け出して、織田、豊臣、徳川といった中部地方の有力大名により天下統一されていった。武家政権による天下統一の完成形である徳川幕藩体制は、やがて19世紀帝国主義的グローバル時代に合わない制度となり、ついには、地方の西南の雄藩である薩摩、長州、肥前、土佐などにより倒幕運動が起こり、明治維新がなされ、王政復古(天皇中心の)、廃藩置県により中央集権的近代国家が誕生した。これはもう一つの「天下統一」だ。

  同じことが、3~4世紀の倭国内でもおこった。地域ごとに成立し、争っていた国や地域連合王権が徐々にヤマト王権に集約されていった。その初期にはチクシ連合王権(邪馬台国連合)が中国王朝の冊封を得て最も力を持っていたが、やがて倭国内の生産活動、経済力が大きくなるにつれその中心勢力がチクシからヤマトへ移っていった(途中イズモが一時期中心となった時期もあった)。これに伴い大陸との交易利権(主に鉄資源の確保を目的とした)、外交権、安全保障もヤマトへ移っていった。

  ちなみに、「天下統一」がなると、次は国外進出が歴史の常道となることを我々は学んでいる。国内の戦国乱世がほぼ終息すると秀吉は朝鮮出兵、明国侵略を企図する。朝鮮半島までは出兵するが、無謀な対外進出活動は秀吉の死とともに終了する。このころの明国は国力が充実しており日本の敵でなかった。また、明治維新が終わり国内体制の整備が一段落すると、アジア初の近代国家として富国強兵、殖産興業を果たした日本は朝鮮併合、日清・日露の対外戦争、満州進出、資源を求めての南方進出などの対外進出を果たそうとした。このころの清王朝は弱体化しており西欧列強の植民地化を許す状況であった。

  さて4世紀末のヤマト王権の「天下統一」の後はいかに?「空白の4世紀」と言われるように、このころの倭国の状況についての記述が中国の史書から消える時期である。しかし、この時期は倭国がヤマト王権の下に統一され国外に勢力を伸ばし始めた時期でもあったようだ。すなわち御多分に洩れず対外戦争に出て行った時代だ。幾つかの金石文からは、大陸の利権を求めて朝鮮半島に進出する倭国の様子が見て取れる。朝鮮半島鴨緑江で見つかった好太王碑文にあるように倭軍が大軍を半島に出兵し、高句麗と新羅を巡って戦闘している。また百済王から倭王に対して同盟の証として七支刀(物部氏の石上神宮にある)贈られるなど、ヤマト王権が朝鮮半島の政治情勢、権益に深く介入してゆく時代に突入している様が見られる。記紀にも、年代は特定できないが、神功皇后の三韓征伐説話が記されており、4世紀末ヤマト王権が国内平定をほぼ手中に収めようとする時期に、対外戦争に進出していたかのエピソードが記述されている。また5世紀に入ると中国の晋書、宋書に「倭の五王」が朝貢し、冊封を求める記事が出てくる。これらの倭王は「安東大将軍」の称号を求めている。すなわち高句麗王よりも高い称号で、朝鮮半島にも一定の地位を保証する内容を要求した。結局これは認められず、以降ヤマト王権は中国王朝への遣使、朝貢をやめることとなるのだが。

 

エピローグ。邪馬台国のその後:

  一方、ヤマト王権がほぼ「天下統一」を果たしたのちも、北部九州には、いぜんとして地域連合王権、すなわちチクシ倭国/邪馬台国連合が存続していた。しかも朝鮮半島の新羅との同盟により無視できない大きな勢力を保持していた。近畿ヤマト王権に服属しない旧勢力が2世紀以降連綿として九州北部に、その地の利を生かして勢力を維持し続けていたとしても不思議ではない。そのチクシ倭国/邪馬台国連合がヤマト王権に服属するのは4世紀末から5世紀になってのことだと考えられる。この間の倭国「天下統一」事業の物語は、空白の4世紀、中国の史書にそれと特定できる記述がないが、記紀の記述から類推すると、3世紀崇神天皇時代の四道将軍伝承では、せいぜい近畿周辺の国々の征討。4世紀と思われる景行天皇/ヤマトタケル伝承では、東国と熊襲征討、さらに4世紀中になって仲哀天皇、神功皇后時代に熊襲征討、三韓征伐。その後ようやく筑紫の伊都国、奴国を帰順させて香椎宮に入った。最後に神功皇后は山門国(邪馬台国)の田油津媛(卑弥呼の末裔とされる)を破って筑紫平定を完成させた。最後までチクシ倭国連合/邪馬台国連合をヤマト王権に服属させるのに苦労した様子が記紀には見て取れる。

