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古代筑紫三海人族の謎(1) ー安曇族の故郷を訪ねて志賀島へー

2015年04月27日 | 福岡/博多/太宰府/筑紫散策

志賀島は安曇族の故郷だった:

 博多湾に伸びる海の中道の先に志賀島がある。志賀島は本土と砂嘴で繋がる珍しい陸繋島である。これが博多湾を天然の良港にし、独特の穏やかな風景を作り出している。子どもの頃いつも家の窓から博多湾を抱くように伸びる海ノ中道と志賀島、そしてその隣にポツンと浮かぶ能古島を眺めて育った。夏になると市営渡船に乗って海水浴へ。サザエのつぼ焼きと枇杷の味が懐かしい。海ノ中道には米軍の雁の巣キャンプがあった。ここは車で通り抜けることが出来た。ゲートを通ると一瞬にしてアメリカンな世界へワープできた。福岡・博多の人間にとってはこの景色は故郷の原風景のようなものだ。しかしこの小さな島が古代史において重要な役割を果たしたランドマークであることは、ずっとずっと後になって知った。

  志賀島といえば、金印が出土した場所で有名だ。また元寇の時の激戦地でもあった。しかしそれだけではない。古代海人族安曇族(阿曇族)の故地である。海人族?安曇族?信州安曇野の?なんで博多湾の志賀島? 博多の人間にもあまり知られていない。ここは律令制下では糟屋郡阿曇郷であった。すなわち志賀町(現在は福岡市東区)には阿曇族の祖先神、綿津見三神が祀られる志賀海神社(しかのうみじんじゃ、しかのわたじんじゃ)が鎮座ましましている。もともとは島の北の勝馬に本宮があったが,現在の砂嘴の付け根の志賀町に遷宮された。今でも志賀島全体が神域とされている。

  

志賀島と海の中道

細長い砂嘴でつながっている。

手前が博多湾、向こうが玄界灘

 

 古事記では、黄泉の国から帰ったイザナキは「筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)阿波岐原(あわぎがはら)」で穢れを祓う禊を行い、その時アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三貴子が生まれたとされる。また同じく、阿曇族の祖神、綿津見三神、住吉族の祖神、住吉三神も生まれたとされる。そこは宮崎県の日向地方に比定されるのが通説といなっているが、以前にも述べた理由からここ博多湾近郊であると考える。

 この志賀島・博多湾を拠点に活躍した古代の海の民、海人族が安曇族である。大陸との交易に重要な役割を担った安曇族のルーツは、おそらく大陸から渡ってきた人たちだろう。このころは現代のような国民国家という概念も国境という概念もない、したがって国籍などという制度もないので、倭人、韓人、漢人という区分けもはっきりしなかった。朝鮮半島や中国沿岸と日本列島を股にかけ、対馬海峡や玄界灘を我が庭のように暮らしていた人たちが居た。彼らは航海、漁労の技術を、そして大陸からの移住者を運び水稲農耕技術を北部九州に伝搬させた。いわゆる弥生初期の「倭国」あるいは「倭人」は朝鮮半島南端と北部九州にかけての海峡国家ないしはそこで生活する人々の総称で有った可能性もあると言われている(中国最古の地理書「山海経」にでてくる倭は朝鮮半島南部地域を指すとされる)。

 1世紀になると列島側の「倭」にも日本列島、朝鮮半島、中国大陸との間を航海、通交できる人々がいただろう。だからこそ「倭」の「奴国王」は洛陽にいた後漢の光武帝に使節を送り金印をもらうことが出来た。3世紀漢滅亡後、「倭」の「邪馬台国女王卑弥呼」は魏の皇帝に朝貢・遣使ができた。大陸にルーツを持つ海人族、安曇族が「倭国」において大きな役割を果たしたのではないかと思われる。

 

筑紫三海人族:

