院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

芸能の「形式」、「約束事」

2013-08-31 06:01:51 | 芸能
 私は高校時代から現在まで、能(能楽)を10回以上は見ている。しかし、すべて退屈してしまった。能の音楽(囃子方)がすばらしいと思って鑑賞するのだが、歌劇としての能は理解できない。あれはまず自分でやっていないと面白くないのだろう。

 つまり、能という「形式」に自らがすっかりはまって、その「形式」が自明のものとなっていなくては鑑賞できないようだ。



 私はミュージカルも理解できない。舞台のミュージカルは見たことはなく、映画を見ただけだが、ちっとも面白くなかった。歌を歌う前と後でシチュエーションがすっかり変わるという「約束事」が身についていない。だから、面白いと感じない。

 オペラも同様である。歌のテクニックはすごいと思うが、劇としてのオペラの中に引きこまれない。オペラ好きの友人は、ドイツ語の歌詞も台詞も全部覚えている。そこまで浸らないとオペラの本当のよさは分からないのかもしれない。(外国語の劇だから当然と言えば当然だが・・。)

 まず、「形式」を受け入れないと鑑賞できない芸能はいくらでもある。俳句だってそうである。575という「形式」を否定してしまうと味わえない。

 実は、映画やテレビドラマにも「形式」がある。途中から見たテレビ番組が、ドラマなのかドキュメンタリーなのかは説明されなくても分かる。ドラマにはそれなりの台詞の言い方や表情の見せ方があるから、それで分かる。そうした「約束事」を無意識に認めているからこそ、われわれはドラマが楽しめるのである。

先進国のシリア内戦介入に寄せて

2013-08-30 05:38:11 | 歴史
 イソップの寓話だったか、次の話が好きだ。

 ヒツジがオオカミに食べられようとしていた。ヒツジは「私はおいしくないですよ。食べても栄養になりませんよ。お腹をこわすかもしれませんよ」と必死になってオオカミに説明した。オオカミはヒツジの言うことをフンフンとだまって聴いていた。そして最後にどうなったかと言うと、オオカミはヒツジを食べてしまいましたとさ。

 古代ローマ市民は働かなかった。食べていくための労働はみな奴隷が行った。ただ、ローマ市民は戦いだけは強かった。

 古代ローマは武力によって周辺の民族を征服し、奴隷にした。つまり、ローマ市民の経済は、他民族を武力で侵略することによって支えられていた。戦いの理屈は単純で、豊かに食べていくためだった。

 古代ローマ人は、奴隷の中から剣闘士を育てた。スパルタクスは有名である。下の本はとても面白い。(青木書店刊、1988)。



 戦争に理屈は要らない。自らの利益のために行われるだけだ。勝てば理屈はあとからいくらでも付いてくる。

 先進国のシリア内戦への介入も、先進国が豊かに食べていくためである。それ以外の理由なぞない。内戦をしていると、先進国につけこまれて富をごっそりもっていかれる。いや、内戦が起こるように先進国がじわじわと仕向けてきたのかもしれない。



 ごちゃごちゃ言うと、戦争の理由が分からなくなる。顕微鏡で見るように調べれば、上の図が見えるのかもしれないが、これは事の本質ではない。本当の理由は勝てば豊かに食べられるからである。古代ローマ時代以来、攻める理由はまったく変わっていない。

高血圧症の定義はなぜ変えられたのか?

2013-08-29 06:25:50 | 医療
 大昔、その治療法が効くかどうかは、その道の権威者が「自分の経験ではこう思う」と言えば、それに従うしかなかった。

 ところが、本当にそうか?という疑問が当然出てきて、治療法の有効性を統計学的に測定するようになってきた。統計学的データに基づいて行う医療をEBM(証拠に基づいた医療)という。

 前回述べたように、コンピュータの普及によって、このような研究方法が容易になった。



 一時、高血圧症の血圧の基準値が下げられたとき、「これでは必要以上に多くの人が高血圧症だということになってしまう。医者や製薬会社が儲けるために血圧の基準を下げたのだ」との批判があった。

