院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

世界の美女100名

2012-12-31 03:53:34 | 芸能
 アメリカの映画サイトが毎年、世界の美女100名を選んでいる。

 日本人では、今年は桐谷美玲さん佐々木希さん黒木メイサさんがトップ100に入ったという。佐々木希さんは去年に続いての「入賞」だ。

 確かに3人ともすごい美人だ。でも、アメリカ人に日本人の美人が分かるのだろうか?100名のトップのほうにはハリウッド女優がずらっと並んでいる。でも私にはハリウッド女優はそんなにすごい美人とは思えない。

 民族や時代や文化によって美人の基準が変わる話は、このブログで何回かしてきた。だから、世界中で美人を競ってもあまり意味はない。アメリカの映画サイトが日本人や韓国人や中国人を選ぶのは不思議と言わなくてはならない。(韓国人は日本人より多く選ばれている。東洋にお世辞を使っているのだろうか?) 

AKB48が紅白に出演

2012-12-30 07:20:27 | 芸能
 AKB48は今年の紅白歌合戦まではもたないと、2011-10-10 の記事で予言した。SKE48を初めすべてのアイドルグループは消えていると述べた。

 その予言がすっかり外れてしまった。AKB48は5回目の出場だというし、さらにSKE48まで紅白に出るという。

 おそろしく息の長いアイドルグループだ。アイドルは2,3年したら老けてしまってアイドルではなくなるのだが、AKB48はまだ飛んだり跳ねたりしている。彼女たちは、アイドルとしてはもういい歳だ。お母さんになっても不思議のない歳の娘もいる。

 アイドルの「高齢化」は、世の晩婚化と無縁ではないだろう。街コンというのが流行っているが、応募者が多くて参加に抽選が行われる街コンがあるという。参加者を男女とも30歳以上に区切った場合に、そのような現象が起きるという。

 私が学生のころは「高齢出産」の定義は初産が30歳以上だった。(現在その定義は見直されて、35歳以上になっている。)

天才の種目依存性

2012-12-29 05:02:20 | 文化
 プロの碁打ちはたいてい将棋を指す。プロの将棋指しはやはり碁を打つ。しかも、碁打ちの将棋も、将棋指しの碁も相当に強い。だが、それぞれのプロにはかなわない。碁も将棋も両方ともプロ級という人はいないのだ。

 バイオリニストの五嶋みどりさんは、14歳でバーンスタイン指揮のニューヨークフィルと演奏して、弦が2度も切れたが臆することなく演奏を続けたことは、アメリカの学校の教科書に載っているそうだ。

 五嶋みどりさんは天才の名をほしいままにした。しかし、五嶋さんがピアノを習っていたら、ここまで大成しただろうか?五嶋さんはバイオリンという楽器があったから天才になれたのではないか?

 オリンピック選手もそうだ。背が高いことはバレーボールには有利だが、馬術では不利である。

 ゲームのルール、スポーツのルール、楽器の形状や演奏法。これらすべてに天才がいる。しかし、その天才はそれしかできない。

 たまたま自分に合ったルールや楽器があったから、彼らは天才になったとは言えないだろうか?別のルールや楽器が発明されたら、また別の人が天才になるだろう。

アメリカの夫

2012-12-28 04:19:25 | 生活
 アメリカで数か月間ホームステイしてきた女性が言う。アメリカの夫は5時に仕事を終えると、すぐに帰ってきて当然のように家事を手伝う。日本の亭主も見習うべきだ、と。

 これ、本当だろうか?アメリカの亭主は5時に仕事が終わるのだろうか?そのまま家に帰ってくるのだろうか?宿題とか課題とかはないのだろうか?

 日本の亭主が働きすぎなのだろうか?日本のビジネスマンは毎日競争にさらされている。家事なぞにかまけていたら競争に取り残されてしまう。アメリカの産業構造は、そうしなくてもよいようになっているのだろうか?

 私はアメリカに行ったことがないし、ましてアメリカの家庭生活なんて全く知らない。

 もしかしたら、この女性がホームステイした家庭が特別なのではないのか?あるいは、この家庭の亭主は2流3流なのではないか?

