院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

菊人形は面白いのか?

2012-11-30 07:29:11 | 俳句
 歳時記には現在使われなくなった言葉が載っている。「ネル」、「あわせ」、「ひとえ」など服装に関する用語は今の若い人には分からないだろう。歳時記が古い言葉を捨てないのは、歴史的価値を重んじているからである。

 「菊人形」は秋の季語である。これは現在でも見ることができる。「菊師」は菊人形を作る職人のことで、これも秋の季語である。

 幼いころ祖母に連れられて菊人形を見に行った。子供の目には面白くも何ともなかった。

 大人になってから菊人形を見る機会があった。でも、やっぱり面白くなかった。出来の良くないマネキンが、服の替りに菊の花をまとっているだけである。物語もまるで昔の講談のような、ありきたりのものだった。

 でも、ちゃんと菊人形展というのは、やっている。需要があるから、やっているのだろう。どのような人が菊人形を好むのか、いまもって不思議である。

 私の俳句の師は、次のような名句を残している。

    菊師来て静御前を横抱きに  浅野右橘

製薬会社による医者の接待

2012-11-29 06:53:03 | 医療
 1975年、医者になりたてのころ、製薬会社の接待攻勢にたまげた。

 神戸で学会があったので先輩について行った。そうしたら、神戸の駅で製薬会社の人たちが待っていた。すぐタクシーに乗せられ、高級料亭に連れて行かれた。

 トンカツやハンバーグでさえ、実家に戻らなければ食えない貧乏学生生活を送っていた私にとって、その料亭は別世界だった。見たこともない豪華な料理、若造の私を下にも置かないもてなし。こんなのアリか?と思った。

 当時、学会を担当する大学自体が、学会のプログラムの付録に現地の観光案内を載せていた。医者が学会に合わせて現地を観光するのは習慣のようになっていた。今でもそうだが、学会出張は「業務」として、公立病院でも出張旅費をくれる。だから、学会は口実で、観光旅行が目的のような医者もいた。

 一方、大学紛争の騒ぎが学会にも持ち越されていて、極左出身の若手の医者が、製薬会社と医者の癒着を批判していた。そのため、豪華な接待は一時下火になった。

 しかし、製薬会社が医者が求める文献(たいがい英文)を捜して、医者に持ってくるサービスは依然として続いていた。接待よりも研究の手伝いのほうが罪責感が少なかったからだろう。

 文献捜しというのは、図書館で目当ての論文を見つけてコピーを取ってくるという作業である。今のようにインターネットがなかったから、文献捜しは人手と時間を要した。人件費を考えると、製薬会社にとっては接待よりもよほど負担だったに違いない。

 1990年ころ、各製薬会社が「カルテル」を結び、医者の文献捜しを一斉にやめた。だが、接待はやめなかった。ただ、かつてのように嘘みたいな豪華な接待はなくなった。

 そして今年の4月から、とうとう接待はなくなった。どうも公正取引委員会の指導によるらしい。

 言うまでもないことだが、薬剤は効能で売るべきで、接待で売るべきではない。

 私は7年間、精神障害者社会復帰施設にいて薬を使わないことがあった。当然のことだが、その間、製薬会社からのアプローチは見事に一件もなかった。やっぱり製薬会社は薬を使う医者のところにしかこないのだと、思い知った。

ブランド牛がうまくない

2012-11-28 03:44:40 | 食べ物
 旅行に出て、旅先にブランド牛の肉があると食べるようにしていた。松坂牛、飛騨牛、近江牛などは一般に称揚されているけれども、現地で食べたとしても、びっくりするほどにはうまくない。

 それに較べると、私が医者になりたてのころ、街のすき焼き屋でびっくりするほどうまい牛肉が出た。値段はものすごく高かった。(当時、薬屋によるこうした医者への豪華な接待は普通に行なわれていた。だんだん縮小されて、今年からゼロになった。)