  5世紀の中国の史書「晋書」「宋書」に記述がある「倭の五王」の倭国天下統一事業、すなわち「ソデイ甲冑をつらぬき山河を跋渉して寧所にいとまあらず」のなかにもチクシ倭国/邪馬台国連合平定が含まれているのか、それと特定できる記述はないが、おそらくその時代に邪馬台国は滅んだのだろう。

  ただ一旦平定したかに見えるチクシ倭国(ヤマト王権の国造すなわち地方長官、という記述であるが)の最後の抵抗が6世紀継体天皇時代の「筑紫国造磐井の乱」である。新羅と結んだチクシ王権と、百済と結んだヤマト王権の最終決戦。その乱の拠点は邪馬台国があった筑後の八女であった。ここには巨大な「最後のチクシ倭国王」磐井の岩戸山古墳が今も残る。磐井の子葛子は奴国(儺縣)にあった粕屋の屯倉を差し出してヤマト王権(継体大王)の恭順する。こうして最後の抵抗勢力「邪馬台国」は永遠に消滅した。

 

結論:

  話が長くなったが、私の結論は、このように魏志倭人伝に記述のある邪馬台国は3世紀の北部九州(筑後地方の山門郡)にあった。その実態は中華王朝の朝貢/冊封体制に組み込まれたチクシ倭国連合王国(邪馬台国連合)という地域連合であった。そしてその性格は弥生的な稲作農耕的集落の集合体であった。一方、近畿ヤマトは九州の邪馬台国が東遷してできた国ではなく、倭人が列島東へその版図を拡大してゆくなかで、奈良盆地を拠点になんらかな形で出雲勢力や吉備勢力、さらにはチクシ邪馬台国連合から離脱してきた勢力が建てた国である。換言すれば奈良盆地に自然発生的に生まれた稲作農耕集落たるクニが主体となって成長した国ではなく、他の地域の勢力が移り住み、人為的に統治拠点として打ち立てた国/王権であったと考えている。三輪山の麓に開かれた王都の遺跡(纒向遺跡、箸墓古墳などの大倭古墳群)は3世紀の初期ヤマト王権のそれであって、邪馬台国や卑弥呼の遺構ではない。そして、最後まで手を焼いたチクシ邪馬台国連合王権は、ヤマト王権の倭国天下統一事業のなかで服属し、滅亡した。すなわち初期ヤマト王権(崇神大王の三輪王朝)は邪馬台国や卑弥呼の系譜とは繋がっていない。だから記紀にその皇統としての言及がない。まして天武・持統朝のいわば「大宝維新」ともいうべき時代背景を考えると、中華王朝への朝貢・冊封により「倭国」支配の権威を維持してきた邪馬台国などのチクシ倭国連合体制は、中国皇帝に対抗する天皇制と天皇支配を宣言した新生「日本」のルーツとして記紀に記述する訳にはいかない存在であった。

  以上が結論である。

 

過去の参考ブログ記事:

 チクシ王権からヤマト王権へに変遷はどのようにして起こったのか?

 なぜ古事記、日本書紀には卑弥呼がでてこないのか?~記紀編纂の時代背景を読み解く~

  倭国の「神」と「仏」 ~「倭国」から「日本」へ~

 

3世紀魏志倭人伝に記述された倭国、邪馬台国連合の範囲

律令時代の筑前国/筑後国、現在の福岡県内である

博多湾、福岡平野周辺にあった奴国、伊都国が後漢時代に朝貢/冊封されて「倭国」の盟主として勢力を有していたが、後漢が滅亡し、その混乱のなか「倭国争乱」が起こると、広大な筑紫平野を背景に経済的優位を保っていた邪馬台国が、その争乱を制し、女王卑弥呼が邪馬台国連合(チクシ倭国)の女王となる。帯方郡の公孫氏を通じて魏王朝に朝貢し、倭国支配を冊封された。これが魏志倭人伝に記述されることに。

一方、3世紀には邪馬台国とは別の「ヤマト国」が近畿奈良盆地にあった。三輪や葛城、さらには河内などの勢力の緩やかな地域連合国家としてスタートしたが、これが初期ヤマト王権(崇神大王の三輪王朝)の揺籃となった。しかし、筑紫や出雲、吉備などに比べて狭い耕作面積と周囲を山に囲まれた盆地という地形が、稲作農耕で経済力、ひいては政治権力を生み出したとは考え難い。これまでの平野と河川を軸に発展した弥生農耕型国家とは異なる成立経緯を有しているように思われる。