 だが、高血圧学会はそんなに守銭奴ではない。血圧の基準値はEBMによって変えられたのだ。高血圧学会がどのような根拠を用いたのか、マスコミは報道しないが調べれば分かる。

 私が知っているデータは、腎障害(腎臓の微小血管の動脈硬化)のEBM的な研究である。いろんな血圧の人を大人数10年くらい追跡調査をして、血圧の高い人と低い人が将来どの程度、腎障害になるかが調べられた。

 そうすると、最高血圧が130以上の人と以下の人で、腎障害の出現の仕方が「有意に」異なることが分かった。高血圧学会が腎障害だけを指標にしたわけではないが、このような指標が何種類も勘案されて、高血圧症の定義が変えられた。

 EBM的な研究調査は、標本数(対象人数)が多く、調査期間が長いほど信頼性が増す。権威者がいくら「私の経験ではこう思う」と言っても、EBM的な調査にはかなわないのだ。

 前回、「統計学は他人を説得するための手段である」と述べたのは、こういうことである。

統計学の実用化

2013-08-28 05:01:08 | コンピュータ
 最近、統計学は他人を説得するための手段になった。少なくとも私が学生だった時代には、一部の学術研究以外にこんなに統計学が利用されることはなかった。そうなったのはコンピュータの普及による。

 それまではデータの統計学的な解析には電卓を用いていたから、膨大な手間が必要だった。それが、コンピュータの低価格化(またはソフトの開発)によって、一瞬でできるようになった。

 電卓を用いた手計算ではとても不可能だった多変量解析という方法が手軽に実施できるようになったので、一時、多変量解析がブームになった。しかし、多変量解析は思ったほどの情報を与えてくれないことが分かり、すぐに下火になった。

 それで、ごく一般的なT-検定やカイ2乗検定がコンピュータで頻繁に行われるようになった。ここで、「有意水準」という概念が出てくる。ごく一般的には「有意水準」には5%という数字が使用される。

 「有意水準」5%で「有意差あり」とは、同じような統計的な研究が100個あったとして、うち95個くらいの研究結果は正しいだろうという意味である。

 私の学生時代には「有意水準」に1%が用いられることがあった。1%で「有意差あり」なら、これは研究結果100個のうち99個くらいが正しいだろうと予想でき、かなり確からしいことが言える。ところが今度は、1%では研究結果そのものが発表しにくいという弊害が出てきた。(1%ではなかなか「有意差」が出ないのだ。)

 それで最近では「有意水準」というと決まったように5%が採られるようになった。統計学という数理科学の一分野に、便利かどうか実用に耐えるかどうかという人間の勝手な価値観が混ざっていて、どこまで精度を犠牲にできるかを恣意的に決めているので面白い。

(統計というと、マスコミの世論調査を思い出されるかもしれないが、世論調査は統計学を一切利用していない。)

(金融工学といって、金融商品に統計学を応用して、もっともリスクが低くなるように計算された商品が開発された。それらは多種類大量に販売された。だが、リスクの分散が裏目に出て、先のリーマンショックを招いた。)

『何者』(新潮社)

2013-08-27 05:10:48 | 読書
 男性としては史上最年少の直木賞作家というので、下の小説を読んでみた。けっこう面白かった。



 数日前に紹介した『ブラック企業』という本には、ブラック企業は、「君の代わりはいくらでもいるんだよ」という今の現状があって初めて存在しうるとあった。現在の大学生の就活(就職活動)の厳しさも、そこに起因すると思われた。

(「君の代わりはいくらでもいるんだよ」というような社会構造になったのは、労働力の過剰供給による。過剰になった原因は「男女雇用均等法」にもあるのではないかとは、いつぞや指摘した。)

 この小説には現代の大学生の就活が大変なこやと、大学生がWEBやSNSをどのように活用しているかが生々しく描かれていた。私のような年配者には覗くことができない世界だ。

 この小説は「俺」が、就活に苦しむ同級生を観察しながら物語が進んでいく。中に自分の留学歴やボランティア歴を吹聴しても、いっこうに就職できない女子学生が出てくる。こういう娘って昔からいたなぁ、と思わせる。

