時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

杵築を散策する 〜高低差ファン垂涎の城下町〜

2016年06月21日 | 日本の古い町並み探訪

 

 

 

城下町杵築は坂の町

 

 

 杵築は国東半島の南の付け根に位置する小さな城下町だ。高山川と八坂川に挟まれて守江湾に面した要害の地。江戸時代は豊後杵築藩3万2千石。徳川譜代の能見松平家の城下町で明治維新まで続いた。国東半島の南半分が領国。戦国時代には大友氏の家臣であった木付氏の所領地であったが、豊臣政権下で主君大友何某の失態で主家が滅び、それに伴って木付家も滅びた。江戸時代以降は幾つかの領主の変遷ののち1657年徳川の譜代大名能見松平家の所領となった。その地名も「木付」から「杵築」に変わった。そもそも大分県はその名の通り、大友宗麟以降、豊後一国を領有する領主がなく、岡藩の7万石が最大で、2〜3万石ほどの小藩が分国割拠していた。隣には豊前小笠原藩、筑前黒田藩、肥後細川藩、薩摩島津藩などの外様の大藩が控える土地だ。譜代で固めて九州を監視する役目であったのだろう。

 

 杵築は「日本の美しい街並み」ファンの私には憧れの町であった。なかなか訪れる機会に恵まれなかったその憧れの杵築に、今回ついにたどり着くことができた。博多からJR九州の特急ソニックで2時間弱。小倉で進行方向が変わってバックする(したがって座席を方向転換しなくちゃいけない)ものの直通で行ける。宇佐神宮最寄駅の宇佐(USA)の次だ。意外に便利。もっとも杵築駅は市街地からは離れたところにあるので、駅前からバス(平日一時間に二本)に乗り、杵築バスセンター(と言っても小さな待合室があるだけの鄙びたバス停)まで約15分。それでも途中乗り降りする客はオバアチャン一人だけ、というチョーローカル路線バス。不便?いやいや別に急ぐ必要はないしこのゆったりした時間の流れがとても癒しになる。この時間尺度の中で生活すれば良いのだ。

 

 この城下町の特色は、何と言ってもその地形にある。城は海に面した高台に設けられ、天守閣破却後も藩主御殿がその高台にあった。城下町はその西の台地に展開している。その台地は、北台と南台に谷筋を隔てて別れており、北台には家老屋敷や藩主の休息屋敷、藩校学習館がある。反対の南台はかなり広い面積を有していて、上級武士の屋敷が連なっている。台地の南西には寺社町と中・下級武士の屋敷を配して城下の防御としている。北台と南台を分けるのが谷筋の町人町。元々は小さな川があって川沿いに町家が並んでいたが、今は暗渠化して道路も拡幅され、昔日の面影はなくなったそうだ。それでも伝統的な商売を今に伝える老舗が並んでいる。この谷あいの町人町から、台地の武家屋敷街までの坂が、有名な酢屋の坂、志保屋の坂、勘定場の坂、飴屋の坂、番屋の坂などとなっている。こうした町割りは今でも、かなり明確に残っており、これが杵築の城下町を独特の景観の町にしている。特に武家屋敷街の土塀はよく保存手入れされていて、歩いてみるとまるで江戸時代の城下町にタイムスリップしたような感じがある。しかもかなり広範囲にわたって延々と続いているのは圧巻だ。確かに、塀の中の邸宅は、今風に改造されたり、建て替えられたものが多いように見受ける。しかし落ち着いた邸宅街の佇まいをよく残している。きっとこの土塀が町の景観を守っているのだろう。静かな町であまり人と出会うことがないが、生垣を手入れしているご婦人や道端の掃き掃除をしているお年寄りなどとすれ違うと「こんにちわ」と丁寧な挨拶をしてくれる。美しい街には美しい人が棲む。

 

 坂はこの町の重要なアクセントだ。しかもどの坂も美しく石畳で覆われていて、町を重厚で、かつしっとり落ち着いた雰囲気に仕上げている。鬱蒼とした木立に覆われた番所の坂を上り、門をくぐると、目の前に広々とした北台の武家屋敷街と青空が広がる。感動的な景観だ。その武家屋敷街の先の勘定場の坂は藩の重臣が住む北台からお城、藩主邸宅へ続く坂。ここからは天守閣(模擬天守閣だが)が展望できる。一番人気は酢屋の坂、志保屋の坂。杵築を代表する景色だ。北台と南台をつなぐ下り上りのアップダウンがこの城下町の景観を優雅で伸びやかなものにしている。その昔、坂の下の角に酢を扱う商家があったことから「酢屋の坂」。その向かいに塩を商う商家があったので「志保屋の坂」と名付けられているそうだ。今は老舗の味噌屋が暖簾を掲げている。あの「酢屋」の末裔だそうだ。飴屋の坂は曲線の美しい石畳の坂。かつては飴屋があったのだろう。まさに山の手と下町が出会うクロスポイントだった。

 

