院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

競輪場の医者

2013-05-31 00:07:58 | 社会
 競輪場の医者のアルバイトをやったことがある。選手たちの健康診断や転倒事故が起こった時の応急手当てをする係だ。精神科医といえども、そのくらいのことはできる。

 そのような医者を確保しないと競輪が開けないと法律で決まっている。だから、競輪場に医者は必須なのだ。

 事故が起こらない限り、競輪場の医者はまったくヒマである。仕方がないから競輪の様子をテレビで見たりしていた。競輪場の医者は、競技が終わるまで外部のとの通信を遮断される。選手の健康状態を知っているからである。

 競輪場の人に面白いことを教わった。選手の出身地に着目せよというのだ。選手は力の限りを尽くして疾走するのだが、同郷の選手がいる場合、自分が勝てないと同郷の選手に有利になるように走るだのという。こんなところにも同郷意識があるのかと思った。

 一日缶詰になったが、レース場へは出ることができ、ナマでレースを観戦できた。私はギャンブルをやらないと前に言ったが、競輪は見るのも初めてだった。医者は外と通信してはいけないのと同じ理由で、車券を買うことはできなかった。仕方がないから、選手の出身地などを見ながら当てずっぽうに張ってみた。結果はすべて外れだった。

 競輪場でアルバイトをして驚いたことは、なんと60歳代の選手のレースというのがあるのだ。むろん、タイムは若いレーサーには及ばない。だが、老境にはいっても、同じ条件なら賭けは成立する。競馬なら老いた馬のレースはありえない。人間による競輪なら成立するのはなぜだろうか?質問し損ねた。

 ここで述べた競輪場とは豊橋競輪場である。名古屋では名古屋競馬が5年連続の赤字で、廃止が検討されているという。豊橋競輪も赤字なので数年前に廃止されそうになったが、なんとかもちこたえた。私と同年代以下の人で、競輪競馬が趣味という人は知り合いはいない。

 競輪競馬の若いファンが育っていないことは、寿司屋のカウンターに若い人を見かけないのと同じだ。ファンが老いさらばえるのと一緒に競輪競馬も、そしてカウンターの寿司屋も滅んでいくだろう。

人気の謎・パンダとトキ

2013-05-30 05:09:42 | 環境
 動物園におけるパンダの人気は周知のとおりである。上野動物園を初め、パンダがいる動物園は人気が高く、それにちなんで「人寄せパンダ」なる新造語ができたほどである。

 日中国交正常化(1972年)の象徴として、一つがいのパンダが中国から贈られてから、パンダ人気に火がついた。日中双方とも相手国への訪問が激増した。中国の使団節が頻繁に日本を訪れた。私がいた大学病院にも中国の使節団が見学に来た。

 日本からも中国へ行く人たちが激増した。個人の中国旅行が大流行となった。日本からの訪問者は「熱烈歓迎」された。現在の日中間の関係の冷え込みから見ると、隔世の感がある。

 パンダ人気が沸騰したのは、黒柳徹子さんがあらかじめパンダを日本に紹介していたからだという説があるが、それはどうだろうか?黒柳さんが紹介する前、すなわち私の高校生時代に、東京にはすでに「パンダパン」という製パン会社があって、その会社のロゴマークはパンダの顔だった。

 こうした歴史はあったにせよ、30年以上たった現在、未だにパンダの人気が衰えない理由が、私には分からない。外国人の知人も、日本ではパンダばかりがなぜもてるのかと不思議がっていた。

 希少動物の輸出入がワシントン条約で禁止されてからは、中国からのパンダは贈与ではなく貸与になった。そのレンタル料が年5000万円である。すでにパンダは友好の証しではなく商売になっている。(中国政府自身が儲けているのかどうか分からないが、誰かがパンダをビジネスに使っているはずである。)

 一方、佐渡のトキだが、佐渡トキ保護センターなるものを(人件費も含めればたぶん何億円もかけて)造り、最後の一つがいをに交配させようと血道をあげていた理由が分からない。その試みはけっきょく失敗したが、鳥の専門家にはそれらのトキがすでに交配不能の老鳥であることは分かっていたはずだ。

