時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

イサム・ノグチ美術館探訪 〜The Noguchi Museum in Queens, New York〜

2016年11月18日 | ニューヨーク/ロンドン散策

 イサム・ノグチは現代のアメリカを代表する日系人彫刻家、総合アーティストである。そのアトリエと美術館がマンハッタンのイーストリバーを隔てた対岸のクイーンズ(ロングアイランドシティー)にある(The Noguchi Museum in New York公式HP)。ニューヨークにいた時、国連本部近くのアパートに住んでいた私は、そこから展望する川向こうにクイーンズ地区の古びた倉庫街、工場街の光景が広がっていたことを覚えている。JFKからマンハッタンに車で入るときに通る渋滞で有名なミッドタウントンネルのクイーンズ側入り口がそこにある。華やかなマンハッタンと荒涼たるクイーンズ。此方岸と彼方岸。いずれにせよ、憧れるような楽しい印象はなく、足を踏み入れて見たいとも思わなかった。そこにイサム・ノグチ美術館があることは知っていたが、そんなこともあって一度も行ったことがなかった。

 

 孫娘がその美術館の子供向けのクラスに通い始めた、というので娘に連れられて、ようやく行ってみる気になった。案の定、周りは人気のない倉庫街。夜間は絶対歩きたくない雰囲気だ。最近ようやく再開発で忽然とコンドミニアムが建ち始めるようなところである。人気の街アストリアが比較的近いので、悪くないロケーションといえばそうだが、あんまりグリニッチヴィレッジのようなアルチザンな場所という雰囲気でもない。重い石材を搬入し、重機を使う石像彫刻の工房なのでこうした汗臭いところの方が良かったのだろうか?

 

 美術館の外見は意外なほど殺風景でコンクリートの建物に小さな入り口が一つあるだけ。美術館という趣ではなく、むしろ周りの倉庫街にマッチしたファサードだ。しかし、一歩中へ入るとそこは別世界。イサム・ノグチの世界が隅々まで広がっている。その内外のギャップがドラマチックだ。この日は子供たちの来館者が多くて、庭園で何かキッヅ向けツアーをやっている。うちの孫娘もこうした仲間に入っているのだろう。来館者も引きも切らず訪れてなかなかの盛況だ。マンハッタンの有名どころであるメトロポリタンやMoMaのようなわけにはいかないが、それでも世界中から人が集まっている。みんなどうやってここまで来たのだろう?バスもないし地下鉄だと結構不便なロケーションなのだが。イサム・ノグチに引き寄せられてきた人々にとってそんなことはどうでもいいのだが。

 

 

美術館入口!

これが外観!

 

 

 以下に、美術館の雰囲気といくつかの作品の写真(人が入らないように撮るのが苦労であったが)を掲載しているのでご覧いただきたい。イサム・ノグチの略歴と所感はこの写真集の最後に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

庭園

 

 

 

 

 

 イサム・ノグチは1904年ロサンゼルス生まれの日系アメリカ人。1988年ニューヨークに歿す。彫刻家であり、建築、作庭、公園設計、舞台美術、環境設計、インテリアデザインなど多彩な分野で活躍した。「地球を彫刻した男」と呼ばれているくらい世界中に彼の作品が広がっている。父親は英文学者で詩人の野口米次郎。母親はアメリカ人で小説家のレオニー・ギルモア。ロサンゼルスに生まれ、日本とアメリカの間を行き来して育つ。多彩な人々と交流し、非凡で数奇な人生を送っている。その作品は枚挙にいとまがないほどである。

 

 1961年にクイーンズ、ロングアイランド・シティーに工房を開き、1985年には同地にイサム・ノグチ庭園美術館を開館する。日本には1969年に屋島と五剣山を背後に控えたロケーション、庵治石の産地である高松牟礼町に石像彫刻のアトリエを開いた。以降、こことクイーンズの工房を行き来して創作活動に勤しんだ。現在はイサム・ノグチ庭園美術館となっている。日系人建築家で家具デザイナーのジョージ・ナカシマとも交流があり、奇しくも同じ牟礼町にジョージ・ナカシマ記念館がある。

 