 しかし、そもそも武士が山手、町人は谷筋の下町、と住む場所が燦然と区分けされたこの城下町の構造は、封建的身分制を自然の地形を利用して具現化したものだ。にもかかわらず、街全体がどこか開放的で、伸びやかな広がりを感じるのは何故なのだろう。不思議だ。城下町独特の鍵の手の道筋がなく、広い通りが一直線に連なる北台、南台の武家屋敷街。高台なので見通しが良く海も見えるし、坂の上から眺めるとなにより空が広く見える。下町にしても狭隘な谷筋に押し込められている感じではなく(もっとも最近の道路拡幅のせいかもしれないが)、随所に設けられた高台の住宅街に通ずる石畳の坂が武家屋敷街との街としての一体感を演出している。こうした高低差をうまく利用した区分けと、その上での調和がこの封建的城下町を開放的で自由な雰囲気にしているのかもしれない。

 

 こうした古くて美しい佇まいを残した町は大体、重要伝統的建造物群保存地区に指定されているものだ。が、なぜか杵築は重伝建地区指定を受けていないのだそうだ。きつき城下町資料館の方の話だと、町人町の道を拡幅したり曳家をしたのが原因の一つだろうと。しかし、この町は北台・南台の武家屋敷の土塀がよく残り、しかも広範囲にわたって素晴らしい城下町の景観が保存されている。しかも石畳の坂がよく残されて町に独特の景観を生み出している。なぜ指定されないのか?なにか役所独特のロジックが指定できない理由になっているのだろう。先ほどの資料館の方の説明によると、武家屋敷街の土塀の修景保存には市の補助金支援があるそうだ。それでも資金的に厳しい状況で、ボランティアや寄付を募っているという。こうした地域の人々の努力でこの素晴らしい景観が守られていることを知る。こんな珠玉のような町を壊してほしくない。静かで美しい街並み、優しくて素敵な人々。杵築を訪ねると日本は捨てたものではないと確信する。しかしそれを維持して行くのにはいろんな課題も山積しているように思う。

 

 杵築は期待を上回る素敵な城下町であった。久しぶりに「時空旅行人」の琴線に触れる街を旅することができた。興奮して写真を撮りすぎてしまったが。そして、この台地と河川と海の織りなす地形は、高低差ファン、河岸段丘研究会メンバー垂涎の城下町だ。次回「ブラタモリ」推薦候補間違いなし!

 

 

番所の坂

この坂を上ると北台武家屋敷街が広がっている。

かつては番所があり武家屋敷街への出入りをチェックしていた。

 

北台武家屋敷街

北台から酢屋の坂、志保屋の坂を望む

 

北台武家屋敷街

正面はお城へ向かう勘定場の坂

 

勘定場の坂

木立の向こうに天守閣がチラリと見える

 

 

 

藩校学習館

 

 

 

 

 

 

家老大原家邸宅

 

大原邸

大原邸

酢屋の坂、志保屋の坂

 

北台武家屋敷街

 

 

「きものが似合う歴史の街並み」がキャッチフレーズ!

ちょうど通りかかったお二人を撮らせてもらった

 

 

志保屋の坂から見た酢屋の坂

右は大原邸

南台中根邸

 

 

南台中根邸

きつき城下町資料館

 

南台本丁武家屋敷街

 

南台裏丁武家屋敷街

飴屋の坂

 

酢屋の坂遠景

上の土塀に囲まれた屋敷が大原邸

 

志保屋の坂

 

ここは山手と下町のクロスポイントだ

 

酢屋の坂の麓の老舗綾部味噌

両側が北台・南台の武家屋敷街

谷筋のこの道沿いが商人町

 

 

 

杵築城模擬天守閣

城から見た南台武家屋敷地区

高台にお屋敷が並んでいる

南台展望台からの杵築城

 

 

杵築市観光協会の散策マップ

日本唯一の「サンドイッチ型城下町」「きものが似合う歴史の街並み」

 

 

 

 


最初の開港場 伊豆下田 ~ペリー提督が歩いた街~

2014年05月20日 | 日本の古い町並み探訪

 不肖「時空トラベラー」は、今回は第75回黒船祭開催中である伊豆下田に出没。5月16~18日にかけてペリー艦隊一行の下田上陸、日米和親条約下田条約締結を記念して日米友好のパレードなど、いつもは静かな下田の街が国際色豊かなお祭りで賑わう。ペリー上陸地点(Perry Point)では、下田の姉妹都市でペリー提督の出身地である米国ロードアイランド州ニューポートからは市長が出席。メモリアルセレモニーでスピーチした。また、米国陸軍座間キャンプから在日米陸軍軍楽隊、米国大使館、米第七艦隊水兵、海上自衛隊横須賀基地軍楽隊、地元中学生、幕末の仮装行列などがにぎやかに市中パレードを行った。小さな町の狭い通りでのパレードなので観客もパレード参加者も一体となった和気あいあいとした雰囲気が醸し出されていた。米陸軍軍楽隊の「星条旗よ永遠なれ」と海上自衛隊軍楽隊の「軍艦マーチ」が共存していて時の流れを感じさせる。沿道のおじいちゃんおばあちゃんは「軍艦マーチ」と旭日旗(軍艦旗)のパレードに手拍子。やっぱそうなんだ。たしかに血湧き肉踊るなあ。でも、パレードに参加しているアメリカ人の子供の「Konnichiwa, Minasan, Konnichiwa」の連呼に沿道からやんやの拍手。このパレード一番のかわいい人気者であった。

 了仙寺では、ペリー一行と幕府代表との下田条約調印セレモニー再現劇が観客を喜ばせていた。街中では踊りや演奏会や、ストリートパフォーマンスが繰り広げられる。通りは歩行者天国になっていて町内ごとにいろいろイベントが企画され、アメリカの水兵も焼きそば食べたり、ゲームに参加したりで、和やかな雰囲気だ。やがてパレードも終わり、静かな下田公園の展望台に登る。そこから眺めた、眼に鮮やかな新緑に包まれた下田港は美しかった。夜になると湾で花火が打ち上げられた。

