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時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

六義園散策 ~江戸の大名庭園を巡る~

2016年05月22日 | 東京/江戸散策

 

六義園

ツツジの頃が美しい

 

 

 駒込の六義園は小石川後楽園とともに、東京を代表する大名庭園である。我が家が、かつて小石川植物園の近くに住んでいた時には、両親や子供を連れて遊びに来たものだ。そもそ小石川植物園も、現在は東京大学の付属植物園になっているが、元は徳川将軍家の白山御殿、後に小石川御薬園、養生所(赤ひげで有名な)であった。もちろん東京大学本郷キャンパスはもと加賀藩邸跡。この辺りは江戸の大名文化の名残があちこちに見て取れる。

 

 六義園は、元禄年間、第五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保が築造した柳沢家下屋敷である。彼は綱吉の寵児であり、幕府内で絶大な権勢を振るった。あの浅野内匠頭刃傷事件・赤穂義士事件の時に、無慈悲な裁定をした悪役として名前が出てくる、時のいわば政権トップであった。この事件の裁定は、幕府側から見れば難しい判断であったであろう。吉保は英明で、教養もあり、とくに漢詩、和歌の素養があった。「六義」の名称も漢詩、和歌からきている。1695年(元禄8年)綱吉から拝領された2.7万坪という広大なこの土地に、自ら設計し7年かけて回遊式築山泉水庭園を築いた。その後は幕末まで柳沢家が所有。江戸の大火や地震にも耐え、ほぼ原形のまま存続した。明治になって荒廃した六義園を岩崎弥太郎が購入。庭園を整備し現在のようにレンガ壁で囲んだ。以後、関東大震災にも東京大空襲にも被害を受けることなく現在に至っている。1938年(昭和13年)東京市に寄贈された。このように創生より300年余りに渡り、ほぼも原型が維持され、今、往時の姿を目の当たりにすることができる訳だ。

 

 この他にも岩崎家が所有し東京市・東京都に寄贈された庭園がある。清澄庭園(元禄年間は紀伊国屋文左衛門邸宅、その後下総関宿藩下屋敷)がそうだ。また上野の岩崎家邸宅も2001年に東京都へ移管された。高輪の三菱開東閣は今も非公開だ。明治の頃に荒廃した大名屋敷や庭園を買い取り、後世に残したのはこうした新興財閥であった。そのほかにも、都内には、先述の小石川後楽園(水戸徳川家)、浜離宮庭園(甲府藩下屋敷、将軍家浜御殿)、芝離宮庭園(老中大久保家、紀伊徳川家など)、などの江戸の名残を示す大名庭園が多い。江戸時代、江戸御府内の50%はこうした大名屋敷と大名庭園で占められていたという。このことが、後に明治の近代化に向けて、官庁や大学、政財界有力者の屋敷、外国人向け宿泊施設(ホテル)、企業用の敷地の確保を可能とし、首都としての基盤整備、発展を可能ならしめた。さらに一部は、上述のように公園としても整備・公開され、東京都心に貴重な緑地と文化財とリフレッシュ空間を提供することとなった。このように幕藩体制下の江戸の「大名屋敷」というリザーブされたスペースが、近代日本の首都、さらにはボーダレス化する経済活動の拠点としてのインフラとなったわけだ。明治新政府の中で、新首都候補論争があった。京都に留まる案、大阪に移す案... しかしきっと、京都や大阪では、近代化日本の首都としての発展に備えたスペースの確保は無理だっただろう。東京奠都を進言した大久保利通の先見の明に感謝すべきか。

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 


旧古河庭園にバラを愛でる

2016年05月21日 | 東京/江戸散策

 

 

 五月の薫風、爽やかな晴天のもと、旧古河庭園にバラを愛でる。休日にもかかわらず幸い思ったほどの人出もなく、比較的ゆっくりと庭園散策を楽しむことができた。東京にはこうした庭園が多い。江戸時代から続く大名庭園だけでなく、明治以降、維新の元勲、旧大名家、財界の長老、文化人などの邸宅が都民の公園として開放されている。さすが近代日本の首都、東京だ。

