時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

Leica M Type 240 使用2年目レポート

2015年10月15日 | 時空トラベラーの「写真機」談義

フルサイズCMOSセンサーのLeica M Type 240。2013年の3月の発売から2年半経った。日本製のカメラならとっくにその後継機種が出ているような時間経過だが、そこはライカ。2年なんて商品ライフサイクルは短か過ぎる。銀塩フィルム時代のM6なんぞは1984年から20年以上も続いた。デジタルカメラでも手になじむ道具になってくれるには、それなりの熟成時間が必要な気がしている。しょっちゅう壊れては買い換える家電製品ではないのだ。

 

 しかしデジタルカメラの技術進歩は文字通り日進月歩。なので2年もフラッグシップモデルに新製品が出ないと時代遅れになってしまう恐れはないのか? 最初のデジタルMであるM8は2006年、次のフルサイズCCDセンサー搭載のM9は2009年のリリース。かなりデジタルカメラとしては未完成で、いろんなバグや課題を抱えていたM8,M9でさえ3~4年製造し続けていた。ライカは買い替えさせるために次々新製品を出したりしないのだ。開発リソースに限りもあるのだろうが、基本的に商品ライフサイクルは長い。もちろん多少のバグ修正やキャッチアップはファームウエアーアップで対応しているし、Mシリーズ以外のノンフラッグシップであるX、Tシリーズや、パナソニックからのOEMのD-LUXなどで、新しいデジカメ製造技術には追いついていますよ、と言われそうだ。今年出したフルサイズセンサー固定レンズのQなど、なかなか機能てんこ盛りで最先端をいっているデジカメだし、そこで培った技術を徐々にフラッグシップ機で生かしていきますから「心配ご無用!」ご期待ください、って。

 

 しかし、ライカの真髄はそんなところにあるのではない。便利な機能なぞ無くてもお構い無しの基本性能一本槍の製品哲学がライカなのだ。流行や最先端技術を追わない。わざわざ「最先端は必ず古くなる」と開発者がコメントするくらいだ。だから追いかけず、技術的に枯れて成熟してから取り入れる。それは日本人のセンスから見るとかなり危険な道に見えるが、彼らにとってはそれが確実に市場を押さえる方法なのだ。アンフレンドリーなユーザーインターフェース。市場や顧客に媚びないツッケンドンな面構え。不便なカメラなのにビックリするようなプライスタグ。材料や職人の人件費など製造コストが高いのだからしようがないだろう、とコストパフォーマンスなど考えてみたことないと言わんばかりだ。経済合理性ってどんなんだっけ?と考えてしまうほど、我が道を行くライカ流。日本のカメラメーカーが追いかけてきたコスト削減競争、合理性や高付加価値とはかなり異なる。確かに価格競争の行き着く先は、製品のコモディティー化と低利益化。皮肉にもものづくりの自滅への道をまっしぐらに進んで行く。モノ造りの成熟度に応じた事業モデルの転換の方向性を示唆しているのかもしれない。

 

 最近話題になっているドイツ製造業が提唱するIndustry4.0も、日本人の経済合理性の視点ではなく、ドイツ人的視点からもう一度よくその意味するところを評価してみる必要があるかもしれない。ライカ自体はドイツの製造業の中でもやや特異な存在かもしれないが、一生モノを作り、長く使って貰う過程で、サービスや経験という付加価値を提供し続ける伝統はドイツ独特のものだ。

 

