院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

「眼病み地蔵」と風力発電

2008-02-29 08:37:24 | Weblog
 昔、「眼病み地蔵」というのがあった。

 眼病の人が自分の眼やにを「眼病み地蔵」の眼に付けると眼病が治るという迷信である。ここまでは、まだよい。

 さらに、「眼病み地蔵」の眼をこすって、自分の眼に付けると、眼がよくなるという。これでは感染を拡大させるだけではないか?いかにも罪な迷信である。

 話は飛ぶが、風力発電というのは本当にクリーンなエネルギーなのだろうか?

 その地域の風を止めたり、風向きを変えたりして、自然の風を変化させてしまい、環境に激変をもたらすのではないか?

 いまはクリーンエネルギーと信じられている風力発電であるが、将来、大きな禍根を残すかも知れない。

 やや突飛だが、風力発電から「眼病み地蔵」を連想した。ご利益があると信じられているものが、実はとんでもない厄災をもたらす可能性があることに、共通点を見出したからである。

人間は戦いが好きなのだ

2008-02-28 08:28:32 | Weblog
 三菱重工に勤めている友人がいる。

 彼が言うに、技術者が一番燃えるのは、飛行機やロケットを開発しているときではなく、兵器を開発するときだそうだ。

 空中で破裂して、無数の小爆弾をばらまく仕組みや、森林を一挙に焼き払うような爆弾を考えるときなどに、技術者は夢中になるという。

 人間は根本的に人殺しが好きなのだろうか?

 兵器開発のときに限って夢中になるとは、そうとしか思えない。

 私の子供のころには、まだ戦争ごっこというのがあった。それほどあからさまではなくとも、鬼ごっこやかくれんぼでも、闘争の芽をはらんでいる。

 TVゲームでも格闘技でもそうだが、相手を破壊するというのは、本能的に人間が好むことらしい。

 三菱重工の技術者は、その究極のことをやっているのだろう。

環境問題を論じるために心得ておかなければならないこと

2008-02-27 08:37:21 | Weblog
 いつまで環境、環境と言っているのか?

 端的に環境を守るには、生活水準を下げるしかない。下げないで環境を守ることなぞできっこない。

 昔のように、冬はシモヤケに悩まされ、夏はアセモを我慢するしかない。このような生活をもう一度する覚悟があるか?

 トイレの紙には新聞紙を使う。汚れたタオルは雑巾にする。車は使わない。自転車か徒歩ですます。農薬は使わない。せっせと草取りをする。(昨今、腰の曲がった老人がいないのは、草取りの労働から解放されたからだ)。

軍備も大幅に縮小しなくてはならない。それで他国に互せるか?

 国民一億人がそのような生活をすれば、環境は守れるだろう。

 でも、近くのコンビニでも車で行く。夏は冷房、冬は暖房。こういう生活に慣れてしまって、昔のような貧しい生活ができるか?できもしないのに、環境、環境と言っていても意味がない。

 生物は自然界のあだ花である。人間はあだ花の中のあだ花である。あと6万年もすれば、太陽が膨張して、地球は飲み込まれる。それよりずっと前に、太陽熱が上昇して、地球は灼熱地獄になるだろう。

 たったそれまでの、人類の歴史である。いずれ絶滅する。そのことを念頭に置いて、環境問題を論じてほしい。

フランクフルト・ソーセージ

2008-02-26 08:29:01 | Weblog
 昔、所要でドイツのフランクフルトに行ったことがある。

 フランクフルト空港はすでに夜だった。お腹がすいたので何か食べようと思ったが、レストランはみな閉まっていた。仕方なくビアバーに行った。

 そこで、フランクフルト・ソーセージとビールを注文した。ビールも食べ物もすぐに出てきた。そこで驚いた。

 フランクフルト・ソーセージはわが国のそれと違って、ひどく細いのである。しかも長い。

 太さは1円玉くらいである。長さは30センチもあろうか?