 父が日本人で母がアメリカ人、というイサム・ノグチは、その時代の日系米国市民の御多分に洩れず、ルーツが日本人であるというだけで困難な立場に立たされた。さらにいわゆるハーフゆえの日米双方からの微妙な扱いにも悩まされた。戦時中、彼は志願してかの日系人収容所に入ったのだが、日系人からは米国政府のスパイじゃないかと疑念を持たれ、やむなく出所を決断する。すると今度は米国政府からは「敵性外国人」は出所させないという。自由の国、移民の国アメリカの現実を思い知らされた。さらに戦後は、広島の原爆慰霊碑のコンペで提案を求められ応募したが、結果的には「米国人」の案を採用するわけにはいかないとして却下された。その一方、米国大統領の記念碑のコンペでは、「日本人」だからということでやはり却下されたという。国籍や人種を超越した人類の宝にしてこれほどの天才であっても、国家の都合、政治的なコンフリクトの都合で理不尽な扱いを受ける。人類にとっての普遍的な価値や美意識、個人の能力の評価、私人としての平和な日常生活。これらを妨げる「国家のロジック」とは一体なんなのだろうか。今回のニューヨークへの旅は、ちょうど11月8日のElections Dayに重なり、移民排斥やイスラム教徒の入国禁止を主張するような人物が次期米国大統領に選出された。これまで米国が築き上げてきた民主主義や自由主義という価値観を根底から覆しかねない「憎しみ」を前面に打ち出した人物を選んだ米国人。この結果に全世界が驚愕するという歴史的場面に遭遇しただけに、その感を強くせざるを得なかった。

 

 

 

 

ニューヨークのロックフェラーセンターの建物壁面レリーフの一つはイサム・ノグチの作品。

あまり彼の傾向と異なる作品なのでこれまでそうとは気がつかなかった。

 

 

 

 

<iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d3021.782285586654!2d-73.9402425841074!3d40.76681297932602!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x89c258caec1c9d51%3A0xdf2f973033a2c487!2z44K244O744OO44O844Kw44OB44O744Of44Ol44O844K444Ki44Og!5e0!3m2!1sja!2sus!4v1479185594266" frameborder="0" width="600" height="450" data-blogger-escaped-allowfullscreen="" data-blogger-escaped-style="border: 0;"></iframe>

 

 

 


ジョージ・ナカシマ木工家具工房探訪 ~George Nakashita Woodworker in New Hope, Pennsylvania~

2016年11月15日 | ニューヨーク/ロンドン散策

森の中の広大なキャンパスに工房や展示館が点在する

 

 ニューヨーク・マンハッタンから車で2時間強。ホランドトンネル、ニュージャージーターンパイクを進み、デラウェアー河を渡るとペンシルバニア州だ。その川沿いの街がニューホープ。コロニアル様式の歴史的建造物が並ぶ小さな美しい街だ。この街の探訪記は別のブログで紹介するとして、街はずれの森の中にジョージ・ナカシマ木工家具工房(George Nakashima Woodworker)がある。工房といっても、鹿が横切る広大な森に囲まれた敷地にギャラリーや工房、小さな美術館が点在するコンプレックスだ。以前訪問しブログでも紹介した京都の並河靖之七宝工房とはかなり趣が異なる(これはこれで美と技と才が凝縮された濃密な空間であるが)。ここはアメリカなのだ。ちょうど秋も深まり、インディアンサマーの心地よい空気と、紅黄葉が真っ青な空に映える素晴らしい環境だ。ここで木工家具の巨人ジョージ・ナカシマは家具制作に没頭した。

 

 このコンプレクスは米国歴史的遺産施設に指定されていて、遠方から訪れる人も多いが、記念公園・史跡では無く、現在も実際に木工家具の製作と販売を続けている。ショールームはあるがほとんどが注文生産で、その場で即売、というわけにはいかないようだ。作品はどれも木のぬくもりを感じるシンプルなデザインのものが多い。家具としての構造的な合理性とアーティスティックなデザインとが一つの作品に共存していて欲しくなるものばかりだ。ただ、どれも博物館級の作品で、メトロポリタン美術館のジャパンギャラリーや、他の多くの美術館に展示、ないしは実際に使用されている。訪れる人も、ギャラリーで作品を楽しんだり、たまたま通りかかるナカシマの愛娘のミラさんや、工房での匠とのフレンドリーな会話を楽しんだり、広大な森の散策を楽しんだり。日常生活の中での凝り固まった知性も感性も開放して豊かな時間をゆったりと楽しんでいる。こういう空間が存在すること自体羨ましい。

