院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

栄養学への不信感

2006-11-30 13:00:48 | Weblog
 何を食べると健康に良い、あるいは健康に悪いということは、私が子供のころから言われていた。

 以来、数十年間、この「良い悪い」はころころと変転した。そのため、私は栄養学を信用できなくなってしまった。

 昔、妊婦はカルシウムを摂るべきだと言われた。それで、カルシウム剤をせっせと飲んでいた妊婦の赤ちゃんの頭蓋骨か硬くなってしまって、出産に支障をきたすようになった。

 出産時の出血を少なくするために、ビタミンKをあらかじめ飲んでおくとよいと言われていた。その結果、ビタミンKは流産を招くと分かった。

 以上は薬の話であるが、食物でもいろいろなことが言われた。曰く、緑黄色野菜を食べよう。一日30種類の食物を食べよう。そんなことできっこない。

 最近は、サラダを食べる人が多い。でも生野菜なんて、昔は食べられなかった。第一おいしくない。煮た野菜の方がおいしい。生野菜で煮野菜だけの繊維を摂ろいうとしたら、馬のように食べなくてはならない。

 栄養学はエビデンス(証拠)が出てくるのに時間がかかるのである。10年20年のスパンで見なければ、その食生活の良し悪しは分からない。

 なのに栄養学者は、あれが良いこれが悪いと言って、人心をまどわせる。

 私は栄養学をいっさい信用しない。水分が不足すれば喉が渇くように、生物としての人間は、今食べたいものを食べればよいと思う。

最初にナマコを食った人は偉いか?

2006-11-29 08:30:37 | Weblog
 最初にナマコを食べた人は偉いのだろうか?

 虫が葉を食い、鳥が虫を食い、ライオンが鹿を食うのは、別に誰かに教わったわけではないだろう。生物は本能的に自分の食べ物を知っているのではないか?

 人間も生物である。ならば、自分が何を食えるか本能的に知っているだろう。だから、ナマコが食えるということは、人間は生まれつき知っていたのではないか?

 ただ、他の生物と人間が違うところは、人間は文化をもっているということである。

 料理は文化である。これは本能的には分からず、伝承されて初めて分かることである。

 ナマコが食えるということは、先天的に知っていたけれども、それを酢漬けにしたらもっとうまいということを知ったのは、人間特有の能力である。

俳句で食べていけるか?

2006-11-28 14:01:45 | Weblog
 俳句を初めて18年になる。才能がないので、ちっとも上手くならない。

 俳句の宗匠には何人かお会いした。でも、俳句だけで食べている人はいなかった。たいがい、年金などの他の収入にたよっていた。

 俳句だけで食べている人は、俳句界広しといえどもホトトギス主宰の稲畑汀子さん(高浜虚子の孫)しかいないのではないか。

 でも、私には稲畑さんの俳句の良さが分からない。下手ではないが、そんなに凄いとも思わない。

 思うに、ホトトギス主宰とは家元のようなものである。上手い下手はともかくとして、家元として尊重されているように見える。

 まあホトトギスは、家元を教祖とした新興宗教団体みたいなものと言っては言いすぎか?

 虚子の跡目は年尾が継いだ。その跡目を稲畑さんが継いだ。虚子は偉大であったが、年尾はそうでもなかった。そうでもない人を主宰として奉る風潮が俳句界にはある。

人は人が好き

2006-11-27 13:14:55 | Weblog
 サルを三つの扉がついた部屋に入れる。一つの扉をあけると、おもちゃの機関車が走っているのが見える。二つ目の扉を開けると、そこには何もない。三つ目の扉を開けると、別のサルが見える。