 ところで、なぜ開港場第一号が下田だったのだろう。

 ペリーは1853年の第一次来航では江戸湾内の久里浜に上陸し、浦賀奉行所が接遇した。しかし、幕府の交渉一年猶予の要望を受け退去する。約束通り翌年1854年に再び江戸湾に現れ、この第二次来航では幕府が指定した横浜に上陸した。そこでひと月ほど、幕府側全権であった林大学守と交渉したのち、日米和親条約の主たる条文(12か条)の締結が行われた。これが神奈川条約だ。さらに、ペリー艦隊は早速開港地となった下田に場所を移し、実況検分をかねて滞在する。そこで残りの条文(13か条)の締結した。これが下田条約だ。

 下田は伊豆半島の南端に近い港町で、江戸からはかなり離れている。江戸時代には江戸と諸国を結ぶ回船の風待ち港として栄えた。ここには幕府の御番所、下田奉行がおかれ、最盛期には年に3000隻の廻船が入港したという。やがて、江戸湾内の船舶往来が盛んになると1720年に奉行所は相模浦賀に移され、下田は寂れてしまった。天保年間に入り、外国船の来航にそなえるため、再び下田奉行がおかれ、浦賀・下田体制で警備にあたるようになる。しかし、とても江戸や大阪といった主要都市との通商、幕府との交渉に便利な位置ではない。なぜ下田が選ばれ、なぜペリーはそれを承諾したのか?

 もともとペリー来航の目的は日本との交易もさることながら、太平洋を隔てて中国との航路を確保する上で、米国船への食料・薪炭補給、乗員の休息、漂流民の救助保護拠点の確保が重要であった。当時の外航船は外輪蒸気船で、西太平洋には多くの米国船が出没していたが、航続距離の点で途中補給拠点が不可欠であった。

 またその多くは捕鯨船で、当時、鯨油をとるための捕鯨は米国の一大産業であり、世界中の海に乗り出してクジラを捕りまくっていた。そんなときに大事な西太平洋で鎖国なんかしておられては困る、というのが彼らの論理だ。ペリーはいきなり日本との通商を狙うのではなく、まず太平洋航路確保のために、日本を開国させることに力点を置いたのだろう。捕鯨船や商船の太平洋航路における避難港、食料、薪炭補給基地としては、外洋に面している下田、箱館がむしろ適していた。ペリーもそれを評価したのかもしれない。

 ちなみに、アメリカ東海岸のボストンやニューポートには今でも往時を偲ぶ捕鯨博物館がある。この頃からクジラの乱獲が進み、世界の海から鯨資源が枯渇し始めたのだ。当時の日本では土佐や紀州あたりで漁民はせいぜい、小舟に乗って近海で細々と鯨をとっていた程度であった。こう振り返ってみると、かつて資源を枯渇するまで大量に捕りまくったアメリカや西欧諸国に、今更日本の捕鯨活動を非難されるいわれなど無い、とつい感情的になってしまう。ちなみに土佐の漂流民、ジョン万次郎はアメリカの捕鯨船に沖ノ鳥島で救助され、船長のホイットフィールドに伴われてアメリカで生活し、教育を受けた。その後、幕末の日本に命がけで帰国し、幕末から明治初期に活躍したた話は有名だ。という訳で、小笠原諸島まで自分の庭先のようにアメリカ東海岸を基地としたの捕鯨船が往来していた。

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 ペリーはポーハタン号を旗艦とした6隻の黒船で下田に入港し、湾内に停泊した(写真は下田ロープウェーのパンフレットから)。そこから上陸し(現在Perry Pointとして記念碑が建っている場所)、幕府との交渉場に指定された了仙寺まで、軍楽隊を先頭に行進した。この間わずかに800メートルくらいの距離である。現在は川沿いに古い街並の残る下田の名所になっている。ペリーロードと名付けられている。当時のイラストレイテッドロンドンニュース、ペリー日本遠征記等の記事や挿絵に了仙寺や川や橋が描かれており、当時と今もあまり風景が変わっていたいことに気づく。

 ペリー一行は日本の実情、下田港の有用性を検分するために街のあちこちを見て回っている。「ペリー日本遠征記」には、寺での水兵の葬儀の模様や、街の物売りの様子など、仔細に記述されていて、物珍しげに見て回った様子が窺える。なかでも公衆浴場が男女混浴である様を見ておおいに驚いている(ペリー日本遠征記に挿絵がある。よほどビックリしたのだろう)。街を歩き回る際、役人につきまとわれて迷惑した話や、地元民は好奇心旺盛で、友好的に乗組員たちと言葉を交わした様子が描かれている。役人が地元民に戸を閉めて家に閉じこもっているように指示したことにペリーが抗議したことも記述されている。また食事の供応で、食前酒として出された保命酒が評判が良かったようである。今でも市内の創業100年の酒店土藤商店で売られている。元々は備後鞆の浦の名産で、老中阿部正弘が福山藩主であったことから江戸幕府にも献上されていたそうだ。下田でも奉行所が取り寄せたものだとか。