 お腹がすいていたせいもあって、ソーセージはとてもおいしかった。現地では付け合せに定番のキャベツの酢漬けもおいしかった。ビールはむろん、うまかった。

 やっぱり現地の食べ物はうまい。

 その晩、泊まったホテルのフロントはイタリア人の出稼ぎ労働者だった。彼はピンクバーには行かないようにと助言をくれた。日本人でピンクバーでぼられる人が多いのだという。

 その後もドイツの各地で食べ物を食べたが、ドイツ人は日本人に好意的で、とても気持ちよくドイツ旅行を楽しめた。

 ドイツのとんかつ、シュニッツェルというのが気に入った。

宇宙ステーション

2008-02-25 08:36:38 | Weblog
 宇宙ステーションの建設が先進国共同で着々と進められている。

 私が子供のころの宇宙ステーションの想像図は、すべてドーナツ型だった。ドーナツを回転させて、遠心力によって重力を生じさせるというアイデアである。

 だから、ドーナツ型の宇宙ステーションの廊下は、どちらへ進んでも上り坂である。

 今、建設中の宇宙ステーションは、そういう考慮をしていないから、無重力状態である。

 さぞ居心地の悪いステーションだろう。そこに滞在する研究者、技術者にお見舞い申し上げる。

 ドーナツ型の宇宙ステーションができるのに、あと100年くらいかかるのではなかろうか?もっとも、それまでに人類が絶滅しないという前提のもとではあるが・・・。

寒ブリは焼いたほうがうまい

2008-02-24 10:02:10 | Weblog
 以前にこの欄で、スーパーのマグロのような安い塊は、刺身で食べるよりもレアに焼いたほうがうまいと述べた(2007/1/17)。

 ただ、この法則はブリには当てはまらないということが最近分かった。

 もう30年以上も前、グルメの先輩(今でもお元気)が、「寒ブリを食う会」をやろうと言い出し、医者仲間が車を連ねて名古屋から三重県の船宿まで行ったことがある。

 確かに寒ブリはうまかった。だが脂が乗り過ぎていて、刺身を数切れ食べただけで腹いっぱいになってしまった。寒ブリはうまいが、刺身はほとんどn肉の脂身だけを食べている感じだった。

 当時、私は胃が弱く、酒も一滴も呑めなかった。だから、「寒ブリを食う会」は苦痛でさえあった。当然、食べ残した。残したのをアルミ箔で包んで持って帰った。

 翌日、自宅でアルミ箔の寒ブリを照り焼きにした。そしたら、ものすごくうまいのである。そんじょそこいらの料亭でも食べられないうまさだった。

 2,3日前、妻がスーパーでブリの塊を買ってきた。刺身にしたが、まあ、おいしかった。私は寒ブリの照り焼きが忘れられず、刺身にした残りを照り焼きにしてもらった。

 だが、それがパサパサでうまくないのである。酒で無理に食べた。

 スーパーのマグロは焼いたほうがうまいが、スーパーのブリは焼いてはいけない。焼いて絶品なのは脂の乗った寒ブリだけである。

せっけんは実は合成洗剤である

2008-02-23 08:37:21 | Weblog
 せっけんは天然物ではないそうだ。

 何かを処理して合成して脂肪酸を含んだ「界面活性剤」を作るのだから、せっけんは合成物とも言える。(大矢勝著『石鹸安全神話の幻』・文春文庫)。

 わが国には合成洗剤は人工物だから悪くて、せっけんは天然物だから良いという論調があるけれども、まったくナンセンスな論議だというのが、上記の著者の主張である。

 合成洗剤にも環境に害のないものもある。せっけんでも環境を害することがある。

 合成洗剤vs.せっけんという構図は、わが国独特のローカルな論の立て方であり、諸外国にはそのような対立軸を立てる国はないという。

 一時、てんぷら油の残りからせっけんを作るというのが流行った。文化センターなどでも主婦を中心にそのような活動をしていた。

 しかし、自家製のせっけんは質が悪く、汚れが落ちなかった覚えがある。それでも、てんぷら油の再利用とか、合成洗剤追放といった名のもとに、主婦たちがせっせと落ちないせっけんを作っていた。

 もう20年も前の話である。そのころがエコブームの初まりか?

実は合成洗剤の生産よりも、せっけんの生産のほうがエネルギーや排出物の量が多いのだという。

酸素はどこから来るのだろうか?

2008-02-22 08:29:08 | Weblog
 二酸化炭素の蓄積がとやかく言われているけれども、酸素はそもそもどこから来るのだろうか?

