時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

春爛漫奈良大和路散策 桜はまだだ(3)長谷寺、室生寺、大神神社

2017年04月18日 | 奈良大和路散策

 

 奈良市内を離れ、三輪山の麓から初瀬街道にそって長谷寺、室生寺へと歩を進める。ヤマト王権の発祥の地である三輪山山麓。奈良市内からは「山辺の道」が南に伸び、道に沿って大型古墳が並ぶ、いわゆる大ヤマト古墳群である。最近、纒向の地に東西軸で構築された3世紀のものと考えられる宮殿/神殿跡が発見された。これぞ邪馬台国女王卑弥呼の居館であると騒がれたが、まだ明確な証拠となる遺物は見つかっていない。むしろ初期ヤマト王権の拠点遺跡であろう。その三輪山から東に谷あいを進むと、初瀬街道、伊勢詣での伊勢街道へと続く。ここには観音様で有名な長谷寺、そして女人高野室生寺がある。山と谷に囲まれた隠国(こもりく)の初瀬だ。

 

(1)長谷寺

  真言宗豊山派の総本山。もとは天武天皇の病気平癒を願い、686年に初瀬山に開いた精舎(現在も本長谷寺として残されている)である。727年には聖武天皇の勅願により十一面観音菩薩を祀った。やがて西国三十三所観音霊場の根本道場となった。平安時代には長谷の観音様詣でがみやこ人の間で人気があり、初瀬街道や伊勢街道が参詣客で賑わった。いまでも初瀬街道沿いには宿屋や茶店、土産物屋が軒を連ねている。なかでも出雲人形という土人形が名物であった。京都の伏見人形とともに参詣の土産として売られていた。残念ながら現在では伝統を継ぐ職人もなく、唯一残っていた出雲人形の店も看板はあるが玄関は固く閉ざされている。代わって最近の土産物は、草餅。そして三輪そうめん。我らも、にゅうめんを食して初瀬もうでを締めくくった。

 長谷寺は「花のみ寺」と呼ばれ、四季折々の花に彩られる美しい寺だ。とくに春の桜、五月の牡丹、秋の紅葉は有名。その他にも四季折々に花が咲き乱れ、いつ訪れても目を楽しませてくれる美しい寺だ。桜は今回残念ながらまだ咲いていなかったが、梅やサンシュユ、花桃、雪柳が早春の名残に咲き誇っていた。全山満開の桜の季節になると、初瀬川対岸の愛宕神社境内から眺める桜花に埋もれる長谷寺の全景が素晴らしいのだが。今回は境内は季節の端境期で訪れる人も少なく静かな佇まいである。それはそれでまた良し。

 ちょうどご本尊の十一面観音菩薩のご開帳の時期にあたった。普段は入れない内陣に入れてもらい、御像の足元に触れさせていただくことができた。身の丈が三丈三尺(約10メートル)で、近江高島の楠の霊木を彫り上げた観音様。右手に錫杖を持ち、大磐石という大きな平らな石の上に立つ独特のお姿を足元から見上げる。はるか頭上に慈愛に満ちて微笑む観世音菩薩との結縁を結ぶことができた。私のような現実的で理屈優先な人間がなぜか心洗われ世俗の憂いや煩悩から解き放たれた心持になった。

 

参考:

2012年4月18日のブログ:初瀬のお山は花盛り〜長谷寺の桜〜

2015年12月18日のブログ:初冬の大和古寺巡礼(1)長谷寺〜冬紅葉を巡る旅〜

 

名残の梅が本堂舞台を彩る

 

与喜天満宮から初瀬街道を望む

 

西国三十三ヶ所巡りのお遍路さん

 

 

参道の梅

 

登廊

 

桃とサンシュユ

 

桃が盛りだ

 

さんしゅゆ

 

お遍路さんご一行さま

舞台

 

内陣から舞台を望む

 

善男善女の参拝が続く

 

桜が咲き始めた

 

サンシュユの大木がみごと!

 

 

(2)室生寺

 室生寺のあるここ室生の地は、太古の室生火山群が形成する深山幽谷の地、神々の坐す聖地として仏教伝来以前から仰がれていた。近くには龍神信仰の聖地龍穴神社がある。奈良時代の後期に勅命により創建されたのが室生寺。山林修行の道場にして法相/真言/天台各宗兼学の寺であった。女人禁制の高野山に対し、女性の参詣を許す真言道場であり「女人高野」と称された。大和路の寺のなかでも谷を越え山に分け入る地にある静かな聖地である。

 ここはシャクナゲで有名な寺で、金堂にいたる鎧坂の両側はその季節になると見事であるが、もちろんまだその季節ではない。里ではそろそろ蕾をつける頃だが、深山幽谷の室生寺ではまだまだだ。そしてやはり桜はまだであった。しかし、なんという静けさ。こんな春の陽光の中、鎧坂、金堂、五重塔、奥の院へ続く道、ほとんど独り占めできる嬉しさ。今回は奥の院までは行かなかったが、これから新緑の季節を迎えると、向かいの室生山の山肌が若葉で美しく輝く。いつ訪れても心洗われる聖なる場所だ。

 室生寺は大和路散策のなかでも人気の寺で、近鉄室生口大野駅から日に数本しかバス便が無いにもかかわらず、平日でも結構な数の参詣者がいる。しかし、この日はさすがにバスの客も少なくゆったりと20分のバス旅を楽しむことができた。駅近くの大野寺の枝垂れ桜が有名で、シーズンには大勢の花見客が押しかけるが、この比較的早咲きの桜さえ今年はまだ蕾であった。河岸の磨崖仏もこの日は寂しそうだ。