 佐渡トキ保護センターの「努力」が失敗に終わってから、1999年、江沢民によって中国産のトキのつがいが日本に贈られた。トキは中国でも激減していたから、日本はありがたがった。私は中国のトキと日本のトキは、別物なのではないかと当時思い、別の品種を贈られても意味ないじゃないかと考えた。その後、ミトコンドリアDNAの検査から、遺伝的には同等だと証明されたという。(しかしながら、このデータがねつ造でないとは、まだ言い切れない。)

 現在では、それらの二世が孵化して、野生に返す試みが行われている。ここでもまた、どうしてそこまで税金をつぎ込むのだろうか?と疑問に思う。中国からの善意で貰った生物だから、外交的におろそかにできないと言うのだろうか?

ナショナリズムと郷土愛の源泉

2013-05-29 00:13:49 | 社会
 各地に県人会というものがある。同県出身者どうし親睦を温めている。高校野球のファンもそうだが、試合中は地元の応援に必死になる。それがオリンピックの代表となると、県を超えてみなが日本出身者を応援するようになる。どうも人口の規模によってナショナリズムや郷土愛のあり方が違ってくるようだ。

 石川啄木の「ふるさとの訛り懐かし停車場の人ごみの中にそを聞きにゆく」という短歌からも分かるように、方言は郷土愛を刺激する。同じ方言を話す人には親密感を感じる。日本語もそうだ。日本人なんかいるはずがないと思っていた外国で、日本語が聞こえると急に安心する。

 シオランという人が「国家とは国語である」という箴言を残している。「郷土とは方言である」という言葉も成立しそうである。人間集団は大は国から小は村まで、すべて言語でまとまっている。ここでいう言語とは自然言語のことである。

 言語の違いが戦いを生むと考えたザメンホフは、エスペラント語を共通言語にして世界平和を達成しようとしたが、成功したとは言えない。ザメンホフの理想を実現させるためには、赤ん坊の時からエスペラント語で育って、エスペラント語が母語にならなくてはならない。

 母語は育ちや来歴と不可分である。育ちや来歴が共通した範囲内でしか、私たちはナショナリズムや郷土愛をもちえない。言い換えれば、私たちは言語が通じる狭い通用範囲でしかホンネの関係を築けない。(逆に、たとえば異国との国際親善はタテマエでしか実現できない。)

 この「通用範囲」とは、生き生きとした体験がナマで共有できる範囲でなくてはならず、テレビ電話などのコミュニケーション技術がいくら発達しても、この範囲を広げることはできない。

 飛躍するようだが、宇宙人が攻めてきたら地球人は、SF映画のように各国が協力することは原理的に不可能だろう。世界は個々人が言語や体験を共有できる範囲よりずっと広いからである。(この現象は、先日この欄で述べた「リアルに会わなければ真のコミュニケーションはできない」という主張と、実は同じことである。)

野球もサッカーも見ない人々

2013-05-28 00:07:14 | スポーツ
 「今日の巨人はよかったですね」とタクシーの運転手に話しかけられて困ることがある。私は野球のことを知らない。プロ野球どころか高校野球も見ない。

 ひとつにはルールが分からないからだ。もうひとつは応援しているチームがないからである。どこも応援していないゲームを見るのは、息子が通っているわけでもない小学校の運動会を見ているようで、面白くない。ルールは少しだけは知っている。昔勤めていた精神障害者リハビリ施設で、利用者とよくソフトボールをやったからだ。

 利用者の中に、おそろしく野球のルールに詳しい人がいた。私がそうとうに極端な例を出して、このケースはどのように処理されるかと訪ねても、たちどころに答えてしまう。「打者が打ったボールが打者の後ろポケットに入ってしまい、誰も気づかないまま打者が一塁まで走ったら、どのように審判されるか?」といった質問だ。正解は忘れた。