 最近はブランド牛でも、昔の高級な普通肉ほどには感動しない。最初は自分の舌が肥えただけかと思っていた。

 その後、名古屋市食肉検査所にルートを持つ人がいて、検査所から直接、ブランド牛でもなんでもない牛肉を5キロほど買ったことがあった。(むろん合法的に。)

 この肉がものすごくうまいのである。昔、接待で食べさせてもらった牛肉の味である。香りが一際高く、これがほんものの牛肉の味だと思い出した。

 つまり、私の舌が肥えたのではなく、うまい肉が出回らなくなったのだと分かった。最高級の牛肉は、検査所段階まで遡らなくては手に入らなくなったのだ。

 ブランド牛にも同じことが言えるのだろう。ブランド牛の本当にうまい肉は現地でも市中に出回らないのではないか?だとすると、本当にうまい肉はどこで誰が食べているのだろうか?

 リンゴ農家が無農薬の本当にうまいリンゴは市場に出さないと聞いた。同じようなことが牛肉でも行なわれているのだろうか?

どうなった?レジ袋排斥運動

2012-11-27 06:36:12 | 環境
 数年前、レジ袋排斥運動があったころ、神戸で土産物を買った。袋がなかったのでレジ袋をもらったら5円取られた。

 そのころすでに、地球温暖化が二酸化炭素のせいだとする説は疑われていた。私もそれを知っていたので、レジ袋の5円はばかばかしいというより、腹が立った。

 現在では地球温暖化は根拠がないとされている。逆に寒冷化に向かっているという証拠がある。それなのに、まだNHKのアナウンサーは二酸化炭素という時に、必ず「地球温暖化ガスの」という枕詞をつけている。毎日毎日「地球温暖化ガスの二酸化炭素」と言われれば、そんな気がしてきてしまうものだ。

 二酸化炭素やメタンや水蒸気に温室効果があるのは確かである。だが、それらによって地球全体が温暖化していると主張するのは暴論である。

 今、COP18が開かれている。日本が宣言した二酸化炭素25%カットが実現できなかったから日本が苦境に立たされているというが、何が苦境か!もともとありもしないことを論じているCOP18とは、いったい何なのか!

 もしかすると陰謀ではないか?「二酸化炭素排出権」とやらをでっちあげて、日本から大金を巻き上げようとしている国々の策略ではないのか!NHKは、まだそれに荷担するのか!

 現在、レジ袋排斥運動は影をひそめた。マイバッグという愚かな発想をする人もいなくなった。あのときの運動は何だったのだろうか?私は5円取られたが、あれはペナルティーだった。根拠のないことでペナルティーを科せられた恨みは、たった5円といえども忘れない。

 まして、日本が「排出権」という虚構に金を支払うことを、絶対に許さない。

(レジ袋排斥運動は二重の意味で間違っていた。ひとつは地球温暖化は二酸化炭素によると信じてしまったこと。もうひとつは、レジ袋を使い続けると二酸化炭素が大量発生すると誤解したこと。)

 (環境省はレジ袋排斥が何の意味もないことを知っていながら運動に異を唱えなかった。ある人が環境省を追及したところ、レジ袋は環境に影響を与えないが、環境保護の精神は大事にしたかったから止めなかったと環境省は答えた。)

箴言と諺の違い

2012-11-26 05:52:52 | 日本語
 箴言とはものごとの本質をついた言葉である。たとえばニーチェの箴言などがそれである。

 一方、諺は必ずしも本質をついた言葉ではない。よくある出来事をたとえた言葉である。だから、諺には反対の意味をもつ諺が大抵ある。

 「トビがタカを産む」に対して「カエルの子はカエル」という諺がある。いずれも、よくある出来事である。ものごとの本質をついた箴言とは明らかに違う。

 「二度あることは三度ある」という諺がある。あまり知られていないが「一度あることは二度ある」という諺も存在する。これらを論理で結んでしまうと、「一度あることは三度ある」ということになって、意味をなさない。

 このように、諺はものごとの本質を言い当てたものではない。そんなことは、国語関係に素人の私が言わなくても、その筋では当たり前のことなのかもしれない。

 しかしながら私自身、若年のころは両者を混ぜこぜにしていたので、ひとこと言ってみた。

天ぷらに塩?