 こちらも、この時期、金堂の内陣が特別公開であった。普段は外の回廊から拝観するしかない。ところがちょうど諸仏のご尊顔あたりにハリが横たわっていて腰を低くして尊像を拝せざるを得ないのだが、この時は内陣ですぐ目の前に並ぶご本尊、薬師如来、土門拳の写真でも有名な十一面観音などの諸仏を拝観することができた。建物自体も平安期創建時の建物が貴重なことに残っていいて、時空を超えた曼荼羅世界に浸ることができた。

 

参考:

2016年1月21日のブログ:女人高野室生寺に雪が降った〜土門拳の世界に迫る?〜

鎧坂

 

鎧坂からみる金堂

平安時代初期(国宝)

 

今回は内陣の公開があったので

ご尊顔をゆっくり拝見できた

 

寺を守る神社

神仏習合のあらわれ

 

国宝五重塔

平安時代初期(国宝)

平成10年の台風で大きな損傷を被ったが平成12年に修復された。

 

同じく、横位置にして広がりを表現してみた

 

 

ここにも名残梅

 

 

(3)大神神社

 最後に、三輪山を御神体とする大神神社へ。神奈備型の美しく神聖な三輪山は大和の風景のシンボルであり、ヤマト王権発祥の地にふさわしい聖山である。そもそも大神神社の御祭神は大物主神。出雲の杵築大社(出雲大社)の御祭神、大国主命の別神とされており、「国譲り神話」という、ヤマトと出雲のつながりを暗示する記紀神話ストーリーの舞台である。また蛇が神の化身と言われ、大杉のウロに住み着いているという。参拝者は卵を御供物として献納する。記紀神話ではヤマトトトヒモモソヒメとの婚姻譚、其の死後に築造されたという箸墓古墳についての伝承が伝えられている。これが中国の史書、魏志倭人伝にいう邪馬台国女王卑弥呼であり、したがって箸墓古墳が卑弥呼の墓であると結びつける説がある。これを邪馬台国近畿説の「根拠」にしている学者もいる。もとより神話と考古学と中国の文献とを結ぶ証拠はもちろんない。日本側の公式な史書である記紀には邪馬台国や卑弥呼に関する記述、言及が一切ないのである。

 しかし、三輪山が、太陽神という自然神崇拝、やがては一族の祖霊神崇拝を旨とする、列島の原始宗教形態のシンボルになっていったことは間違いない。このような神奈備型の山を天上界の神が降臨する聖山として崇め、その麓で祭祀を執り行う形態は、列島の各地にあった。のちに(6世紀の仏教伝来以降、その外来の壮麗な宗教施設である寺院建築物に影響されて)拝殿、社を設け「神社」とするようになる。やがて列島内の首長・豪族といった勢力が緩やかな統合に向かい、大和三輪山の麓(やまと)に打ち立てられた「ヤマト王権」が列島を取りまとめる中心となってゆく(その遺構が纒向遺跡であり箸墓古墳である)。そして三輪山が、いわば「聖山の中の聖山」として王権のシンボル的なステータスになってゆく。そのなかで、やがて祖霊信仰が加わってくると、三輪山に一族の祖霊神を投影するようになる。それが大物主命であり、出雲大国主命の別神であると伝承され、出雲と大和の結びつきの記憶を想起させることとなる。

  三輪山の麓からヤマト世界を展望できる場所がある。ここからはとりわけ夕日に彩られる風景が美しい。大和三山、葛城・金剛山、そして二上山が見渡せる。日の出る山、三輪山、日の没する山、二上山。太陽信仰を基本とする東西軸の宇宙観を持った倭国ヤマト世界をここに立つと体感できる。南北軸の宮殿配置、都城配置は(藤原京・藤原宮、平城京・平城宮以降の)は後に中国から伝わった思想に基づくものである。さらに6世紀になると仏教が伝わり、西方浄土という考え方が徐々に人々に受け入れられる。やがて夕日の沈む彼方の極楽浄土を憧れるようになり、二上山が聖山として崇められるようになる。

 聖山三輪山の麓が3世紀ヤマト王権発祥の地である。しかし、そのこととここが邪馬台国の所在地であったか、ということは別問題である。同じく3世紀の倭国の姿として記述される魏志倭人伝世界の邪馬台国はやはり北部九州チクシ倭国連合の中心国であったという考えに変わりはない。3世紀当時の列島各地には、大小の違い、結びつきの強弱の違いはあれ、いくつかの地域連合があったであろう。筑紫、出雲、吉備、但馬、越、尾張などの地名がそれを表している。なかでもチクシ倭国連合はその、地政学的立ち位置、奴国、伊都国時代からの大陸との交流の歴史から、中国王朝(特に漢帝国)との結びつきが強く、列島内において文化的、経済的、政治的に優位なポジションにいたことは間違いない。しかし、大陸の漢王朝が衰退し、分裂して三国時代になると、チクシ王権の盟主である邪馬台国(卑弥呼)は朝鮮半島を通じて魏朝に朝貢するが、一方で、魏と対抗する呉(現在の上海付近)王朝と通交した列島内倭国の地域王権があったかもしれない。中国においても呉や蜀の史書は失われており、残念ながらこれらの通交を記録する文献資料は見当たらないが、当時の東アジア情勢は中華王朝、朝鮮半島、倭国を巻き込んで合従連衡の中にあったと考えるべきだろう。そうしたなかで魏志倭人伝には出てこない倭国内の(列島内の)有力な倭人勢力が幾つかあったとしても不思議ではない。その一つがヤマト倭国連合であった。この初期ヤマト王権の出自についても謎が多いが、先ほどの出雲勢力との関係や、その背後にある筑紫勢力(倭国争乱で邪馬台国に敗れて東遷したチクシ勢力と考える)と無縁ではないだろう。大和盆地に自生した土着勢力とは考えにくい。

 この辺りの話はし出すとキリがないのでこのあたりにしよう。さらに興味のある方は、下記のブログをご一読あれ。 ふと我にかえり目をあげると、眼下に広がるヤマト世界を夕日が茜色に染め上げている。

 

参考:

2016年1月17日のブログ:なぜ大和三輪山には出雲の神が鎮座しているのか?