 以上のような実験をした人がいる。結果は、部屋の中のサルは別のサルが見える扉を開ける回数が、他にくらべて圧倒的に多かったという。

 サルは別のサルを見るのを最も好むのだ。たぶん人間もそうだろう。

 雨の日の遊園地は寂しい。それは他の人間がいないからだ。

 野球場に何万人も集まる。それは野球を見るためだけでなく、他の人間が見たいからだろう。野外ロックコンサートも同じこと。

 たまに人嫌いな人がいるけれども、それは特例で、本当は人は人が好きなのだ。

私が好きな女性タレント

2006-11-26 10:04:39 | Weblog
 まず松坂慶子さん。私はこの人を共に20代から見つめてきた。50代になってもあの美しさ。皺伸ばし整形をしておられるのかは知らないが、とにかく昔から美しさは変わらない。芸もうまい。歯は整形している。韓国籍だと聞いたことがある。

 次は小泉恭子さん。この人は16歳でデビューした。とてもきれいなお嬢さんだった。そのお嬢さんも、いまや38歳。それでも色香はかえって増したほどである。先日、クラブのママさん役で出ていたが、魅力が十分に出ていた。

 最後は松たか子さん。この人は10代からNHKの大河ドラマに出ていた。家柄のせいもあるのだろうが、そのときから「私は美しい」という自信に満ちていた。もう28歳になってしまったが、魅力は失せない。

 これ以下の若い女性タレントには興味を感じない。私の子供以下の年齢だからである。みんなジャリに見えてしまう。、

ゲートボール

2006-11-25 14:28:19 | Weblog
 ゲートボールが老人専用のスポーツとして喧伝されたのは、今から30年ほど前である。

 それは一気に日本中に広まった。多くの老人クラブがゲートボールを採用した。

 当時、老人でなかった人が、今、老人になってゲートボールを始めたりしている。

 しかし、ゲートボールが老人専用という必然性はなにもない。老人でなくてもゲートボールはできるから、大学にゲートボール部ができたりしている。

 そして、若者の方がゲートボールは圧倒的にうまい。どんなスポーツでも言えることである。

 ゲートボールを老人専用として売り出したのは、マーケティングの勝利である。一般のスポーツと同じように売り出したのなら、ここまで長続きすることはなかっただろう。

 世の中には知恵者がいるものである。

火の用心

2006-11-24 13:14:52 | Weblog
 拍子木を叩きながら「火の用心」と唱える夜回りの季節になった。

 でも、この行為って効果があるのだろうか?夜の街中を回って、ご苦労様とは思うが、実際の火災の防止になるのだろうか?

 夜回りは、結構しんどい作業である。それなのに、いまだに続いているのはなぜか?

 消防団員の親睦のためだろうか?それはそれでよい、親睦を深めるのはよいことである。

 そうではなくて、昔からの伝統で仕方なくやっているのなら、「火の用心」はやめたほうがよい。

 地元の消防団は、なにかと理屈をつけて、呑み会をやるのが健康的である。夜回りはあまり意味がないと思う。

神社の経済

2006-11-23 09:04:48 | Weblog
 不思議に思っていることがある。それは神社がどうやって経営されているのかということである。

 伊勢神宮や熱田神宮のような有名神社はよい。初詣だけで1年分の収入を稼いでしまうだろう。

 気にかかるのは、地方の末社である。賽銭もたいして集まらないだろう。祈祷に来る人も少ないだろう。

 なのに、たくさんの末社がつぶれもせず、全国津々浦々に存在し続けている。どこからお金がはいるのだろうか?けっこう寄進があるのだろうか?

 それとも、伊勢神宮や熱田神宮から「補助」みたいなものを受けているのだろうか。日本中に数え切れないほどの神社があって、それらがつぶれないのが私には謎である。

オカマをさげすむなかれ

2006-11-22 09:29:28 | Weblog
 一度、友人にオカマバーに連れて行ってもらったことがある。オカマホステスは、確かにサービス精神旺盛だが、私はやっぱり気持ち悪かった。

 友人は「お前たちオカマは云々」とオカマホステスを侮蔑した態度だった。でも、オカマホステスたちは、上手に友人をいなしていた。料金はとても高かった。

 最近は性同一性障害と言われて、いくぶんオカマに対するさげすみの感情が減ってきたようである。彼らは体と心の性を取り違えたマイノリティーである。決して心が卑しいのではない。

