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時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

亀戸天神に藤を愛でる

2015年05月01日 | 東京/江戸散策

 この季節、藤があちこちで満開。美しい。東京下町の亀戸天神社は藤棚が境内所狭しと並ぶ景勝地。ふつう天神さまといえば梅の花だが、ここは江戸時代から藤の名所でもある。太鼓橋から、池の周りから、見事に枝垂れる藤棚を眺めるとこの季節の風を感じることができる。連休初日ともあって、境内は人でごった返す。つくづく東京はどこへ行っても人が多い。まして「名所」などと言われると、昔から江戸っ子は押しかけざるを得ない性質を持っているようだ。太鼓橋の上からは藤棚が一望に見渡せるて眺めが良い。しかし、せまい境内と人の多さは東京という町の縮図だ。亀戸天神名物の船橋屋の葛餅も、店の前は求める人が長蛇の列。「江戸っ子」、いや「東京人」、いや「全国から集まってきて現在東京に住んでいる人」は行列に極めて弱い。並んでりゃ、とりあえず並んでみる。並んでから「この先何があるんですか?」なんて聞いてる人がいる。行列が出来なきゃ「名所」でも「名物」でもないんだ。

 

 「とうりゃんせ、とうりゃんせ、天神さまの細道にゃ人がいっぱい!」

 

 この天満宮は別名東宰府天満宮という。すなわち東の太宰府天満宮だ。菅原道真公の末裔が、筑前大宰府から正保年間(1640年)に江戸に天神さまを勧請して開いたのが起源という。境内には大宰府天満宮にならって赤い太鼓橋が配置されていおり、江戸時代の浮世絵にも亀戸のシンボルとして登場する。大宰府からもたらされた飛梅の子孫が植えられている。

 

 ちなみに、東京のもう一つの天神社、湯島天神は、雄略天皇による創建といわれる社に、南北朝時代になって、地元住民寄りあって、天神さまを勧請して合祀したのが始まりだそうだ。天神さまは庶民の人気ヒーローなんだ。

 

 

 

 

歌川広重

「名所江戸百景」の亀戸天神境内

拝殿前はぎっしりで身動きが取れない

 

なんか不思議な位置から藤棚を見下ろす形

 

亀戸天神の新風景

こっちの「名所」も「行列ができる名所」だ

 

太宰府天満宮の太鼓橋が

 

やはり美しい

 

白藤もまた良いものだ

 

善男善女の人の群れ

 

 

 


お江戸の町は花盛り

2015年04月03日 | 東京/江戸散策

 東京の桜は4月を待たず満開となった。28、29日の週末にはまだ5分咲きくらいだったが、気温の急激な上昇と晴天で一気に満開へ向かった。週が明けてしばらくはお花見日和の晴天が続いたが、週後半からは雨になるので花散らしになるだろう。定番のお花見スポット、千鳥ヶ淵へ行ったが、平日にもかかわらず見物客でごった返している。今年目立つのは外国人観光客。Hanamiを楽しんでいる。せいぜい日本の最高の季節を満喫して帰ってほしいものだ。

 

 この時期は、普段見慣れた都会の日常の風景が一週間だけ非日常の風景に変わる。通勤通学で通る最寄り駅への道も、このときばかりは「お花見ロード」。桜って考えてみると不思議は樹だ。普段は全く目立たず、どこに桜があるのか意識することもないのに、一年でこの時期だけ一斉に咲き、その存在を誇示する。こんなところにも桜がいたんだあ!と。桜は町の景色を一変させる力を持っている。人々の気持ちも切り替えさせてくれる。長くて寒い冬が終わり、暖かい春を迎える喜びに満ちている。桜を見上げている顔はそういった希望と安堵の顔だ。今年も春が来たぞ...  そしてあっという間に散りゆく。水面に浮かぶ花筏。散華の美も見事。そして新緑の季節へ。この時期は慌ただしい。

 