2016年10月18日のブログ:「初期ヤマト王権」とはなにか

 

大神神社拝殿

御神体はこの後ろの三輪山

 

夕日に映える表参道

 

大和の夕景

まもなく二上山に夕日が落ちる

 

真西に夕日が沈みゆく

東の三輪山、西の二上山という

東西軸の宇宙観をここに立つと体験できる

 

大鳥居と耳成山

背景に葛城山、金剛山

ヤマト世界の夕景だ。

(撮影機材:SONYαR II + EF24-240Zoom. 長谷寺金堂と大神神社拝殿はLeicaM10 + Tri-Elmar 16-18-21/4 ASPH)

 

アクセス:

長谷寺:近鉄大阪線長谷寺駅下車。徒歩20分

室生寺:近鉄大阪線室生口大野駅下車。バス20分。

大神神社:JR桜井線(万葉まほろば線)三輪駅下車。徒歩15分。

 

 

 


春爛漫奈良大和路散策 桜はまだだ(2)高畑町、白毫寺、新薬師寺界隈

2017年04月18日 | 奈良大和路散策

 奈良市内にも昔からのお屋敷街がある。高畑町界隈だ。文人墨客や財界人の住まい、別邸が軒を連ねる閑静な邸宅街だ。この辺りは、春日大社の神域の南に位置しており、かつては春日大社の禰宜、権禰宜などの神職が住まう地域であった。ちょうど京都で言えば上賀茂神社あたりの社家町ようなところだ。春日若宮から鬱蒼たる春日の森を貫く小径に「禰宜の道」と名付けられているのはこうした由来からだ。さらに東にダラダラと坂を登ると、やがて柳生街道へと続く。

 今回は、破石町バス停から、旧志賀直哉邸、白毫寺、新薬師寺、そして最後に、大和路情景写真の聖地、入江泰吉写真美術館へ、という高畑町ルートを散策した。

 

(1)旧志賀直哉邸と高畑町界隈

 志賀直哉は家族とともに京都から奈良に移り住み、昭和4年に高畑町に自宅を建てた。数奇屋造りであるが、洋風の居室も設け、当時としては斬新な邸宅であった。昭和13年までここに住み、昭和12年には長編「暗夜行路」をこの邸宅で完成させた。終戦で米軍に接収されたが、接収解除後は厚生省の職員保養所として利用された。その後取り壊して建て直す話が出たが、地元では保存運動が起こる。結局、奈良学園の理事長が、保存を目指して厚生省から買い取り、再生/修景を行い現在に至っている。取り壊されなくてよかった。ここでも篤志家が文化財を守る良きパトロンとなった。最近の金融資本主義のなれの果てのような成金はこういう文化財に対する目線が乏しい。社会に富を還元するという志が薄くなっているようだ。残念なことだ。

 

 

志賀直哉邸玄関

 

 

 

 

 

馬酔木

 

 

(2)白毫寺と五色椿

  白毫寺の五色椿。東大寺良弁堂糊こぼし椿、伝香寺もののふ椿とともに「奈良三名椿」と称されている。一本の木に白、ピンク、赤、まだらなど様々な花をつける。天然記念物に指定されている。今年は花付きが悪いそうで花の数が少ないようだがその美しさは変わらない。秋には萩寺として有名な白毫寺だが、この椿の季節がまた一段と良い。ここからの奈良市内の展望が素晴らしい。春日山、高円山の山麓に位置し、山の辺の道の北端にあたる。一度、ここから山の辺の道の全行程を踏破してみたいものだが。入江泰吉師の白毫寺界隈の写真にはのどかな田舎の風景が写し出されている。今でもその面影は残されているものの、この辺りも開発が進み、白毫寺に至るのどかな参詣道ぞいにあった風情ある古民家が取り壊され、プレハブの民間アパートやマンションに建て替わってしまっている。あたりの景観にまったく配慮しない建物だ。なぜこのようなものが建築許可を得る事ができたのか理解に苦しむ。かつての鄙びた佇まいがどんどんなくなってゆくのが悲しい。奈良白毫寺町も鄙びたまま時を過ごすのは難しいのか。なんともやるせない気持ちになる。

 

2012年3月21日のブログ:奈良三名椿を巡る

  

五色椿

 



 

 

五色椿

  

落花の舞

奈良市内の展望が素晴らしい

  

椿

 

桜が開花した

 

 

サンシュユ

 

  

(3)新薬師寺

  御本尊薬師如来、十二神将で有名な華厳宗の古刹。聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后が創建したと言われるが、正史に記載がなく正確な創建の由来、年次は不明と言われている。しかし、奈良時代には南都十大寺の一つとして広大な寺域を有していたことは確かであったようだ。やがて平安期に入ると徐々に衰退していった。現在は境内もこじんまりとし、金堂も本尊の薬師如来と十二神将が鎮座する小さなお堂でしかない。同じように寺域が後世縮小してしまった元興寺も、旧僧房の一つにこじんまりと本尊を祀る寺になってしまっているが、現在の奈良町が旧元興寺境内であったことが分かっており、広大な寺域を誇っていたことを確認することができる。新薬師寺は創建時の壮麗な大伽藍を彷彿とさせるものはあまり残っていない。しかし平成20年、創建時の威容を示す遺構が、近くの奈良教育大学構内で発見された。巨大な金堂を想起させる礎石列が地中から発見された。平城京東郭にあって東大寺、元興寺、興福寺に匹敵する大伽藍であった。ちなみに新薬師寺の名は、新しい薬師寺ではなく、霊験あらたかな薬師寺という意味。