 

 ジョージ・ナカシマは1905年米国ワシントン州スポーケン生まれの日系二世。ワシントン大学、ハーバード大学、MITで林学、建築学を学ぶ。建築家としてフランク・ロイド・ライトの帝国ホテル設計に参加するために来日。その後アントニン・レイモンド事務所に所属。前川國男、吉村順三、丹下健三とも同時期を共にしている。その後米国に戻り、戦時中は日系人収容所に収容される。戦後帰国したレイモンドを頼りペンシルバニア州に移り住む。やがて米国近代建築に失望し、自己完結的にデザインから制作まで取り組める木工家具作家に転向。ペンシルバニア州ニューホープに工房を開く。1990年この地で没するが、その後も娘のミラ・ナカシマが工房を引き継いで現在に至っている。

 

 日本には四国の高松市郊外の牟礼町にジョージ・ナカシマ記念館がある。彼は都会にない温かみに共感し、讃岐民具連の活動に参加したという。ニューホープ以外でジョージ・ナカシマの作品に触れることができるのはここだけだ。交流のあったイサム・ノグチの庭園美術館も同じ牟礼町にある。今まであまり気づかなかったが、四国の牟礼町は世界的なアーティストの日本における活動拠点であり、そのレジェンダリーなロケーションになっている。

 

 以下、ニューホープの工房の写真をお楽しみいただきたい。ただしギャラリー展示の作品は撮影が禁じられているし、実際に現地をたづねて現物に触れていただく方が良いと思うので掲載していない。

 

 

 

 

 

 

ナカシマの代表作の椅子

 

 

ミングレン館

友人であるベンシャーンの壁画で飾られている。

 

 

 

ショールーム建物

 

ショールーム横の見事な紅葉

 

コノイド・スタジオ

 

 

 

 

 

 

 

<iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d3041.097008520669!2d-74.95780704871439!3d40.340193979273!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x89c40085a37a8a9f%3A0x54c99635c027db65!2sGeorge+Nakashima+Woodworker!5e0!3m2!1sja!2sus!4v1479102473300" frameborder="0" width="600" height="450" data-blogger-escaped-allowfullscreen="" data-blogger-escaped-style="border: 0;"></iframe>

 

 

 

 


DUMBO Brooklyn ~マンハッタン橋の下の物語~

2015年03月26日 | ニューヨーク/ロンドン散策

 ダンボ(DUMBO)といってもディズニー映画の耳の大きな子象の話ではない。ニューヨークブルックリンにある地区のことだ。ここはイーストリバーを隔てて対岸にマンハッタンの高層ビル群を望む景色の良いところ。最近は観光スポットとしても脚光を浴び始めている。しかし、かつてはマンハッタンブリッジの大きな橋脚の袂に広がる工場や倉庫がひしめくモノ造りの町であった。年配のニューヨーカーにとっては、地元ブランドのチョコレート工場やアイスクリーム工場が懐かしいところだとか。ご多分に洩れず産業構造の変遷により60年代以降衰退し、一時は廃墟同然の不気味で治安もよろしくない町へと変貌していった。1970年頃から、町の再開発を機に若いアーチストやアントルプルナーたちが移り住み始めた。古い倉庫や、工場跡がロフトやギャラリー、ビジネスインキュベーションの場として活用され始め、いまやトレンディーな街に変身を遂げつつある。地価・レントが高騰するVillageやSOHOを避けての移動だ。市当局はここを歴史地区の一つに指定している。