 日本なら5時に終わって帰ってくるビジネスマンなんていない。もし5時に終わるとしたら、それは日本では2流3流の人である。

 アメリカはそうではないのか?謎である。

「風」と「無常」の関係

2012-12-27 06:32:46 | 俳句
    秋風や藪もはたけも不破の関  芭蕉

 上の句を知っている方は、かなりの俳句通である。この句は紀行文「野ざらし紀行」(1684年)に所収されている。俳句界では名句ということになっている。

 不破は岐阜県関ヶ原にあった古い関所で、789年に廃止になった。その後、「不破の関」は枕詞として和歌の世界に残った。

 だから掲出句には「本歌」がある。本歌は以下である。

    人すまぬふはの関屋のいたびさしあれにし後はただ秋の風  藤原良経

 この歌は1201年8月3日の歌合せで詠まれた歌である。歌の意味は、人が住まなくなって不破の関屋も板びさしも荒れてしまった、今は秋風が吹いているだけである、ということだ。

 1205年に新古今和歌集が編まれる前の歌である。

 俳句のほうも和歌のほうも、「秋風」に「無常」を見ている。

 「風」に「無常」を感じる感性は現在でも残っている。はしだのりひことシューベルツというフォークグループが1968年に結成されて、「風」というフォークソングをヒットさせた。「人は誰もただ一人旅に出て・・」と始まり、「・・そこにはただ風が吹いているだけ」と結ばれる。

 この歌の作詞者は北山修さんで、後に精神科医として活躍している人である。北山修さんが、ここで掲出した俳句や和歌を知っていたかどうかは分からないが、少なくとも風が無常を表す言葉として日本人に受け継がれていることを体現している。(この感性が800年も受け継がれているのだ。)

 海外で風が無常を暗示することがあるのかどうか、海外の詩歌に疎い私は、残念ながら知らない。

キャンプ場の自己矛盾

2012-12-26 04:09:31 | レジャー
 キャンプとは何もないところに食料やテントを持ち込んで生活することではないのだろうか?例えばアマゾンの奥地に何かを求めて探検にはいって、文化的なものがなにもないジャングルでサバイバルするのが本来のキャンプではないか?

 私がキャンプに対して持っていたイメージは以上のようなものだった。高校生のころ、従兄と戸隠山に行った。テントと食料と水を持って行った。人っ子一人いない場所でキャンプをした。薪を近くの茂みから調達し、飯盒で飯を炊いた。このキャンプでさえ人里と離れていたわけではなく、いざとなれば里に下りればよいという安全なものだった。

 精神障碍者リハビリ施設で働いていたころ、施設利用者のキャンプが催された。みなで岐阜県のキャンプ場に行った。そこで私はたいへん疑問に思った。

 キャンプ場には水道も便所もあるのだ。飯が炊けるように釜戸もある。料理ができる炊事場があって、そこでカレーなどを作った。こんなに至れり尽くせりの生活がキャンプと言えるのだろうか?それはキャンプのまねごとに過ぎないのではないか?

 そもそもキャンプ場という有料の施設が存在すること自体がおかしい。キャンプとは、何もないから自分たちの力だけで生活するということではなかったのか?水道だの便所だのがあるのは、もうすでに十分文化的な生活で、キャンプとは言いえないのではないか?

 ところがシーズンになるとキャンプ場は大はやりである。みな、何をしにきたのだろうか?不便な生活がそんなに面白いのだろうか?それも中途半端な不便さである。そんなことをするくらいなら、自分ちの庭にテントを張ってはどうか?水は台所から持ってきて、排せつは家のトイレでして、飯だけ庭で炊いて庭に張ったテントで寝ればよいではないか?

書評・滝川一廣著『学校に行く意味・休む意味』

2012-12-25 07:18:11 | 読書
 「学校に行く意味・休む意味」滝川一廣著・日本図書センター・1500円を読んだ。面白くて一気呵成に読んだ。おかげで今日の休日の半分が潰れてしまった。

 滝川は児童精神科医で現在、学習院大学の教授である。滝川の書くものは昔からそうだったが学者臭がしない。この本もそうである。

 本書は不登校を取り扱っている。不登校は一時騒がれたが、今は下火になっている。しかし、不登校の子供が減ったわけではない。

 学校は行くのが当然と思われていたころ、なぜか元気なのに学校へ行けないという一群の子供たちがいた。中学までは義務教育だから、親も教師も学校へ行かせるのに必死になった時代があった。当時は不登校は「病気」とされていた。