2012-11-25 06:38:23 | 食べ物
 いつのころからか、天ぷら屋に行くと、つゆで食べるか塩で食べるか訊かれるようになった。天ぷらに塩?怪訝に思ったが料理を工夫するのは悪いことではないので、塩で食べてみた。

 これが、おいしくない。だいたい、熱々の天ぷらが塩では冷めないではないか。とても食えたものではないので、天ぷらを塩で食べるのは止めにした。

 天ぷらのつゆの役割は、ころもの味を引き立てるためでもあるが、実は熱い天ぷらを冷ます意味もあるのだ。

 いつぞや書いたが、熱いつゆを出す店がある。それでもプロか?つゆが熱くては、天ぷらが冷めないではないか!そして何より大根おろしが煮えてしまうではないか!

 塩で食べさせようとしたり、熱いつゆを出したり、最近の天ぷら屋はなにを考えているのだろうか?

 天ぷらはやはり冷たいつゆで食べるのが最高だと再認識した。塩で食べる人は、いつも塩で食べているのだろうか?そのような人は、天ぷらを醤油で食べても平気なのだろうか?天丼も塩で食べるのだろうか?

 天ぷら屋も悪いが、塩に文句を言わない客も悪い。中には抹茶塩を出す店もある。何をきどっているのだ!天ぷらに抹茶をつけるなんて、どう考えても許せない。

サラリーマンは現代の奴隷か?

2012-11-24 06:11:55 | 経済
 昨日、不動産のことを述べた。私は若いころ小金が貯まると土地を買おうと考えたことも述べた。来年になったらもっと貯まるから、そうしたら今度こそ買おうと思った。

 ところが来年になると不動産も値上がりしていて、なかなか買えるようにならなかった。そこで以下のようなことを考えた。
 
 景気がよくてオーナー社長が儲かったとする。オーナー社長は何をするだろうか?

 車が古くなったから車を買おうと思うかも知れない。日本中のオーナー社長が同じことを考えれば、自動車会社が儲かるだろう。儲かった自動車会社は、また何か別の経済的な行動を起こすだろう。こうして、景気はさらによくなる。(私の若いころは、このような社会情勢だった。)

 先のオーナー社長は儲かった金で土地を買おうとするかもしれない。そうすると土地の価格が上昇する。

 オーナー社長にもっと余力があれば、社員の給料を上げてやろうと考えるだろう。こうして社員の給料が上がる。みんな、めでたしめでたしである。

 ところが、社員の給料が上がって小金が貯まると、土地はすでに価格が上昇してしまったあとである。いつまでたっても、社員(サラリーマン)にとって、不動産は手が届きにくい価格に上昇している。

 一言で言うと、サラリーマンは経済成長の最末端に常に置かれているということである。富の順番が回ってくるのが一番最後なのである。

 オーナー社長にとって、社員の給料は必要経費である。おびただしい額の税金が控除される。しかし、社員(サラリーマン)の所得控除はわずか38万円に固定されている。それでもサラリーマンは、ささやかな昇格昇給を楽しみにして人生を送る。少なくとも、これまでは不公平だと感じていなかった。

 ある自営業の友人が「サラリーマンは現代の奴隷だ」と言い切った。私は「そこまで言うか?」と思ったが、よくよく考えると、正しいのではないかと思えてきた。

不動産売買の厳しさ

2012-11-23 06:53:38 | 経済
 30年前、アパート生活からおさらばしようと思って、土地家屋を捜したことがあった。

 名古屋の丘陵地に南斜面できわめて住宅に向いた広い土地があった。ただ、そこはまだ開発されていなかった。地主(地元農家)が値上がりしてから売ろうとしているので、ここが販売されるのは20年後だろうと不動産屋が言った。

