院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

S市民病院が崩壊?

2006-08-31 13:30:08 | Weblog
 S市民病院が崩壊の危機にある。一時は37人いた医者が、現在19人に減ってしまったという。これからさらに減るだろうと、私は見ている。

 S市では、あわてて辣腕で知られる事務長を招聘した。この事務長は、何軒かの自治体病院を建て直した実績があり、TVでも紹介されていた。

 だが、この事務長をもってしても、S市民病院の再建は難しいのではないか。

 まず、どうして医者が逃げ始めたのか、理由は簡単明瞭である。病院が赤字になったときに、医者の給料を下げたからである。

 S市といえば「山奥」というイメージがある。S市民病院に赴任すること自体に「左遷」といった雰囲気がある。

 そこへもってきて、給料の値下げである。医者が逃げ出して当然である。S市は何を勘違いしたのだろう。S市は値下げしても医者が残ってくれるような魅力的な町ではない。

 辣腕の事務長は「医者の給料を上げろ」と怒鳴っていることだろう。でも、びっくりするほどの値上げでなければ、もう医者は来ない。このままではS市民病院は坂道を転げ落ちていくことになる。

「見れる」、「食べれる」

2006-08-30 11:41:20 | Weblog
 「見ることができる」を最近の若者は「見れる」という。「食べることができる」を「食べれる」という。正しくは「見られる」、「食べられる」である。

 このような変化をとくに年配者が嫌う。TV局も、出演者が「見れる」と言っているのに、字幕スーパーでは「見られる」と直している。

 伝統は重んじられるべきだとは思うけれども、意味的には「見れる」、「食べれる」のほうが合理的である。「見れる」、「食べれる」には可能態の意味しかないからである。

 一方、「見られる」、「食べられる」は可能態のほかに、受動態や尊敬語の意味にも使われ、紛らわしい。だから私は「見れる」、「食べれる」のほうに賛成である。

 「取れる」はいまや普通だが、昔は「取られる」と言った。「行ける」は「行かれる」と言った。このように言葉は変化していく。目くじらを立てる必要もあるまい。

 名古屋地方では、そもそもの昔から「見れる」、「食べれる」が「標準語」だった。
 

医師国家試験

2006-08-29 11:14:15 | Weblog
 医師国家試験は司法試験の次くらいに難しいだろう。

 膨大な医学的知識を覚えなくてはならない。意外に知られていないことだが、医学生に専門科はない。医学生はすべての科を勉強しなくてはならない。科別に別れるのは医師国家試験に受かってから、さらに全科を2年間研修して、そのまた後である。

 医学部に入っても医師国家試験に通らなければ、医師になれない。だから、医学生は必死に勉強する。100万人に1人というような珍しい病気についても、詳しく勉強する。

 医師国家試験は合格最低点が公開されていない。だから、厚生労働省は自由に合格者数を決めて、医師の供給をコントロールする権限をもつに至った。

 何年か前、合格率が下がった年があった。マスコミの質問に答えて厚生省(当時)の官僚はこう言った。「今年は学生の質が下がったからでしょう」。

 合格最低点を自分たちで恣意的に決めておいて、「学生の質が下がった」とは、よくもまあ、ぬけぬけと言えるなあと、当時思ったものである。

 医師叩きが盛んなころ(今でも)だったから、マスコミも厚生省の自己矛盾をそれ以上追及しなかった。官僚というのは狡猾である。

昔の人は目が良かったのだろうか?

2006-08-28 09:49:20 | Weblog
 現代人のかなりの人が近眼で、眼鏡をかけいる人が多い。それに比べて、明治時代の国民、特に農民は眼鏡をかけていない。

 そのため、現代人は遠くを見なくなったので近眼になったという説まで出てきた。

 明治生まれの古老に聞いてみた。そうしたら、昔の人も近眼が多かったと言う。ただ、字を読む機会が少なく、眼鏡なしでも生活に支障がなかったのだそうだ。

 何でも昔が良くて、現代が悪いという考え方は、ある程度割り引いて理解しなければならないようだ。

漫画家・里中まち子さん

2006-08-27 09:29:54 | Weblog
 里中まち子さんは美人である。だから編集者に可愛がられて、作品を重用されたと昔言われた。ゆえなき中傷である。里中さんの作品は面白いから重用されただけである。

 里中さんが漫画家としてデビューしたのは16歳のときである。「ピアの肖像」という作品で新人漫画賞を受賞した。当時、漫画少年だった私は、この作品が載っている漫画雑誌をまだ実家の押入れにしまってある。