出雲国が大きな勢力を有した時代があった。考古学的には背後に筑紫勢力の影響があったと考えられている。後に近畿ヤマトへ進出する。三輪山に出雲由来の大物主を祀る。しかし、その出雲勢力も、筑紫邪馬台国連合から離脱して東遷してきた別勢力に「国譲り」「天孫族子孫による建国」を許すことになる。しかし、これらの経緯につては魏志倭人伝や中国王朝の史書には一切記述されていない。

中国大陸、朝鮮半島側から倭国を俯瞰する。

古代の倭国にとっては日本海や東シナ海側が文明の海であった。太平洋は何もない空白のスペースであり死の世界であった。歴代中国王朝も東に向けた「海洋大国」を目指すインセンティブは全くと言って良いほどなかった。もっぱら大陸の西方、北方、南方の異民族との中原を巡る攻防に心血を注ぎ、これらと対峙する時の東の同盟国になるかどうかが「倭国」に関する関心事の全てであった。東の海中にある東夷「倭国」が朝貢してくれば遠交近攻の同盟国として冊封する。しかし、実は朝貢してこなくてもそれほど大きな外交上の問題とはならなかったであろう。倭国が日本と国号を替え、大王が天皇と名乗って、中国王朝への朝貢をやめても、わざわざ渡海して倭国(日本)を攻めることはなかった。ある意味鷹揚な大国であった。現代中国は少々事態認識が違うようだが。

(富山県作成の地図をHPより引用)

 

 

 


チクシ王権はヤマト王権に変遷したのか?

2015年05月17日 | 日本古代史散策

 チクシ倭国の時代:

紀元前1世紀から紀元2世紀頃までの倭国は、北部九州の奴国や伊都国などのチクシの国々が中国王朝(この頃は前漢、後漢)との外交を主導し、中国の華夷思想にもとずく朝貢・冊封体制のもとで東夷の倭国という地域を統治するの権威を得てきた。この頃の東アジア的世界観では、圧倒的な文化力と経済力を持つ中国王朝の皇帝から冊封を受けることが、その地域での王権の維持に不可欠であった。北部九州チクシは列島の中で大陸に最も近く、人の往来も古来より盛んで、ことに弥生文化を代表する水稲稲作農耕が倭国で一番最初(紀元前10世紀頃)に入ってきた地域であり、最も先進的な地域であった。したがって、奴国や伊都国のような国がこれら倭国連合において経済的優位性と外交的優位性を享受できたとしても不思議ではないだろう。

 

このことは後漢書東夷伝の記述(57年の奴国王の朝貢「漢委奴国王印」、107年の倭王帥升の遣使)にあるのみならず、考古学的にも検証されている。紀元前1世紀の奴国の王都であるスク・岡本遺跡からは30枚もの前漢鏡やガラス装飾品、武具などの王の権威を示す中国皇帝からの下賜品が出土している。また、同時期の伊都国王墓と言われる三雲・南小路遺跡や井原・槍溝遺跡、さらには平原王墓遺跡からも、奴国王墓を上回るほどの前漢鏡、装飾品が出土している。また、福岡市の早良で発掘された吉武・高木遺跡(早良国の遺構といわれる)からは、最初期の王墓らしき遺構が見つかっており、ここからも多数の中国由来の遺物・威信財が出土している。紀元前1世紀から紀元2世紀初頭までは、近畿を始め、出雲・吉備などの地域では見られないことで、北部九州チクシが中国王朝から冊封を受け、統治権威を有する、倭人社会、倭国連合の中心であったことを示している。

 

「漢委奴国王」の金印が出土した福岡市の志賀島

 

奴国王墓

春日市のスク・岡本遺跡

伊都国王墓

糸島市の三雲・南小路遺跡

伊都国王墓

糸島市の平原遺跡

吉野ケ里遺跡の復元神殿

 

巫女が神がかりとなって御宣託を聞く

その御宣託に基づいて王と一族の長が集まり意思決定する。

 

ヤマト倭国の時代へ:

 ところが、2世紀後半から3世紀になると、こうしたチクシ中心の倭国の姿が、ヤマト中心の倭国へと変遷してゆく様子が見られるようになる。史書の記述でいう「倭国大乱」の時期を境にこの変異が起こっているようにみえる。例えば、考古学的にはこの頃になるとチクシにもヤマトから伝来した土器などが出現するようになるが、その逆は見られない。ある時期から倭国連合の中心がチクシからヤマトへと移ったらしい。3世紀後半の古墳時代になると、明らかにヤマトに大型の前方後円墳が出現し、初期のヤマトの古墳(ホケノ山、メスリ、黒塚古墳)からは多数の三角縁神獣鏡などの後漢鏡・魏鏡などの中国からの威信財が出土する。やがてこの前方後円墳という墓制はヤマト王権の倭国支配の権威の象徴として各地域の首長へ伝搬されてゆく。チクシで主流であった土坑墓や甕棺墓などの墓制はヤマトでは見られず、やがてはヤマトで出現した前方後円墳がチクシへも伝搬してゆく。

 

魏志倭人伝の記述にあるように、「倭国大乱」の後、3世紀半ば(249年)に邪馬台国女王卑弥呼が、魏の明帝に使者を送り冊封された(親魏倭王)。その時に銅鏡100枚を下賜された。また、チクシの伊都国には卑弥呼の代官、一大卒が駐在して、大陸との通交、九州の統括を行っているとされている。この頃には57年に後漢に朝貢した奴国王の存在は記述されておらず、奴国には地方官僚の存在のみ記されている。すなわちチクシは邪馬台国の支配下にあった。その邪馬台国はどこにあったのか?九州のどこかなのか、それとも近畿なのか。有名な邪馬台国論争だ。また卑弥呼の死後は「大いに塚をつくり」埋葬していることから、ヤマトの箸墓古墳がそれではないか。これは邪馬台国、卑弥呼がチクシのクニ、女王ではなく、ヤマトに起こった(あるいは移動してきた)クニであることを推測させるものではないか(邪馬台国近畿説)。もちろん後世、倭国の中心が北部九州を離れ、近畿に移ったことは明らかなのだが、問題は「何時」「どのように」ということだ。

  

卑弥呼の墓ではないかといわれる箸墓古墳

 

箸墓古墳の背後にそびえる三輪山

メスリ山古墳

最古の古墳形式を確認できる貴重な遺跡

 

崇神天皇陵(行灯山古墳)

巨大な古墳が並ぶ大倭古墳群

 

ちなみに、鏡は、統治権威を伝える威信財として重要な役割を持っていた。中国皇帝から下賜された複数(数十枚~100枚)の銅鏡は、下賜された王が、さらに「中国皇帝から倭国王として冊封された証」として、さらに連合王国の地域の王や首長に「権威の象徴として」下賜する。という構造になっている。このような「威信財」を配ることで地域支配の権威を与える、という統治の仕掛けは、5世紀に入ってヤマト王権が次第に倭国全般のし支配圏を確立してゆく「倭の五王」の時代にも引き継がれる。埼玉県の稲荷山古墳や熊本県の江田船山古墳から出た「獲加多支鹵」(倭王武、ないしは雄略大王)の金石文が入った鉄剣などが、ヤマト王権が地方首長の地域支配を冊封した証拠だといわれる。

 

倭国大乱:

話を戻すと、このようなチクシとヤマトの倭国支配の勢力逆転はいつ頃、どのように起こったのか?これが「邪馬台国の位置論争」の正体である。そう理解しないと議論する意義はない。1世紀にはチクシが、3世紀になるとヤマトが倭国の盟主となる。魏志倭人伝によれば、男王の治世が7~80年続いた後、2世紀後半(146~189年頃)に「倭国大乱」で王がいない時期が続く。「倭国大乱」とはどのような争いであったのか。なぜ騒乱になったのか(何を巡って争ったのか?)。何が当時の倭国に起こったのか。邪馬台国の卑弥呼擁立により騒乱は収まったとされるが、それはチクシでの話なのか、もっと広範囲にヤマトを含めてで起こったのか?。

 

おそらく「倭国大乱」は当時の東アジア情勢の流動化が原因であろう。後漢王朝の滅亡は周辺諸国に、戦乱、地域支配権の攻防や、亡命、難民の発生など大きな影響を与えた。倭人社会においても、漢王朝の冊封を受けていたと倭国王が、その統治権威を失い、争いになっただろう。また、稲作農耕や武器として必須の戦略資源である「鉄」は当時朝鮮半島南部でしか入手できなかったが、その入手ルートや資源権益を掌握していたチクシ倭王がなんらかの理由で争いに破れ、ヤマト倭王に奪われてゆく。また、大量の亡命者や難民が列島に押し寄せた可能性もある。そういった混乱が王位継承争い(倭国連合盟主争い)の実態ではないかと考える。やがて邪馬台国の鬼道をよくするシャーマン卑弥呼を倭国連合の霊的権威として担ぎようやく乱が収まった。すなわち、中国との外交権、武力による支配権の争いを、祭祀権をもって収めた。