 当時の私には、名古屋にローンで土地を買ったら家を建てるほどの金が残らなかった。だから、中古住宅を名古屋のチベットと言われた場所に買った。(建物の値段はタダ同然だった。)不動産の世界はきびしい。サラリーマンではなかなかアパート脱出は難しいと知った。その中古住宅で私の子供たちは育った。

 マンションはあまり買うつもりはなかったが、販売されるのを観察していた。ニュータウンの分譲地(土地)の売り出しもウォッチした。なぜか、それらは一度には売られず、一期、二期と分けて売られていた。

 なぜ分けて売られたかというと、一期の販売でそ物件の人気度(価格)を測って、それを二期の値付けに生かすのだという。やはり、生き馬の目を抜くような世界である。

 名古屋に中古住宅を買ったとき、付随していろんな手続きが必要だった。不動産仲介手数料、不動産取得税、登記料、司法書士手数料など、予想外の出費になった。ローンを組んだら、抵当にした土地家屋の写真を業者が撮影しにきた。これまで揉み手をして近づいてきた銀行が、お金を貸す段になると、手のひらを返したように意地悪くなった。

 その中古住宅を最近売った。バブルの前に買ってバブルの後に売ったので、さして値上がりしていなかった。不正確かもしれないが、ローンを組んだときの値段を「割引現在価値」というらしい。ローンの金利を入れたら、売り値が「割引現在価値」大きく超えていたとは思われなかった。

不公平とは何か?

2012-11-22 05:44:52 | 社会
 「不公平があるのではない。あるのは不公平感だ」という主張を聞いて、高校生の私は膝を叩いた。

 それから20年くらいたって「一億総中流」といわれた時代があった。私は「いよいよ理想的な社会が到来した」と感じた。しかし、当時の野党は「一億総中流は幻想だ。実際にはこんなに所得格差があるではないか。だまされてはいけない」と叫んでいた。

 私は「待てよ」と思った。高校生のころ聞いた主張を思い出して「公平かどうかは事実がどうだというのではなく、フィーリング(すなわち「感」)でよいのではないか?みんなが中流と感じて満足しているなら、それが最高だ」と考え、身ぢかな人に賛同を求めたが、誰も興味を示してくれなかった。

 私は世の中すべてフィーリングだと考える者である。ブータンのGDPがわが国より少なくても、ブータン国民の幸福度は高いそうだ。ブータン国民のフィーリングがそうなら、それでよい。(先日、ブータン国王が国賓として日本を訪問した。いまどきなぜ「国賓」なのかが分からなかったが、外交の裏舞台のことはまた別の話。)

 とにかく当時「幻想だ」と騒いでいた野党は、いったい何に八つ当たりしていたのだろうか?現実を見ているようで見ていなかった当時の野党。センスの悪さにあきれた。その野党は現在ほとんど壊滅状態である。

 (「一億総中流」を知らない若い読者のために説明します。1990年前後に、国民のほとんどが「自分は(社会階層の中で)上流ではないかもしれないが、少なくとも下流ではない」と感じていた一時期があったのです。)

日本人のマスク

2012-11-21 06:57:10 | ファッション
 私は風邪をひいていても診察中にマスクをしない。精神科の問診はサービス業だと考えているからだ。受付嬢やウエイターがマスクを着けないのと同じ理屈である。

 この10年間で日本人は随分マスクをするようになった。金額ベースで3倍である。

 マスクの流行は昔からだったが、10年前からの流行は大病院から始まった。まず、医療者がマスクを着けるようになり、次いで感染予防の名目で来院患者にマスクを強要した。大病院はマスクの自動販売機を据え付けた。

 (マスクが本当に感染予防になるかは、だいぶ昔にこの欄で取り扱ったので、今回は省略する。)

 大病院での医療者のマスクの使用法を見ると、(私の勤務医時代は)後輩の若い医師や看護師にとってマスクはまずもってファッションだった。医療者がマスクを着けているとカッコイイから着けていた。