 古代筑紫には安曇族の他にも次のような海人族がいた。いわゆる「筑紫三海人族」である。記紀にその祖霊神誕生の記述がある。

 (1)安曇族:綿津見三神(イザナキの禊から生まれた)を祖神とする。志賀島の志賀海神社に鎮座。

(2)住吉族:住吉三神(綿津見三神と同時にイザナキの禊から生まれた)を祖神とする。那の津の住吉神社(あるいはその奥にある那珂郡の現人神社)に鎮座。

(3)宗像族:宗像三女神(アマテラスとスサノオの誓約から生まれた)を祖神とする。すなわち綿津見/住吉三神の姪(?)に相当する。宗像郡の宗像大社に鎮座。

 それぞれの筑紫の海人族の祖神は、記紀編纂の中で皇祖神天照大御神を最高神とする「神々」体系のシステムにビルトインされている。ヤマト王権の確立、そして大和朝廷の成立時期になると、各地の氏族・豪族は、その一族の祖神を、皇祖神アマテラスに近い位置取りをするべく競う(天皇家との姻戚関係を持てる氏族)ようになり、公式記録である記紀に記述してもらう事は一族の権威を伝えるために極めて重要な事であった。

 

謎の安曇族:

 こうして安曇族はその存在を8世紀の編纂になる記紀に記述してもらう事に成功したため、現在までその一族の存在が記録として残った。しかし、その存在は謎に満ちている。紀元前の倭国/奴国の時代から、対馬国、壱岐国、奴国といった対馬海峡、玄界灘を中心に活躍していた弥生の海人族であり、宗像族などよりは古い海人族だったようだ。しかし、後世には住吉族や宗像族のようにヤマト王権確立後に航海・交易に関わる国家祭祀を執り行う氏族としては存続しなかった。そして筑紫から遠く離れた、しかも海のない信濃国の安曇郷にその名を残すことになる。何が起きたのか?

 安曇族は豊玉媛の子阿曇磯良を祖と仰ぐ。対馬に起源を持つ海神豊玉彦の子孫とされる。さらに遡ると、呉・越時代の呉王朝の末裔で、王朝交代の混乱に伴って日本列島に亡命してきた一族との地元伝承がある。こうしたことから後漢書東夷伝で記述のある1世紀の奴国(後漢の光武帝から金印を受けた)は安曇族が建てた国ではないか?と唱える説がある。 一方、のちの魏志倭人伝に記述のある「倭国大乱」では阿曇族は邪馬台国とともに奴国を滅ぼした?とする説もある。いずれも明確な証拠がない上での推論だから、論争してみても始まらないが。

 

 金印と安曇族:

 さらに志賀島からは、後世(江戸時代黒田藩政時代に)後漢書東夷伝に記述のある「漢委奴国王」の金印が発見された(志賀海神社のある志賀集落からわずかに1キロほど離れた海岸べりの段丘の畑から出土したといわれる)。なぜ奴国王の金印が志賀島(奴国の範囲内ではあろうが,王都のあった岡本:スク遺跡辺りではなく)から出土されたのか論争を呼んでいるのは周知の通りだ。安曇族の故地であり志賀海神社の神域である志賀島から出たが故に、安曇族と奴国の関わりについて以下のような推論がなされ、古代史ファンを沸かせている。

 通商窓口説:安曇族の国である奴国の航海通商の窓口たる志賀島に公印があったのだ。

 隠匿説:「倭国大乱」で邪馬台国に滅ぼされた奴国王が逃亡の際隠匿した。

 墳墓説:安曇の族長(奴国王?)の墓に副葬された。

  隠匿説が有力であるようだが,ここでは深く立ち入らない。当面、何かの物証が出るまでは歴史ロマンの領域にしておく方が良いかもしれない。

金印出土地。倭の奴国から見た当時の世界観を表している。

 

奴国と安曇族:

 金印を受けた奴国があった1世紀頃の北部九州は大陸との窓口で、航海・漁労・水稲農耕といった弥生型の文化が流入する列島内でもっとも先進的な地域であった。志賀島の金印発掘の他にも、福岡市南部から春日市にかけて広がるスク・岡本遺跡の王墓からは前漢鏡、ガラス玉、剣(三種の神器?)などの副葬品が多数出土し、この一帯は紀元前1世紀頃の王都の遺構だとされる。すなわち「漢委奴国王」の数代前の奴国王の時代だ。また金属機器・ガラス製造のハイテクコンビナート、比恵遺跡・金隈遺跡など奴国の生産工場遺跡群も発見されている。こうした考古学的な物証からこの博多湾沿岸地域が後漢と交流していた倭国の盟主「奴国」であったとことは間違いがない。しかし、それ以上の奴国の実態(近隣の伊都国や邪馬台国との関係など)、奴国王は誰なのか?いつ頃,どのようにして奴国王は消えたのか?(3世紀の魏志倭人伝には奴国の記述はあるが王の存在は記述されていない)等、いまだに解明されてない事も多い。