 ファウルは最初はストライク扱いになるが、2ストライクになったあとはストライクに数えないのは何故だろうか?ルールに例外が多く、覚えにくいのである。

 このほどJリーグは20周年を迎えたが、私は野球と同じ理由でサッカーも見ない。オフサイドのなんたるかを知らない。Jリーグが始まったころ、観客のラッパの応援がやかましかったが、いまはない。禁止されたのだろうか?その程度の知識である。

 プロ野球にしてもサッカーにしても高校野球にしても、地元のチームを応援する傾向があるようだ。オリンピックの場合、私は日本を応援する。ナショナリズムと言って大げさなら、郷土愛とでも言おうか?

 1978年、浜松商業高校が甲子園で優勝したとき、私は浜松に住んでいた。浜松商業高校は野球の名門校でもなんでもなかった。生徒も全員地元の子だった。だからか、浜松市民は尋常でないほどに熱狂した。浜商ナインの凱旋を迎えに多くの浜松市民が駅前に繰り出した。その数40万。浜松市の人口と同じだった。

 私は「いったいこれは、何なんだ」と思った。同時に地方都市の強烈な郷土愛を目の当たりにした。

 今回は、ナショナリズムや郷土愛について論じようとしてスポーツを例に出したが、考察はまた明日にしたい。毎日書いていると、たまには息切れすることもあるのです。
 

三浦雄一郎さんのエベレスト登頂

2013-05-27 00:26:24 | スポーツ
 プロスキーヤーの三浦雄一郎さんが80歳でエベレスト登頂に成功した。この報を聞いてまず私が思ったのは、三浦さんのすごさよりも、日本は豊かだなぁといういうことだった。

 思えば三浦さんは私が中学生のときからプロスキーヤーだった。私が当時凝っていた写真雑誌に三浦さんの雄姿が載っていた。全日本選手権やオリンピックに出場することもなく、プロスキーヤーなんて名乗って商売になるのだろうかと思った。(後で、もめごとにより三浦さんはアマチュア資格を永久に取り消されていたと知った。)

 その少し前の、私が小学生の時、日本の登山隊がマナスルの初登頂に成功した。日本中が歓喜して、記念切手まで発行された。日本が高度成長時代を迎え、世界の一等国へ躍り出ようとする、まさにその前夜だった。マナスル登山隊の目的は、マナスルを征服することだけだった。

 戦後にスポーツ登山が始まるまでは、登山には必ず目的があった。それは戦争の行軍だったり、地図製作のための測量だったり、信仰上の理由だったりした。登山それ自体が目的の登山は、随分あとから生まれたものである。

 マナスルの次に印象深いのが、1982年の日本隊によるK2登頂だった。このときの登山の様子は記録映画に編集され、日本IBMがスポンサーになってテレビ放送された。そのとき日本IBMは最初と最後にちょろっと顔を出すだけで、2時間の番組中にはまったくCMがなかった。それがかえって日本IBMを目立たせることになった。

 三浦さんのエベレスト登山にも、パナソニックやサントリーがスポンサーとして付いていた。それはらは宣伝を目的とはせず、松下幸之助やサントリーの佐治敬三と三浦さんの古くからの縁によるものかもしれない。

 有名な登山家は、ほとんどヨーロッパから輩出している。アジアでは日本と韓国だけである。このような現状からみても、登山のような一見なんの実質的利益がない行為が可能なのは、先進国であることの証しである。

 三浦さんは、同年代の人々を勇気づけるためにエベレストに登ったと言っていた。この感覚は必ずしもきれいごととは言えない。登頂は物質的にはなんの得にもならない。80歳の三浦さんがエベレストに登頂したからと言って、同年代の人の腹が膨れるわけではない。しかし、精神的には潤されるはずである。

 このように腹が膨れない事柄に価値を置くことは、十分な物質的ゆとりがないとできない。だから私は、日本は豊かだなぁと思ったのである。

厚生年金と共済年金

2013-05-26 00:45:46 | 経済
 昔、フランスのトラック運転手の組合がストを打ったことがあった。定年が50歳から55歳に延長されることに反対したのだ。トラック運転手たちは50歳で引退して、あとは悠々自適に暮らすことを望んでいた。そこに定年延長と来たから怒った。