 人間を初め動物は酸素を消費する。酸素を消費するのは動物だけではない。今、さんざん言われている石油消費も、小は焚き火も、大は山火事も酸素を消費する。

 私はこれまで、植物が二酸化炭素を吸って、光合成により酸素を補給していると漠然と考えていた。でも、本当にそうか?

 植物だけで、これだけ消費されている酸素をまかなえるものだろうか?それとも、もともと酸素の量が膨大にあって、人間が火力で酸素を消費しても微々たるものなのだろうか?

 二酸化炭素の過剰が言われるなら、同様に酸素の減少が言われなくてはならない。

 ホントに酸素はどこから供給されているのだろうか?関係する学者たちは、それを明らかにしてほしい。二酸化炭素が増加するには、どうしても酸素が必要だからだ。

 今回は省くが、実は窒素はどこから供給されているのか?それも私は疑問に思っている。

GPS

2008-02-21 09:08:17 | Weblog
 カーナビは便利である。アメリカのGPSを利用しているらしい。

 でも、何らかの理由でアメリカがGPSを止めたり、設定を変更したらどうなるのだろうか?

 わが国のカーナビは使えなくなり、携帯電話で子供の位置を把握することもできなくなるだろう。世は大混乱となる。

 GPSはアメリカの世界覇権を守る重要なツールとして働いている。どこの国が台頭しても、GPSを独自に作らない限り、アメリカを凌駕することはできないだろう。

アイドルが老けていく

2008-02-20 17:48:25 | Weblog
 往年のアイドルがどんどん老けていく。

 きょんきょん(小泉今日子さん)や長山藍子さん(歌手)なんて、昔は本当にほれぼれする美人で、美しさの結晶とも言えるほどだった。

 でも、きょんきょんも長山さんも、もう40歳である。今でも十分に美人だが、アイドル時代の輝きはない。みな、平等に老けていくのだ。

 見てきたほうのこちらも、同様に老けたのだろう。みんな老けていく。それが自然というものだ。

ムチ打ち症

2008-02-19 08:26:29 | Weblog
 30年前、わが国で自動車が一般的になったころ、ムチ打ち症というのがはやった。

 猫も杓子もムチ打ち症。巷の整形外科医院では首を牽引する人が、ひきも切らなかった。

 当時、自動車に追突されるとムチ打ち症になるという風聞が流布され、追突された人は、ほとんどが自分はムチ打ち症になったと信じた。整形外科医も信じていた。

 だが、精神科医はすでにムチ打ち症は神経症であると分かっていた。自転車で転んだり、別の原因で事故に合った人はムチ打ち症にはならないというのは、いかにも不自然だった。

 軽くコツンと自動車に追突されただけで、被害者はムチ打ち症になったと嘆き、体の不調を訴えた。それはひとつの「はやり・流行」だった。

 精神科医と旧通産省の役人だけが、ムチ打ち症は本当の障害ではないと分かっていて、通産省は「座席に枕をつければムチ打ち症にはならない」と大宣伝をして、車の座席に枕を着けることを義務付けた。

 そうしたらムチ打ち症は激減した。通産省の役人はホントに頭が良かった。あまり役に立たない枕を付けさせて、ムチ打ち症を撲滅した。

 今でも車の座席には枕が義務付けられている。ほとんど意味がないが、昔の名残である。

 ムチ打ち症の症状は漠然としている。なんとなく頭が痛いとか、なんとなくダルいと言った程度である。昔はそれを追突のせいにして、膨大な医療費が使われた。

 繰り返すがムチ打ち症は神経症である。脊髄に損傷を受けているわけではない。コツンと当たっただけで損傷を受けるはずもない。

 ただ、本物のムチ打ち症というのはある。ただしそれは、意識不明になるほどの強い衝撃を受けた場合にしか起こらない。

 未だにちょっと追突されただけで「軽いムチ打ち症になった」という人がいるが、「軽いムチ打ち症」なんて存在しない。本物のムチ打ち症というのはもっと重篤な障害であって、「軽い」なんていうことは、ありえない。

 30年以上もたって、まだムチ打ち症という言葉だけが残っている。

水郷地帯・潮来(いたこ)