 やがて不登校への考察が深まり、ついに文科省が「不登校は病気ではない」と宣言した。それによって、不登校問題は一件終息したかに見えた。それは当然と言えば当然で、学校というシステムが「来なくてもよい」と宣言したのだから、不登校が問題とはならなくなったのだ。

 だが、そこに至るまでは、百家争鳴の議論が行われた。空回りのような議論が多かったと記憶する。根本に「学校は行くものである」という思い込みがあると、空回りは乗り越えられなかった。

 途上国の貧しい子供たちはいちように「学校へ行きたい」という。私はそれを、かなえられない希望は大きいのだな、くらいに思っていた。我が国の不登校は与えられすぎだから、かえって拒否するのだと思った。

 本書では滝川は学校というものが、どのようないきさつで出来たかにまで及んで考察している。滝川は「学校の聖性」ということを昔から言っていたが、本書でも「学校の聖性」が崩壊してきたことに触れている。庶民にとって、学校の権威がなくなって、逆にバッシングの対象にまでなっている現在、そんなところに子供が行きたいと思うだろうか?というのが滝川の主張のひとつである。

 滝川は多くはないが、いじめ問題にも言及している。その際、今年7月に起こったいじめ自殺について、警察の手が学校と教育委員会に入ったことを論じ、そこにマスコミや周囲が学校や教育委員会をいじめている姿を滝川は見た。この観点は私が7月にこの欄に書いた記事と同じである。

 だからというわけではないが、一読をお薦めする。本書は滝川特有のホンモノの議論で満ちており、このブログの愛読者なら巻置くあたわずになることは請け合いである。

新聞の投書欄

2012-12-24 06:02:57 | マスコミ
 新聞の投書欄をもう50年以上も読んでいる。朝日、読売、中日と新聞社は変わったが、一貫して読んできた。(ここ20年は新聞をとっていないので、蕎麦屋で読んでいる。)

 若いころは「そういう考え方もあるのか」と感心させられることもあったが、最近では「また同じことを言っている」と思うようになった。

 曰く「老人を大事にしよう」、曰く「選挙の一票を大切にしよう」、曰く「マナーを守ろう」と、50年前と同じ投書が載っている。

 投書を選ぶ人は50年前と違う人だろう。なのに、掲載されるのは同じ論調ばかりである。新聞社には守るべき伝統があって、それが脈々と受け継がれているのだろうか?

 それから、投書者の年齢が老人か子供ばかりである。これも昔と変わらない。壮年者の投書がきわめて少ない、というより掲載されないのだろう。なんと、中日新聞の金曜日の投書欄は「若い声」と銘打って、毎週子供の投書特集である。

 子供は大人の口マネをするから、投書を選ぶ人もやりやすいのだろう。だが、子供の投書に見るべきものはない。と言うより、気が利いたことを子供が言っても、掲載されないのだろう。

 子供の絵のコンテストで、大人が描くような絵は当選しないのと同じである。将棋で大人を負かす子供がいるように、大人のような絵を描く子供もいるのだ。(例:横尾忠則さんの子供時代の絵。)

初代林家三平

2012-12-23 05:15:01 | 芸能
 幼少のころテレビはまだ家庭にはなく、娯楽は今よりずっと少なかった。町内会でバスの日帰り旅行が行われ、子供はもちろん大人も楽しんだ。児童公園では青空映画会が開かれた。祭りにはよしず張りの舞台が作られ芸人を呼んだ。

 その芸人の中に売れなかったころの林家三平がいた。その後もそうだったが、彼は立ったまま落語(のようなもの)をやった。話の内容は私が幼なすぎて理解できなかった。とくに爆笑を呼んでいた覚えはない。

 林家三平はその直後からテレビで活躍し、瞬く間に人気者になった。テレビの普及と林家三平の出世は並行していた。

 私が落語の意味が分かるようになってから、林家三平をテレビで見たところ、面白くもなんともなかった。落語というより小噺の羅列だった。ネタで覚えているのは、景品のタオルで浴衣を作ったら、胸のあたりが牛乳会社のタオルだった。そこで「乳帰る」(父帰る)なぞと言って笑わせるのだ。こうしたギャグは2回は使えない。

 小噺と小噺の接ぎ穂に「どうもすいません」と言う。「もう大変なんすから」「昨日寝ないで考えてきたんすから」と挟んでは観客の爆笑を誘っていた。「爆笑王」と言われたが、私には大して面白くなかった。観客が笑いすぎだと思った。

 漫談風の噺なら、桂米丸のほうが圧倒的に面白かった。

 林家三平はほんとうは古典落語ができたという話があるが、私は三平の古典落語を一度も聴いたことがない。54歳で亡くなってしまったから「伝説」の噺家になったけれども、今となっては実際の実力は分からない。

SNS依存症は実在するのか?