 日本の勤労者は逆に定年延長を望んでいる。定年後の生活保障が十分ではないからだ。それでも定年制自体には反対していない。定年制があるのは先進国では少数派だ。少なくともアメリカには定年制がない。

 日本で定年制がまかりとおっているのは、歴史的に役人(公務員)には恩給というものがあって、優遇されていたからではないか?恩給は年金と違って、退職後も給料が出るような仕組みである。役人は定年退職しても左うちわだった。

 現在、恩給はなくなったが、それを引き継いだのが共済年金である。共済年金は厚生年金に比べてかなり有利である。

 日本中にグリーンピアという豪華な保養所がたくさん建てられたことがあった。年金生活者のレジャー用という名目だった。しかし、役人が作ったレジャー施設なぞ儲かるはずもなかった。つぎつぎに経営危機に見舞われて、二束三文で民間に払い下げられたが、それでも買い手がつかない施設もあった。

 役人がグリーンピアを建てた資金は厚生年金基金から出された。分かりにくいだろうから説明すると、役人が加入しているのは共済年金であって、厚生年金ではない。だから厚生年金が潰れようがなんだろうが役人には痛くも痒くもない。グリーンピアはその厚生年金基金によって作られ、役人は自ら加入する共済年金からは一文も出させなかった。厚生年金危機の原因の一端はここにある。これは国民の多くが知らないことである。

 役人が自らの利益のために守った共済年金を、私はもうじき貰うことになる。私の「公務員医者」としてのキャリアが長かったからである。私は共済年金が有利だと知っていて「公務員医者」をやっていたのではない。偶然にそうなっただけだと弁明しておきたい。

 (昔、医者の人事権は教授にあった。臨床研修医制度ができてからは教授は人事権を失った。臨床研修医制度を作って、教授から人事権をはく奪したのは役人であるが、それについてはまた別の機会に。)

 (国民年金は厚生年金よりもさらに不利で、気の毒なほどである。多くの人が言っているが、国民年金は破たんするだろう。掛け金を支払うより貯蓄した方が安全だからである。)

喫茶店とカフェ

2013-05-25 04:24:51 | 生活
 喫茶店のことをカフェと呼ぶようになった。しかし、両者は同じものではない。

 飲食店の中で喫茶店が占める割合が、一番多いのは名古屋だそうだ。長年、名古屋に住んだが、確かに東京よりも名古屋のほうに喫茶店が多い印象がある。

 喫茶店が大都市に多いのは、喫茶店が応接間代わりに使用されるからだ。喫茶店で商談や交渉事が行われることも多かった。勉強をしている学生もいた。つまり、コーヒーの値段は場所代だったのである。コーヒー一杯で、いつまでもねばっても追い出されることはなかった。

 ところがカフェは違う。カフェはあくまでもコーヒーを飲むところで、応接間代わりには使えない。椅子も深く腰掛けられるものではなく、ちょこん乗るだけの椅子が多い。人の出入りが激しく回転が速くて、おちついて勉強なぞできないようになっている。

 市民の住宅事情がよくなって、応接間代わりの喫茶店を必要としなくなったのだろうか?喫茶店がもっとも流行した昭和40年代よりは、住宅事情はよくなっただろう。だが、現在ではマンションが多くなり、その割に応接間がついたマンションというのはきわめて少ない。

 みんな商談や交渉事をどこでやるようになったのだろうか?私の場合、不動産の取引は不動産屋の事務所で行った。街の小さな不動産屋がなくなって、チェーンの大きな不動産屋に置き換わった。チェーンの不動産屋は事務所に応接室をもっていた。

 喫茶店で商談を行うような小規模な事業者が激減して、みなチェーン店に置き換わった。そのため、喫茶店も淘汰されて、カフェが繁盛するようになったのではあるまいか?