 

 学生時代に新薬師寺を訪れた時、山門の前に素焼きの土器を製作する工房があった。ここで薬師如来の土面を買ったことを覚えている。なんとも心奪われる面立ちの面であった。いまでも実家に飾られており、経年変化でさらに味わい深いお顔になっている。大阪勤務時代にここを再び訪れた時にはその工房はなくなってお土産屋兼食堂になっていた。工房を継ぐ後継者がいなかったのだろうか。門柱がわりのハニワ像がその痕跡を残していた。そして今回行ってみたら閉店の看板。その横に「売り物件」の張り紙。時の移り変わりを感じざるを得ない。

 新薬師寺のすぐ隣が「入江泰吉写真美術館」である。この道すがらの田んぼも、無くなっていて、シニア向けマンションぽい施設が立っていた。ここを人生の終着点として住む人には良い立地だろうが、鄙びた「滅びの美」を探し求めてここへたどり着いた旅人にはどうだろうか。むしろ路傍に終の住みかを見つけて「旅に死す」ほうがロマンチックだと思うのはまだ若いからだろうか。

 

新薬師寺近金堂

 

レンギョウ

  

ハクモクレン

 

馬酔木

 

入江泰吉写真美術館

  

 締めくくりに、今回の散策で出会った椿をご披露したい。白毫寺参詣を終え、坂を下りると参道に一軒の植木屋さんがあった。そこには様々な種類の椿の鉢が並べられ、どれも美しくその華麗な姿を競っていた。そのなかで、パッと目に飛び込んでくる椿の花が一輪。華麗ではあるが可憐でもあるその姿。懸命に咲き誇りこちらに手招きをしているではないか。出会いとはこういうものだ。一目で気に入り、早速求めたいと思った。が、店の人が誰もいない。そもそも周りに誰もいない。散々「ごめんくださ〜い」「おねがいしま〜す」と声をかけるが誰も出てこない。やはり縁がなかったのかと思って立ち去りかけた頃、建物の裏から年季の入った温和な風貌のオトーさんがひょっこり現れた。やれやれだ。聞けば、この椿は「絵日傘」だとか。玉之浦や岩根絞りもあったが、オトーさんのイチオシはこれだという。都会ではなかなかお目にかからないはずだという。あまり大きな鉢に移し替えず、小ぶりな鉢で小ぶりに育てると、花が大きく色鮮やかに咲く、と教えてくれた。こうして、大和路散策の旅の締めくくりは、この「絵日傘」と二人旅となった。奈良白毫寺から京都経由で新幹線に乗って東京の自宅まで、「博多来るときゃ独りで来たが帰りゃあ人形と二人連れ」。筑前博多節の一節だが、今回は「大和来るときゃ独りで来たが帰りゃあ椿と二人連れ」と洒落込んだ。

 

白毫寺参道で出会った「絵日傘」

 

Googleフォトサイトへはこちらから:春爛漫大和路散策

(撮影機材:SONYαRII + FE24-240)

 

 

 

 

 

 

 


春爛漫奈良大和路散策 桜はまだだ(1)奈良公園/東大寺/春日大社

2017年04月16日 | 奈良大和路散策

 

 いよいよ桜が開花。東京ではぼちぼち咲き始めた。ということで3月27−29日、奈良、大和路へ枝垂桜ハンティングに出かけることにした。今回は、入社同期組3人で出かけることにした。皆、定年を迎え、金はないが時間はたっぷりあるご隠居さんになった。40うん年前の新入社員当時は入社後全国の電話局に現場実習訓練として一年間配属されるのが通例であった。この時関西に配属された同期生の中のこの3人は、週末になると奈良や京都に出かけ、写真を撮り回ったものだった。初めてもらった給料から一眼レフカメラとレンズを買った。その仲間が40うん年ぶりに奈良に集合したというわけだ。当時NIKONの一眼レフを所有する仲間をうらやましそうに横目で見ながら、愛機ミノルタSRをぶら下げて徘徊した40数年前を懐かしく思い出す。気のおけない仲間と楽しい撮影旅行であった。

 考えてみると、あの時の関西配属が、私を写真好き、大和路好きにしたきっかけであった。私のその後のサラリーマン人生は、東京はもとよりロンドンやニューヨークを拠点に海外勤務が長くなった。ニューヨークから帰国して第一回目の定年を迎えたのち、大阪勤務となり、再び関西生活を送った。この時大和路の魅力を再発見することになった。長く海外生活を送ると、「海外かぶれ」「現地ボケ」「アメリカ出羽守」になると言われるが、実は帰国後、日本ってなんと美しく、魅力に溢れた国だろうと、これまであまり気がつかなかった母国の側面を再発見する。特に田舎の美しさに目を見張る。イギリスの田舎も美しかったし、豊かで今でも憧れるが、日本の田舎はそれに負けていない。そこに蓄積された長い歴史と人々が育んだ文化、ライフスタイル。稲作文明「豊葦原瑞穂の国」の象徴たる田園風景。それを彩る四季折々の花々... 今まで気づかなかった「美」。目から鱗が落ちた。こうしたことに気づくことができるのも、海外生活のおかげだ。