 この頃博多湾沿岸を拠点に大陸や列島各地との通行・交易に活躍していた海人族、安曇一族がこうした奴国の隆盛に大きな役割を果たしていたのは事実だろう。しかし,だからと言って安曇族が奴国を建てたというのはどうだろう。奴国は確かに大陸と通交し、その便益を最大限活用して「倭国」の盟主になったのだが、基本的には水稲農耕社会だ。海人族よりも農業生産手段と人民を支配していた族長の国だったであろう。

 

筑紫三海人族のその後。

 (1)安曇族:近畿へ移住した阿曇連はヤマトで大王の側近として活躍した。一方、筑紫に残っていた一族は、527年の筑紫磐井の乱では磐井(筑紫の大王)側につき、敗戦後、筑紫を逃亡し信濃国安曇郡を建郡(穂高神社に奉祭)。「チクシ王権」対「ヤマト王権」の戦いであった「筑紫磐井の乱」では、筑紫王である磐井は殺され,その息子葛子は糟屋の屯倉(みやけ)をヤマト王権側に提供して恭順する。安曇一族は筑紫を捨て、以前の交易仲間のツテをたどって、いまだヤマト王権の支配が及ばない信濃に逃亡、さらには後世の「平家の落人集落」宜しく,全国に「あずみ」集落が出来る(安曇野、渥美、飽海、熱海、安住、滋賀、志賀...)。またヤマト王権に仕えた阿曇一族も663年の白村江戦いで渡海出陣した氏族の長比羅夫が戦死して一族は衰退して行った。

 (2)住吉族:瀬戸内沿岸、やがては摂津の住之江に勢力を広げ、現在の住吉大社あたりを本願地とする(住吉神社は、那の津、下関、兵庫、摂津と瀬戸内沿岸の「津」があった所に鎮座)。やがて摂津の「津守」氏がヤマト王権とともに勢力を拡大し、航海通交の守護神として国家祭祀を司る。特に大和朝廷の使節である遣唐使船の守護神として乗船し渡唐している。

 実はこの住吉三神を祖神とする「住吉族」とはどのような一族であったのか。あまり分かっていない。住吉三神は綿津見三神とともにイザナギの禊から生まれた。すなわちセットで現れた神とされている。これは何を意味するか。那の津(日本第一住吉神社)に拠点を置いていたらしいが、一説に阿曇族(粕屋郡阿曇郷の志賀海神社)の一族で、分家的存在であったとも言われている。またどのような理由で東へ移動して摂津に拠点を移した(東遷した)のか,そしてどのようにヤマト王権の国家祭祀を司る氏族になって行ったのか。住吉大社の津守氏とは誰なのか? 一説に曰く、三神はオリオン星座による航海術のシンボル。阿曇族は外洋航海(大陸への航海)を主に取り扱い、住吉族は内海航海(玄界灘沿岸から瀬戸内)をもっぱらにしたのでは。安曇族が筑紫を去って後に外洋航海に進出?むしろ津守氏になってから摂津から筑紫へ西遷したとする。

 (3)宗像族(胸肩氏/胸形氏):沖の島における国家祭祀を司る一族として出てくるのは4世紀以降。ヤマト王権が百済との通交を求めて半島へ出兵する時期だ。安曇氏に比べると比較的新しい在地豪族と言えるかもしれない。一説に曰く、ながく玄界灘の制海権を握っていた安曇族のもとで働き、そこで航海術を学び蓄積して行ったのでは?沖の島が大陸との航海の中継地点とするには、沖の島から朝鮮半島までの距離が長過ぎる。対馬海峡の速い海流の中を壱岐、対馬を経由しながら行くのがもっとも妥当な航路(まさに阿曇氏の本拠地を経由する)とされ、やはり安曇氏が筑紫を去ってからその後を引き継いだのではないか、と。