 そう思ってみると東京には桜が多い。江戸の名残だろう。上野寛永寺、墨田川堤、飛鳥山、愛宕山、御殿山、など江戸庶民の娯楽、お花見の名所が今も残っている。残念ながら御殿山は、黒船来航の時に急遽設けられたお台場用の土採りと、明治期の鉄道開通の時に山が切り崩されてほぼ無くなってしまった。千鳥ヶ淵や靖国神社などは明治以降の桜名所だ。それ以外にも地元の街のいたるところに桜が植えられている。

 

 戦前、東京市長であった後藤新平が日米友好の徴に贈ったワシントンポトマック川の桜は、東京と同じソメイヨシノであったが、こちらは一週間どころか一ヶ月くらい咲いていたように思う。なかなか散らない桜というのも妙なものだ、と思ったものだ。同じ桜でも風土によってその散り方が違う。日本とアメリカという風土の違いが、日本人、アメリカ人の心情の違いを表しているのだろうか。

 

 奈良、京都など関西はまだ開花したばかりだから、東京の桜の方が早い。奈良公園の氷室神社の早咲き垂れ桜は満開だそうだが、吉野のお山もこれからだ。又兵衛桜や佛隆寺の桜はもっと先だ。お江戸の桜とは違った風情があっていいものだ。

 

 それにしても、さくらさくらで、少々花酔い状態だ。桜には魔物が住む。人を狂気に導く魔力がある、と言ったのは坂口安吾だったか。「桜の森の満開の下」では恐ろしいことが起こる、と。なにか心落ち着かなくなるのはそのせいなのか。

 

 

 

千鳥ヶ淵

 

 

 

 

平日にもかかわらずこの人出

 

大森貝塚庭園

 

JR大森駅への道

 

 

 

 

 

 

いつもの通勤路も花盛り

猥雑な駐輪場も画になる

八重洲さくら通り

 

 

 

 

 

日本橋野村本店前

 

日本橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


お台場散策 ~ウォターフロントはつわものどもが夢の跡?~

2014年04月22日 | 東京/江戸散策
 東京臨海副都心のお台場は、週末ともなれば多くの家族連れ、若者達で賑わう人気エリアだ。外国からの観光客も多く、観光地としての魅力も増している。かつて世界都市博覧会を当て込んでこの一体は埋め立てられ、広大な土地が造成開発されたが、バブル崩壊直後の1996年、青島知事時代に博覧会は取りやめ。会場予定地はぺんぺん草が生える空き地のままだったが、しかし、あれから18年、今や東京都心にしてはスペーシャスな、いわばアーバンリゾートとして復活した。さらに2020年にはいよいよ第二次東京オリンピックが開催されることになり、晴海、豊洲地区と並んで更なる発展が期待されるエリアとなっている。怪我の功名、あの時の開発が24年後に生きようとは。ロングスパンで見ると何が起こるか分からない。

 そもそも、「お台場」という地名は、江戸末期1853年のペリー来航(黒船来航)に驚愕した幕府が、一年後の第二次来航に備えて、江戸防備のために急遽突貫工事で設けた八つの砲台(台場)から来ている。実際に肥前佐賀藩が鋳造した西洋式大砲が据えられた。地図のように、品川御殿山沖の海中に一列に並んだ砲台であった。現在は第三台場と第六台場が当時の形を保って残されている。他は撤去されたり、埋め立てにより内陸に取り込まれたりしている。、元々陸続きに設けられた御殿山下台場は、その痕跡を地図上に残すのみである。品川区立台場小学校の敷地がそれである。

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 しかし、この砲台は砲火を交えること無く、幕府は開国した。ただ、この海上防衛線のおかげで、ペリー提督率いる第二次アメリカ東印度艦隊は江戸湾深く侵入することは無く、神奈川(横浜)に上陸することとなる。かろうじて首都防衛抑止力が功を奏したのだろう。明治以降は帝都防衛のラインとして、東京湾入り口富津沖に新たな海堡が建設され、品川台場の役割は終わった。昭和2年には、東京市に払い下げられていた第三台場が、台場公園として整備される。