 

邪馬台国がヤマトならば、57年のチクシ奴国王の後漢への朝貢、107年の倭王帥升(伊都国王であろう)の朝貢から100年足らずの間に近畿地方に北部九州チクシを凌駕するヤマト・邪馬台国が生まれたことになる。漢に代わる新しい中華王朝魏の冊封を受け、なんらかの形で半島の製鉄利権を獲得し、チクシにかわって倭国連合の盟主となったヤマト・邪馬台国は、こうして大陸から遠く離れたヤマト奈良盆地に、大陸に最も近い先進地域である北部九州チクシの奴国や伊都国を凌駕する外交力、武力を持ったクニを出現させた。ということなのか?

 

 

ヤマトの起源は?:

そもそも山々に囲まれた内陸の盆地であるヤマトでは、弥生世界でどのようにクニが形成されていったのだろうか?もともとヤマト盆地に発生した弥生の農耕集落・ムラが成長していってクニになったのか?あるいは、西から移動してきた勢力によってある時期に形成されたクニなのか?意外にわかっていない。

 

奈良盆地の中心部に位置する(古代奈良湖のほとりの湿地帯に形成された)唐古・鍵遺跡は弥生初期(紀元前3世紀頃)の大環濠集落跡であるが、これがのちの邪馬台国に発展していった形跡はないといわれている。古墳時代までには消滅している。一方、3世紀頃、三輪山の山麓に形成された纒向遺跡は人工的に建設された「都市」のようで、各地の土器が出土するなど、「共立された女王卑弥呼の都」らしい雰囲気が溢れている。卑弥呼の神殿と思しき遺構からは、祭祀に用いられたと思われる桃の種が大量にみつかるなど、中国の神仙思想の影響を受けた有様が見て取れる。もちろん3世紀後半から始まった巨大古墳群の築造がヤマトの独特の景観を形作るようになるのだが、ここヤマト邪馬台国には防御を念頭に置いた弥生型高地性集落も環濠集落も(唐古・鍵遺跡の他に)見つかっていない。

 

このような列島内部の盆地に位置しながら大陸との交流は誰が取り仕切ったのか?後世、チクシの安曇族(住吉族)や宗像氏がヤマト王権の大陸との通交を取り仕切るが、ヤマト初期(チクシと覇権を争っていた時期)には誰がそれを行ったのか。それがなければチクシに代わって倭国連合の盟主にはなれなかったはずだし、帯方郡を通じての魏への朝貢もできなかったはずだ。

 

唐古・鍵遺跡

ヤマト盆地最古の稲作農耕環濠集落跡

 

竜王山から望む奈良盆地

古代にはここが左の図のように湖だった

正面に二上山

古代奈良湖推定図

唐古・鍵遺跡や纒向遺跡の位置に注目

 

三輪山

纒向遺跡の発掘

卑弥呼の神殿ではないかと言われる遺構が発見された

背後には三輪山がそびえる

 

我々はヤマト、すなわち山々に囲まれた奈良盆地の箱庭のような舞台が日本の誕生の地、日本文化発祥の地だと考えている。もちろんそれは事実だ。ある時期以降、ヤマト王権が列島支配権を確立してゆく過程で奈良盆地が倭国・日本という国家の揺籃の地であったことは間違いない。しかし、見てきたように、実はヤマトがなぜ、いつ頃、倭国・日本の中心となっていったのかは謎に包まれている。列島の文化は弥生以降、大陸に近い西から東へと伝搬していった。大陸の文化や経済と切り離して成長は考えられない。それらをいかに獲得・独占するかが支配者の争いの核心であった。その過程で北部九州チクシから近畿ヤマトが中心となっていった訳だが、その間の事情はまだ解明されていない。日本の古代史はまだまだ多くの謎に満ちている。

 

今回は、あえて8世紀初頭に編纂された日本側の歴史書である日本書紀や古事記の記述には触れなかった。もちろん中国の史書が正確なものであるとは考えないが、編年体で記述され、8世紀以前に記述された文献資料としては史書しかないこと。また、これら史書の記述と考古学的発掘成果の突合による時代考証が比較的可能であることは、古代史を研究する手法においては貴重であると考える次第である。

  

古代伊都国は今...