 (聴診器を肩に乗せるのも10年前からの流行だ。私が若いころはポケットに入れていた。)

 もう一つのマスクの使用法は「童顔隠し」である。研修医にとっては相手から若造と見られることがとてもつらい。だから、いくらか経験を積んでも童顔の際立った医者は、依然としてマスクを多用していた。要するに今回の流行は感染予防からではなく、おシャレから出発したのである。

 こうして、わが国は街中がマスクだらけになった。なんとなく皆が顔を隠している。その光景が私には異様に映るのだが、アメリカ人は違う感想をもつ。いや、むしろ感動する。あるアメリカ人いわく「日本人は清潔で感心する。誰もが手術室に入るような恰好をしている」だと。

 マスクなぞ取るに足りないことだけれど、右に倣えみたいなのは私には苦になる。もっとも、私がマスクを着けないことに拘るのも、本質的にはマスクを好むのと等価かもしれないが。

親指の機能

2012-11-20 05:03:00 | 技術
 携帯電話が発明され、メール機能が付けられるまでは、親指がこれほど高機能であることに誰も気付かなかったそうだ。

 訓練すれば、親指一本ですごい技ができる。京大のカンニング事件で、問題文が数分で送られたことから見ても、親指の高機能ぶりが分かるだろう。

 あれだけのことは、親指以外にどの指でもできない。それなのに、タイプライターで親指に割り付けられているのはスペースバーのような単純な機能だけだ。

 楽器でも同じである。ピアノは親指を他の指と同じ程度にしか使用しないようにできている。ギターにいたっては、サオの裏側を押さえる役目しか親指には期待されていない。

 いずれ携帯電話のように、親指の機能をフルに活用した道具や楽器ができてくることだろう。そういう道具や楽器を発明すれば、大もうけができるのではないか?

 危ない話だが、実用的にはまず兵器に使えるだろう。戦車や戦闘機の操縦に使用すれば、シューティングゲームが得意な子供たちはコントローラーの扱いに慣れているから、曲芸的な技巧で操縦ができるようになるに違いない。

料理専門の写真家

2012-11-19 06:10:18 | 食べ物
 雑誌やレシピ本には料理の写真がたくさん載っている。あの写真は編集部の人がテキトーに撮ったのではない。料理写真専門の写真家がいて、彼らの手になるものである。

 料理写真家はたくさんの食器を自前で持っている。そして、その料理にはどんな食器が合うか、どういう角度で写したら一番おいしく見えるかを考えている。(おいしそうに写るんだったら、料理にニスだって塗る。)

 編集部の人は料理の写真を料理写真家に依頼する。そうすれば、おいしそうな写真をきちんと撮ってくれる。そういう業界があるのだ。

 最近、自分が行った店の料理を写真に撮る人が多い。デジカメの普及によるものだろう。だが、出された料理を写真に撮るのは下品だと、六本木には料理の撮影禁止という店があるという。

 雑誌の料理写真をじっくり見た人は少ないだろうが、今度じっくりみてほしい。ほとんどの写真が逆光で撮られているはずである。つまり、食器の影が手前に映っている。このような撮り方がおいしく見せるコツらしい。

 ということは、素人さんが店で撮る料理写真は、デジカメのフラッシュを使うために、どうしても順光となって、プロの料理写真のようにはおいしそうには撮れない。

 料理写真家がどうしてそのような仕事を選んだかというと、芸術写真家や人物写真家になれなかったからだ。篠山紀信のようになろうとして、なれなかったのが彼らである。

 だから彼らには鬱屈したものを心に持っている。その怨念が、おびただしい数の食器を集めさせ、料理がもっともおいしく見える角度を探させるのだ。

 でも、一流の料理写真家となると、かなり実入りがよいらしい。篠山紀信のように有名にはなれなくても、けっこういい生活ができるようである。どんな世界にも一流の人はいるものだ。

名解説者・池上彰さん

2012-11-18 05:50:16 | マスコミ
 今や解説の名人として名高い池上彰さんだが、NHK記者時代はむろん無名だった。彼は新宿バス放火事件を現場で取材している。そのとき彼はまだ知られていない。