 その後、里中さんは次々と新しい少女漫画のスタイルを確立して行った。絵柄も変わった。かなり重い題材を少女漫画に入れ込むのに成功した。

 里中さんが結婚したという話を聞かない。いまだに独身なのだろうか。40代に子宮がんをわずらい、手術をした。いま里中さんが元気なのは手術が成功したからだろう。結構なことである。

 里中さんには、これからも面白い作品を書いていただきたい。才能にあふれ過ぎていたために、かえって結婚できなかった女性の物語りなどはどうだろう。

 里中さんは、一時、小説を書いたけれども、あまり評価されなかった。(私は読んでいないので評価できない)。さくらももこさんの話題のときにも書いたが、里中さんはもやはり漫画の人なのだろう。

 しかし、里中さんはコメンテーターとして一流である。なにより頭脳明晰である。16歳でデビューしてしまったから、高校を卒業するのがやっとで、大学には行っていおられないだろう。それでも、ちゃんとしたコメントができる。

 この点は、中学しか卒業していない直木賞作家の出久根達郎さんと似ている。
 

ちびまる子ちゃん

2006-08-26 14:09:34 | Weblog
 TVアニメ「ちびまる子ちゃん」は抜群に可笑しかった。毎週、日曜の午後6時には、まだ幼かった子供たちと腹を抱えて笑った。現在の再放送でも人気があるようである。

 「ちびまる子ちゃん」は元は雑誌漫画で、さくらももこさんの作品である。

 さくらさんは、本当はエッセイストになりたかったそうで、漫画で有名になってからエッセイストとしてデビューする予定だったという。さくらさんはエッセイ本を何冊も出すようになったから、夢を予定どおりに実現した人である。

 で、さくらさんのエッセイを読んでみた。さほど面白くない。「ちびまる子ちゃん」があまりに面白かったためか、ちょっと拍子抜けした。

 やはり、さくらさんは文章の人ではなく漫画の人なのではないか。漫画の人が無理に文章を志す必要はないのではないか。

 複数の分野に一流の才能をもつ人なんて、いやしない。

患者離れの悪い医者

2006-08-25 13:41:44 | Weblog
 転勤のたびに患者さんをたくさん引き連れてきて、「自分を慕う患者さんがこんなにいる」と自慢げな医者がたまにいる。

 私たちはそういう医者を「患者離れの悪い医者」と呼んで、ほとんど軽蔑している。彼らはナルシストであるにすぎない。

 患者さんが他の医者に行けなくなるほどに、自分の手垢を付けてしまっては、医者として失格である。遠方に転勤した場合、交通費や時間を患者さんに浪費させることにもなる。なにより、その医者が死んだら、患者さんはどこへ行けばよいのか。

 特定の患者さんに思い入れしすぎると、「贔屓の引き倒しになる」とは恩師中井久夫先生の弁である。(『精神科治療の覚え書』、日本評論社)。

 「患者さんのために、患者さんのために」という考え方も実は問題がある。ひとりの医者が取り扱える患者さんの数は有限だからである。

 戦前のアメリカの有名な精神科医H.S.サリヴァンは「生活のために医療をやっている医者がもっとも良医だ」とまで言っている。

霊魂は存在するか?

2006-08-24 14:00:15 | Weblog
 私は霊魂は存在しないと思っている。

 私が墓にお参りするのも、神社にお参りするのも、それが古き良き習慣だからであり、霊魂なんて信じちゃいない。

 だから、墓というただの石(あるいは神社という箱)に向かって手を合わせているだけである。習慣だからそうしている。

 首相の靖国参拝を批判する国がある。批判している国は霊魂の存在を信じているのだろうか。あるいは神道の教え(というのがあるのかどうか知らないが)に共鳴しているのだろうか。

 首相はただの箱に頭を下げているだけではないのか。だとすると、批判している国は何を批判しているのか意味が分からなくなる。

 哲学者の池田晶子さんが言っていた。霊魂が存在するのかどうか、国会で議論したらどうかと。そのような議題を出せるのは共産党ぐらいだから、共産党が言い出すべきだとも。

 池田さんらしい優れた視点である。
 

人種差別映画「駅馬車」

2006-08-23 06:36:18 | Weblog
 ジョン・ウエイン主演の「駅馬車」という映画を何度も見た。モノクロだった。名画と言われていた。映画評論家の故江戸川長治さんのお気に入りの映画だった。