もともとはマンハッタンのSOHOあたりもアイアンキャストの階段や外装の建物が並ぶ倉庫街であったが、いまやその独特の景観がアルチザンな街の顔になり、アーティストが活動拠点を構える憧れの地になっている。地価も高騰し、成功したアーティストやその雰囲気に魅せられた一部の金持ち(しばしばそうしたアート活動のパトロンである)しか住めない地区になってしまった。こうして若いアーティスト達はaffordableな新しい拠点を求めて、ブルックリンだけでなく、Meat Packing District:ミートパッキングディストリクトやHigh Line:ハイライン、あるいはハドソン河対岸のニュージャージーへと移り住んでゆく。最近はハーレムも新しい文化の発信地区に変貌してきている。どの地区もマンハッタン中心部への交通も便利で、若いサラリーマンたちにも人気のロケーションになっているという。

DUMBOとはDown Under Manhattan Bridge Overpassの略で、「ダンボの物語」は文字通り「橋の下の物語」である。ニューヨーク最古のサスペンションブリッジ、ブルックリンブリッジもここに美しい姿を誇っている。3月初め、ちょうど訪れた時は雪景色を背景に、クリアーな青空。マンハッタンブリッジが夕日を正面に受けて輝き、対照的にブルックリンブリッジが夕日の残照にシルエットを落とすという、誠に美しい光景が出現していた。マンハッタンでは目にすることのできないもう一つのニューヨークの景観である。1870年以前は対岸からは船で渡るしかなかった。ここにFulton Landing:フルトン渡船場があったところからFultonとも呼ばれる。マンハッタンの素晴らしい夜景が楽しめる観光客に人気のRiver Cafeはここにある。


こうしたスラム化した町が再び脚光をあびる町に移り変わってゆく様をgentrificationと呼んでいる。日本語では「都市再生」と訳しているようだが、日本の都市で行われているように、古い建築物を壊して、高層ビルに建て替える「都市再生」とは違う。古い建築物や町の景観を最大限生かしつつその中身を変えてゆく。それを、ハコモノではなくライフスタイルを提案する、いわば長いサイクルでの衰退と再生を繰り返す不断のevolutionと理解するならば、むしろ「町の輪廻転生」と言ったほうがいいように思う。都市はその中身を変えながら生き続ける。

日本の地方の都市で、若者が出て行って年寄りばかりになってしまった古い町家、古民家を破壊してマンションにするのはgentrificationではない。古い町家や古民家での暮らしを新しいライフスタイルとすることだ。もっともマネーの論理がはっきりと働くニューヨークにおいては、そうしたgentrificationのせいで、街が賑わいを取り戻し、裕福な新住民が移り住み、地価が上がり、レントが上がる。それはとりもなおさず、安い家賃で暮らしてきた低所得の旧住民は出ていくことを余儀なくされるということを意味している。光と影を合わせて移ろいゆく、それが町の輪廻転生のもう一つの側面だ。

マンハッタンブリッジの橋脚が町のシンボル

 

石畳の街

 

イーストリバーままだシャーベット状だ。
春はまだ遠い

 

夕日を受けて地下鉄が行く

 

ブルックリンブリッジの夕景

 

ダウンタウンの夕景
新装なったフリーダムタワーも見える

 

ストリートペインティングもただの落書きではない
ここでは立派なアート作品
 

 

マンハッタンブリッジを下から覗く

 

橋脚の下はアートスペースやフードコートになる



 

 

DUMBOの街角

 

この橋はなんて巨大なんだ!

 

アート系のブックショップ






ニューヨーク郊外の小さな町 Beacon and Cold Spring  ~そして現代美術館Dia:Beacon~

2015年03月15日 | ニューヨーク/ロンドン散策
3月に入って、梅や蝋梅、椿が咲き始め、ようやく春の気配漂う季節になった東京を後に、極寒のニューヨークへ。最高気温でもマイナス1度、除雪の進んだマンハッタンの街角でも雪が解けずに路肩で凍りついている。晴れの日の空は眩しいほど青いが、空気は突き刺すような痛さ。久しぶりのfamily reunion。娘夫婦と初孫とでドライブに出かけた。

マンハッタンから車で80Km.ハドソン川に沿ってWest Highway , SawMill PKW、Route9Dと北上する。途中Bear Mountain State Parkの展望所で雪景色のハドソン川とベアマウンテンの眺望を堪能しながらのドライブ。陸軍士官学校で有名なWest Pointのさらに北、Beaconという小さな町に到着する。ハドソン渓谷沿いの美しい街並みが魅力的なニューイングランド風の町だ。中心部は歴史を感じさせる建物の立ち並ぶ通りと教会があるだけの静かな町並み。18世紀初めからプランテーションがあったところで、独立戦争当時にはFishkill 山にイギリス軍を見張るBaeconがあったことからこの町の名前になったという。アメリカ建国時代に形成された歴史ある街だ。