 現在でも名古屋は喫茶店が多いのだろうか?名古屋を離れて20年になるので、詳しいことは分からない。

橋下発言に対する批判を分類してみる

2013-05-24 00:54:37 | マスコミ
 橋下大阪市長の「(当時の時代背景では)慰安婦は必要だった」、「日本軍だけではなく、外国の軍隊にも慰安婦はいた」という発言が、マスコミから袋叩きにあっている。普段は右寄りの週刊誌までもが橋下発言を批判している。

 どういう論理で橋下発言を批判しているか、大きく3通りに分けられると私は思う。

(1)(橋下発言は)女性の人権を踏みにじるものだ。

 この意見は福島瑞穂・社会民主党代表にみられるような特徴的な見解で、多くの女性国会議員もこの意見に同調している。しかし当時、殺し合いに行かされ、殺されるかもしれない兵士(男性)の人権も踏みにじられていたのではないか?

(2)(橋下発言の内容は否定しないが)なぜ今この時期に発言したのか分からない。

 元鳥取県知事の片山さん(この人の意見は的確で、私はいつも傾聴している)は、橋下発言を「自爆テロだ」と評した。法務大臣の谷垣さんも、今の時期に言うべきことなのか?と批判したが、内容に対しての論評は行わなかった。

(3)政治や外交はタテマエで行うもので、橋下さんのようにホンネを言ってしまっては駄目だ。

 私にとってこの意見が一番説得的である。福祉活動は徹頭徹尾、タテマエで行わなくてはならないのと同様、政治や外交にもタテマエが重要なのだ。(福祉活動におけるタテマエの重要性は、以前に述べた。)

スタンダードとは何か?

2013-05-23 00:19:58 | 芸能
 ポップスでスタンダードナンバーというと、「枯葉」、「虹の彼方に」、「煙が目にしみる」などが挙げられる。今日でも新しい楽曲でよいものが生まれれば、それがスタンダードナンバーになるはずだと言われていたが、そのような楽曲は出てこない。

 ということは、あるジャンルが完成してしまうと、もうそれ以上の作品は出てこないのではないか?

 モダンジャズでもそうだ。現在でも演奏されるのはもっぱら60年代のサウンドで、当時最新といわれた70年代のサウンドは残っていない。マイルス・デビスで言えば、「マイルススマイルズ」までで、後のLP「ビッチズブリュー」は当時は騒がれたが、もう顧みられない。

 落語も古典落語と新作落語の間には大きな溝がある。新作落語は何年たっても古典落語にはなりえない。明治大正昭和の新作落語は残っていない。

 クラシック音楽は、今でも盛んに演奏されるのは、モーツァルト、ベートーベンといったドイツロマン派までで、それ以降の音楽を聴く人は物好きの部類である。

 能なぞはもっと徹底している。例えば能面だが、新しい能面というのはありえない。なぜなら、面打ちの職人は、過去の面と寸分たがわずに作るのが腕の見せ所だから。

 歌舞伎もそうだ。歌舞伎十八番にとどめを刺す。スーパー歌舞伎なんてキワモノだ。三代目猿之助が宝塚みたいな衣装で演じても、絶対に残らない。

 映画も漫画も、もう伸びしろが少ない。

 新しくて素晴らしい作品を期待するなら、ジャンルそのものが新しくなくてはならないようだ。

面白かった「そっくりショー」

2013-05-22 00:03:29 | 芸能
 私が高校生くらいのころ、テレビで「そっくりショー」という番組があった。大変な高視聴率で、最高で50%近くにまで行ったのではないか。

 有名タレントに顔がどのくらい似ているかを、一般応募者が競った。世の中には本当に似ている人がいるもので、あまりにそっくりな応募者がいるので爆笑した。テレビでしか実現できない番組だった。

 だが、思うに一卵性双生児のように、まったく同じだったらこれほど面白くはなかっただろう。いくら似ていても、やはり違うから面白いのだ。写実的な肖像画よりも似顔絵漫画のほうが面白いのと同じことである。