2012-12-22 06:35:01 | コンピュータ
 ネット依存症という病的な状態があるらしい。常に誰かと繋がっていなければ気がすまず、スマホが発達してきたから、それこそ一日中スマホで誰かとメールのやりとりをしていて、日常生活にも支障をきたすそうだ。

 これはありそうなことである。メールを出すと返事が待ち遠しく、また返事が来たらすぐにその返事を出すのだという。

 一方でSNS(social network system?)への依存症というのがあるというが、本当だろうか?私がやったことがあるSNSは Twitterと Facebook だけだが、どちらもハマってしまうようなものではない。

 Twitter はフォロワーが何万人もいる有名人なら楽しいだろうが、私のような無名の者にはちっとも面白くない。書いても面白くないし、読んでも面白くない。

 有名人は影響力があるから、何かを書いて反応が沢山あれば面白いだろう。しかし、はたでその反応を読むほうは、ちっとも面白くない。なぜ面白くないかというと、素人が書いた記事だからである。素人の反応は99.9%が月並みである。

 NHKは番組でよく Twitter を用いる。そこに寄せられる意見がまた面白くない。NHKは自分が大衆に開かれていることをアピールしたいのだろうが、それはマヤカシである。なぜなら、NHKが寄せられるツイートを検閲しているからである。(でも、検閲しなければ、もっと面白くないツイートをわれわれは読ませられることになる。)

Twitter をあれこれいじってみたが、やっぱりどうしても面白くなくて、私は何年も前に投げ出してしまった。こんなSNSにハマる人がいるのだろうか?

 Facebook のほうがまだ面白い。相手はたいてい知り合いだし、知り合いの知り合いも自分とまったく無縁の人とは言えない。知り合いがどういう交友関係をもっているのか知るのも面白い。かと言って、これもハマるようなものではない。

 SNS依存症というのはほんとうに存在するのだろうか?

「谷底」と「依存」

2012-12-21 04:33:31 | 日本語
 NHKのアナウンサーは「谷底」を「たにぞこ」と濁って読む。「依存」は「いそん」と澄んで読む。

 私は「谷底」は「たにそこ」と澄んで、「依存」は「いぞん」と濁って発音していた。

 しゃべりのプロのアナウンサーや、彼らを擁するNHKが間違えるはずはないと思って、広辞苑を調べてみた。

 広辞苑では「谷底」は「たにそこ」の項目にあり、「たにぞこ」と濁った発音は載っていなかった。

 「依存」は「いそん」と澄んだ項目に載っていて、そこに「いぞんとも発音する」との注意書きがあった。

 広辞苑が絶対に正しいというのではないけれども、「谷底」の発音は私の経験に照らしても、NHKは一般的ではないものを採用していると分かった。

キャッシュカードとマネーカード

2012-12-20 02:13:25 | 技術
 新生銀行のキャッシュカードがスキミング(磁気情報の不正読み取り)が行われ、ビデオカメラで暗証番号を見られて、600万円以上がカンボジアで引き出されたとの報道があった。

 キャッシュカードが始まった当初、カードの磁気情報自体に暗証番号が書かれていて、それによる被害があった。各銀行はすぐに暗証番号をカードから消したが、ずいぶんお粗末だと当時私は思った。

 そのころのパソコンはまだ8ビットマシンだったから、今より1000倍くらい速度が遅かったが、銀行のキャッシュカードシステムのほうは瞬時に反応するので驚いた。しかし、処理速度が速くても、カードに暗証番号が書かれているようでは頭隠して尻隠さずだった。(銀行のATMの速度が速かったのは、パソコンがベーシック言語を使用していたのに対して、銀行のコンピュータはアセンブリ言語を使用していたこともある。)