 527年の磐井の乱では、安曇族と異なり筑紫磐井に加担せず、ヤマト王権に本領安堵される。その後も筑紫を出る事無く地元の氏族として存続する。ヤマト大王の后を出すなどヤマト王権との結びつきが強い(アマテラスの言葉:男神であるニニギの子孫を守れ、という)。特に大陸との通交・国家祭祀を司る一族(「海の正倉院」と言われる沖の島祭祀遺跡)としてヤマト王権/大和朝廷にとって対外交渉を司る重要な筑紫在地豪族として繁栄する。瀬戸内の厳島(宗像三女神の一人、イチキシマ姫)神社はその流れ。

 

 チクシ倭国からヤマト倭国への変遷の軌跡:

 このような筑紫三海人族の盛衰の軌跡は,チクシ倭国からヤマト倭国へと変遷して行った動線に寄り添う伏線のように見える。「倭国」チクシ王権のルーツは奴国であったろう。奴国の名は3世紀の魏志倭人伝には出てくるが、奴国王の存在は見えない。すでに、あの「倭の奴国王」は居なくなっていて、チクシ「倭国」の中心は北部九州のいずれか(隣の伊都国や磐井の本拠地八女地方あたり?そこがチクシ邪馬台国であったのかもしれないが)に移っていたかもしれない。奴国が邪馬台国に敗れ、やがては近畿ヤマト王権へと変遷して行く過程の最後の抵抗が「筑紫磐井の乱」であったと考える。ヤマト王権が倭国を曲がりなりにも統一支配する兆しを見せるのは5世紀以降(それまでの呪術的支配から武断的支配に移行した「倭の五王」、「ヤマトタケル東征、西征伝承」の時期以降)であろうから。この時期はまだヤマト対チクシの対立構造が残っていたと思う。安曇族・住吉族(いずれもイザナギの禊から生まれた綿津見三神、住吉三神の子孫)の筑紫出奔、アマテラス体制へのビルトインは、チクシ倭国がヤマト倭国に凌駕されて行った過程、ないしは邪馬台国がチクシからヤマトに移って行った過程の出来事の一つを物語っているのかもしれない。

 

 住吉神社/宗像大社/志賀海神社の今:

  現在、博多(那の津)の住吉神社は筑前國一宮(戦前は官幣小社)として、また、全国2900社余の住吉系神社の第一神社として崇敬を集めている。大阪の住吉大社(戦前は官幣大社)は現在ではその全国住吉社の総本宮となっている。宗像大社(戦前には官幣大社)は、全国に7000社あると言われる宗像社、厳島社の総本宮として名声を誇る。しかし、志賀海神社(戦前の官幣小社)は全国の海神社、綿津見神社の総本宮ではあるが、ひっそりと志賀島にその安曇族の祖神の鎮座地としての佇まいを残している。一方、信濃の国の安曇郡の穂高神社は一族の祖神(綿津見神、阿曇連比羅夫)の新しい鎮座地となる。古代筑紫の海を駆け抜けた海人族、安曇族はこうして信濃の民となった。

 住吉族、宗像族については続編で。乞うご期待。

志賀海神社はこの志賀集落の山麓に鎮座している

島全体が神域とされている

志賀海神社拝殿

綿津見三神を祀る

遥拝所

宮司阿曇家住宅と参道

奥が志賀海神社

現代の海人たち出漁

志賀島から福岡市街地を望む

古代奴国の姿は大きく変貌した。しかし、昔も今もアジアへのゲートウエーである事に変わりはない。

志賀島を後に一路博多港へ

現代の高速船は博多と韓国釜山を3時間半で結ぶ

博多湾の夕景

左が能古島、右は志賀島

この間を抜けると玄界灘に出る

糸島半島(古代伊都国)夕景

可也山のシルエットが美しい

夕闇迫る博多湾

これぞ「筑紫の日向の橘の小戸のあわじがはら」の風景だ。

 

スライドショーはこちらから→

 

 

撮影機材:SONY α7II+SONY AF Zoom E-Lens 24-240mm

 

参考:志賀海神社のHP

 

 

 

 