High Streetに沿って立ち並ぶ古い建物はアンティークショップ、廃業して売りに出されている古いホテル、小さなレストランやアートショップ。1870年代のスレート葺屋根の建物が復元保存されている。そして小さいが美しい尖塔を持つ教会。短い通りが途切れた先には雪化粧の山肌が迫る。

昔、イギリスのロンドンにいた時に、週末はよくKentやSussexの田舎へ車で出かけた。Tumbridge WellsやHasting,Battle, Ryeなどの小さな町のPub やレストランでイングリッシュブレックファーストやアフタヌーンティーを楽しむ。気取らない雰囲気で濃い紅茶やイングリッシュマフィン、ホームメードの生クリームとジャム。時にはミートパイ。たまらなく心豊かで嬉しい時間だった。Beaconの佇まいはあの時のイングランドの小さな村を彷彿とさせる。まさにニューイングランドと言われる所以だろうか。

Beaconにもコージーで素敵なレストランがある。アメリカらしくメニューはハンバーガーやパニーニが主体だが、イングランドの田舎町を思い出させてくれた。週末だからか結構込み合っていて、次々に客が来て、そのうち外で並んで待ち始めた。東京じゃあるまいし... ここぐらいしか食べるところがないのと、なかなか洒落たところであることとで人気があるようだ。

最近、Beaconという地名が日本人のNY訪問客にも知られるようになったのは、Dia Beacon現代美術館が2003年に開設されてからだ。とは言ってもまだまだ知る人ぞ知るアートスポットだが。ハドソン渓谷沿いの広大な敷地に展開する自然と共生するアートスペースだ。Dia Art財団が展開する美術館はこのほかにもチェルシーなどがある。ニューヨークといえばメトロポリタンや、グッゲンハイム、MoMAが有名人気美術館だが、ちょっと郊外に足を伸ばせばこんな素敵なところがある。

元はナビスコの包装工場であった広大な敷地には、これまた広々した建物が確保され、自然光だけで内部採光した空間が用意されている。それぞれの作品はそのなかにゆったりと配置されている。というより、このスペースそのものがまさに作品だと言えよう。写真撮影禁止と禁止マークの無いコーナーとがある。どういう区分けなのか不思議だ。人々の鑑賞を妨げるような無作法な観光客は少ないので、訪れた人は作品やその置かれている空間を愛でながら適切に撮影もしている、といった感じだ。ちなみに今はメトロポリタンもMoMAも写真撮影OKになっている。嬉しい。

しかし、なんという贅沢な癒しの空間と時間だ。日本人の「おもてなし」とは異なる「おもてなし」がここにはある。外に出ると雪景色のハドソン川を望む庭園がある。ここの植栽と青い空と白い雪、そして輝く太陽の組み合わせももう一つのアート作品だ。(Dia:Beaconウエッブサイト

少しマンハッタン方面に戻ると、Cold Springの街がある。ハドソン川に面した古い村である。ここも歴史的建物を中心とした街の佇まいが美しい。アンティークショップやブティークが並ぶ。夏は避暑地として人気だが、春まだ遠いこの季節の静かな佇まいもまた格別だ。ここもニューヨークなのだ。喧騒渦巻くマンハッタンとは違ったニューヨークのもう一つの姿を楽しむことができる。

どちらもマンハッタンからは、グランドセントラル駅からハドソンラインの電車でも行くことができる。所要時間1時間半ほど。


Beaconの町並み




















Dia:Beacon現代美術館
























Cold Springの町へ

























Bear Mountain State Park

















<script>(function(d, s, id) {
var js, fjs = d.getElementsByTagName(s)[0];
if (d.getElementById(id)) return;
js = d.createElement(s); js.id = id;
js.src = "//connect.facebook.net/ja_JP/sdk.js#xfbml=1&version=v2.0";
fjs.parentNode.insertBefore(js, fjs);
}(document, 'script', 'facebook-jssdk'));</script>
