 

 

 


なぜ古事記・日本書紀には卑弥呼が出てこないのか? ー記紀編纂の時代背景を読み解くー

2015年04月13日 | 日本古代史散策

日本の古代史、とりわけ古代倭国の成り立ちを文献史学の観点から知ろうとしても、限られた文献資料しかない。中国の史書としては、1世紀頃の倭国の様子を記述した後漢書東夷伝、3世紀の倭国の様子を記述した三国志魏志倭人伝と、その後の5世紀の晋書、宋書などがある。一方、倭国側(日本側)では8世紀初期に編纂された古事記、日本書紀くらいである。その元となったと言われる帝記(大王の記録)、旧辞(各氏族豪族の記録)については4~5世紀の編纂だが、現存していない。

 

ところが厄介なのは、これら数少ない文献資料であるこの中国の史書にある記述と、日本の記紀の記述とのあいだに共通点がなかなか見出せない事である。中国の史書より後に編纂された記紀に(史書を参照したと思われる「一書に曰く」が散見されるにもかかわらず)、本文に中国側の史書に記された内容が全く反映されていない。逸失してしまった帝記、旧辞には共通点があったのだろうか?それを記紀編纂で「誤りを正す」として改ざんしたのだろうか?資料が残っていない今となっては確認しようもない。 例えば,記紀には邪馬台国も卑弥呼も出て来ない。奴国や伊都国の存在にも言及していない。奴国王が後漢の光武帝に朝貢して「漢委奴国王」の金印をもらった(江戸時代になって志賀島から発掘され、奇しくも後漢書の記述を証明する物証が出た訳だ。)ことも、倭国王(伊都国王?)帥升が遣使したことも、卑弥呼が魏の明帝に遣使して「親魏倭王」の印綬をもらった事も記述がない。

 

何故なのか?

 

一説に曰く,後漢書や魏志倭人伝に出てくる,奴国、伊都国、邪馬台国などの筑紫の国々の王権(いわばチクシ王権)と大和地方に興ったヤマト王権とは、別の系統で、王統の系譜に連続性はないからだとする。したがってヤマト王権、やがては大和朝廷の正史である日本書紀にも、天皇の記である古事記にも、九州チクシ王権の話は出て来ないのだ、と。気になる説ではあるが、果たしてそうであろうか。これに反論する充分な材料を持ち合わせていないので,ここではそういう説もある事を紹介するに留めるが、知る限り,ヤマト王権がチクシ王権を打倒したという証拠もない。また逆に、チクシ王権が東遷してヤマト王権を樹立したという明確な証拠もない。史書に出てくる「倭国大乱」や、記紀に出てくる「神武東征神話」「筑紫磐井の乱」などの検証が必要だろう。

 

では何故なのか?歴史書というものは必ずしも史実を客観的に記述するものではない。むしろ、天皇の記である古事記にしても、天皇が支配する新興国家「日本」の正史である日本書紀も、政治的な権威と意思を表明するため編纂されたものである。その時点での「正しい歴史認識」の定本として編纂された。日本書紀や古事記を読み解くには、それが編纂された時代背景、政治背景を知らねばならない。この間の歴史を述べるのが本稿の目的ではないので、詳細は省略するが、簡単いうと、時代は、645年の乙巳の変、663年の白村江での敗戦、672年の壬申の乱を経て、天武天皇即位。天武/持統天皇時代。「倭国」から「日本」へ、大宝律令の制定、天皇中心の新国家体制の確立、といういわば「大宝維新」の時代であった。

(参考:以前書いたブログ:讃良大王(ささらのおおきみ)持統天皇、維新大業の足跡をたどる

 

背景としては以下のような事情があったと考えるべきだろう。

 

国内的事情:

*氏族・豪族集合体国家(いやまだ国家の体をなしていなかった)から天皇を中心とした中央集権的な国家体制の確立へ。

*氏族に共立された大王(おおきみ)から神の子孫、天皇(すめらみこと)へ。

*律令制(大宝律令)による法治国家の確立。

*私地私民制から公地公民制へ(氏族豪族の経済・権力基盤を崩す)。

*八百万の神々(各地の氏族・豪族の神々)から、皇祖神天照大神を最高神とする神々の世界の体系化。

 

対外的事情:

*白村江の敗戦後の国家基盤の建て直しと富国強兵策。いわば安全保障体制整備。

*中国の唐帝国とは一線を画した独立した倭國、いや新しい「日本」を宣言(国家としてのアイデンティティーの表明)。

*天から降臨した神の子孫である「天皇」(天帝)が統治する国家の宣言。 *すなわち、これまでは地上世界を支配する天帝は中華皇帝しかいなかった。蛮夷の国々はその徳を慕って朝貢し、皇帝からその地域の支配圏を認証してもらう(冊封体制)という華夷思想が、この東アジア的宇宙観、世界秩序であった。そこにあらたなもう一つの宇宙の存在を宣言した。

 

したがって倭國、日本の起源は、決して中国皇帝に朝貢し、よって冊封された王たち、すなわち後漢書東夷伝や魏志倭人伝に記述されているような(自ら名乗ったわけでもない)「倭」の奴国王や伊都国王、邪馬台国女王卑弥呼などを頂く国ではない。祖先が大陸からの渡来人たちで、彼等の子孫が北部九州や日本列島に移住して形成したムラ、クニが起源の国ではない。天皇は天から降臨した神の子孫である。太陽神•農耕神アマテラスの子孫である。すなわち自らがその統治の権威と権力を有する存在であって、決して中国皇帝から柵封された(権威を保証された)「蛮夷の王」ではないぞ、と。そういう「歴史観」(あるいは主張)が記紀の基本となるメッセージであったと考える。

 

倭国/日本の文明はどこから来たのか?

 

しかし、そのような正史「日本書紀」に書かれた公式ストーリーにもかかわらず、稲作農耕文化が大陸から伝搬してきたこと、鉄資源を大陸に求めるなど、倭国の文明は大陸由来であることは否定しがたい事実である(北部九州を中心に考古学的発掘がそれを証明している)。そもそも「日本書紀」を記述する文字自体が中国からの輸入によるもの。日本書紀は漢文体で、主要な部分は渡来系の史人によって正しい漢文で書かれている。新生「日本」は、世界思想としての仏教を鎮護国家の法とし、中国の律令制を導入した。大陸文化の流入/受容により倭国が形成されてきた、というのが「正しい歴史認識」であろう。しかし、歴史とは、常にその時の政治意図に基づいて解釈され利用され創作されるものだ。まして新興「日本」が対外的にその国のアイデンティティーを主張しようという「正史」においておやである。そこで、「大陸由来」「渡来人」という代わりに、「天から降臨してきた神によって創造されしもの」とした。天孫降臨神話の創出である。

 

こうした王権が天や神に由来するという国家創造神話は珍しいものではない。朝鮮半島の初期王朝にも穀霊神が天から降りてきてその子孫が王であるという神話がある。後世のヨーロッパにおける王室の権威も、神の子孫だと主張しないまでも、神から与えられた権威/権力という王権神授説から来ている。皇帝、王や天皇という世俗の最高権威は、それを越える天地創造神の存在によってのみ維持されるものなのだ。

 

ちなみに、大陸における様々な戦争、政治的闘争、王朝交代の結果,倭国に渡来して来た(亡命して来た、難民として渡って来た)人々がいる。その他にも大陸と日本列島との間には様々な人の行き来があった。彼等が倭国に様々な技術や文化,ライフスタイルをもたらした。しかし、記紀における解釈は、彼等は、決して亡命や難民としてやって来たのではなく、天皇の徳を慕って、倭国(日本)へ渡来した「帰化人」であるとする。これはまさに中国の華夷思想を我が国に持ち込んだものだ。

 

このような背景,すなわち中華世界に対抗する「日本版の中華思想」に基づき編纂された記紀である,という前提に立てば,中国の史書をそのまま引用しない訳が分かる。ゆえに記紀では後漢や魏に朝貢した奴国王も倭王(伊都国王?)帥升も邪馬台国卑弥呼も、宋書に記述されている倭の五王も出てこない。記紀編纂にあたり中国の史書を読んだ形跡はあるが、「不都合な真実」を本文には引用はしない。あくまでも中華帝国とは独立した帝国であることを強調する意図があったのだろう。

 

では記紀は「倭国」いや「日本」のルーツはどこだと考えているのだろう。

 

記紀の建国神話によれば、天孫降臨の地(ニニギ降臨の地)は、「筑紫の日向(ひむか)の高千穂のクシフル岳」とある。これは南九州、現在の宮崎県日向地方の高千穂(鹿児島説もあるが)だと解釈されている。そしてニニギの子孫である神武天皇は日向の美々津から船出して東征し、近畿大和地方に朝廷を開いた、というのが日本建国ストーリーだ。すなわちルーツは宮崎だと。弥生時代初期に水稲稲作が伝わり、鉄器が伝わり、大陸文明伝来地、交流の窓口となり、多くの渡来人が移り住み、弥生のムラ•クニが出現した北部九州ではなく、縄文文化と生活形態を色濃く残す隼人の地、日向がルーツであるという。ここでも筑紫の奴国、伊都国や邪馬台国のあった場所が丁寧に除かれている。記紀編纂時点でまだヤマト王権に完全に服属していない隼人の地、さらにはまだ律令制下の日向国が成立していない時点であることを考えると、なぜこうした建国のルーツを語ったのか疑問が湧いてくる。