 現在でも「そっくりさん」は活躍していて、CMなどに松田聖子さんのそっくりさんや、オバマ大統領のそっくりさんが出る。これらのそっくりさんも、本人とまったく同じではないから面白いのだ。

 「そっくりショー」で司会をしていた小野栄一さんは、その後そっくりさんだけを集めて芸能プロダクションを作ったが、失敗した。そっくりさんばかりが集まっても、うら寂しい感じがするだけで、なんの活躍もできなかった。

 やはりオリジナルがあってのそっくりさんで、そっくりさんだけでは何もできないということを、その芸能プロダクションは世に示した。小野栄一さんは83歳で今でも健在だそうである。

血液による胎児の染色体異常検査

2013-05-21 00:04:38 | 医療
 母親の血液による胎児の染色体異常検査が話題になっている。

 染色体異常の早期発見は胎児に染色体異常があった場合、堕胎することを前提に行われる。検査はしましたわ、堕胎はしたくないわでは、最初から何のために染色体異常の検査をしたのか分からない。

 ところがこの検査は、「染色体異常児にも生まれてくる権利はあるはずだ」とか「(内視鏡で)手足も見え、心音が聞こえる胎児を堕胎するのは母性が耐えられない」といった情緒的な文脈で、問題視されている。国民的に議論しなくてはならないとマスコミは言う。

 母親の血液による胎児の染色体検査は1999年には確率していた。この検査を普及させようという医療側の声もあった。しかし、なぜか立ち消えになった。

 そこで最近では、染色体異常児をもつ親たちから「1999年には検査ができたのに、なぜ医療側は教えてくれなかったのか」と医療側の不作為を告発する動きが起こっている。この事実をマスコミは報道しない。

 国民的な議論は行ってもよいが、フランスの現状を見れば、結論はほとんど決まっていると考えてよいのではないか?それが正しいかどうかは別にして。

原子力規制員会が調査データを公表しないのはなぜか?

2013-05-20 03:03:00 | 科学
 原子力規制委員会(以後、規制側と呼ぶ)、敦賀第2原発の地下に活断層があるとして、再稼働に反対の姿勢を示した。それに対して日本原電(以後、再稼働側と呼ぶ)は、「初めに結論ありき」だと猛反発している。

 私は職業柄、科学的に考えるように一応訓練されている。そのような者から見ると、規制側がいっさいの調査結果を公表しないまま、再稼働反対の態度を示すのは科学的でない上にアンフェアである。だから、再稼働側の言い分を理解できる。

 では、調査結果を公表したらどうなるだろうか?たぶん、同じデータに対して、活断層であるという解釈と、活断層ではないという解釈が共に可能になるはずである。科学的なデータの解釈が正反対になることは、じつはよくあるのだ。

 規制側は水掛け論になるからデータを公表しなかったのだろう。だとしたら、「初めに結論ありき」と反発する再稼働側の主張が、まったく正しいことになる。

 規制側はいったい誰の意見を代弁しているのだろうか?再稼働側が電力会社の代弁をしていることは明らかだが、規制側が誰の意向に沿っているのかが、いまひとつ分からない。

 科学的な考察が、世論や政治に左右されることは、いま始まったことではないけれども。

家族の顔が分からなくなったことは、認知症の悪化を意味するわけではない?

2013-05-19 00:07:58 | 医療
 認知症が進むと、家族の顔さえ分からなくなることがある。この症状をもって認知症が極度に悪化したことの指標にする向きがあるが、実は違うのではないか?