 1856年、タウンゼント・ハリスが初めての駐日米国領事として下田に着任し、玉泉寺に日本初の米国領事館が開設された。するとハリスはすぐに「領事裁判権」を幕府に認めさせて、いわゆる不平等条約の走りとなる第二次下田条約を締結した。1858年、彼が全権として交渉を始めた日米通商修好条約で、ようやく通商のための港として、長崎、兵庫(神戸)、神奈川(横浜)、新潟、函館が指定開港場となる。この条約が、日本側にとって「関税自主権」「治外法権」という課題を将来に残す不平等条約と言われるものだ。いずれにせよ、ようやく日本が米国にとって、単に港を開くだけでなく、通商相手国として登場することになった。

 当時のアメリカの対アジア戦略は、イギリス、フランス、ロシアといった列強諸国のアジア植民地進出に対抗して、中国・日本との自由貿易を推進することが戦略であった。遅れてきた資本主義国としては選択肢があまり無かったのだろう。ハリスはその交渉の全権をまかされていた。幕府は同時にイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも通商修好条約を締結した。「関税自主権」が日本側に無いことで、日本からの輸出品の関税は高く、相手国からの輸入品の関税は安く設定され、構造的には輸入超過で通商条約による貿易上のメリット(貿易収支黒字)が望めなかった。一方、欧米諸国からの機械や武器などの輸入品を安く手に入れることが出来たので、結果的に産業の近代化に役立ったとの見方もある。日清戦争終結後の1899年、新たな日米通商航海条約が締結され、ようやく懸案の不平等条約は解消される。

 話しを下田に戻すが、下田の街には、当時外国船向けに必要な物資を提供する「欠乏所」が設けられた。薪炭・食料などの必需品だけでなく日本の特産物などの土産品も扱われていたようだ。今、その跡地は平野屋というナマコ壁のしゃれたレストランになっている(ここのハンバーグはうまい)。また、初めての外国船に開かれた港として、坂本龍馬など、維新の志士が若き日に下田を訪ねている。吉田松陰はここからアメリカ密航を企て、黒船に夜陰に乗じて乗船する。ペリーもその志を是とするも幕府役人に引き渡されている。

 しかし、下田は横浜開港の6ヶ月後に閉鎖される。わずか5年の開港場であった。もとより通商拠点としては考えられていなかったためか、外国人居留地や貿易商の進出も無かった。また、1858年の日米修好通商条約が締結されたことに伴い、ハリスは初代公使となり、下田玉泉寺の領事館を引き払って、江戸麻布の善福寺に公使館を設け、遷った。こうして開国騒ぎで歴史の表舞台に躍り出た下田はもとの静かな港町に戻った。江戸時代には、先述のように下田のほうが活気ある港町であり、横浜は、名も無き小さな寒村であった。横浜村は幕末から明治にかけて開港場として急速に開発され、欧米式の港湾設備が建設され、外国人居留地が設けられ、西欧文明の玄関口としての役割を果たした。我が国初の鉄道も新橋・横浜間に開通。いまや日本第二の人口を有する大都市に発展した。

 下田は、戦後になるまで鉄道が無く、天城山越えの下田街道以外、唯一の交通手段は船であった。川端康成の小説「伊豆の踊り子」の有名なラストシーン、東京へ帰る学生と、踊り子の別れのシーンはこの下田港の岸壁が舞台である。皮肉にも初めての外国への開港場となった下田も、明治の近代化、昭和の敗戦(海軍基地があり空襲は受けた)、戦後のバブル、という歴史の荒波に翻弄されることなく、ある意味取り残された感がある。かつてペリーが歩いた下田はいまは、温泉や海水浴場と文学作品(「伊豆の踊り子」「唐人お吉」)、そしてアメリカとの交流の痕跡をとどめる観光の街になっている。アメリカ人であふれかえる黒船祭のにぎわいが、一瞬、栄光の歴史のフラッシュバックのように過ぎ去って行った。
 

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(ペリー提督上陸地。Perry Point。黒船祭のメモリアルセレモニーが開催。下田市の姉妹都市で、ペリー提督の故郷ロードアイランド州ニューポート市長がスピーチ)

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(ペリー艦隊一行の下田上陸、行進を思い起こさせる。日米軍楽隊を先頭に華やかなパレードが繰り広げられる)



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 (亜米利加東印度艦隊の水兵も、今の第七艦隊の水兵のように下田上陸を楽しんだのだろう)



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(下田条約を締結した了仙寺で、その日米交渉の再現劇が催される)

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 (昔ながらの家並が続くペリーロード界隈。ペリー上陸地点から了仙寺へ向かう通り沿いだ)


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(下田公園展望台からの下田港)

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(同じポイントからの古写真。大正初期の写真だとか)

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(ペリー日本遠征記の挿絵。下田条約が調印された了仙寺門前あたり風景。今もあまり変わっていない。)