 

さらに記紀神話は次のようにも語る。イザナキが黄泉の国から戻り、穢れを落とすために禊をした。その時アマテラス・ツキヨミ。スサノオの三貴子が生まれた。同時に綿津見三神、住吉三神も生まれた。それが「筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)のアワギガハラ」だという。したがってこれも宮崎県日向地方がその地である、と。ちなみに綿津見三神、住吉三神とも筑紫の那の津を拠点とした安曇族、住吉族の祖霊神である。 この神話の編に出てくる「筑紫の日向(ひむか)」がどこなのか?これはやはり北部九州(筑紫)のどこかだと考えるのが合理的だろう。以前のブログで述べたように(筑紫の日向(ひむか)は何処?)、「日向(ひむか、ひなた)」という地名は、太陽に向かう方向を示していて、いたるところに同様の地名がある。また「高千穂」も必ずしも地名ではなく「気高く神々しい山」を指していて、これも神奈備型の山はいたるところにある。「橘」も海に飛び出した鼻/岬であるとすれば、これまたいたるところに見出される。問題は「阿波岐原」と「クシフル岳」だが、ここがどこかはわからない。いろんな説があるが、ここで言いたいのは。必ずしも宮崎県や鹿児島県ではなく、北部九州の福岡県や佐賀県といった地域をも想起させるということだ。おそらく記紀の編者は、倭国の本来のルーツを認識していたと思う。地名に隠れた本当の故地をあえて謎解き風に記述したのかもしれない。

 

記紀には「出雲神話」「日向神話」はあるが「筑紫神話」がないと言われる。この文明の入り口であった筑紫(大陸に近い北部九州)がヤマト王権、皇統の発祥の地・ルーツであるという認識は明示されていないのだ。これもあえて大陸からの人の移入や、文化の移入、わが国における稲作農耕文明の発祥の地という歴史的記憶を想起させる北部九州筑紫への「天孫降臨」ストーリーを避けることにより、中華王朝とは独立の国家「日本」(もともと日本列島に自生した日本)を描き出して見せたのかもしれない。

 

 

追記:

 

記紀によれば、神功皇后は三韓征伐したという。その夫、仲哀天皇は「海の向こうの新羅を攻めよ」という神からのお告げがあった時、「そんな国は見えない」とその存在を疑ったために神罰で死んでしまった、と。この記述によればその頃の(どの頃なのか特定できていない?)天皇は新羅の存在を知らなかった事になっている。その存在を神のお告げで知り、遠征して服属させたとする。このような、いわば「日本版華夷思想」が描かれている。まして中国の皇帝に朝貢したなんてめっそうもないこと。という歴史認識(一説に曰く。女王が魏に遣使したことを記している。ここが唯一日本書紀が中国の史書の記述に言及している部分)が読み取れる。 ちなみに神功皇后の子、応神天皇は三韓征伐から戻って、筑紫の宇美(魏志倭人伝に出てくる「不弥国」といわれている)で生まれたとされている。北部九州縁の天皇だ。筑紫がルーツの住吉系の神社のご祭神は先の住吉三神のほか、神功皇后、応神天皇が祀られる事が多い。北部九州には神功皇后/応神天皇をご祭神とする神社が多い。この「三韓征伐」という勇ましい事績が、歴史上のどの時代の誰の事跡に関連しているのか不明である。一説に、672年の斉明天皇・中大兄皇子の白村江出兵の話が過去に投影されているのでは?と言われている。こちらは新羅を服属させるどころか、唐・新羅連合軍に敗北して逃げ帰っているわけである。また卑弥呼は神功皇后であるとする説を唱える人もいる。しかし、では卑弥呼が朝鮮半島に出兵して新羅を服属させたと言うのだろうか。あるいは神功皇后は魏の明帝に朝貢して「親魏倭王」の印綬を受けたというのだろうか。かなり無理があるように考えるが。

 
 

 日本初の正史である「日本書紀」

天皇の記としての「古事記」
いわゆる「魏志倭人伝」
 
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