 でも、世間は女性の心をもった男性を受け入れない。職場でもさまざまなトラブルが起こる。だから、オカマはまっとうな就職ができなかった。

 彼らが生きる道は夜の水商売しかなかったのである。彼らは何も好き好んで水商売の道に入ったのではないと思う。

 一部のエリートオカマ、三輪アキヒロさんやピーターさんは特別である。大部分の性同一性障害者は、不遇であった。

 性同一性障害者でも、安心して生きていける社会になってほしいと思う。仕事先がオカマバーしかないという現状が変わって欲しい。 

マンドリンを弾く乞食

2006-11-21 08:34:29 | Weblog
 私が小さいころには門付けしてお金を要求する乞食がいた。

 ただ単に汚いかっこうで来る乞食が多かった。親は鬱陶しいので10円をやって追い返していた。

 虚無僧という乞食もあった。深編み笠をかぶって尺八を吹いていた。

 托鉢を装った乞食もあった。これは今でも見かける。編み笠と僧衣で鐘をならしながら街に立っているアレである。本物の修行僧は、あんなことはしない。それが昔は門付けしていたのである。

 印象的な乞食で、マンドリンを門付けして弾くお爺さんがいた。なかなかの腕前なので、子供の私には興味津津だった。

 その乞食は年に2回くらい来た。私は楽しく演奏を聴いた。ある時、その人が腰にぶら下げていたリラ(鉄琴)を奏いた。子供の私の耳にはすばらしかった。

 そのお爺さんに、「また来てね」と幼い私は言った。

年末のイルミネーション

2006-11-20 08:34:55 | Weblog
 年末が近づくにつれて、繁華街にイルミネーションが飾られるようになった。大きなデパートのイルミネーションは、規模も大きい。

 だが、私はこれらのイルミネーションに何の感動も覚えない。学芸会の花飾りのようで、電気の無駄遣いのような気がする。

 なぜ美しくないかというと、イルミネーションは人工産物だからである。人工産物でも美しいものはある。いつぞや言ったように、SLやジェット機は美しい。それは、そういう形である機能的な必然性があるからである。イルミネーションには、それがない。

 元来、夜は暗いものである。それが自然である。そこにイルミネーションをきらきらと点けて、どこが面白いのだろうか?

 神戸にルミナリエというのがある。点灯されると大変な人出になるという。

 神戸ルミナリエは美しくない。子供だましのようなものである。そこに人出があるというのが理解できない。世の中、もっと美しいものがいくらでもある。

 私が変わっているのだろうか?それとも、ルミナリエに繰り出す人たちが変わっているのだろうか?

「早めのパブロン」

2006-11-19 09:25:20 | Weblog
 風邪気味だからと風邪薬を求められることがよくある。

 症状を聞くと、なんとなくだるい。熱っぽいといった程度である。風邪薬は基本的に解熱剤であり、咳止めであり、鼻水止めである。

 熱も咳も鼻水もない人に風邪薬は効かない。飲んでも役に立たない。

 それなのに、風邪の前兆のような症状のときに、早くも風邪薬を求める人が多い。

 これは「早めのパブロン」というCMのせいだと思う。風邪薬を早めに飲んでもムダである。風邪薬は対症療法の薬であり、風邪を根本的に治す薬ではない。

 風邪はウイルス疾患である。ウイルスに対する抗体ができるまでは治らない。そして風邪薬はウイルスには効かない。

 だから早めに飲んでも、風邪の防止にはならない。

 なんとなくだるい、熱っぽいという症状は、風邪の前兆とは限らない。疲れたときなどには誰でもそうなる。

 でも、そこで「パブロン」を飲むと、すっきりした気分になる。それはなぜか。

 「パブロン」には無水カフェインが含まれている。その作用によって、すっきりするのである。だから、漠然とした症状のときに風邪薬を飲むのは、コーヒーを飲むのと同じことである。無水カフェインは、いわゆる健康ドリンクにも含まれている。

 「早めのパブロン」というキャッチコピーは、極端に言えば詐欺的である。風邪でもない人が、この薬を飲んですっきりしたと喜んでいる。それで大正製薬はガバガバ儲けている。