 じじつ面白かった。だが「駅馬車」は、アメリカ・インディアンを徹底的に悪者に仕立て上げた極めてタチの悪い映画だと今は思う。インディアンに対する悪意に満ち満ちている。

 アメリカはこんな映画を世界中に配信して、巨額の利を得た。また、世界中に反インディアン思想を広めた。

 同じような輸入TV映画に「名犬リンチンチン」というのがある。アメリカ騎兵隊を賛美するTV映画だけれども、TV黎明期に生きていた人は十分ご存じだと思うので、くだくだしいから詳細は省く。

 わが国も、支那事変のころに生きていた人は、中国人を「チャンコロ」と呼んで差別していた。中国人を人間と見なさなかった。そうでなければ、中国侵略なぞできはしないだろう。異論はあろうが、私は日中戦争を侵略戦争と見ている。中国が日本を恨む気持ちが分からないではない。

 私が子供のころは、在日朝鮮人も差別されていた。ひどい生活を強いられている朝鮮人がたくさんいた。ただ、朝鮮半島にかんしては、日本の植民地政策にも一定の理がある。それがなければ、別の国の植民地になっていただけだと思うからである。だから、朝鮮人が日本を恨む気持ちは分からぬではないが、日本が植民地にしなければ、他の国を恨むことだろう。少なくとも日本は朝鮮半島のインフラを充実させた。

 朝鮮での日本語化や氏名の日本語化がいけないと言う人がある。それなら、ブラジルのポルトガル化はどうなのか。ペルーやメキシコのスペイン語化はどうなのか。

 完全に支配してしまえば、宗主国は言語の変換の罪を問われない。日本は中途半端だったから言語変換の罪を問われている。言語変換は確かに罪である。だから、ブラジルやペルーも言語変換の罪をもっと追及して欲しい。

 北海道の友人によれば、いまだにアイヌ系の人は差別されていると言う。アイヌ語はもはや絶滅した。いまだにアイヌ差別とはイヤな話だ。

 でも、わが国はアイヌを悪役にした映画を作らなかった。中国人や朝鮮人を悪役にした映画は、あったのかも知れないが私は知らない。少なくとも外国人や先住民族を悪役にした日本映画を私は見たことがない。

 それに比べて「駅馬車」どうだ。先住民族差別を娯楽にしてしまったのである。人口密集地に原爆を落とした国だもの、差別なぞ軽いものなのかもしれない。

 オーストラリアにはアボリジニ差別の問題があるけれども、よく知らないので多くを語れない。

 アメリカは差別の国だと思う。アメリカ留学をした友人がみな感じていることだ。名ジャズ・トランペッターの日野テルマサさんもアメリカで「お前は上手いがイエローだから出演させられない」とやさしい言葉で差別されたと言う。

 故山本夏彦さんの言葉を借りて、「人間とはイヤなものだなぁ」と嘆息するしかない。
 

てんぷくトリオ考

2006-08-22 13:14:19 | Weblog
 40年近く前、てんぷくトリオというお笑いグループがあった。たいへんに売れっ子の芸人で、彼らがタクシーで移動中に車内で泥のように眠っているのを麻布の路上で見たことがある。寝る間もなかったようである。

 メンバーは三波伸介さん(字が違うかもしれない)、伊東四朗さん、ともう一人誰かだった。もう一人の誰かは肝臓病で比較的早く亡くなってしまった。

 その後、三波伸介さんは大喜利の名司会者となった。彼の才能のおかげで大喜利はとても面白かった。三波さんが亡くなったあと、三遊亭円楽さんが司会者となったけれども、番組はとたんにつまらなくなった。すでに円楽さんも司会を降板した。

 てんぷくトリオのメンバーでは伊東四朗さんだけが生き残っている。伊東さんはいまや性格俳優で独特の存在感をもっている。お笑い芸人から性格俳優へ。伊東さんの人生は本人も予想しなかった経路をたどっているのではないか。

自然科学は宗教のひとつ?