蔵の街 栃木散策 ~さらにちょっぴり古代「毛野国」散策~

2014年03月24日 | 日本の古い町並み探訪

 「関東の小京都」、「小江戸」、「関東の倉敷」、などと称される栃木。美しい蔵の街だ。この憧れの街についに足を踏み入れた。しかし、古い街並を訪ねるたびに思うが、こうした地方に残された昔ながらの美しい町を、安易に京都や江戸や倉敷になぞらえるのは,「いかにも」な観光キャッチだと思う。栃木はその歴史的経緯から観ても、地理的な立ち位置から観ても、その町の果たした役割から観ても、京都でも江戸でも倉敷でもない。江戸時代は案外、地方が繁栄していた時代だったのかもしれない。すくなくとも経済の東京一極集中、文化の京都一極集中、なんてことはなかった。それぞれの藩がある意味独立し、独自の経済圏、文化圏を誇っていた。そうした地方分権体制が、実は徳川幕藩体制の実態であっのかもしれない。地方には必ずその地域の中心として栄えた街があった、それは城下町であったり、在郷町であったり、宿場町であったり、農村の物資の集散地であったり,門前町や寺内町であったり。

 そうしたかつて栄華を誇った「田舎町」は、時の流れの中で起こった「都会一極集中」のせいで、人がいなくなり、忘れ去られ、もぬけの殻になった。しかし、皮肉にも、その繁栄の記憶と、美しい町並みはタイムカプセルに閉じ込められ、奇跡のように今に残った。そのタイムカプセルを開けるワクワク感。時空の扉を開けて一歩中に入る瞬間、中から、長い時の経過とともに熟成された濃厚な景観が姿を現す。「田舎」と「都会」という二分法。「衰退」と「繁栄」の代名詞のように語られる二分法である。しかし、そうかな? 時の経過、価値観の大きな変化とともに、そろそろ人の流れが変わりつつある。

 栃木は、巴波川(うずまがわ)を利用した舟運により物資の集散地として栄えた。室町時代には城下町であった事もあるそうだが廃れた。その後に日光東照宮造営に際し、江戸や全国から運ばれた材木や,建築資材が利根川、渡良瀬川、巴波川を通じて栃木に陸揚げされ、日光へと運び出される物流拠点として発達した。さらには、造営なった東照宮へ、勅使が通行する日光例幣使街道の宿場町としても発展し、水運、陸運双方の流通拠点として繁栄した。今では,静かな地方都市だが、当時は豪商が軒を連ね、見世蔵が立ち並ぶ殷賑な商都であったことだろう。往時の繁栄が偲ばれる蔵の町並みであるが、耐火性に配慮した建物は、幕末の動乱期に水戸浪士(天狗党)により街が焼かれた教訓から建替えられたもので、現存する約200棟の蔵や40棟の見世蔵などの多くは比較的新しいもののようだ(といっても幕末から、明治、大正の頃だが)。

 豪商がいれば、芸術文化のパトロンがいるのは古今東西共通のならわし。江戸時代も後半になると、江戸や全国から絵師や俳人などが栃木に集まっていたという。あだち好古館には多くの浮世絵や錦絵の原画が濃密に展示されている。最近の話題は、喜多川歌麿が描いた晩年の大作で、しばらく行方不明になっていた、「深川の雪」が発見されことだ。歌麿は度々栃木に招かれ,長逗留をしては数々の作品を残したらしい事が分かっている。「深川の雪」は「品川の月」「吉原の花」とで3部作になっており、江戸の代表的遊里と自然の美を組み合わせる粋な趣向の3作品は、明治半ばフランスに流出。「品川の月」「吉原の花」がさらにアメリカへ渡っている。「深川の雪」だけ日本に戻ったが、戦後行方不明となっていたもの。その3部作,実は栃木で描かれたものではと言われている。当時、華美禁止、風紀粛正でにらまれた歌麿が、幕府の追求の眼を逃れて栃木に潜伏して描いたと考えられているのだ。当時の栃木という土地のステータスを物語るエピソードだが、真相は依然謎のままだ。現在、この3部作の原寸大のレプリカが、栃木市役所に展示されている。発見された本物は、箱根の岡田美術館に展示されている。

 やがて、明治維新後の廃藩置県では、栃木県庁は栃木町に置かれた。現在残る明治期の近代建築、栃木市役所別館(旧栃木町役場)のあるところが県庁所在地であった(今も県庁堀が残っている)。その後、隣の宇都宮県を合併し、新たに栃木県となるが、いろいろな経緯で県庁は宇都宮に移った。栃木の商都、地域政治の中心としての役割は徐々に終焉に向う。こうした地方の常で、明治の近代化や、戦後の高度経済成長に取り残された街には,「破壊」の魔手が及ばず、美しい町並みが残る。とはいえ、栃木市は今でも人口8万を数える地方中核都市だから、過疎に悩む町村とは異なる。同じ蔵の街として有名な、川越のように、東京に近くて、週末毎に大勢の行楽客が押し掛ける訳でもなく、蔵の街大通りもゆったりとした歩道が整備されていて,散策が楽しい。ごった返す歩行者の横を車の列がすり抜けて行くせわしなさはない。

 平成24年、栃木市の嘉右衛門町地区が「重要建造物群保存地域」に指定された。日光例幣使街道の宿場町として発展した地区だ。名主であった岡田家の邸宅や陣屋跡、別邸などがよく保存、整備されている。補助金が出るようになって、街道沿いの建物の修復工事が至る所で進められている。かなり壊れてしまった町家や、完全に今風に建替えられてしまった建物も多く、早急な修景保存が必要であったのだろう。一方で、550年続く名家の岡田家のように、子孫の方々の努力で(あるいは財団法人化し)、広大な建物や敷地を維持し、一般公開して入場料収入でなんとか繋いで行っている。しかし、こうした個人の努力には限界があるだろう。巴波川沿い、大通りの豪邸、商家、見世蔵も大変なんだろうと思う。建物の維持保存だけではなく、そこに住み、代々続く商売を維持しながらの生活、ここには別の形のsastanabilityやbusiness continuityの問題がある。いつも感じる「景観/修景保存」につきまとう課題だ。