 というわけで出かけた奈良/大和路散策。しかし今年の関西は開花が遅れている。例年他の桜に先んじて咲き誇る氷室神社の枝垂桜もまったくの蕾。大野寺の滝桜も、長谷寺も枝垂れ桜は全く咲いてない。もちろん吉野桜もやまざくらもまだまだ。緋寒桜や河津桜がちらほら。というわけで桜のない大和路を散策することになった。しかし、負け惜しみじゃないけど、桜直前の早春の佇まいもまた捨てがたい。むしろ大和路の春めいた古都の「滅びの美」といった佇まいを楽しむには、観光客がドッと押しかけない今が絶妙のタイミングなのかもしれない。我々が敬愛する入江泰吉先生の写真にも桜満開の大和路よりも、梅や馬酔木、コブシや椿が楚々と路傍を彩る風景写真のほうが多い気がする。古代、万葉集や古今和歌集に歌われる花は梅であり桃であって桜ではなかった。いまや桜は日本人の象徴のように捉えられているが、それは比較的新しいことだ。桜が開花すると世の中全て桜一色になってしまう。他の春を彩る花々が霞んでしまう。花見だ、桜撮影だ、と桜前線に沿って慌ただしく桜ハンターが右往左往して落ち着かない。しかし、この桜狂想曲直前は、梅やサンシュユ、レンギョウ、花桃、菜の花、馬酔木、春を彩る花々が一斉に咲き誇っている。この春の足音こそ心に響く前奏曲だ。

 まず第一回は、定番コース:外人観光客でいっぱいの奈良公園/興福寺/東大寺/春日大社をめぐる散策。そして第二回は静かな長谷寺、室生寺、大神神社と回る。第三回として白毫寺、新薬師寺、高畑町界隈、そして我らが巨匠、入江泰吉写真美術館を巡る。

 

奈良県庁屋上から東大寺大仏殿、二月堂を望む

 

この洋館は奈良国立博物館

 

この時期の奈良と言えば馬酔木

 

氷室神社は未だ枝垂桜は蕾

ハクモクレンが主役

 

観光客で溢れる東大寺南大門あたり

近年外国人観光客が多くなった

 

南大門で見つけたリトル・プリンス

 

 

  

  

何をお祈りしたの?

 

柳が芽吹き、新緑が青空に映える

 

西方浄土へ誘う階段

 

 

二月堂から大仏殿越しに生駒山を望む

 

 

日が傾き始めた

夕陽刺す西方浄土の姿を見るような

 

春日大社参道にかかる夕陽

 

春日大社表参道の灯篭

 

鹿たち

  

奈良公園で見つけたリトル・プリンセス

 

桃と梅

 

飛火野

 

(撮影機材:SONYαRII + FE24-240 Zoom)

 

 

NIKONのある街 大井町を散策する

2017年04月15日 | 東京/江戸散策

 

こんな昭和な街並みも残る

 

 大井町と聞いてどんな街をイメージするだろうか? 競馬場?大井埠頭?元京浜工場地帯?大井町阪急?きゅりあん? 鉄道ファンなら(といっても中高年以上)国鉄大井工場か。少なくともさしたる名所旧跡も見当たらないし、はやりのお洒落なお店もないので、なかなか話題になるような人気のエリアというわけにはいかないだろう。たぶん住みたくなる街ランキングトップテンに入ることもない。だが、そう捨てたものではない。私のようなカメラファン、そして「時空トラベラー」にとって大井町は決して記憶から消え去ることのない地名である。ここは知る人ぞ知る「カメラの聖地」なのだ。そうカメラファン憧れの世界ブランドNikonの大井工場所在地なのだ。丁度ライカファンにとってWetzlar GermanyがErnst Leitzの創業の地、カメラの聖地としてその名が記憶に刻まれているのと同じで、大井町はNikonの創業の地である。あのレジェンダリー一眼レフカメラNikon Fが生まれた聖地なのだ。

  

 

NIPPON KOGAKU TOKYOというロゴが刻印された

Nikon F最初期型

この大井工場101号館で生まれた

 

ニコン大井工場101号館

去年の姿

 

今年、取り壊しに向けて覆いがかけられた

 

 

 Nikon Corp.の前身は1917年(大正6年)創業の日本光学工業。もともとは軍用の光学兵器開発製造するために設立された。のちのトプコン(東京光学工業)が主に陸軍用製品を供給したのに対し、海軍用製品を開発製造した。1933年(昭和8年)に、大井町のシンボル的白亜の殿堂大井工場101号館が建設された。有名なのは戦艦大和の艦橋に装着された巨大な測距儀。これがここで製造された。

 

 戦後は民生品にシフトしていった。特にカメラは戦後日本の復興のシンボル的な製品となった。いまでは世界のNikon:ニコン(ナイコン)! プロはもとより、アマチュアにとっても憧れのカメラだ。私の子供の頃は、Nikonのカメラなんぞは、手に入れたくてもなかなか入荷しない高嶺の花だったことを覚えている。しかし、そんなNikonも戦後のカメラ事業創業の頃は苦闘の連続だった。当時、プロの写真家にとって圧倒的に支持されていたのは、ドイツのErnst LeitzとCarl Zeiss。特にオスカー/バルナックが開発した35ミリ判フィルム(ライカ判)を使う小型カメラLeica。その改良版のLeica Mは究極の光学レンジファインダーを搭載し、他社の追随を許さない圧倒的な精密光学機器の精華であった。これにNikonなど日本のカメラメーカーは無謀にも挑戦し、多くのいわゆる「ライカコピー」を生み出したが、結局追いつくことができず、一眼レフ方式のカメラ製造に転換した話は有名すぎる。しかし、その結果、レンジファインダーではなくてペンタプリズムを搭載した一眼レフカメラは、その優秀なレンズ群と共に報道カメラマン始め、多くのプロに支持されるようになり、カメラ市場を制覇する。こうして戦後日本のNikonが名門Ernst Leitz社を抜いて世界一のカメラメーカーに成長することになった話も改めて述べる必要もないだろう。

1933年に開業した101号館

 

 

現在の101号館

取り壊しが始まった。

 

無残な姿に...