 今や近未来的な都市景観の中に点在する台場跡。日本の近代化に向けた「苦悩の第一歩」は、辺りの近代的構造物群の中に、時の動きが止まったように佇んでいる。160年の時間のギャップが、その不思議なコントラストを演出している。グラスアンドスチールの街並、東京タワーと東京スカイツリー、巨大な吊り橋レインボーブリッジ、いずれも草生した台場とは異空間の光景である。「お台場よ、あなたが守ろうとした江戸は、こんなになりました」と。

 台場建設にあたっては、当時、品川の御殿山、八つ山を切り崩して、その土砂を採り埋め立てた。御殿山は江戸時代初期には徳川家康の別邸、品川御殿があったところ。のちに将軍家のお鷹狩り休息所となり、吉宗の時代には、多くの桜が植えられ、江戸の桜の名所の一つ(飛鳥山、墨田堤などと並び庶民の遊興が許された桜名所)であった。広重、北斎などの浮世絵にも描かれた景勝地であった。隣の八つ山も武家屋敷が建ち並び、明治以降も城南五山(島津山、池田山、花房山、御殿山、八つ山)と呼ばれた高級住宅地であった。今もここには、島津家別邸(清泉女子大本館)や、岩崎家別邸(三菱関東閣)などの洋館が建ち並び、閑静な住宅街である。

 こうして江戸屈指の景勝地は、黒船来航ショックのなかで消滅した。桜を愛でる名所どころではなかったのだろう。今では、さらに御殿山を南北に分断する形でJR新幹線、東海道線、京浜東北線、山手線、横須賀線が通っている。わずかな跡地にはホテル、マンション、教会が建っており、きれいに整備された庭園があるが、往時の桜の名所の面影は無い。八つ山は、その名を京浜急行の踏切と第一京浜の「八つ山橋」に残している。ここから南が東海道品川宿。ちなみに東京湾に現れたゴジラが上陸したのはこの八つ山橋である。ゴジラも黒船も外からやって来た破壊的イノベーションだった。

 激動の幕末から明治にかけて、この街はその都市景観を「江戸」から「東京」へと激変させてきた。その時代の要請で取り組まれた国家プロジェクトの遺構は、都市の栄枯盛衰のなかで歴史の痕跡として海中に取り残されることとなった。しかし近代国家の首都のウオーターフロントは、新たな国家プロジェクトの舞台として三たび注目されることとなる。我が国の近代化のドアをこじ開けた「黒船来航」、それへの抵抗というファーストリアクションを象徴する台場。これからも次々と新たな「蒸気船」、すなわち時代のイノベーションが押し寄せてくることになるだろう。つわものどもが夢の跡... ウオーターフロントは常に新しい時代の波に洗われ続ける。第二、第三の「開国」という。

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(第三台場。石垣と黒松が美しい。昭和2年に公園として整備されている)

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(高い土手に囲まれた内側には、陣屋跡、弾薬庫跡、砲台跡などが保存されている。今年最後の八重桜が咲き誇っていた)

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(旧防波堤、鳥の生息地になっているので、通称鳥の島と呼ばれている。)

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(彼方側と此方側の景観コントラスト。時空の隙間が見える感じだ)

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(レインボーブリッジ。左が第六台場、右が第三台場)

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(第三台場の黒松の間からの光景。まるでタイムカプセルの内側から未来を覗くように)