なぜ古事記・日本書紀には卑弥呼が出てこないのか? ー記紀編纂の時代背景を読み解くー

2015年04月13日 | 日本古代史散策

日本の古代史、とりわけ古代倭国の成り立ちを文献史学の観点から知ろうとしても、限られた文献資料しかない。中国の史書としては、1世紀頃の倭国の様子を記述した後漢書東夷伝、3世紀の倭国の様子を記述した三国志魏志倭人伝と、その後の5世紀の晋書、宋書などがある。一方、倭国側(日本側)では8世紀初期に編纂された古事記、日本書紀くらいである。その元となったと言われる帝記(大王の記録)、旧辞(各氏族豪族の記録)については4~5世紀の編纂だが、現存していない。

 

ところが厄介なのは、これら数少ない文献資料であるこの中国の史書にある記述と、日本の記紀の記述とのあいだに共通点がなかなか見出せない事である。中国の史書より後に編纂された記紀に(史書を参照したと思われる「一書に曰く」が散見されるにもかかわらず)、本文に中国側の史書に記された内容が全く反映されていない。逸失してしまった帝記、旧辞には共通点があったのだろうか?それを記紀編纂で「誤りを正す」として改ざんしたのだろうか?資料が残っていない今となっては確認しようもない。 例えば,記紀には邪馬台国も卑弥呼も出て来ない。奴国や伊都国の存在にも言及していない。奴国王が後漢の光武帝に朝貢して「漢委奴国王」の金印をもらった(江戸時代になって志賀島から発掘され、奇しくも後漢書の記述を証明する物証が出た訳だ。)ことも、倭国王(伊都国王?)帥升が遣使したことも、卑弥呼が魏の明帝に遣使して「親魏倭王」の印綬をもらった事も記述がない。

 

何故なのか?

 

一説に曰く,後漢書や魏志倭人伝に出てくる,奴国、伊都国、邪馬台国などの筑紫の国々の王権(いわばチクシ王権)と大和地方に興ったヤマト王権とは、別の系統で、王統の系譜に連続性はないからだとする。したがってヤマト王権、やがては大和朝廷の正史である日本書紀にも、天皇の記である古事記にも、九州チクシ王権の話は出て来ないのだ、と。気になる説ではあるが、果たしてそうであろうか。これに反論する充分な材料を持ち合わせていないので,ここではそういう説もある事を紹介するに留めるが、知る限り,ヤマト王権がチクシ王権を打倒したという証拠もない。また逆に、チクシ王権が東遷してヤマト王権を樹立したという明確な証拠もない。史書に出てくる「倭国大乱」や、記紀に出てくる「神武東征神話」「筑紫磐井の乱」などの検証が必要だろう。

 

では何故なのか?歴史書というものは必ずしも史実を客観的に記述するものではない。むしろ、天皇の記である古事記にしても、天皇が支配する新興国家「日本」の正史である日本書紀も、政治的な権威と意思を表明するため編纂されたものである。その時点での「正しい歴史認識」の定本として編纂された。日本書紀や古事記を読み解くには、それが編纂された時代背景、政治背景を知らねばならない。この間の歴史を述べるのが本稿の目的ではないので、詳細は省略するが、簡単いうと、時代は、645年の乙巳の変、663年の白村江での敗戦、672年の壬申の乱を経て、天武天皇即位。天武/持統天皇時代。「倭国」から「日本」へ、大宝律令の制定、天皇中心の新国家体制の確立、といういわば「大宝維新」の時代であった。

(参考:以前書いたブログ:讃良大王(ささらのおおきみ)持統天皇、維新大業の足跡をたどる

 

背景としては以下のような事情があったと考えるべきだろう。

 

国内的事情:

*氏族・豪族集合体国家(いやまだ国家の体をなしていなかった)から天皇を中心とした中央集権的な国家体制の確立へ。

*氏族に共立された大王(おおきみ)から神の子孫、天皇(すめらみこと)へ。

*律令制(大宝律令)による法治国家の確立。

*私地私民制から公地公民制へ(氏族豪族の経済・権力基盤を崩す)。

*八百万の神々(各地の氏族・豪族の神々)から、皇祖神天照大神を最高神とする神々の世界の体系化。

 

対外的事情:

*白村江の敗戦後の国家基盤の建て直しと富国強兵策。いわば安全保障体制整備。

*中国の唐帝国とは一線を画した独立した倭國、いや新しい「日本」を宣言(国家としてのアイデンティティーの表明)。

*天から降臨した神の子孫である「天皇」(天帝)が統治する国家の宣言。 *すなわち、これまでは地上世界を支配する天帝は中華皇帝しかいなかった。蛮夷の国々はその徳を慕って朝貢し、皇帝からその地域の支配圏を認証してもらう(冊封体制)という華夷思想が、この東アジア的宇宙観、世界秩序であった。そこにあらたなもう一つの宇宙の存在を宣言した。

 

したがって倭國、日本の起源は、決して中国皇帝に朝貢し、よって冊封された王たち、すなわち後漢書東夷伝や魏志倭人伝に記述されているような(自ら名乗ったわけでもない)「倭」の奴国王や伊都国王、邪馬台国女王卑弥呼などを頂く国ではない。祖先が大陸からの渡来人たちで、彼等の子孫が北部九州や日本列島に移住して形成したムラ、クニが起源の国ではない。天皇は天から降臨した神の子孫である。太陽神•農耕神アマテラスの子孫である。すなわち自らがその統治の権威と権力を有する存在であって、決して中国皇帝から柵封された(権威を保証された)「蛮夷の王」ではないぞ、と。そういう「歴史観」(あるいは主張)が記紀の基本となるメッセージであったと考える。

 

倭国/日本の文明はどこから来たのか?

 

しかし、そのような正史「日本書紀」に書かれた公式ストーリーにもかかわらず、稲作農耕文化が大陸から伝搬してきたこと、鉄資源を大陸に求めるなど、倭国の文明は大陸由来であることは否定しがたい事実である(北部九州を中心に考古学的発掘がそれを証明している)。そもそも「日本書紀」を記述する文字自体が中国からの輸入によるもの。日本書紀は漢文体で、主要な部分は渡来系の史人によって正しい漢文で書かれている。新生「日本」は、世界思想としての仏教を鎮護国家の法とし、中国の律令制を導入した。大陸文化の流入/受容により倭国が形成されてきた、というのが「正しい歴史認識」であろう。しかし、歴史とは、常にその時の政治意図に基づいて解釈され利用され創作されるものだ。まして新興「日本」が対外的にその国のアイデンティティーを主張しようという「正史」においておやである。そこで、「大陸由来」「渡来人」という代わりに、「天から降臨してきた神によって創造されしもの」とした。天孫降臨神話の創出である。

 

こうした王権が天や神に由来するという国家創造神話は珍しいものではない。朝鮮半島の初期王朝にも穀霊神が天から降りてきてその子孫が王であるという神話がある。後世のヨーロッパにおける王室の権威も、神の子孫だと主張しないまでも、神から与えられた権威/権力という王権神授説から来ている。皇帝、王や天皇という世俗の最高権威は、それを越える天地創造神の存在によってのみ維持されるものなのだ。

 

ちなみに、大陸における様々な戦争、政治的闘争、王朝交代の結果,倭国に渡来して来た(亡命して来た、難民として渡って来た)人々がいる。その他にも大陸と日本列島との間には様々な人の行き来があった。彼等が倭国に様々な技術や文化,ライフスタイルをもたらした。しかし、記紀における解釈は、彼等は、決して亡命や難民としてやって来たのではなく、天皇の徳を慕って、倭国(日本)へ渡来した「帰化人」であるとする。これはまさに中国の華夷思想を我が国に持ち込んだものだ。

 

このような背景,すなわち中華世界に対抗する「日本版の中華思想」に基づき編纂された記紀である,という前提に立てば,中国の史書をそのまま引用しない訳が分かる。ゆえに記紀では後漢や魏に朝貢した奴国王も倭王(伊都国王?)帥升も邪馬台国卑弥呼も、宋書に記述されている倭の五王も出てこない。記紀編纂にあたり中国の史書を読んだ形跡はあるが、「不都合な真実」を本文には引用はしない。あくまでも中華帝国とは独立した帝国であることを強調する意図があったのだろう。

 

では記紀は「倭国」いや「日本」のルーツはどこだと考えているのだろう。

 