 これまでに、佐原、川越、大和今井町、宇陀松山、大和五条新町、富田林、近江八幡、伊勢関宿、えひめ内子町、土佐赤岡、筑後吉井、八女福島、筑前秋月、日田豆田町、播州竜野、倉敷、津和野と古い町並みを巡った。「時空トラベラー」冥利に尽きるタイムカプセル探訪だ。そして、いつも感じるのは、そこに住む人々の鷹揚で、暖かい「もてなし」の心だ。その町が人をそうさせるのであろうか? ここ嘉右衛門町でも、地図を持ってウロウロしていると、すれ違う御婦人が「岡田記念館はこの先ですよ~。ゆっくりしていってくださいね~」と声をかけてくれる。岡田記念館の御婦人は、丁寧に丁寧に中を案内してくれる。最後に、いかにこうした施設を文化財として保存、維持してゆくことが大変かを、微笑みながら話してくれる。愚痴めいた話ではなく、誇りを感じている話し振りである。慌ただしく急ぎ足で巡ることは出来ない。地元の方々とコミュニケーションする時間を充分に用意しておく事だ。ここには別の時間がゆっくり流れているのだから。こうしたちょっとした非日常体験に、忘れていた我を取り戻すことも出来る。不思議な「時空」だ。これからも,未知の町を求めて探訪を続けたい。




 『ここで話題を変える。タイムマシーンを加速して、時代をぐ~んとさかのぼろう。』

 私のもう一つの「時空旅」のテーマである、稲作農耕文化が広まった弥生時代や、その後のヤマト王権確立プロセス、すなわち「倭国」の時代には、栃木県や群馬県は、どのような歴史を歩んだ地域だったのだろうか? 西日本中心の古代史観では,関東地方、東国は、遥けき「遠国」、歴史の霞の中にたゆたっている。

 古代、「毛野国(けぬこく、けのこく)」という国があったと言われている。北関東(群馬、栃木一帯)あたりにあった、というのが定説のようだ。しかし、筑紫、日向、出雲、吉備、大和など、記紀に神話の時代から登場し、記述されている国々と違って、おぼろげな姿しか見えない。東国である事は間違いないだろうが、果たして「毛野」はどこにあったのか。「けぬ川」流域の国だとする説明もある。現在の鬼怒川である。魏志倭人伝にある「狗奴国」に比定する説もある。宋書「倭国伝」に「東は毛人を制する事云々」という記述から、毛野の存在を推定する説もある。しかし我が国の史書には明確な記述がない。律令時代になり、上毛野国/上野国(こうずけ。ほぼ現在の群馬県)、下毛野国/下野国(しもつけ。ほぼ現在の栃木県)に分かれたことが明らかにされている。このころ、正式に大和政権から国として認知されたようだ。しかし、分国する前の「毛野国」に関する記述はない。またヤマト王権が地方に及んだ古墳時代以前の、クニと呼ばれるような大規模な弥生集落や都邑の痕跡も見つかっていない。崇神天皇の四道将軍、景行天皇の日本武尊の東征などの伝承の中にも明確な記述が無い。「毛野国」は謎の国だ。

 時代は下って7世紀後期、天武天皇/持統天皇の時代に、下野国に下野薬師寺が創建された。地元の豪族下毛野君の創建との説もあるが、この時代、藤原京薬師寺にならって全国に薬師寺が建立された。やはり天皇発願寺であったのだろう。8世紀、奈良時代に入ると、大和平城京東大寺、筑紫太宰府観世音寺とならぶ三戒壇の一つがおかれた。ここが大和政権にとって、陸奥の多賀城とともに、東国経営の重要な拠点である事を示す証拠であろう。その場所はJR宇都宮線自治医科大学駅近くにあった。しかし東大寺や観世音寺のように現代まで存続せず,その法灯は大安寺に引き継がれているものの、歴史の流れの中で消えていった。今は遺跡としてその痕跡を残すのみである。西国の古代風景とは大きく異なる東国の古代風景である。

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(栃木は、日光例幣使街道の宿場町と、巴波川(うずまがわ)を利用した舟運で発展した商都であった。栃木を代表する景観ビューポイントだ。)

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(巴波川沿いに、延々と120mに渡って黒塀と白壁土蔵が続く塚田家。江戸時代後期に材木回船問屋として栄えた豪商である。現在は「塚田歴史伝説館」として公開されている)


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(両側に大谷石造りの蔵を備える、珍しい両袖切妻造の横山家住宅店舗。麻問屋と銀行業を兼業していた。裏には見事な庭園と、小さいが瀟洒な洋館がある。)

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(ガス灯がシンボルの横山家。美しい佇まいだ。現在は「横山郷土館」として公開されている)


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(およそ200年前に建てられた土蔵三棟を改修して「とちぎ蔵の街美術館」として一般公開している。)


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(かつて日光例幣使街道であった「蔵の街大通り」には,今でも数多くの見世蔵、土蔵、明治以降の近代建築が残されており、独特の景観が眼を楽しませてくれる。広い歩道が整備されていて散策しやすいのが嬉しい。)


スライドショーはこちらから?