上野の森は近代建築の宝庫だ ~江戸から東京への時代転換を観に行く~

2014年03月18日 | 東京/江戸散策
 前回のブログ「謎の芝公園」でも述べたように、上野公園は明治6年の太政官布達で指定された東京5大公園の一つである。しかし、ここは他の公園と異なり、明治新政府の「近代化」への意気込みを象徴するかのように、西欧風の文化施設、それに相応しい近代建築がひしめき合っている。帝室博物館(現在の東京国立博物館)、博物館表慶館、帝室図書館(現在の国立こども図書館)、黒田記念館、音楽学校奏楽堂(保存建築)、美術学校の陳列館、正木記念館、赤煉瓦校舎、京成電鉄博物館動物園駅舎(現在は閉鎖中)など、さながら東京「明治村」「明治たてもの園」の様相を呈している。

 かつては、現在の上野公園全体が、江戸幕府徳川総家の菩提寺、霊廟、東叡山寛永寺境内であった。いわば徳川家にとって芝の増上寺と並び、宗家鎮護の寺があった場所だ。江戸期のはじめ、天海僧正により、天台宗の寺院として創建された寛永寺は、平安京、京のみやこの鬼門封じの比叡山延暦寺にならい、江戸の鬼門封じとして創建された。山号も、東の「叡山」である東叡山、寺の名前も、延暦寺が天皇勅許で創建年号を用いたのと同様に、寛永年間の創建であることから「寛永寺」とした。おまけに不忍池は琵琶湖を擬したという念の入れよう。

 今、上野公園に、創建当時の壮大な寛永寺の面影を見出すことは難しい。しかし、かつてこの敷地がすべて寛永寺境内であったと知ると、その広大さに驚く。今では国立博物館敷地の右側に、わずかに堂宇が残り、あるいは再建されている。博物館裏手には再建された根本中堂、寛永寺墓地があり、ここに綱吉霊廟門などの遺構が保存されている。また、大仏様(上野大仏)は寛永寺のシンボルであったが、幾多の火災で現存しておらず、公園内にわずかにお顔がレリーフのように保存されているのみだ。かつて、現在の大噴水広場には根本中堂がそびえ立ち、国立博物館敷地には本坊が、左右に五重塔も並ぶ壮麗な伽藍配置であったが、ご存知の通り、幕末の戦乱で、ことごとくこれらの堂宇は失われた。

 最後の将軍、徳川慶喜が謹慎して寛永寺に蟄居した折、将軍を官軍から守ろうと幕臣や佐幕派の浪人たちが「彰義隊」を結成し寛永寺に結集した。しかし、江戸城無血開城、慶喜の上野退去後も寛永寺にたてこもる抵抗勢力、彰義隊を官軍は徹底して壊滅させる。いわゆる戊辰戦争の上野戦争である。このとき寛永寺は灰燼に帰した。官軍総司令官の西郷隆盛の銅像と、彰義隊記念碑が並んで建っているところが上野公園の歴史を物語っているような気がする。

 明治維新後、新政府は焼け野原となった寛永寺境内、上野の山一体を帝室御料地とし、医科大学の敷地などに使おうとしたが、オランダ人医師ボードウィンの提言により,日本初の公園に指定した。これが現在の上野公園の始まりだ。公園には、これまでの徳川幕藩体制のシンボルであった寛永寺に変わり、明治近代化のシンボルとも言える、数々の近代西欧建築が建ち並ぶことになる。江戸から東京へ、時代の変遷を物語る上野の景観のドラマチックな転換である。今の東京に江戸の町並みの痕跡を探し出すのが困難であるように、上野のお山から徳川幕府時代の痕跡は消し去られてしまった。そこに、まるでテーマパークのように、当時の人々の日常からは隔絶した異空間が出現したのであろう。御料地である公園は、1923年に宮内省から東京市に下賜され、「上野恩賜公園」と呼ばれるようになった。

 <上野の近代建築遺産コレクションをご覧下さい。江戸の名残も少しだけ...>

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 (国立博物館本館。明治14年にジョサイア・コンドルが設計、竣工の帝室博物館本館は、その後の関東大震災で大きな損傷を受け、建替えられた。昭和12年(1937年)に現在の本館である「復興本館」が完成した。「日本趣味を基調とした東洋式」だそうだ。という事はこの建物には西洋近代建築的要素はない,という事なのか。設計は公募で選ばれた。)