 

 その一つ、ここ旧古河庭園は、明治の元勲、陸奥宗光の邸宅があったところである。その後陸奥の息子が古河家の養子に入ってことから、古河家の邸宅になった。1917年(大正6年)に古河虎之助が洋館と庭園を築造し、現在の姿となった。武蔵野台地の傾斜を利用して、最頂部の本館から、イタリア式/フランス式の美しいバラ園を斜面に配し、底部に日本庭園を展開するという変化に富んだ景観を生み出す構造となっている。日本庭園は、山県有朋の無鄰庵や南禅寺別荘群の庭園などを手がけた京都の名作庭師、小川治兵衛(植治)の作。建物/洋式庭園はジョサイア/コンドルの最晩年の設計で、本館はレンガ造りの躯体に黒い新小松石を貼ったルネッサンス洋式の建物だ。なんと豪勢な東西の巨匠のコラボではないか。今となってはこのような文化財として残るような邸宅、庭園を作る有力者もいなくなった。終戦後はGHQの接収されたが、返還され国有財産となった。東京都に貸し出され、都民公園として整備された。

 

 東京には明治から戦前にかけて、立派なお屋敷街があった。立派な塀に囲まれ、鬱蒼とした樹木に覆われた閑静な邸宅が、東京という街の時代の繁栄を象徴していた。しかし、一億総中流、いや最近は中流と下流に二分化して、資産家が少なくなり、さらに資産家もお屋敷を維持できなくなった時代だ。今では東京へ出てきて出世して、大会社の社長になったと言っても、サラリーマン社長の場合は富豪と言えるほどの資産を持っているわけではなく、子々孫々に財産を残せる人はそれほどいない。仮に不動産を残しても、低成長時代、ゆとり世代の息子や娘は、それほどの所得を得ていないので相続税を払うことすらできない。我が家の周辺の住宅地も、かつてのお屋敷が、代替わりで空き家となり、やがて相続税対策で売却され、立派な洋館や日本家屋が惜しげもなく取り壊されて更地になっている。その後には、大きな敷地だとマンションが、ちょっと狭い敷地だと、一階はほぼ駐車スペースというプレハブ住宅が10軒くらいギチギチに建つ。いずれにせよチマチマしたマイホームを建てるのが精一杯という時代は、良い時代なのかどうなんだろう。100年後のこの街の景観を想像することができない。建物や住宅という「不動産」はもはや「不動産」ではなく、単なる「耐久消費財」になってしまい、建てては壊すを繰り返さないと経済が回らないようになってしまった。経済合理性と効率が優先する社会にあっては、住宅メーカーにしてみれば100年も保たれては困るのだろう。京都の南禅寺界隈の別荘群にしても、これらを文化財として維持、保存して行くにはそれなりの費用がかかる。文化財としての価値をよく理解し、このような永続的な負担に耐えうる「資産家」は海外に求めなければならなくなってきているのかもしれない。

 

 せっかくコンドル設計のルネッサンス様式の邸宅や、見事に手入れされたバラが咲き誇る庭園を散策してきたのに、そんなことばかり考えてしまうのはサラリーマンの性なのだろう。もとよりマンション住まいの自分自身がこのような豪邸に住めるとは思わないが、かといって豪邸を所有する人々を僻んで、それが取り壊されてチープな景観の街になっていくのを喜ぶ気にもなれない。「文化財守れる人が文化人」。守る気はあるが金がない。情けない。しかし、豊かさとは、懐の金の多寡で決まるものではなく、心の余裕で決まるものらしい。隣人愛や知性や豊かな教養があれば、自ずと人には品格が備わる。それが心の余裕につながってゆくものだ。街の豊かな風格もいかにお金をかけたかではなく、いかに品格の歴史が蓄積されたかで決まるのだと思う。そのような人々が心豊かに住まう街、それが英国の田舎で学んだライフスタイルなのだが... 往年の経済大国「英国」に、かつての経済大国「日本」が学ぶべきはこういうコトだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日比谷公園に行こう ~都心の紅葉名所はここだ!~