Before and After in New York 1960-2015 エンパイアステートビルからの摩天楼都市の展望

2015年03月09日 | ニューヨーク/ロンドン散策
 
 永年住んでいても意外に行った事がない観光名所というものが,街にはあるものだ。東京タワーやエッフェル塔。大阪なら通天閣。最近だと東京スカイツリーや阿倍野ハルカスもまだ行ってない。高い所は嫌いではないのだが..... ここニューヨークのエンパイアステートビルもその一つ。何時でも行ける、そのうち行こうと思って間に引っ越してしまい、旅行で来てやっと行ってきましたなんて。そんな所だ。
 
 55年前、当時ワシントンにいた父母が旅行で訪れたニューヨーク。エンパイアステートビルに登り撮影した写真が前から気になっていた。あの時のアングルでニューヨークを見てみたい。現在のニューヨークを見てみたい。どのように変わったのか比較してみたい。今回の訪問で遂に実現した。
 
 55年前の父のカメラはCarl ZeissのContaflex Tessar 45mm. 当時流行りのレンズシャッター式一眼レフカメラだ。日本へも持ち帰り、子供の頃よく撮ってもらったものだ。シャッターがバッシャッと切れよく落ちると,ファインダーが真っ暗になる。ギロチンでバッサリやられたような感触だ。クロームメッキも美しい金属度120%の時代を感じさせるカメラだが,写真を見ても分かるように,素晴らしい解像度だ。テッサーのキレだ!現代のデジイチと遜色無い。フィルムはコダックのエクタクロームのリバーサル。こちらも素晴らしい発色!アナログメカニカルカメラ、銀塩フィルム時代のトップブランド同士の組み合わせだ。
 
 現在を写したカメラは最新のSONY α7II+Zeiss Vario Sonnar 24-75mm.ミラーレスフルサイズセンサの軽量デジタル一眼レフだ。こちらもさすが,キレのある写りと発色。時の流れとともに摩天楼都市ニューヨークの景色は変わっていたし、写真を取り巻くテクノロジーも変わったが、そこに写し出されたその時点でのリアリティーは、時空を越えて驚く程変わらない。写真とは「真」realityを「写す」モノであるという。そのサステーナビリティー。
 
(1)アップタウン方向
 
1960年
2015年
北方向を見るとGEビル,Central ParkとGeorge Washington Bridgeが見える。今は高層ビルが建ち並びどちらもよく見えなくなってしまった。こうして見ると昔から摩天楼の街ニューヨークと言われながらもミッドタウンの変貌ぶりがよくわかる。
 
 

(2)ダウンタウン方向

1960年
2015年
一見あまり変わらない様に見えるが、2003年9月11日、悲劇的な形でWTC Twin Towerビルが無くなって、いまその跡地にFreedom Towerが完成した。55年の間にこうした景観の激変があった訳だが。。。自由の女神が右上に微かに見える。現在の写真の下部にはFlat Iron Bldgが見える。中間のVillage辺りは古い街並を残している。
 
 
 
(3)ハドソン川方向
 
1960年
2015年
Hudson川はなんとか見える。George Washington Bridgeはビルに遮られてしまった。55年前に比べてミッドタウンは高層ビルが増えた。Park Westの高級住宅街はなんとか街並景観を維持しているようだ。
 
 
(4)イーストリバー方向
 
1960年
 
2015年
East Riverサイド。国連ビルは見えているが、当時の高級アパートTudor City は今もあるがビルに囲まれて見えなくなっている。三本煙突の火力発電所Power Stationは取り壊された。我がアパートHorizonはそのすぐ隣だ。Midtown Tunnel の出入り口が見える。対岸のQueensにも高層ビルが増えた。
 
 
(5)グランドセントラル駅
 
1960年
2015年
Grand Central Terminal. 黒くて煤けた外装は奇麗になった。隣のホテル(Hyatt)は建替えられたんだ。Chrysler BLDGの昔のまま。今年はグラセン開業100周年。東京駅赤煉瓦ビルも100周年。両駅は姉妹駅だそうだ。グラセンではJapan Weekのイベントが開催されていた。