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 (博物館表慶館。明治41年竣工。大正天皇が皇太子時代のご成婚記念に建てられた。片山東熊の設計。)

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 (国立こども図書館。明治39年(1906年)に竣工の旧帝国図書館。当初は博物館と並び近代化に必要な国家の文化施設として企画されたが、日露戦争による財政難で、本来はロの字型の壮大な建物となる予定が、全体の四分の一に縮小され、前面一列部分だけが竣工した。明治ルネッサンス様式の美しい建築だ。今見ても正面ファサードは壮大だが、横から見ると平べったい壁のような建物だ。今は安藤忠雄による補強保存改修がなされ、オリジナリティーを残しつつも耐震構造とし、安全かつ使い心地の良い施設に生まれ変わっている。)

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 (旧音楽学校奏楽堂。明治23年日本初の木造洋風コンサートホール。山田耕筰、滝廉太郎、三浦環が演奏した舞台や、日本最古のパイプオルガンが残る。大学構内から現在の場所に移設保存されている。)

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 (東京芸大陳列館。昭和4年(1929年)竣工。岡田信一郎設計。スクラッチタイルが美しい。芸大美術館本館が出来るまではこちらが本館として使用されていた。)

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 (東京芸大正木直彦記念館。美校校長を35年務めた同氏を記念してたてられた。昭和10年(1935年)竣工。金沢庸治設計。和様式の門と建物のコンビネーションがなかなか瀟洒。この奥のGeidai Art Plazaはコージーで楽しい。背後は陳列館。)

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 (黒田記念館。黒田清隆の作品をおさめる記念館として昭和3年(1924年)岡田信一郎設計により建てられた。現在は国立博物館の施設の一つとなっている。路面に展開しているコーヒーショップの看板が一寸雰囲気壊してるか。)

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 (京成電鉄「博物館動物園駅」駅舎。左手は黒田記念館。昭和8年(1933年)地下を走る京成本線の公園地上出入口としてもうけられたが、平成9年(1997年)営業休止。平成16年(2004年)廃止となり、現在は使用されていない。地下を走る電車の音だけが聞こえてくる廃線マニア好みの鉄道遺産だ。建物は国会議事堂を彷彿とさせる重厚なもの。ちなみに国会議事堂よりは古い創建。)

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 (因州池田家江戸屋敷表門。丸の内の鳥取藩上屋敷から移設されたもの。建築時期は江戸末期とされている。明治期には東宮御所に移されていたが、現在は国立博物館敷地に移設保存されている。入母屋造、唐破風屋根の左右の番所など、当時の大名屋敷がいかに壮大であったか、そのよすがを知ることができる。東京大学赤門(旧加賀藩邸)と並ぶ大名屋敷遺構。近代建築、モダン建築で満たされた国立博物館の敷地空間に佇む武家屋敷門、という唐突感にもかかわらず、辺りを制する存在パワーが際立つ。)

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 (徳川綱吉霊廟門。徳川幕藩体制の栄華を物語る華麗な作りだが、それだけにその時代の終焉がいかに侘しいものかを如実に物語っているようだ。この地に残る数少ない寛永寺の遺構の一つは、訪れる人も少ない国立博物館の裏手の墓地に保存されている。)

上野公園マップ:
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謎の芝公園 ~増上寺と芝公園の関係性~

2014年03月07日 | 東京/江戸散策
 東京で「芝公園」と言えば知らない人はいない。しかし、どこが芝公園?どこからが増上寺? 芝公園のシンボルはなに?東京タワーは芝公園? 地下鉄の駅に「芝公園」があるが、駅の表示に「芝公園はあちら?」はない。上野公園や代々木公園や日比谷公園ならまとまった敷地がはっきりしていて「公園」を認識出来るが,芝公園の敷地はどこなのだろう。東京の不思議の一つだ。