2015年12月08日 | 東京/江戸散策

 例年楽しみにしている京都の紅葉を見に行き損ねた。しかし、今年の京都は冷え込み時期が遅く、有名な紅葉名所はあまりきれいに色づいていないと聞く。弾丸日帰りツアーで見に行った人の話を聞くと紅葉しないまま散りゆくところもあるという。負け惜しみじゃないが行かなくてよかったのかも... でもせっかくだからどっかで秋の風情を感じたいものだ。

 

 「そうだ、日比谷公園行こう」。そういう時は身近なところで晩秋の風情を探そう。日比谷公園は今更説明する必要もないが、東京の都心のど真ん中にある日本初の西洋式公園で1903年開園。今年で開園112年を迎える。歴史を誇り東京のシンボルのような公園だ。造園計画時には完全に西洋風にするか、和風も取り入れるか計画が二転三転し、なかなか意見がまとまらなかったそうである。結局、もともと江戸城の日比谷濠や大名屋敷跡であったこともあり、一部に江戸城の石垣を残したり、日比谷入り江(濠)の名残である雲形池をとりいれた和風庭園を作庭した。そこにモミジが植えられたわけだ。

 

 都会のど真ん中。サラリーマンのオアシス。長年勤務した会社の真ん前。窓から毎日眺めた日常風景。なんとこんところにこれほど美しい紅葉・黄葉の競演が楽しめるところがあったじゃないか。そんなところにこんなに豪華な「美」が潜んでいる!青い鳥を求めて遠くを旅した末に帰った故郷に青い鳥を発見した、メーテル・リンクの童話「青い鳥」の世界だ。

 

 東京都内の庭園や公園の紅葉の見頃は遅い。場所にもよるが大体12月に入ってからだ。ここ日比谷公園も例年今頃がハイライト。雲形池のほとりのいつもの場所のモミジとイチョウが見頃になる。公園のシンボルである鶴の噴水の背景にスクリーンのように見える紅と黄が鮮やかだ。これだけモミジとイチョウのコントラストが楽しめるところは意外に少ない。去年の秋は、その年の2月に降ったドカ雪で、池の端の紅葉の枝が散々に折れ、無残な状況であったが、今年は庭師の職人技もあって見事に復活したようだ。

 

 紅葉の撮影は意外に難しい。今日のような秋晴れのピーカンの下では順光で眺めてもそれほどの感動はない。撮影すると陰影のコントラストが強すぎて情感が伝わってこないのだ。しばらく光が変わるのを待つ。ようやく午後3時頃の半逆光の光を通して揺れるモミジの紅い透過光が美しくなった。黄色いイチョウと池の水面に映るその鮮やかな黄色を背景に眺める紅のモミジのシルエットは最高だ。情感溢れる秋の風情というよりはカラフルで豪勢な写真になったが、それはそれでインパクトがあっていいのでは。

 

 今回試し撮りしたライカの新しいフルサイズミラーレスカメラ、Leica SL+Vario Elmarit SL 24-90は素晴らしい性能を発揮してくれた。ライカがズームレンズ作るとこうなるんだ。JPEGでも高精細だが、DNGで撮ってLightRoomで現像するとさらに高精細に。撮影の後工程の作業に耐えうるしっかりした解像度で、とてもズームとは思えない。さすがだ。このレンズの重さと大きさはこのためなのかと納得する。なんかライカは今後はMからSLにシフトしそうな予感がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