 キャッシュカードの普及とともにスキミングが始まった。今はもうない「ラジオ技術」とかいう雑誌は、スキミングの技術を掲載して話題になった。

 2013年3月から、鉄道の切符代わりに使われているマネーカードが全国で統一されるという。利用者にはとても便利になる。統一の音頭をとったのは誰だろうか?各種マネーカードには担当役員がいるはずである。彼らの処遇はどうなったのだろうか?コンピュータの企画を統一するよりも、人的面での統一のほうがよほど難しかったに違いない。統一の音頭を取った人は相当なやり手だと思う。

 マネーカードは各駅にある「料金補充機」ですぐにお金を補充することができる。「料金補充機」と同じ装置があれば、無尽蔵にマネーカードを補充することができる。さほど難しい技術だとは思われないから、必ずマネーカードの不正補充が行われるだろう。

 印刷会社はやろうと思えばいつでもニセ札が印刷できるのだそうだ。印刷会社がニセ札を作らないのは、ただモラルのみによっているという。マネーカードは印刷より簡単そうだし、モラルも確立していないから、不正補充が行われるのは時間の問題である。

「おにぎり」か「おむすび」か

2012-12-19 06:05:42 | 日本語
 コンビニでは「おにぎり」を売っている。酒とおにぎりを供する小店は「おにぎり屋」と呼ばれる。「おむすび屋」とは言わない。

 逆に民話の「おむすびころりん」は「おにぎりころりん」とは言わない。三角形を表現するのに、「おむすび型」と言うが、「おにぎり型」とは言わない。

 私は幼少のころ東京に住んでいたが、母親は「おむすび」と言った。「おにぎり」という呼び名に出会ったのは少し長じてからだった。

 関西ではもともと「おにぎり」だったらしい。その呼び名が全国に普及して「おむすび」の勢力は減退してきたと言えるだろう。

 「おむすび」は形が三角形と決まっているが、「おにぎり」は俵型など形を問わないという説もある。

情報産業は日の出の勢い

2012-12-18 00:56:00 | コンピュータ
(1)昔、検索サイトが新聞社に記事を無料で提供せよと要求した。新聞社は商品である記事を無料でとは何事だと断った。ひとり毎日新聞社だけが検索サイトの要望に応じた。しばらくすると世界中で、日本には毎日新聞社しか存在しないことになってしまい、仕方なく他社も追随するようになった。

(2)モバゲーがプロ野球チームを持つようになれるとは思わなかった。ソフトバンクや楽天もプロ野球チームを持っている。昔は鉄道会社のような産業しかプロ野球チームを持てなかった。

(3)このほどグーグルが世界中の書籍を検索できるデータベースを作った。そうしたら、日本ペンクラブが、われわれに無断でデータベース化するとは何事だと怒った。グーグルは、申し出があれば検索できないようにしますと引き下がった。日本ペンクラブは、そういわれてやっと自分たちの申し入れが自己矛盾だと気付いた。日本ペンクラブは最初のうち、書籍は読まれてナンボということに思い至らなかったようだ。

 情報産業のこのような日の出の勢いは、いつまで続くだろうか?上った日は必ず沈むものである。数を頼んだ慇懃無礼なグーグルの態度に反感を覚える。あと20年くらいしたら、別の産業が日の出の勢いになるだろう。

限界集落

2012-12-17 05:39:11 | 社会
 マスコミは限界集落に取り残された老人たちを気の毒がる。本当に彼らは気の毒なのだろうか?

 不便で若者が去ってしまった。残ったのは老人たちだけで、彼らが死に絶えればもうその集落は消滅する。限界集落は再生の見込みがない。時代に取り残された人たちは可哀そうだという。

 残された老人たちはほんとうに弱者なのだろうか?彼ら自身はそう思っているのだろうか?都会のマンション暮らしのほうが、そんなに暮らしやすいのか?

 若者が去ったのは、そのような集落で生きていくスキルがないからである。残された老人たちは、不便でも生きていく力がある。電気ガスが途絶えても釜戸で飯が炊ける。薪で暖をとる方法を知っている。

 肉が食べたければ、放し飼いの鶏をツブして、内臓まで食べる方法を知っている。小さな庭を耕して作物を作れる。野草の中から食べられる山菜が区別できる。鎌倉時代の平家の落ち武者たちは、そのようにして生きてきたのだ。

 集落を去った人たちは、そのようにたくましく生きていくだけの能力がないから去ったのである。限界集落に残った老人たちの生活力を甘く見てはいけない。