 

 その大井工場101号館は2016年解体が決まり、83年の歴史に終止符を打つこととなった。そして2017年に入っていよいよ解体が始まった。そのNikonの栄光の歴史を象徴する白亜の殿堂は、いま無残な姿をさらしている。あのレンジファインダーカメラNikon Iに始まり、名機Nikon SP、そして伝説の一眼レフNikon Fもこの101号館で開発、設計、製造が行われた。F3まではここで製造されたそうだ。ニコンファンにとってはまさに聖地と言わざるを得ない。そこが取り壊されてしまう。折しも今期決算でNikon Corp.は、本業のカメラだけでなく、レンズ、メガネ、さらには半導体ステッパーなどのハイテク製品を含め、業績の不振を露呈してしまった。老舗が希望退職を募る状況は悲しい。デジカメ時代になってカメラメーカ各社は冬の時代を迎えるところと、新たなビジネスチャンスを見つけ出すところと明暗が分かれている。Nikonはきっと名門光学機器メーカーとしての再生を果たすものと期待している。 

 時代は繰り返す。名門Ernst Leitz社のちにLeica社も、かつてはNikonに市場を奪われて経営破綻に瀕した。スイスの会社の買収されてLeicaはその創業の地Wetzlarを去り、新天地Solmsへ移り再起を期することとなった。そして時はめぐり、老舗ブランドを生かした戦略でしだいに好調の波に乗り始めたLeicaは、再びその創業の地Wetzlarへ戻って来た。会社の復活を象徴するように。LeicaとNikon。良きライバルは輪廻転生。巴のように時間差で浮いたり沈んだり絡み合い転がりながらながら生きのびてゆくのだろう。LeicaもNikonもそのブランドイメージは強烈だ。レジェンドといっても良い。そうしたアセットを最大限活用した新しいビジネスモデルを創造することだろう。

  

ニコン大井事業所

 

光学通り

この左手が101号館

 

 ところで、日本のWetzlarともいうべき大井町を歩いてみよう。JR大井町駅からNikon大井製作所に向かう「光学通り」を進む。徒歩20分程で聖地到着。通りの街路灯にずっとあの「Nikonロゴ」と「光学通り」のサインがでているので間違うことはない。地元では誰もが知っている通りだ。実は横須賀線のJR西大井駅が一番近い最寄駅だ。駅ホームから工場の建物群が見える。ここが現在の大井製作所だ。今はここでカメラを作っていないそうだ。新館ウエスト館は本社っぽく見えるが、本社は品川インターシティーにある。

 前述のように、大井町といえば、大井競馬場が有名だし、大型コンテナ船の出入りが忙しい大井埠頭を思い浮かべる人もいるだろう。線路の東側は工場が立ち並ぶモノ造りの街、労働者の街であった。大井町駅前にはカネボウがあったが、やがて撤退し、その跡地を小林一三氏が買い取り、大井町阪急百貨店が出来た。その後改装され阪急大井町ガーデンになっている。立会川が駅前を流れていたが、暗渠化して、「立会通り」という地名にその痕跡を残す。戦後の闇市の名残の東小路や平和小路がディープな世界を今に残している。「路地裏探訪ブーム」で最近は人気が出てきているという。一方、東急大井町線はお洒落で人気の自由が丘や二子玉川へ連れて行ってくれる。臨海高速鉄道線も深い深い地下に駅ができ、西は渋谷、新宿へ。東はお台場へつながっている。2020年のオリンピック会場に出かけるのも便利!というわけだ。隣のJR品川駅には新幹線駅が開業し、さらにリニア新幹線駅もできる。羽田空港の国際線増便も有之、ますますこの辺りは便利で賑やかになってきている。なんだか、しばらく忘れていたバブルみたいな様相だ。

  

JR大井町駅

 

平和小路入り口

人気店だが本日休業で誰も並んでない

こちらは行列

 

東小路

 

 歴史を遡れば、江戸時代には大井は江戸の近在。品川宿のさらに西に位置している荏原郡大井村であった。あたりは地下水脈豊富な江戸の近郊農業地帯であった。いまでも町内あちこちに水神社がある。明治以降、東京が帝都となってからは政治家、軍人、官僚が多く住む住宅地になった。伊藤博文の大井別邸があった。伊藤公の墓所も西大井駅近くにある。別邸は最近まで池上通り沿いに存在していて、ニコンの社員クラブとして使われていたが、残念ながら解体され、今は無粋なマンションが建っている。ちなみに解体された建物は、伊藤公の故郷萩に移築されている。大井は品川区に属し、海岸線に沿っている旧東海道あたりも大井だが、もう一方、旧大井村の鎮守の鹿島神社あたりからは高台に位置している。鉄道、道路といった交通の便がよく、住みやすい住宅街である。西大井あたり(出石町、金子山町など)は隣の大田区山王に隣接する比較的閑静な立地である。豪邸とまでは言えないまでも、それなりの敷地を有し、囲い塀、鬱蒼とした木立の庭を配した戸建ての立派な邸宅が多い。しかし、最近は御多分に洩れず、相続税対策であろうか、そうした古い邸宅の売却が進んでいて、一軒の屋敷があった土地が更地にされると、その跡地には3〜5軒くらいの狭隘なプレハブの3階建住宅がギッチリと隙間なく立ち並ぶ。生け垣も塀もなく、一階が全てガレージと玄関で、道路にママチャリや子供の遊び道具、植木鉢が散乱するという生活感丸出しの住宅街に変貌しつつある。公/私の境界が曖昧な雑居地化し人口密度が高まり、街の瀟洒な景観も、邸宅街としての品格もどんどん失われてゆく。山手の下町化が進んでいる。しかし下町の人情は育っているのだろうか?