東海道品川宿散策 ~広重のあの街は何処へ~

2015年08月14日 | 東京/江戸散策

「時空トラベラー」の写真は歴史の風景を写し取ることをメインターゲットとしている。歴史の風景を撮るということは、いわばその時代の心象風景を切り取るということだ。現代に残る神社仏閣や、史跡、古墳、城跡の写真をただそのまま撮るのでは、記録写真、記念写真、観光写真になってしまう。一方、山や、海や、川といった美しい風景は、その光との出会いの瞬間を見つければそれだけで感動的な写真になる。しかし、「歴史の心象風景」と言った途端に、フォトグラファーにとっては甚だ壮大なチャレンジとなる。心のフィルム(いやセンサー)を繊細に働かさなければならなくなる。風景が醸し出す空気、余情、風情、情感といった、そもそも目に見えないものを感じて、それをデジタルカメラという極めて現代的な光学機器で切り取る作業なのだ。しかも現在と過去という時間の差を越えなければならない。その時代の人々の心のうちに分け入ることが必要となる。ここが普通の風景写真とは異なる点だ。そのためには、その時代の歴史や文化に対する理解と共感が不可欠となる。単に美しい写真を撮るのではなく、そこに流れる風情を読み取り、自分の感じたストーリーを表現しなくてはならない。これはマエストロ、入江泰吉先生の大和路心象風景から学んだ心構えだ。「入江泰吉の世界」が私の写真の原点と言って良い。もちろん、奥が深くて全くもって先生の域になぞ到達もできないが。少なくともこれからも、この難しい課題に挑戦し、表現できるよう心がけて精進していくつもりだ。

 

 そういう意味では、なるべく写真に現代の造作物や人が入ってはいけない。それらを避けるように撮り、できるだけ時空を超えたその時代の空気を切り取ろうとするが、現代の社会においてそれは、ほとんど困難な作業となる。入江泰吉先生もそれを心がけて何十年も大和路を取り続けることになったと述べておられる。昭和20年代くらいまでは大和路にもまだ古代の景観の面影があった。確かにあの頃の先生の白黒写真には古代の空気と情感が溢れている。今は豊かな田園風景が広がるパースペクティヴの中に「古代都市の滅びの佇まい」という飛鳥の心象風景を見てとることができた。宅地化されて規格住宅が立ち並んだのではそうした心象風景は蘇ってこない。現代の大和路は景観保護と、歴史遺産保護のために開発が規制されたが、それでも甘樫丘から見渡す飛鳥はすぐそこまで宅地開発の波が押し寄せ、今にもその津波にのまれる寸前に、ようやく止まっているという感じだ。まして、そのような景観の破壊はこの東京のような都市部においておやだ。

 

 

 話を今日の本題に移そう。今回は東海道五十三次第1番目の宿場町、品川宿散策である。江戸四宿の一つで、お江戸日本橋から京三条大橋までの東海道という日本の最も重要な幹線道路の最初の宿場町だ。街は目黒川を挟んで北品川、南品川に分かれ、1600軒、7000人が居住する殷賑な街であった。街道の宿場町というだけでなく、江戸時代を通じて江戸近郊の遊興の地(ここは江戸御府内ではない)として人気があり、近くには花見の名所御殿山もあった。人が集まれば遊廓も賑わい、遊廓があれば人も集まる... 品川は吉原に並ぶ幕府公認の遊廓があり、それは戦後まで続いたという。今は、品川駅の南側、八つ山橋から、北品川、新馬場、青物横丁、立会川さらには鈴ヶ森と昔の道幅で旧東海道が連なっている。しかしかつて多くの人々が往来し、殷賑を極めた品川宿の面影はなく、本陣、脇本陣もその痕跡(広場になり碑が立っているが)を止めていない。幕末には勤皇の志士等が集った土蔵相模がつい最近まで残っていたが、なぜか取り壊されてしまった。今や品川宿は極めて今時の地域の商店街といった風情になっている。

 