 風邪薬は早めに飲む必要はない。熱、咳、鼻水が出てから飲んでも遅くはない。

英語による世界支配

2006-11-18 08:12:16 | Weblog
中東のTV局アルジャジーラが、アラビア語の他に英語による放送を始めたという。そうでないと、世界中に理解してもらえない。

 インターネットは90%以上英語の世界である。今や世界の共通語は英語になってしまった。

 北里柴三郎の時代には、一流の論文はドイツ語で書かれた。私が若い頃も、医学論文はドイツ語が重用された。

 私はカルテをドイツ語で書く最後の世代になってしまった。紹介状などをドイツ語で書くと、若い医者は読めない。だから、日本語か、せいぜい英語で書くようにしている。

 日本精神神経学会の学会誌(日本語)は、昔は「それに載れば一流」と言われていて、私もそれに載って喜んでいたけれども、すでにその学会誌は世界的に見れば三流四流である。

 ドイツ人が学術論文を英語で書くようになった。学術用語としてのドイツ語は過去のものとなった。

 日本人も論文を英語で書くようになった。多くの人が読めない言語で論文を書くのはムダだということのようだ。その分、日本語の学術雑誌への投稿が激減している。

 英米の学者にとって英語は母国語である。だから、他国の学者に比べて英語を書くのは容易である。ここでまた、英米とその他の言語の国々との間に格差ができてしまった。

 くやしいが、ノーベル賞級の研究であっても、日本語で書かれているとノーベル賞はもらえない。最先端の論文が次々と日本語で書かれ、他国の研究者が遅れまいと日本語の勉強を必死になってやるようになることが、私の夢である。

 一時、ロシア語で数学や物理学の優れた論文が書かれた時期があった。その時には、英米の学者が競ってロシア語の勉強をした時代が実際にあったのである。

ベジタリアン

2006-11-17 09:26:58 | Weblog
 ベジタリアンとは肉や魚を食べず、もっぱら植物だけを食べる人である。

 昔、わが国では仏教の影響で、殺生はしないとの動機から、ほとんどの国民がベジタリアンだった。(魚は食べたが、干物でもぜいたく品だった)。

 だが、そのような宗教的背景がない西洋で、なぜベジタリアンになる人がいるのだろうか?動物愛護の精神からだろうか?それとも、健康志向のような考えからだろうか?

 たぶん、動物愛護の考えからのベジタリアンが多いだろう。でも、植物だって生き物である。切られて悲鳴は上げないけれども、植物にも苦痛はあるかもしれない。

 動物は殺してはいけないが、植物なら殺してもよいという考えは、身勝手である。両方とも生き物であることには変わりがない。

 生き物は他の生き物を食べなくては生きていけないという自然の摂理に、ベジタリアンは気づいていなのではないか?

 先般、アメリカで『病としてのベジタリアン』という本が出版された。(まだ日本語には翻訳されていない)。アメリカにもベジタリアンに違和感を覚えている人がいるのだ。

動物愛護団体

2006-11-16 11:51:53 | Weblog
 動物愛護団体の人に知り合いはいない。だから、動物愛護団体がどういう哲学をもっているのかも、よく分からない。

 彼らは肉や魚を食べるのだろうか?ベジタリアンでない限り食べるだろう。

 それなら、ペットを虐待するのはいけないけれども、家畜なら殺してもよいと彼らは考えているのだろうか?

 だとすると、ペットと家畜をどうやって識別するのだろうか?虐待はだめだが、即死させるのならよいと考えているのだろうか?

 野生動物に関してはどうか?イギリスでは伝統の狐狩りを、動物愛護団体が反対しているという。それなら、生け捕りにして動物園かどこかで飼っておくのはよいのか?または、遊びではなく狐を食べるために殺すのならOKなのか?

 動物園は野生動物を狭い檻に入れて、一生そこで過ごさせる施設である。私にはそれは虐待と感じられる。にもかかわらず、動物愛護団体が動物園に反対しているという話は聞いたことがない。

 私が聞いたことがないだけで、動物愛護団体は動物園にも反対しているのだろうか?