記紀の建国神話によれば、天孫降臨の地(ニニギ降臨の地)は、「筑紫の日向(ひむか)の高千穂のクシフル岳」とある。これは南九州、現在の宮崎県日向地方の高千穂(鹿児島説もあるが)だと解釈されている。そしてニニギの子孫である神武天皇は日向の美々津から船出して東征し、近畿大和地方に朝廷を開いた、というのが日本建国ストーリーだ。すなわちルーツは宮崎だと。弥生時代初期に水稲稲作が伝わり、鉄器が伝わり、大陸文明伝来地、交流の窓口となり、多くの渡来人が移り住み、弥生のムラ•クニが出現した北部九州ではなく、縄文文化と生活形態を色濃く残す隼人の地、日向がルーツであるという。ここでも筑紫の奴国、伊都国や邪馬台国のあった場所が丁寧に除かれている。記紀編纂時点でまだヤマト王権に完全に服属していない隼人の地、さらにはまだ律令制下の日向国が成立していない時点であることを考えると、なぜこうした建国のルーツを語ったのか疑問が湧いてくる。

 

さらに記紀神話は次のようにも語る。イザナキが黄泉の国から戻り、穢れを落とすために禊をした。その時アマテラス・ツキヨミ。スサノオの三貴子が生まれた。同時に綿津見三神、住吉三神も生まれた。それが「筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)のアワギガハラ」だという。したがってこれも宮崎県日向地方がその地である、と。ちなみに綿津見三神、住吉三神とも筑紫の那の津を拠点とした安曇族、住吉族の祖霊神である。 この神話の編に出てくる「筑紫の日向(ひむか)」がどこなのか?これはやはり北部九州(筑紫)のどこかだと考えるのが合理的だろう。以前のブログで述べたように(筑紫の日向(ひむか)は何処?)、「日向(ひむか、ひなた)」という地名は、太陽に向かう方向を示していて、いたるところに同様の地名がある。また「高千穂」も必ずしも地名ではなく「気高く神々しい山」を指していて、これも神奈備型の山はいたるところにある。「橘」も海に飛び出した鼻/岬であるとすれば、これまたいたるところに見出される。問題は「阿波岐原」と「クシフル岳」だが、ここがどこかはわからない。いろんな説があるが、ここで言いたいのは。必ずしも宮崎県や鹿児島県ではなく、北部九州の福岡県や佐賀県といった地域をも想起させるということだ。おそらく記紀の編者は、倭国の本来のルーツを認識していたと思う。地名に隠れた本当の故地をあえて謎解き風に記述したのかもしれない。

 

記紀には「出雲神話」「日向神話」はあるが「筑紫神話」がないと言われる。この文明の入り口であった筑紫(大陸に近い北部九州)がヤマト王権、皇統の発祥の地・ルーツであるという認識は明示されていないのだ。これもあえて大陸からの人の移入や、文化の移入、わが国における稲作農耕文明の発祥の地という歴史的記憶を想起させる北部九州筑紫への「天孫降臨」ストーリーを避けることにより、中華王朝とは独立の国家「日本」(もともと日本列島に自生した日本)を描き出して見せたのかもしれない。

 

 

追記:

 

記紀によれば、神功皇后は三韓征伐したという。その夫、仲哀天皇は「海の向こうの新羅を攻めよ」という神からのお告げがあった時、「そんな国は見えない」とその存在を疑ったために神罰で死んでしまった、と。この記述によればその頃の(どの頃なのか特定できていない?)天皇は新羅の存在を知らなかった事になっている。その存在を神のお告げで知り、遠征して服属させたとする。このような、いわば「日本版華夷思想」が描かれている。まして中国の皇帝に朝貢したなんてめっそうもないこと。という歴史認識(一説に曰く。女王が魏に遣使したことを記している。ここが唯一日本書紀が中国の史書の記述に言及している部分)が読み取れる。 ちなみに神功皇后の子、応神天皇は三韓征伐から戻って、筑紫の宇美(魏志倭人伝に出てくる「不弥国」といわれている)で生まれたとされている。北部九州縁の天皇だ。筑紫がルーツの住吉系の神社のご祭神は先の住吉三神のほか、神功皇后、応神天皇が祀られる事が多い。北部九州には神功皇后/応神天皇をご祭神とする神社が多い。この「三韓征伐」という勇ましい事績が、歴史上のどの時代の誰の事跡に関連しているのか不明である。一説に、672年の斉明天皇・中大兄皇子の白村江出兵の話が過去に投影されているのでは?と言われている。こちらは新羅を服属させるどころか、唐・新羅連合軍に敗北して逃げ帰っているわけである。また卑弥呼は神功皇后であるとする説を唱える人もいる。しかし、では卑弥呼が朝鮮半島に出兵して新羅を服属させたと言うのだろうか。あるいは神功皇后は魏の明帝に朝貢して「親魏倭王」の印綬を受けたというのだろうか。かなり無理があるように考えるが。