 ここには滅びの美しさや、詫び寂びはない。歴史の風情を感じる景観は少なくなってしまった。建物はすっかり今時のものに建て替わってしまい、狭い間口の土地の区画だけが残った。古い町家を探すのも困難だ。つい200年ほどの時間を遡り夢想することも難しいほどに変貌してしまった。ここでは現代的なものを排した写真はもはや撮ることはできない。かつて訪ねた東海道五十三次の48番目の宿、鈴鹿の関宿(以前のブログ、鈴鹿の関宿をご覧あれ)は、往時のままの家並みと町割が残っていたが、首都東京の品川にそれを期待するのは無理だろう。やはり都市化するということは、景観を一変させるということだ。飛鳥は危ういところで大阪のベッドタウン化という都市化をストップして歴史的景観がなんとか残った。鈴鹿の関宿は、幸か不幸か都市化の波に取り残されたために貴重な歴史景観が残った。

 

 しかし、こうした古い建物や景観を博物館的に残すだけでは、未来に引き継ぐ歴史遺産にはならない。そこに生活があり、人がいなければ街として未来に残ってゆくことは難しい。鈴鹿の関宿も家並みは古いが、今を生きる生活の場として人々の暮らしが続いているからこそ街並みが維持されているのだ。ここ品川も、江戸の香りはおろか、昭和の香りも徐々に失せつつあるんじゃないかと心配になる。東京に多くなっているシャッター通り商店街化という衰退だ。地元の人々や商店街の組合や行政が、品川宿の歴史と伝統を生かした町興しに頑張っている。今月、空き店舗を利用して若者たちが「旅」をテーマとしたKAIDO Book Cafeを開店した。日経新聞にも取り上げられちょっとした話題になっている。小さな一歩かもしれないが、新しい宿場町文化と賑わいの復興を歓迎したい。

 

 

歌川広重

東海道五十三次品川宿

 

歌川広重

品川宿海上図

現在の品川宿

道幅は江戸時代のままだそうだが、街並みに往時の面影を見いだすのは難しい。

 

 

 

 

しかし、今でもそばや江戸前の魚介を食わせる店は多い

慶応元年創業の「はきもの」丸屋

品川宿の面影を残す数少ない店の一つ

 

 

看板建築

関東大震災後にできた類焼防止の建築様式

江戸時代の宿場町の面影を残す品川寺

街道の山手側にずらりと寺町が形成されていて現在も残っている。

 

今月、品川宿の空き店舗に若者たちが「旅」をテーマとしたKAIDO Book Cafeをオープンした。

新しい宿場町文化と賑わいの復興を歓迎したい。

 

新緑の三渓園を訪ねる

2015年05月07日 | 東京/江戸散策

 時々、人間って妙な生き物だと思う事がある。人間は何かを集めたがる動物である。コレクションをして楽しむ動物である。集めたものに囲まれて暮らす。これが非常に心地よいと感じる。そんな動物は他にいないだろう。そもそもモノを「所有する」という欲望は他の動物にはない。人類が長い時間をかけて大脳皮質に刻んだ特質なのだ。 この傾向は女の子よりも男の子に強いと言われる。そういえばあなたが男の子だったなら、あるいは男の子を持つ親ならば、小さいときからいろんなものを集めた経験があるだろう、そういう子供の姿を見つめてきたことだろう。めんこ、ビー玉、牛乳の蓋、チョロQ、石コロ、チョウチョ、虫、化石、キーホルダー、ワッペン、バッジ、ブロマイド、古銭、切手、筋肉マン消ゴム、etc.etc. まあよく色々集めるものだ。大抵は引っ越しの時にウン年ぶりに物置から出て来て、「おお!懐かしい!」としばし感慨に耽るが、やがて「ええい、眼をつぶって捨てよう」となる。大人になると、カメラ、萬年筆、時計、ビンテージカー、根付け、パイプ、盆栽、カンナ、骨董品、フィギュアー、ワイン... 子供の頃手に入らなかったお金がかかるものに執着するようになる。「物欲煩悩留まる所を知らず」。大抵はツレアイとケンカになる。購入費用の捻出とそれらの保管スペース、という極めて現実的な諸課題を解決しなくてはならないからである。

 