 最後に彼女が、あなた(「俺」のこと)は高みから他人を観察ばかりしているから、あなたも就職できないのだと「俺」を糾弾する。ここでどんでん返しが行われ、同じく「観察者」の側にいた読者も主人公と共犯関係に置かれる。

 最後のどんでん返しが、この小説にあらかじめ仕組まれていたかどうかは怪しい。留学歴をひけらかすような娘は、「観察者」に対する批判眼を永久に持ちえないと思うからだ。

 いくらかの瑕疵があったとしても、この小説は最後まで読ませた。作者は学生時代から注目されていたらしい。漫画やアニメをこころざす大学生は多いけれども、作者のように小説という古めかしい表現手段を選ぶ若者もまだいるのだと再認識した。

 漫画家志望の若者のうち、ちゃんとした漫画家になれるのは10万人に一人だそうだ。この小説の作者も10万人に一人の才能なのだろう。年齢離れした描写に驚いた。

「関数関係」と「因果関係」

2013-08-26 05:23:13 | 科学
(画像と記事は関係ありません。)

 詳しいことは分からないが、現代物理学には「因果関係」という発想はないらしい。あるのはすべて「関数関係」だという。「関数関係」とは「=」(等号、イコール)で結ばれる関係である。

  E = MC2

というアインシュタインの有名は式は、左辺や右辺がどちらの原因でも結果でもない。両辺はただ「こういう関係ですよ」ということを示しているに過ぎない。現代物理学が時間の概念を排除しているのかどうか、そこまでは知らない。

 一方、気象学では好んで因果的な説明が行われる。たとえば、「今年の夏が暑いのは、太平洋高気圧が居座っているから」というように・・。

 では、なぜ太平洋高気圧が居座っているのかというと、「南方に熱水塊が存在するから」と、ここでも因果論が出てくる。

 だが、よく考えてみると、今年の夏が暑いのも、太平洋高気圧が居座っているのも、南方に熱水塊が存在するのも、すべて同時的に起こっていることではないのか?そこに時間的な順序のようなことがあるのか?

 「関数関係」と「因果関係」がどういう関係にあるのか?自然現象を説明するにあたって、このように対極的な記述方法が同時に存在するのは何故なのか?そのへんのところを私はまだ明確に理解できていない。

カネを積まれてもやりたくない行動

2013-08-25 08:28:49 | 生活
 昨日『金を積まれても使いたくない日本語』を紹介したが、私には「金を積まれてもやりたくない行動」がある。それを列記しよう。

・電車には必ず出入り口に立っている人がいる。乗降客にとって邪魔で仕方がない。他の場所が空いていても、そこに立っているのだ。彼らはどうもその場所が大好きなようである。(つまり、私は電車の出入り口に立ちたくない。)

・男性老人の野球帽が見苦しいとは、前にこの欄に書いた。中には外食の店でも、野球帽をとらない老人がいる。さらに、結構高い寿司屋のカウンターでも帽子をとらない老人がいる。並んで食べていると寿司おいしくない。(つまり、私は老いても野球帽をかぶりたくない。かぶっても室内では脱ぎたい。)

・初対面の人に対してマスクを外さない人がいる。昔、地域の保健師がかかえている患者さんが、ちょうど私の担当で、その患者さんについて情報が欲しいとその保健師が面会を求めてきた。私は時間を約束してその保健師と会ったが、彼女は終始マスクをとらなかった。こちらから「外せ」とは言いにくかった。そのため、次回の面会は断った。(つまり、私は人と会うときにはマスクを外したい。)


(画像と記事とは関係ありません。)

(患者さんにも診察室でマスクを外さない人がいる。表情を見るのは診察の第一歩だから、「外してくれ」と言う。内科でもそのような患者さんが多いらしく、いちいち言うのがストレスになり内科医が困っている。)

『カネを積まれても使いたくない日本語』(朝日新書)

2013-08-24 05:07:06 | 読書
 週刊朝日に載っている内舘牧子さんのエッセイが好きで愛読していた。そこには言葉遣いの乱れに関する指摘がときどきあり、まったく同感だと思った。本書はそこから発展させて、現代のヘンな言葉を集大成したものである。