2008-02-18 08:35:20 | Weblog
 坂東三十三ヶ所巡りのおり、レンタカーで千葉県の潮来を通らざるをえないことがあった。

 潮来は橋幸夫さんの「潮来笠」が有名だが、それ以前にも歌謡曲で「潮来花嫁さんは舟でゆく・・」という歌がはやった有名な水郷地帯である。

 潮来を車で通りかかって驚いた。潮来の観光舟への勧誘が凄いのである。カスリのような着物をきたオバちゃんが、いたるところに居て、「舟に乗れ」と客引きをするのである。

 あまりのうるささに閉口した。潮来は完全に観光地化してしまった。しつこく誘われると、かえって白けてしまう。

 昨日、私は観光地が嫌いだと述べたが、こういうのがイヤなのである。潮来はかえって観光客を減らしているのではないか?

旅行は面白いか?

2008-02-17 08:08:43 | Weblog
「ロバは旅に出ても馬になって帰ってくるわけではない」という諺が西洋にある。旅に出ても人が変わるわけではないという意味だ。

 でも、今日、旅行は大流行である。観光旅行が盛んで、旅行会社もさまざまな企画を立てている。

 なぜ、みんな大枚をはたいて旅行するのだろうか?私には分からない。私が観光旅行を楽しいと思ったのは中学生くらいまでで、あとは商売気たっぷりの観光地には、むしろ嫌悪感を抱いた。

 観光旅行は江戸時代から行われていた。伊勢参りなどは、信仰というより観光旅行だった。だが、当時は貧しく、全員が伊勢参りに行けないので、「講」を作って代表者だけが伊勢参りに行った。残された者は、行った者の土産話を聞いて楽しんだのである。

 当時は別の地方の情報が極めて少なかったから、土産話は貴重だった。

 でも今は旅番組などがあって、行かなくても現地の様子が分かる。それなのに、なぜ多くの人が観光旅行に出かけるのだろうか?旅館の料理がどこも同じで量(品数)が多すぎて食べきれないことはいつぞや書いた。

 そうは言っても、私も旅行に出かける。ただし、観光地ではない。西国三十三ヶ所の旅は良かった。寺々が名もない地域にあったからである。

 有名な観光地に出かけるのは、中学生まででよいのではないか?

高所恐怖症

2008-02-16 08:25:27 | Weblog
 高所恐怖症は病気ではない。高いところが怖いのは動物の本能である。

 馬は崖っぷちにくると止まる。馬も本能でここから先は危ないと知るからである。人間も高所が怖いのは馬と同じである。

 乗り物としては、自動車より馬のほうが安全である。自動車はブレーキをかけなければ崖から落ちることがあるけれども、馬は崖のところで自分で止まる。

 繰り返すが、高所が怖いのは動物の本能である。それによって身の安全を保っているのである。

 ならば病気としての高所恐怖症はどのようなものか?

 本物の高所恐怖症の人は、高所に行くと、「ここから自分は飛び降りてしまうのではないか?」という恐れを持つのである。

 ナイフなどの先端恐怖症も同じである。だれでもナイフは怖い。でも先端恐怖症の人は、「ナイフで自分を刺してしまうのではないか?」と恐れるのである。

 恐怖症について大いなる誤解があるので、ここに記しておく。

マーガリン

2008-02-15 08:29:55 | Weblog
 マーガリンは何でできているのだろうか?

 バターがまだ高かったころ、私はおもにパンにマーガリンを塗っていた。店で売られているサンドイッチもみなマーガリンで、バターを使っている店はなかった。

 マーガリンはバターに比ぶべくもなく、まずくはないがバターとは別の食品だった。

 鯨の油でできているマーガリンというのがあった。これはクリームのように柔らかく、けっこうおいしかった。乾物屋で量り売りで売っていた。

 それに引き換え、雪印のマーガリンは硬かった。私は雪印のマーガリンより鯨のマーガリンを好んだ。

 今、マーガリンは格段においしくなった。雪印のネオソフトは、味はバターに引けをとらず、柔らかくて扱いやすい。

 でもやっぱりクッキーなどには、マーガリンでなくバターを使う。マーガリンはどこまで行っても「まがいもの」なのである。

 どうせまがいものなら、鯨のマーガリンが食べたい。もうないのかも知れない。あったとしても、バターよりも高いだろう。