(撮影機材:Nikon Df + AF Nikkor 28-300mm 趣のある蔵の街撮影散策にベストなコンビだ)


時空フォトジャーナリズム? ー歴史写真とは?ー

2013年07月05日 | 日本の古い町並み探訪
 写真というものは、基本的には被写体に感動し、惚れなくては写せない。要するに撮りたいと思うものに出会うことが必要だ。とくに歴史写真は、風景やその現場の空気の中に、過去の出来事の痕跡や、人間の情念や、文化の残照を感じ、感動する要素が見つけられなければシャッターを切れない。写真はテーマに沿った被写体を探し出す事に始まる。

 私は、日本という国の発祥の時期である、弥生後期から飛鳥、奈良時代の歴史的な出来事や当時の人々の心象風景を写真に切り取り、時空を超えてその時代を表現しようとしている訳であるが、しかし、これは容易なことではない。第一、過去の出来事は既にその場に形を持って存在しないから、報道写真のように「決定的瞬間」を撮影するわけにはいかない。今、可視化されるのは、名所旧跡を示す石柱や、現存する歴史的な建造物、古墳や廃墟、仏像や美術品、出土した土器や金属器のような考古学的な遺物だけだ。ないしは歴史学者垂涎の古文書のたぐいだ。後世の人が著した歴史書もそうだ。

 こうした、いわば部材だけを取り上げて、ただ撮り続けると、それはなにか記録資料的な写真、ないしは観光ガイド的な写真になってしまう。見栄えの良い写真や、説明的な写真は世の中にあふれているから、今更自分がそこへ行って撮らなくてもよいだろう。せいぜい「私もそこへ行ってきました」的な証拠写真となるのが関の山だ。しかし、現地へ赴き、その「場」の風景に身をおくと見えてくるものがある。想像をたくましくして、現場に立つと、その辺りの空気や、たたずまいのなかに古代人の息吹や心の動き、文化の残照が漂っている。いやそれを感じることができることがある。やはり「そこ」に身をおいてこそ感じ取ることができるものだ。

 これを「時空フォトジャーナリズム」と(勝手に)呼ぼう。ただ、それを写真というビジュアルなメディアに切り取ろうという訳だからやっかいだ。一見きわめて写実的表現のようであるが、実は観念的表現である。客観的な史実に基づく現況証拠写真であるよりは、想像をたくましゅうするためのイメージを求めた情況写真であったりする。すなわち、歴史の具体的表現ではなく、抽象的表現である。

 まして古代人がご神託を得たという神や、スピリチュアルな経験や、非業の死を遂げた人物の祟りや怨霊など、その具体的な姿を写真にしようもない。おそらくは天変地異などの自然現象や、山や河などの地形、一木一草、水、気、空などに神や霊魂や祟りを感じたのであろうから、そうした光景を用いて表現するしかない。大和盆地は天気の変化が激しい土地柄だ。ある意味その変化が美しい。二上山の雲間から降り注ぐ夕陽の光芒、といったシチュエーションが典型的な表現だろう。それでも画にする事はかなり難しい。

 さいわい大和盆地には記紀伝承地や万葉集に歌われた美しい山河や田園、自然景観がまだ残されているので、現代の風景からかつてのヤマトの景観を想像するのは比較的容易である。だから大和が好きなのであるが。こうした時空を超えた、連続的な風景の共有が可能であることは、今となっては得難いことである。尊敬する入江泰吉先生の写真には,そうした時を超えた光景が写し出されている。そこに古代の飛鳥や奈良の姿が写っている。

 しかし、こうして今、現代の東京へ帰ってきて、雑踏の中を歩いてみると、この町はあまりにも変貌しすぎてしまっている。河口に広がる寒村だった江戸は、400年前の徳川家康の江戸開府以来、営々と築き上げられ、当時としてはロンドンやパリを超える巨大な都市に成長した。幕末の動乱期の戊辰戦争による焼き払いは避けられたものの、東京と名を変えて以降、関東大震災、東京大空襲、そして戦後の高度経済成長期の地上げで、街の様相は一変する。今でも人口の一極集中で、中空に、地下に、海上に、留まる事無く都市改造が進む東京。

 東京では、古代の人々との時空を超えた風景の共有、心象対話はもはや不可能である。不変の景色の代表である富士山でさえも、東京から見えるポイントは限られてしまっている。わずかに富士見坂などの地名に痕跡を残すのみだ。古代までさかのぼらなくても、たった150年前の幕末から明治期に、御雇外国人ベアトが愛宕山から撮影した江戸市街地の風景(写真参照)も、今はまるで全く別の都市か、と思われるほどの姿に変貌してしまっている。まして万葉集に歌われた武蔵国の草深き野山を駆け巡るあずまびとの姿を空想することは難しい。

 さて困った。写真で表現する古代の心象風景。ここ東京ではあきらめねばならないのか?東京に古代史の痕跡を見つけるコトは出来るのか? 記紀や万葉集の世界を垣間みる事は出来るのか? 力強い古代人の美の残照を見極めることは出来るのか? かなりハードルが高そうだ。空想力、写真表現力の限界を感じてしまう。

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(ベアトが愛宕山から撮影した江戸の町の景観。大名屋敷の甍の連なりが美しい町だったのだ,江戸は...)