 私のM Type240、2年半使ってみてこれまで故障無し(M8、M9の時と大違いだ)。デジタルカメラとしての完成度、信頼感は、以前のM8やM9に比べると格段に進歩したが、それでも使い勝手の悪さは一流。相変わらずプロセッサーの処理速度、バッファーメモリーサイズの限界から、レスポンスが遅い。しかし、いつのまにかそのライカに飼いならされている自分に気づく。撮影結果が良ければ全てが許されるってことだ。経年劣化を感じるのは、付属していたバッテリーが寿命なのか?このごろ「Check battery age」のメッセージが出るようになったくらい。少々のことでは傷も付かない堅牢なプラックペイント塗装も、最近は角が擦れて中の真鍮色が見え始めるようになった。昔、ライカコレクターの間で、質の悪い黒塗装が剥がれてボロボロになったM2やM3,M4のブラックボディーを愛で、高い中古価格で取引する「黒皮病患者」同盟などが流行っていたことがあった。最近でも、わざわざ新品のブラックM-Pと黒鏡胴Summilux 50mmの角をこすって「使い込み感」を出し、「なんたらバージョン」と称して通常の倍以上のプレミアム「限定」価格で売り出したり、ライカ流の「高付加価値プレミアム戦略」は健在だ。ライカ病患者の心理をついたお得意のライカ商法だ。そんな金かけなくてもしっかり使い込めば剥げてくるんだけどね、普通のライカで。まあ、こんなことで遊ぶのがライカマニアだが、そんな皮相な熱狂ぶりとは別に、その奥には一生もののモノ作りの深い世界があることに気づき始めた気もする。

 

Leica M Type240 + Summilux 50mm f.1.4 ASPH.

お約束の定番セット。

堅牢でずっしりした質感。軍艦部や底板は真鍮製。

2年半の使用でブラックペイントが少しずつ剥がれて中から真鍮色が覗くようになった。

基本性能がしっかりしていて、余分なギミックは苦手のようだ。

  ライカMの撮影機材としてのプレミア感は基本的には、破綻のないMレンズ性能にディペンドしている。最新のMレンズなぞ、多少個性が無くなったとも言われるが、その高性能で堅牢な作りはプライスタグ相応の価値を感じる。隅々までしっかりと結像し、美しいボケとピントの対比(木村伊兵衛のいう「デッコマ、ヒッコマ」)。高い解像度。それでいてカリカリではない独特の階調の豊かさ。黒いシャドウ部分でも潰れていない画像情報量の多さ。よく補正された収差(ボディー内でプログラム補正するのではなく光学的に)。また長年作り続けられてきたオールドレンズ群は、いまでも色あせることなく現役で使える。また古いレンズの収差やフレアーやコントラストの弱さが、独特の表現手段になるなど、こうしたレンズ資産がまさにライカエコシステムのクラウンジュエルなのだ。ボディーはフィルムカメラであれデジタルカメラであれ、そうしたレンズ性能と個性を十分に引き出すことだけに集中する設計となっている。余分なことをしないことが高付加価値になっている。

 

 したがって、RAW/DNGで撮って、イメージ通りにLightroomで仕上げるという作業を経て、さらにプリント作業で完成させる。そのような撮影の後工程のワークフローによる作品作りを可能ならしめるカメラだ。あるいはそうした表現者の心にあるイメージを自分自身で引き出すことを可能ならしめることを旨とする。その際、基本となる撮影画像自体が、そうした後工程の作業に耐えうる品質でなければならない。最高の素材を叩き出す。そしてカメラが余計なことをしない。それがライカの基本であるようだ。押せばキレイに写るを求めるなら他へ行くべきだろう。

 

 最近、写真撮りに行く時は、気がつくといつもライカを持ち出している。ニコンなら一台でズームレンズ付けてなんでもキレイに撮れるのに。その便利さとニコンならではの信頼感はなにものにも代えがたいが、なぜ不便なライカを持ち出すようになったのだろう。以下にM Type240を入手した時のブログを掲載した。あの時の私と、そんなことに気づき始めた今とでは、ライカと共に生きるということの意味が大きく変わりつつあることを読み取っていただけるだろう。残念ながら腕はあまり上がっていないが... ライカ使いになるためにはそれなりの時間が必要だ。日暮れて道遠し...

 

2013年3月に発売となった時に書いたブログ。 

Leica M Type240使用感 ~ライカのジレンマ~

 

作例:

 

Summilux 50mm f.1.4 ASPH.

Summilux 50mm f.1.4 ASPH.

Summilux 50mm f.1.4 ASPH.

Summilux 50mm f.1.4 ASPH.