2006-08-21 13:48:50 | Weblog
 自然科学は宗教のひとつだと言ったら突飛すぎるだろうか。

 自然科学の「教義」は再現性である。n回同じことがあったらn+1回目も同じことが起こると信じるところから自然科学は始まっている。

 しかしながら、そんな保証は実はどこにもないのである。科学者やわれわれがそう「信じて」いるだけである。

 明日からプランクの定数や宇宙定数が変わってしまうかもしれない。それでも文句は言えない。プランクの定数や宇宙定数は、現在ただいまそういう数字なのであり、それが何故なのか理由は問われない。

 重力を考えるとより解りやすいだろう。重力は質量に比例していて、なにがしかの数字であるが、なぜ質量に重力があるのかは分かっていないのである。そうだから、そうだとしか言えない。だから、これらが不変だというのは一種の信仰のようなものである。

 この信仰に大きな役割を果たしたのは原爆である。原爆は理論的に造られ、圧倒的な破壊力を見せつけた。これにより「自然科学教」の信者たちは「自然科学は正しい」とする確固たる信念を持つに至ったのである。

男女雇用機会均等法

2006-08-20 11:19:42 | Weblog
 夫が仕事に出て、妻が家を守るという生活スタイルができたのは、そう古いことではない。

 私が子供のころは国民の80%が農業に従事していた。農家の妻にも役割があり、夫も妻も同様に働いていた。

 妻が「永久就職」とか「3食昼寝付き」なぞと言われるようになったのは、サラリーマンが増えてからのことで、つい最近のことである。

 その妻が外に出たがるようになった。そのため男女雇用均等法が施行されたのは10年ほど前のことである。

 これまで家庭に入っていた女性が外で働くようになるとどうなるか。労働力が2倍になる。でも、GDPがいきなり2倍になるとは考えられない。労働力が供給過剰になる。その結果、夫の賃金が減って、妻の賃金なしにはやっていけないような社会体制となってしまった。

 妻は「3食昼寝付き」という特権を失って、夫の収入を補うため働かざるをえないというのが、今の状況である。

 妻は子育てもまともにできなくなった。ここに少子化の原因のひとつがある。

 男女雇用機会均等を求めていた女性たちは、このような状況になることを分かっていたのだろうか。彼女らは自ら「3食昼寝付き」を放棄したのである。

夭折すると伝説になる?

2006-08-19 14:53:04 | Weblog
 美空ひばり記念館が閉館になるそうだ。美空ひばりさんは比較的若くして亡くなったから伝説になったのだろう。それでも、生きていればそこそこの年齢になるので、伝説も消えていくのかもしれない。

 淡谷のり子さんやオードリー・ヘップバーンは、それなりに生きたので伝説にならなかった。マリリン・モンローやエルビス・プレスリーやダイアナ妃は、夭折したので伝説になった。

 彼らの伝説も、ある程度、時がたてば消えていくのだろうか。

 樋口一葉や石川啄木はいまだに伝説の人である。それは夭折したためではなく、天才だったからだと思われる。


男と女は似すぎている

2006-08-18 13:41:41 | Weblog
 どんな民族でも男と女の服装や髪型が違う。これはなぜだろうか。

 この事実に例外がないことを考えると、なにか深いわけがあるに違いない。

 素裸になれば男女は体型で識別できる。しかし、人類は無毛であるがゆえに、必ず衣服をまとっている。生物学的には匂いなどでも男女の識別はできるだろう。しかし、人類は体臭で男女の識別をする能力が退化している。

 衣服をまとっているために、体型で男女を識別できず、匂いでも識別できないとなると、残りは顔である。しかしながら、顔だけで男女を識別するのは実は難しい。顔は男女で若干の違いはあっても、明らかに識別するには男女の顔は似すぎている。

 生物学的に男女を識別できないとなれば、文化的に識別するほかはない。

 そのため、人類は服装や髪型を男女で変えることによって、文化的に男女の識別を行おうとしているのではなかろうか。生物学的な男女の違いの曖昧さを文化で補っているのだと思われる。
 

旭川市立旭山動物園

2006-08-17 13:36:16 | Weblog
 旭川市の旭山動物園が上野動物園を追い越して、全国一の入場者数になったという。

 先日、行ってみた。お盆の最中ということもあってか、さすがにすごい人出だった。付近の道路は車が渋滞していた。

 で、展示内容はというと、どこの動物園とも変わらないもので、とくに珍しい動物がいるわけでもない。

 「もぐもぐタイム」と言って、動物に餌をやる場面を見せるのがウリだそうだが、別に面白くなかった。

 懲りたのは、人出が多いため、ペンギンひとつを見るのに行列して、一時間も待たねばならないことだった。ペンギンを見るのに一時間。これは何かがおかしい。

 旭山動物園がどうしてこんなに繁盛するようになったのか、かいもく理由が分からなかった。

 芸能人でもどこが魅力的なのか分からないのに、急に人気が出る人がいる。ヨーヨーなんて昔からあるのに、一時爆発的にはやったことがあった。旭山動物園もそのたぐいなのではないか。

 だとすると、近々すたれるだろう。