 彼が一部で注目され始めたのは1990年代の「週刊こどもニュース」(NHK教育)においてだった。お母さん役の女優(いまもよくテレビに出るが名前失念)と一緒にお父さん役として、子供に分かりやすく時事や世の中の仕組みを説明した。私は好んで視聴していた。

 「週刊こどもニュース」はたしか土曜日の夜の番組だったと思う。子どもに対する説明が大人にも極めて分かりやすく、「あの人の説明は分かりやすい」と大人の視聴者が多くなった。

 途中で「週刊こどもニュース」は日曜日の朝に時間が変更になった。大人には見にくい時間となった。このとき、故山本夏彦氏をして「人気番組の時間は変えぬがよい」と言わしめた。

 テレビにおける池上さんのルーツはここにある。それ以後の彼のテレビにおける活躍はご存じの通りである。

 「週刊こどもニュース」の時代から、池上さんは理解して説明していた。理解していたから分かりやすかったのだ。2代目3代目のお父さんはまったく面白くなかった。理解しないでセリフだけ言っていたからだろう。

 関係ないが池上さんは私より一歳年下だと思う。

菓子の名称

2012-11-17 03:15:04 | 日本語
 落雁(らくがん)とはご存知のように干菓子の名称である。一般名称であって、特定の製菓店のものではない。

 麦落雁というのがあって、麦の香りが芳しく、幼少時によく食べた。私の思い出の菓子である。

 一方、落雁という言葉は、雁が渡りを終えて、次々と湖に落ちていく様子を指している。雁の列が崩れて、わらわらと墜落していく光景には情緒がある。落雁とは元来、たいへん美しい言葉なのである。

 これを菓子の名称に拝借したのが菓子の落雁である。(他に、中国からの言葉だという説もある。)

 美しい言葉を菓子の名称にすることは珍しくない。「星のしずく」「飛鳥のあけぼの」は今私が考えたものだが、そんな名称の菓子があっても不思議はない。北海道名産の菓子「白い恋人」もよい命名だ。

 「白い恋人」は特定の会社の菓子である。先日、大阪のパロディー菓子「面白い恋人」を訴えたが、無粋なことよ。「白い恋人」は本家として鷹揚に笑い飛ばせばよいのである。(だいたい北海道名産を、名称で間違えて大阪で買うやつがいるか?)

 「白い恋人」の会社はシャレの分らない会社として、私の中では大いに評判を下げた。

詐欺か詐欺でないか?

2012-11-16 05:17:48 | 社会
 磁気ネックレスを「歩けるようになる」と称して売って詐欺罪で捕まった男が先日いた。

 磁気ネックレスなんて珍しくも何ともない。磁気腕輪も一時流行った。この男だけ、なぜ詐欺罪に問われたのだろうか?「歩けるようになる」と具体的に言ってしまったからいけないのだろうか?

 占い師は金を取る。人気占い師だと20分で5万円くらい取る。それでも予約で一杯だそうである。彼らは「近々、結婚できる」とか「今のご亭主とは別れなさい」と占うが、外れても詐欺罪には問われない。

 寺社もそうだ。安産祈願のお払いを有料で受けて、安産でなかったとしても訴えられない。産婦人科なら訴えられる。

 同じことがカウンセリングにも言える。「あなたは要求水準が高いから悩みが強いのです」と言われても、本当にそうなのかは証明できない。なのに、詐欺罪には問われない。

 ここ数日触れてきたように、「疲れに効く」といって薬(サプリメントやアリナミン)を売っても薬事法に問われない。

 魚は木に似ているという。成長が止まらずに、歳をとるほど巨大化するところが似ているのだという。

 そのように、断片が似ているだけで似ているということを許していただければ、磁気ネックレスと占いと宗教とカウンセリングとサプリメントは似ている。

 もしかしたら、医療も似ているかもしれない。