Summilux 50mm f.1.4 ASPH

 

 

 

 


鍋島藩秘窯の里 伊万里大川内山再訪

2015年10月05日 | 福岡/博多/太宰府/筑紫散策

今回の伊万里大川内山探訪は雨模様であった。前回は訪れたのは3年前の8月。夏の日差しが眩しい暑い一日であったが、むしろこうした陰鬱な天候の方が秘窯の里にふさわしいのかもしれない。しかし里山は秋の色。田んぼの稲穂は黄金色のこうべを垂れ、コスモスが一面に咲き誇り、歴史の里を彩っている。

 鍋島藩窯は、江戸時代には門外不出の御用窯で、朝廷や将軍家、大名家、海外の王侯貴族向けの、いわば鍋島家権威財生産を担った。その製品は年間限られた数の生産しかしない「限定品」であった。しかも有田や波佐見などと異なり、その製品が一般市場に出回ることは少なく、したがって江戸時代の色鍋島や鍋島青磁、染付など、古伊万里にカテゴライズされているものは、現在では骨董美術品的な扱いとなっている。

 明治の廃藩置県以降、藩窯は廃止されたがその鍋島窯の伝統技法は引き継がれ、現在の伊万里大川内山には、30軒ほど窯元がありそれぞれの個性を競っている。なかには現代の生活にも受け入れられやすいデザインの作品を出している窯元もある。しかし御用窯のデザインと御用窯だけに許された染付など、一定のボトムラインの上にそれぞれの特色を出した作品を生み出している。有田の香蘭社や深川製磁のような主に海外市場を狙って明治期に設立された日本を代表する有名な大手ブランドや、柿右衛門、今右衛門などのように世襲ブランドを守っている窯元などと異なり、大掛かりにブランドエクイティーを押し出していない窯元が多く、それだけ奥も深くて、自分の好みの窯元を探して巡る楽しみがある。

 そしてその集落の佇まいは密やかで美しい。街並みを見て歩くだけでも楽しい。そういった時の流れのなかで秘められた「美」が熟成し、芳醇な香りをあちこちに漂わせている。しかし、一方、その歴史と伝統を担ってきた無名の陶工たちの無縁仏群が、この里のもう一つの異空間を形成していることにも気付かされる。

  

以前訪ねた時のブログです。

 時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 伊万里秘窯の里 大川内山を巡る ー「違いの分かるオトコ」の窯元散策ー: 「伊万里焼」と「鍋島」と「古伊万里」と「有田焼」の違いをご存知ですか?私は今回の旅でようやく分かってきたような...気がします。まずは大川内山のご案内を。 1675年から廃藩置県の1871年まで、大川内山は肥前佐賀鍋島藩の御用窯がおかれていた。ここでは独特の磁器製造技術を藩...

  

 

鍋島藩の秘窯は切り立った大屏風風奇岩に囲まれた谷間にあった。

中国の景徳鎮の官窯を模して開いた。

 

 

度肝を抜かれるのがこの村の入り口に架かる橋

 

「トンバイ塀」

窯の耐火煉瓦を積み重ねたもの

 

橋にも河岸にも陶器やトンバイが埋め込まれている

  

伝統の登り窯

現在はほとんどがガス窯で焼くそうだが、

陶工の伝統技法を伝承するために年一回、この登り窯で焼成するという。

  

それぞれの窯元のギャラリーを見て歩くのは楽しい。

 

里はまもなく稲の刈り取りシーズンへ

 

コスモスが村を彩る

 

川の左手に幾多の陶工達の墓が連なる

かつてここは閉ざされた異空間であった。

 

 

以前訪ねた時のブログです。

伊万里焼、有田焼、古伊万里、鍋島、などの違いを知りたい方はこちら(↓)をご覧ください。

 

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 伊万里秘窯の里 大川内山を巡る ー「違いの分かるオトコ」の窯元散策ー: 「伊万里焼」と「鍋島」と「古伊万里」と「有田焼」の違いをご存知ですか?私は今回の旅でようやく分かってきたような...気がします。まずは大川内山のご案内を。 1675年から廃藩置県の1871年まで、大川内山は肥前佐賀鍋島藩の御用窯がおかれていた。ここでは独特の磁器製造技術を藩...