 
 

 日本初の正史である「日本書紀」

天皇の記としての「古事記」
いわゆる「魏志倭人伝」
 
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お江戸の町は花盛り

2015年04月03日 | 東京/江戸散策

 東京の桜は4月を待たず満開となった。28、29日の週末にはまだ5分咲きくらいだったが、気温の急激な上昇と晴天で一気に満開へ向かった。週が明けてしばらくはお花見日和の晴天が続いたが、週後半からは雨になるので花散らしになるだろう。定番のお花見スポット、千鳥ヶ淵へ行ったが、平日にもかかわらず見物客でごった返している。今年目立つのは外国人観光客。Hanamiを楽しんでいる。せいぜい日本の最高の季節を満喫して帰ってほしいものだ。

 

 この時期は、普段見慣れた都会の日常の風景が一週間だけ非日常の風景に変わる。通勤通学で通る最寄り駅への道も、このときばかりは「お花見ロード」。桜って考えてみると不思議は樹だ。普段は全く目立たず、どこに桜があるのか意識することもないのに、一年でこの時期だけ一斉に咲き、その存在を誇示する。こんなところにも桜がいたんだあ!と。桜は町の景色を一変させる力を持っている。人々の気持ちも切り替えさせてくれる。長くて寒い冬が終わり、暖かい春を迎える喜びに満ちている。桜を見上げている顔はそういった希望と安堵の顔だ。今年も春が来たぞ...  そしてあっという間に散りゆく。水面に浮かぶ花筏。散華の美も見事。そして新緑の季節へ。この時期は慌ただしい。

 

 そう思ってみると東京には桜が多い。江戸の名残だろう。上野寛永寺、墨田川堤、飛鳥山、愛宕山、御殿山、など江戸庶民の娯楽、お花見の名所が今も残っている。残念ながら御殿山は、黒船来航の時に急遽設けられたお台場用の土採りと、明治期の鉄道開通の時に山が切り崩されてほぼ無くなってしまった。千鳥ヶ淵や靖国神社などは明治以降の桜名所だ。それ以外にも地元の街のいたるところに桜が植えられている。

 

 戦前、東京市長であった後藤新平が日米友好の徴に贈ったワシントンポトマック川の桜は、東京と同じソメイヨシノであったが、こちらは一週間どころか一ヶ月くらい咲いていたように思う。なかなか散らない桜というのも妙なものだ、と思ったものだ。同じ桜でも風土によってその散り方が違う。日本とアメリカという風土の違いが、日本人、アメリカ人の心情の違いを表しているのだろうか。

 

 奈良、京都など関西はまだ開花したばかりだから、東京の桜の方が早い。奈良公園の氷室神社の早咲き垂れ桜は満開だそうだが、吉野のお山もこれからだ。又兵衛桜や佛隆寺の桜はもっと先だ。お江戸の桜とは違った風情があっていいものだ。

 

 それにしても、さくらさくらで、少々花酔い状態だ。桜には魔物が住む。人を狂気に導く魔力がある、と言ったのは坂口安吾だったか。「桜の森の満開の下」では恐ろしいことが起こる、と。なにか心落ち着かなくなるのはそのせいなのか。

 

 

 

千鳥ヶ淵

 

 

 

 

平日にもかかわらずこの人出

 

大森貝塚庭園

 

JR大森駅への道

 

 

 

 

 

 

いつもの通勤路も花盛り

猥雑な駐輪場も画になる

八重洲さくら通り

 

 

 

 

 

日本橋野村本店前

 

日本橋