 Nikonのある「光学通り」を一歩脇に入ると、そこにはまだ昭和な街並みが残されている。三間通りは道幅3間。道幅が狭いが旗の台、中延から西大井経由大井町まで延々と一直線に伸びている(車は大井町方向の一方通行)。商店街としてはシャッター通り化しているが、看板建築の商店も残されている。これだけの「昔繁華街」が連なっているのに感動する。一歩通りを入るとさらに狭い路地が網の目のように伸びていて、どこからどこまでが個人宅の敷地なのかわからない世界が広がっている。かと思えば大きな樹木が塀越しに緑陰を作り出しているような邸宅もまだある。時空を超えた不思議な世界だ。さらに、驚きは銭湯が多いことだ。どれも現役で、ニコン工場の周りだけでも3軒の銭湯がある。別にニコンの従業員向けにあるというわけでもないだろうが。まだそうした需要がこの辺りの街にはあるということだろう。庶民的な街でもあるのだ。街角には水神様やお稲荷さん、お地蔵さんが鎮座ましましていて江戸の在「大井村」の佇まいをよく残している。古い道標があちこちに残っているのも珍しい。江戸の外なので江戸切り絵図にも出てこないし、歴史の舞台となったような名所もない。人気のお散歩コースとして取り上げられることもない。おしゃれなカフェやレストランもない。ないない尽くしなのだがなぜか惹かれる大井町。「世界ブランドNikon」を生み出した大井町。不思議を体感したいなら是非お越しください。

 

ニコンのある光学通りと並行する三間通りは昭和な雰囲気が残る

 

 

東光寺のしいのきとお地蔵様

大きなみかんの木がある家

 

 

昭和な商店街

 

看板建築商店群

路地という迷宮へ

大井三又の地蔵堂

東京には珍しく地蔵堂が街角にある。

京都、大阪、奈良では良く見かけるのだが。

  

鹿島神社のお祭り

水神様もあちこちに祀られている

大井は地下水脈が豊富なところだ

 

旧大井村の総鎮守鹿島神社

 

 

光学通りにある

東京浴場

 

みどり湯

大盛湯

 ちなみに今回の撮影機材はLeica Q Summilux 28mm f.17 ASPH。Leicaの目で見るNikonの聖地というわけだ。Nikonへのレスペクトを込めて大井町へ切り込んだLeica。なかなかドラマチックだ。そのうちLeicaへのレスペクトを込めてNikonをぶら下げてでWetzlarに乗り込んでみたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 


「谷根千」谷中散歩 〜坂と寺のある町〜

2017年03月06日 | 東京/江戸散策

 谷中という地名は、上野台地と本郷台地の谷間に位置していることに由来しているという。江戸時代以前から尾根筋には町が形成されていたが、江戸時代になるとこの町人町に寺院が集められ寺町が形成されていった。その結果、辺りは門前町として繁栄する。高低差のある地形に網の目のように路地が走っていて独特の景観を呈している。幕末から明治の激動期にはすぐ東隣の上野のお山、寛永寺が戊辰戦争の激戦地となったが、谷中は戦火を免れた。また第二次大戦の空襲でもこの町は焼け残ったため、古い江戸の下町の佇まいを今に残している。とはいえ京都市内や大阪上町台地のような町家街としての景観は、東京の急速な近代都市としての発展の陰でかなり消滅していまっていて、今はむしろ東京の「昭和」な住宅街、商店街のそれになっている。これはこれでとてもノスタルジックで散策が楽しい。また、最近この辺りは谷中、根津、千駄木を含め「谷根千(やねせん)」と呼ばれ、江戸情緒あふれるエリアとして人気がある。

 

 JR日暮里駅から御殿坂を西へ進み「夕焼けだんだん」を下ると「谷中ぎんざ商店街」。東京の下町にはまだこのような商店街が残っている。品川区の「戸越銀座商店街」や「中延アーケード商店街」も人気だが、ここは江戸の下町情緒を残していて、外国人観光客が多いのが特色。戦後の高度経済成長期に大型スーパーや大資本のショッピングセンター、量販店ができて、住宅街に隣接するこうした昔ながらの商店街、アーケード街が、どこも寂れて「シャッター通り」になってしまった。やがてバブル崩壊。失われた10年、さらに20年が過ぎた。最近はむしろネット通販などのバーチャルショッピングモールが、大手のスーパーや量販店を脅かし始めている。デフレも進み大手商業施設の統廃合が進み地元から撤退してゆく。皮肉な巡り合わせだ。こうして再び古い地元商店街が見直されてきている。全国チェーン店ではなくて、個人商店やローカルビジネスがその個性的で地元志向のサービスを復活させつつある。ネットのバーチャルワールドに疲れた人々は町へ出てリアルの商店の惣菜の匂いや、売り子の威勢の良い掛け声、頑固オヤジやオバちゃんとの接点を求め始める。町の輪廻転生を感じる。