 この欄で私が述べた「語尾上げ言葉」、「語尾延ばし言葉」などは、ヘンな言葉の一部に過ぎす、ほかにもあまたあるヘンな言葉が網羅的に俎上に上がっている。(方言に「語尾延ばし言葉」はないという指摘は鋭い。)

 私がここで述べた「見れる」、「食べれる」は名古屋では標準語だということまで調べてある。さすがに「行ける」を「行けれる」と「ら足し言葉」にするのは名古屋では普通だということまでは書かれていなかったが・・。

 「文献」にも当たっている。必ず出てくる「言葉は生き物だから変化して当然」という意見にも周到に耳を傾けながら、その上で「やっぱり聞き苦しい」と反論している。

 言葉の乱れを指摘する書物はこれまでにもあったが、本書はもっとも「面白く」書かれていると思う。国語学者らの「話し言葉論」と違ってサービス精神がある。「面白さ」とは読書に欠かせないファクターである。

羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く

2013-08-24 03:28:18 | 歴史
 先週は戦争に関する報道が多かった。中日新聞の投書欄に、戦争を経験した80歳近い男性の投書が載っていた。曰く「武力は持つべきでない、国際問題は平和外交で解決すべきだ」。年齢を重ねて酸いも甘いも知っているはずの人が、なぜこのような小学生のようなことを考えるのだろうか?武力や経済力という後ろ盾がなければ「平和外交」なぞできないことは、まともな大人なら知っている。

 新聞もなぜかくも幼稚な発言を載せるのだろうか?中日新聞の編集部がまともな大人でないとは考えにくい。世論が軍備増強に走らぬようにバランスをとっているつもりなのだろうか?



 先週、沖縄県・与那国島の町長選挙が行われ、陸上自衛隊誘致賛成派の現職町長が当選した。町長の主張は、過疎地なので陸自が来れば経済が活性化するというものだった。

 反対派の支持者の中には、沖縄本島には基地があったから攻撃されたが、与那国島にはなかったから攻撃されなかったと主張していた人がいた。(だから、なまじ基地があると危ないという論理だ。)これも戦争経験者の意見だった。

 こういうのを「羹に懲りて膾を吹く」という。いつの時代にも想像力がない人が一定の割合でいるのだなぁと嘆息するしかない。

昭和40年代の「屋台」

2013-08-22 06:41:20 | 文化
 「屋台」というと、どのようなものを想像されるだろうか?私が連想するのは、祭りの出店ではない。あれは、「夜店」と言った。昼間も出ているから「露店」と呼ぶこともあった。

 むろん、京都の祇園祭の「屋台」なんて連想しない。私が考えるのは以下のような移動式の店舗である。



 この画像は、dai という人が描いたCGである。手前にカウンターがある。CGには描かれていないが、カウンターの前に椅子が4脚ほど置いてある。客は椅子に座ってカウンターにおでんや酒を置いて、飲食をするのだ。カウンターの向こうには親父がいる。

 とにかく安い。今ならコンビニでおでんやカップ酒を売っているから、それを買ってコンビニのビュッフェみたいなところで食せば、屋台と同じような雰囲気が味わえるかもしれない。

 博多の屋台は名物とされているが、あんなの屋台ではない。普通店舗の居酒屋よりもむしろ高い。刺身なんかを置いてある。だいたい冷蔵庫がある屋台はありえない。そして、博多の屋台は移動できない。

 本来の屋台は写真のように車輪が付いていなくてはならない。いつでも移動できるようにだ。

 私が学生時代、大学病院の向かいにいつも居るおでんの屋台があった。友人と1回だけ利用した。コップ酒1杯とおでん3個くらいで100円くらいだったと思う。

 三波春夫の「月がわびしい路地裏の屋台の酒のほろ苦さ。知らぬどうしが小皿叩いてちゃんちきおけさ」という歌は、まさにあのころのこういう屋台を歌った歌だ。

 実際、友人と座った時はわびしかった。南こうせつの「神田川」という大ヒット曲があるが、まさにあの時代のあのわびしさを言い当てているのだ。

文春新書『ブラック企業』

2013-08-21 10:31:22 | 読書
 本を読んでうなったのは久しぶりだ。『ブラック企業』(文春新書)という本である。私のFBに紹介されていたので買ってみた。