 人間は何千何万という顔を識別することができる。しかしながら、何千何万という体型を識別することはできない。これは顔に情報が多く、体型に情報が少ないからではない。。

 そうではなくて、人間は他人の顔に特別に鋭敏なのだ。顔を識別する中枢は、脳の紡錘状回、上側頭溝、扁桃体あたりにあるらしい。銃創などで、ここを特異的に破壊されると、他人の顔の識別ができなくなり、親しい人の顔も分からなくなる。それでいて、他の認知機能は侵されない。これを相貌失認という。

 認知症でアミロイド蛋白が、上記の場所に特異的に貯まれば、相貌失認を起こすはずである。だから、家族の顔が分からなくなることをもってして、認知症の重症度を測ることはできない。

 ただし、以上は私が勝手に推測したものであり、広く学界で承認された見解ではないことをお断りしておく。

点心の有名店・ディンダイフォン(鼎泰豊)体験記

2013-05-18 00:19:28 | 食べ物
 日本の各地にディンダイフォン(鼎泰豊)という点心の店がある。その本店が台北にあるというので、今回の台湾旅行のときに行ってみた。

 店の前にすごい行列ができているので驚いた。待つこと20分でマイクで呼び出された。呼び出しの声の半分は中国名、半分は日本名だった。中国名のうち、どれが台湾人で、どれが大陸人かは分からなかった。

 行列を作っているうちから注文書きに書き入れて、店に入るとすぐに品物が出てくる仕組みだ。ショウロンポウとニクマンとワンタンとチャーハンを頼んだ。

 名物のショウロンポウは、どんどん作っているようで、注文が入るなり品物が出せるようになっている。このショウロンポウはおいしかった。値段は日本のディンダイフォンで食べる品の半分以下の感じ。

 ニクマンは野菜入りと肉入りを注文した。野菜入りには野菜だけが入っており、肉入りは肉だけだった。なんだか、あっさりしすぎていて、もの足りなかった。大阪の豚マンのほうが、肉と野菜の両方が入っており味も複雑でおいしいと思った。

 ワンタンには残念ながら、私が苦手な香りが目いっぱい付けられていた。詳しい人に聞いたら、この香りは八角だという。日本人が苦手な香りだそうだ。八角が入っていると、どんな料理もすべて同じような味になってしまう。

 チャーハンは、日本の中華料理店のほうがおいしいと思った。飯がやや柔らかい。だから、サラサラバラバラになっていない。

 値段を無視すれば、神戸元町の点心専門店のほうがうまいと思った。元町のほうは日本人の好みを知り尽くしているからだろうか?店の調度や料理の色合いにも配慮が施されていたが、台北のディンダイフォンには、そのような心づくしがなかった。

 台北の店のテーブルや椅子は、日本の昔の学食のような機能オンリーな造りだった。とにかく、列をなして待っている客を店に入れて、芸がないテーブルとイスに付かせ、待たせずに料理を与えて追い出すという感じだった。回転優先なのである。

 ゆっくりと食事を楽しむという雰囲気ではなかった。勘定の時にクレジットカードが使えなかった。早く現金化したい、クレジットカード会社に手数料を取られるのはまっぴらだという感じが見え見えだった。

 あ~ぁ、日本に勝てる料理店なんてないな、とつくづく思った。

「消費税還元セール」という表現禁止?

2013-05-17 05:04:01 | マスコミ
 橋下さんの「慰安婦は必要だった」論をマスコミはこぞって批判している。テレビはキャスターはもちろん、ゲストにも批判的な人しか呼ばない。中日新聞しか知らないが、社説のトップは橋下批判だった。

 マスコミが言論の自由、表現の自由を標榜するなら、他にもっと早急に批判すべき事柄があるだろう。それは「消費税還元セール」のたぐいの広告の禁止だ。「消費税還元セール」という表現は、公序良俗に反しないと思う。そのような表現が法律で禁止されようとしている。

 テレビも新聞も、ちっともこれを批判しない。マスコミはなぜ批判を避けているのだろうか?どこか不自然なほどである。

 スーパーマーケットが表現の自由を持ち出さないのは、原理原則で争っても商売に結び付かないからである。スーパーマーケットは「大人」なのだ。

 こうした表現の禁止を許すと、こんどは中国のように、政府批判の表現が許されなくなるかも知れませんぞ。すでに、政府の方針である消費税増税にキズを付けるのは、いかんと言っているわけだから。