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(現代の新橋駅烏森口周辺。旧新橋停車場は、駅の向う側、汐留シオサイトのある辺りにあった。どう見てもこの町から古代の武蔵の国を想像するのは難しい。)


筑後柳川 ー水郷と白秋のまち。そしてうなぎのせいろう蒸しー

2012年06月03日 | 日本の古い町並み探訪
 川下りと北原白秋で有名な水郷柳川(柳河)は、筑後南部、立花氏13万石の城下町だ。しかし、あまり「城下町」という印象は薄いかもしれない。むしろ倉敷や佐原のような、漠然とした商業町のイメージがある。一つには水郷地帯に築かれた平城で城跡がはっきりしない事があろう。観光写真も、殿の倉や並蔵のような水路沿いの蔵屋敷のイメージを強調している事もあろう。ちなみに、筑後国は江戸時代は北部が久留米有馬藩21万石で、筑前国のように黒田家が一国支配する体制とは異なっていたようだ。

 立花家は、もともと九州の有力大名大友家の重臣であった。筑前立花城主の立花(戸次)道雪の娘で、8才で主家に安堵されて女城主(城督)となったギン(門構えに言)千代の婿養子として、高橋家から立花家に入った宗茂(あの岩屋城主高橋紹運の嫡男)が、島津氏との戦いでの功績が豊臣秀吉に認められて、筑後柳川13万石の大名に取り立てられた。しかし関ヶ原の戦いでは西軍側に組したため、敗戦後は徳川から家臣共々領地を追われ,浪々の身になってしまった。替わって三河岡崎から田中吉政が入国し、現在の濠割を巡らせた柳川城下町の基礎を造ったと言われている。しかし、田中氏は跡継ぎが居らず、20年あまりの領地支配の後、御家断絶。徳川に恭順した立花氏が再び元の領地に入国するという異例の展開となった。立花家は幕末まで続き、明治維新後も柳川に留まり、現在の御花(旧立花邸)の当主である。

 柳川は大きく、柳川城内、その東北に位置する柳河城下町、西の沖端町の三つに分かれる(添付の古地図は上下が東西方角になっているので、左上が柳河城下町、右下が沖端となる)。これらの町割りは現在も、掘割と小路でそれと確認出来る。柳川城内も掘割ではっきりとその範囲がわかるが、天守は現存せず、城壁もあまり残っていない。沖端は沖端川に面した湊町であったが,現在も沖端漁港となっている。
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 「御花」は観光の中心であるが、先程も述べたように現在も旧藩主立花家の邸宅である。堂々たる大広間を持つ屋敷と広大な庭園、松涛園、そして明治期に元藩主が好んで建てた洋館が、ここでも正門の向こうにそびえている。屋敷の大広間から眺める白亜の洋館は、妙にマッチしていいる。

 北原白秋の実家は沖端に位置している。立花邸からそれほど遠くないところにあるが、この辺りは城下町というよりは、もう漁港の雰囲気である。近くには櫂や櫓を売る古い店があったが、今回行ってみると、きれいに改装されてお土産屋さんになってしまっていた。沖端漁港は、今はコンクリート護岸工事で整備されてしまったが、昔は、有明海の干満差の大きい港で、干潮時には泥底が露呈した上に多くの小型の漁船が乗り上げている光景が独特の景観を呈していた。昔ながらの風情をいつまでも残すという事は難しいものだ。ただ、木造の水産橋が、朽ち果てた橋脚をさらしていて、やつれ感を漂わせている(ちなみにこの橋は車両通行禁止。しかし、人は渡っていいようだが、何時崩落してもおかしくない有様だ)。

 柳川といえば、うなぎのせいろう蒸しが名物だ。子供の頃、両親に連れて行ってもらって初めてせいろう蒸しを食べた事を覚えている。たしか若松屋という店だった。今も掘端にある。せいろう蒸しとは、せいろうにご飯を盛り,その上にうなぎの蒲焼きを乗せてタレをかけてフタをして蒸す。味がしっかりとうなぎとご飯に沁みてアツアツをふうふう言いながら食べる。うまい!なかなか東京や関西ではお目にかかれない。博多には中洲川端に店がある。名古屋のひつまぶし、なんぞというお茶かけて食うみたいなヤツはあちこちで目にするが、この柳川の伝統うなぎ料理はまだ全国区ではないのか。

 しかし,それにしても柳川の水路,掘割は網の目のように街中に張り巡らされている。川下りの船はあちこちに乗り場があって、船頭さんの語り口を楽しみながら船下りを楽しむ観光客で賑わっている。このように,昔は水路が極めて重要な交通、輸送手段だった。河口や大きな河の支流や運河沿いに物流拠点として発展した町が全国あちこちに見られるが、ここも沖端川を経て有明海につながっていた。

 現在の柳川市の玄関口は、西鉄天神大牟田線の柳川駅。福岡天神から特急で45分ほど。駅は観光の中心である御花や白秋生家のある地域からは離れているが、船下りの乗船場が近い。バスで行く手もあるが、掘割沿いにぶらぶら散策するのも良い。歌碑巡りしながら、船下りしてる人たちを岸辺から見るのも悪くない。柳川は先にも述べたように、よくその町割りと掘割が、今に至るまで珍しくも残された城下町なのだから、ゆったりと、小路や街道を巡るまち歩きが、実は柳川を知る一番良い方法なのだ。そこには隠れた「美」がここにも、あそこにも... 。
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(撮影機材:FujifilmX-Pro1, Fujinon 18mm, 35mm, 60mm)