 若者の就職難、ニート、フリーターといった問題が出てきたのは、日本が豊かになりすぎたためではないか?大学が増えすぎて分数の足し算さえできないような学生が増えたためではないか?なぞと、私は漠然と考えていた。

 だがこの本は、問題の本質はもっと別のところにあると見破っていた。一言でいえば、日本型の終身雇用的な習慣の「いいとこどり」をした企業ほど伸びるような構造に、日本社会がなってしまっているのだと私には読めた。

 また、「最近の若い者は・・」という文脈では捉えきれない構造的な問題を、現在の雇用システムはかかえているとも読めた。

 新人研修の厳しさが取り上げられていたが、それは生産的な厳しさでなく、社員を服従させるための手段だという主張には説得力があった。読み物や映画でしか知らないが、昔の軍隊がそのような教育(馴化)やっていたのではないかと連想した。著者は「マインド・コントロール」という言葉も使っている。

 著者は晩婚化問題、少子化問題にも言及している。これらはとどのつまり、雇用問題だと説明している。

 本書の内容にも感心したが、そのような言説を発表する著者にも感心した。著者はまだ30歳を過ぎたばかりである。それでいて、この堂々とした論陣はどうだ。大したものである。

 若手の社会学者とか、若手のサブカルチャー評論家なぞがテレビに出ていて、一見目新しいことを言っているが、心から同意はできなかった。

 ところが、この本の著者には説得された。日本の若い論客も捨てたものではないなぁと、少しばかり嬉しくなったので報告する。

英語が社内共通語?

2013-08-20 04:05:41 | 日本語
 

 社内共通語を英語にしている会社は以前からあった。海外相手の機械設計の会社がそうだった。最近、「楽天」など必ずしも理系でない会社が英語を社内共通語とした。

 これには賛否両論がある。私は否定論者で、海外と商売するなら各人が英語ができればよく、社内共通語まで英語にする必要はないと思う。

 論拠は3つある。

 まず、「国家とは言語である」(シオラン)という言葉を私は信じている。

 次にある否定論者が言っていたのだが、「あなたが兵隊だとして、参謀が英語で話し合って立てた作戦に安心して参加できるか?」という質問があった。私は、参加できない。

 フィリピン人がなまじ英語ができたためにアメリカに骨までしゃぶられた、という見方がある。ありそうなことである。言語の壁は不便だが、非関税障壁としてしばしば国を守る。

 というわけで、私は英語を社内共通語とするのは目先の利益を見ているだけで、将来的にはマイナス面が多いと考えている。みなさんはどうだろうか?

受験勉強のやり方

2013-08-19 06:44:36 | 教育
 私が中学2年生のときの夏休みの英語の宿題は、短文集を丸ごと訳すというもので、薄い冊子だったが終えるのに大変苦労した。だから、いったん終えてしまった冊子はもう2度と見たくなく、捨てた。

 その年の秋、親友のY君宅に遊びに行ったら、Y君は勉強していた。その勉強内容に私はショックを受けた。Y君は私が捨てた英語の冊子の復習をしていたのだ。「新しい本を読むより、一度読んだ本をもう一度読んだ方が勉強になるだろ」というのがY君の弁。まったく、ごもっとも。へへーっと私は引き下がったが、Y君には刺激を受けた。

 一度読んだ本を二度と読まないのは、とくに外国語の場合もっとも悪いやり方だ。数学の問題集も、新しい問題集をやるより一回やった問題集をまたやるほうがよい。(だから、最初の問題集の選び方が重要で、これは先達に聞くよりない。)

 (写真と記事は関係ありません。) 

 他にも頑張っているようで、意外に効果がない勉強の仕方がある。

 まず「まめ単」といって、英単語と日本語が書いてある小さな本があった。小さい単語集だから「まめ単」と呼ばれていた。1ページ覚えては破り、それを繰り返すのだ。文脈を無視した単語は覚えられない。「まめ単」を用いる勉強法は私たちの一世代前にすたれた。