 

 谷中といえば墓地を思い浮かべるだろう。東京都内でも青山墓地などと並び古くて有名な墓地である。谷中墓地はかつては天王寺の境内であった。今でも五重塔跡が墓地内にある。隣は上野の寛永寺。言わずと知れた徳川家の大寺院。どちらも明治期の廃仏毀釈や徳川幕府崩壊の影響を受け、寺域が大きく縮減された。明治政府は神式の墓地を確保する必要もこれ有り、天王寺の墓地を一部没収し、旧東京市にこの谷中に墓地を設けさせた。今でも谷中墓地と、天王寺墓地と寛永寺墓地は隣接していて、というか(境界がなく)寄り集まって一帯が墓園を形成していると言って良い。ちなみに徳川慶喜公の墓所は、谷中墓地エリアでは無く、寛永寺墓苑エリアの属すそうだ。なぜ最後の将軍が江戸東京市民の谷中墓地にあるのか不思議だったが謎が解けた。谷中墓地は、渋沢栄一、幸田露伴、長谷川一夫など各界の有名人の墓があちこちに見られる。ある意味で江戸、東京の歴史を物語る地域となっている。

 

鍵屋のお仙

  谷中墓地には桜並木がある。東京の桜の名所の一つであるが、かつては天王寺の表参道であり、江戸時代にも花見の名所として賑わっていた。その入り口には花見客相手のお茶屋が軒を連ねていたという。現在も数軒残されている。また、天王寺近くの笠森稲荷門前に鍵屋という水茶屋があったと言われている(現在、場所が特定できないそうだが)。ここには江戸期の明和三美人の一人と言われた、水茶屋鍵屋のお仙という評判の看板娘がいたそうだ。このお仙目当ての客も多かったそうで、彼女を描いた鈴木春信の浮世絵がすごい人気だった。春信はこの絵がヒットして浮世絵師メジャーデビューを果たしたとも言われている。今でいうアイドルのブロマイド(この単語自体がもう死語であるが)ような存在だったのだろう。

 

 

 先述のように、谷中は寺町である。歩いてみると日蓮宗の寺院が多いように思う。歴史を遡れば、先述のように現在の谷中墓地は天王寺の寺域であった。その前身は13世紀の日蓮の弟子日源によって創建された感応寺であったという。江戸時代になると、感応寺は三代将軍家光や英勝院、春日局の厚い庇護を得て繁栄を誇ったが、のちに日蓮宗不受不施派の寺となり幕府に邪教として睨まれて宗門閉鎖に追い込まれた。その後再興の動きもあったが、結局は天台宗に改宗して天王寺として再建され現在に至る。江戸時代初期はこのあたり一帯の寺院は日蓮宗感応寺の末寺が多かったのであろう。現在は日蓮宗のほか。天台宗や曹洞宗などの宗派寺院が混在している。

 

感応寺境内図

 

 この辺りは高台でかつては眺めも良く、行楽に訪れる江戸庶民も多かったという。江戸時代には風流人を当て込んだと見られる凝った庭園を有する寺が多かった。それに四季折々の景観を楽しめることから、根岸あたりは富裕な商人や文人墨客の別邸も立ち並ぶなど、風流人憧れの土地であったようだ。地名の日暮里(にっぽり)も、もとは新堀村(にっぽりむら)であったのだが、粋人達が「日暮らしの里」という当て字にしたのが始まりと言われている。富士見坂からは、文字通り富士山の眺望が楽しめた。今は周りに高い建物が立ち並んで眺望がきかなくなってしまったが、「寺と坂のある町」谷中、日暮里は粋な町だったのだ。

 

 ちなみに今回の谷中散策ブラパチカメラはLeicaQ Summilux 28mm ASPH。M Type240+Summilux 35mm ASPHも持って行ったが、結局ほとんどすべてをQでまかなった。こうしたストリートフォトには最適のカメラだ。広角マクロまで付いているので落花のクローズアップもお手のもの。

 

 

夕焼けだんだん

尾根筋から谷筋へ

御殿坂から谷中ぎんざ商店街へ続く

 

  

谷中ぎんざ商店街

 

  

猫が見守るお惣菜屋さん

 

 

何屋さん?

「錻力」を読めれば...

  

昭和の香り漂う

「初音小路」 

 

三崎坂あたりの家並み

 

朝倉彫塑館

 

 

落花の舞

谷中コミュニティーセンタ辺り

 

椿

お寺の境内から塀越しに伸びてくる古木

 

寺町らしく寺院が立ち並ぶ

日蓮宗の寺が多い

竹垣

 

観音寺の築地塀

  

元質屋の建物を活用したアートスペース「すぺーす小倉や」

  

こちらは元銭湯を活用した「スカイ・ザ・バスハウス」

 

あちこちに路地が

 

 

 

風雅と洒脱!?

これも街角アート!?

 

  

ヒマラヤ杉

分かれの一本杉

切り倒す話が出ていて保存運動が起きている。

 

旧吉田屋本店

酒屋さんだった

 

古い看板

 

人気の古民家カフェ

 

 

谷中霊園入り口

江戸時代には谷中の桜見物の客相手の茶屋が並んでいた。

現在も名残の数軒が残っている。

 

天王寺五重塔跡

昭和になって焼失した

幸田露伴の小説「五重塔」はその事件を描いた

徳川慶喜公墓所

ここは谷中墓地では無く寛永寺墓地だそうだ

 

名物「谷中七福神そば」で一服

 

(撮影機材:Leica Q Summilux 28mm 1.7f ASPH)

 

 

 

台東区HPより