 世の中には幸せな人たちもいる。そんな諸課題を,課題と受け止める必要がない人たちである。資産家になると,古美術品、陶磁器、掛け軸、書画、茶道具など文化財級のものを集めるようになる。そうなると個人の所有欲、物欲の域を超えて,究極的には文化財の保護者としての役割を果たし始める。そして個人で「美術館」や「ギャラリー」を開くようになる。その極みはヨーロッパの王侯貴族、メディチ家のような大富豪。ロックフェラーやモルガンなどのニューヨークの大富豪など。こうして、その時代に繁栄した国の富裕層のもとに世界のお宝は流れてゆく。

 

 しかし、いかに文化財コレクターといっても、古建築を集める人はそう多くは無いだろう。しかも、京都や鎌倉から重要文化財級の古建築、古民家を収集し、自分の邸宅に移築する。もちろんそれらを収容するのだから半端な敷地では足りない。ただそこに並べれば良いのではないから、そこに古建築を配置するにふさわしいステージとしての庭園を造る。

 

 横浜本牧にある「三渓園」は、明治/大正期に横浜の生糸/製糸貿易で財を成した原三渓(富太郎)の古建築コレクション庭園である。東京湾に面した「三之谷」という谷あいの地にに、広さ約175,000平米という広大な土地を手に入れ、自らの邸宅と庭園を設けた。京都/鎌倉などから歴史的な建造物を17棟集め、四季折々の自然と調和した見事な日本庭園を開く。その一部を公開し(外苑)、一部を私邸(内苑)とした(のちに内苑も公開)のが三渓園だ。

 

 このような古建造物を集めた施設としては、東京たてもの園や明治村、民家園などがあるが、三渓園は、保存を目的として集めて来た博物館とは異なる。篠山紀信は「博物館/美術館/ミュージアムはアートの墓場だ」と言った。確かに、とりわけ建築物という作品はまさに,あるべき所にあって,その役割を果たしているからこそ意味がある。いわば「動態保存が望ましい」のだが、現実には打ち捨てられて、壊されてしまうよりは「静態保存」で良いから残した方が良い。そういうことで博物館的な施設に移築、収容されることになる。必ずしもベストの解決策ではないが。

 

 そういう視点で三溪園を見つめてみると、これらの古建築は。この場にその住処を見つけうるのか?ここは本来あるべき場所なのか?という問うてみたくなる。しかし、ここのしつらえには、あたかも古の昔からもともとここにあった建築物であるかのような佇まいを感じる。「いやここにあって新たな命を生きるのだ」と言ってるように思われる。たしかに現地で忘れ去られ、朽ち果てるか,破壊されるかという運命から救われた面はあるだろう。しかし,それだけではない。ここは古建築に新たな命を吹き込む不思議な空間だ。単なる金持ちの道楽で、趣味が高じて集めてみたのではない、本当の数寄者の懲りようだ。

 

 三渓は、芸術文化に造詣が深く、芸術家、文学者などの幅広い文化人と交流し、三渓園は一種の近代日本の文化を育むサロンのような役割を果たしてきた。現在もその重要な役割を担い続けている。横浜という名もない寒村が、明治以降、西欧文化の流入する開港地として急速に表舞台に出て来て、今や人口で日本第二の大都市になった。そんな歴史の浅い新興都市に、唐突に集められた歴史的建造物群という感がないでもないが、であるが故にこそ、こうした文化サロンが必要であっただろう。ご維新以降、関東が日本の中心に位置するためには、関西財界のパトロンに負けない文化活動の拠点の創造が必要だった。そういう財界人の矜持というようなものが経済都市には必要なのだ。

 

 コレクターもこれくらいまで極める事が出来ると世の中に役立つんだが、資産家でないばかりか,教養もなく徳も文化に対する感性も薄い凡夫ではどうにもならない。もちろん三溪ほどの人物とは比較にならないことは言を待たないが、世の中の役に立つ見込みのない収集品は個人の趣味の域を出る事は出来ない。やはりツレアイの諫言通り、がらくた化したコレクションは処分するか...