 その疑問を解く鍵の一つはその成り立ちにありそうだ。東京は意外にも公園が多い日本の街の一つで,その総面積は74.4?(東京デズニーランドの146倍)だそうだ。これは明治の東京遷都時に、欧米流の「公園(Park)」の概念を政府がいち早く導入し、その場所を指定した事が始まりだと言う。明治6年の太政官布達で指定された公園は、上野、浅草、芝、深川、飛鳥山、の5カ所。いずれも上野(寛永寺境内)、浅草(浅草寺境内)、芝(増上寺境内)、深川(富岡八幡境内),飛鳥山(王子権現境内)と、寺社の境内であり、今で言う公園のイメージではない。ようするにまとまった土地が確保出来る寺社地を「公園」に指定した。特に廃仏毀釈の機運が強く、まして賊軍徳川幕府縁の寺社は狙われたのかもしれない。既知の通り、上野寛永寺も芝増上寺も徳川家の菩提寺、霊廟であったところだ。,幕末に彰義隊が立てこもって抵抗した寛永寺は、上野戦争で灰燼に帰し、跡地は帝室博物館や美術学校、音楽学校となり、上野恩賜公園として整備された。

 一方、芝公園の方は、その境内が太政官政府により接収され、上記の通り公園指定がなされた。そのうえでその敷地が増上寺に貸し出されたという。こうした公園と寺院境内の区分が判然としない状態が芝公園の始まりであった。しかし,上の寛永寺と異なり、幕末混乱時期にも増上寺は境内、建物は残ったのでしばらくは「芝公園」(=増上寺境内として)はまとまった形で存在した。その後、先の大戦の空襲では寺の堂宇がことごとく灰燼に帰した。戦後、敷地は増上寺,徳川家に返還されたが、公園/旧境内は様々な経緯で,秩序無くバラバラになってしまう。徳川家霊廟が整然と並んでいたところは、不動産開発会社に売却され、東京プリンスホテル、芝ゴルフ場(現在のプリンス・パークタワーホテル)となり、本堂裏手の旧境内地には東京タワーが建設された。

 このような明治期の境内の接収と公園指定、戦後の返還と土地権利関係の混乱、こうした事情が現在の東京タワー/ホテル/芝公園/増上寺というカオスな佇まい、景観を作り出した。結局、芝公園は、一体何処が「公園」なのか?という有様になってしまった。かといって、増上寺の大伽藍が並んでいる訳でもなくて、その寺域も判然としない。堂々たる三解脱門と戦災後再建された本堂は鉄筋コンクリート造りの威容を誇っているが、他は徳川将軍家霊廟の痕跡を留める台徳院惣門、有章院二天門、御成門がわずかに残っているだけである。それもあるべき場所にない唐突さ、かつ荒れ果てて哀れな有様だ。

 東京タワーを背にした増上寺の風景が、東京をシンボライズする観光絵ハガキの一枚になってしまったというのは,こういう経過を知るとまことに皮肉としかいいようが無い。今日も海外からの観光客がここを訪れ、増上寺山門辺りでしきりに記念写真を撮っている。彼等はここを芝公園(ShibaPark)、それとも増上寺(Zoujouji-Temple)だと思って写真撮っているのか?誰か説明してあげて下さい。「お・も・て・な・し」ですよ。

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(東京都公園協会HPによれば、この薄皮饅頭のような緑地帯が現在、東京都が管理している「芝公園」だそうだ。)

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 (東京タワーを背景にした増上寺。東京を代表する観光絵はがき的風景。しかしそこには複雑な経緯があった)

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(でも,これはこれで結構画になる)

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(堂々たる三解脱門。江戸時代にはこの山門の階上から海が見渡せたと言う。)

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(梅の花の蜜を吸いにきたメジロ。都会にも春の訪れを感じさせる場所がある。これぞ「芝公園」)