 NHKのラジオ(テレビ)の「基礎英語」が、ほとんど勉強にならないことは先日述べた

 覚えるべきことを書いた紙をトイレに貼っておくのも、意外に役に立たない。トイレにまで勉強の精神を持ち込むので一見熱心なように見えるが、トイレにいる時間は短く、ほとんど覚えられない。クソ暗記が目的なら、丸一日かけて強引に覚えてしまう方がずっと効果がある。

 録音テープを用いた睡眠学習法というのも駄目だ。寝ているうちに無意識にテープが聴こえていて、内容が自然に入ってくるという触れ込みだったが、睡眠が妨げられて駄目だった。安倍公房が娘さんにこの方法を薦めていたというが、丁度そのころに流行った学習法である。

 以上のような勉強方法が駄目だと分かるのは、私自身がやったことがあるからである。私は勉強のやり方自体を試行錯誤して、遠回りをしてしまった。それで一年、大学浪人を余儀なくされたのだが・・。

居酒屋、風前のともし火

2013-08-18 03:06:13 | 歴史

(写真と記事は関係ありません。) 
 
 寿司屋のカウンターに若い人が寄り付かなくなったことは、再三書いてきた。寿司屋だけでなく、カウンター式の居酒屋や焼き鳥屋にも若い人が見つからない。洋風のバーでも若い人を見かけない。彼らはどこで呑んでいるのだろうか?

 屋台の焼き鳥屋やおでん屋もなくなった。それらの屋台は一部は屋内に入ったが、あいかわらず若者を見かけない。屋台の焼き鳥屋やおでん屋を経験しているのは私たちが最後の世代だろう。

 若者はみな「和民」などの居酒屋チェーンに流れてしまったのだろうか?仲間で小部屋に収まったほうが落ち着くのだろうか?寿司屋は別として、カウンターの居酒屋も焼き鳥屋もおでん屋も、居酒屋チェーンより高いということはないのにだ。

 居酒屋や焼き鳥屋も、オジサンたちが死に絶えると同時になくなるだろう。チェーンの居酒屋だって、どのような運命をたどるのか分からない。最近の若者はあまり酒を呑まなくなったいうではないか。

 むろん若者はタバコも吸わない。オジサンたちが若いころのように、「運動」と称して大学で大暴れするようなこともない。

 1960年ころから、街で大人が喧嘩をしている姿を見かけなくなった。大衆がなぜか紳士的に変化したのだ。これは日本だけではなく世界的な現象だそうで、ある社会学者はこの現象を「ジェントル革命」と名付けた。

 いま第2の「ジェントル革命」が起きているのではないか?このように静かに時代は変わっていくのではないか?
 

カネボウ化粧品のまじめさ

2013-08-17 06:23:39 | 工業
 

 カネボウ化粧品が白斑を生じさせる化粧品を売って袋叩きにあっている。だが、被害者には悪いが、私はカネボウ化粧品のまじめさに驚いている。

 化粧品なんて、利用者がきれいになったような気分になりさえすれば、本当にきれいにならなくてもよいのだ。コラーゲンやビタミンCなど毒にも薬にもならないような成分を入れて、利用者に夢を与えていればよい。

 コラーゲンやビタミンCなんて生体防御装置としての皮膚からは吸収されず、美容には意味がない。だから、有害でなければそれらしい成分を入れておけば、別に効果がなくてもかまわなかったのだ。

 サプリメントと同じで、化粧品は値段が高いほどよく売れる。化粧品メーカーとしては新参のメナード化粧品が美術館まで持っているのは、ブランドが当たって莫大な利益を得たからだ。

 化粧品の原価が非常に安いのは、女性団体・地婦連が出している化粧品ブランド「ちふれ」が破格に安いことからも知られている。

 どこの化粧品会社も本気で肌が白くなるなんて考えていない。だが、ひとりカネボウ化粧品は違った。同社は本当にメラニン色素に影響を与える成分を化粧品に入れて、今回の不祥事をまねいた。

 カネボウ化粧品を攻撃するのは簡単だが、美白を本気で考えての結果だった。けっきょくは大きな失敗だったけれども、同社のまじめさは買ってあげなくてはなるまい。