院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

温泉流行の原因

2018-01-24 21:28:33 | 生活

(城崎温泉。温泉部より引用。)

 温泉が人気があるのは効能があるからではない。

 江戸時代以前、国民はほとんどが農民だった。彼らも風呂に入った。ただ水を汲み薪をくべるのは大変で、同じ風呂に何所帯も入ったから、最後は風呂はドロドロになった。

 そこで温泉の出番である。水汲みや薪をくべる労力が要らない。こうして温泉は栄えたのだと思う。

 ※今日の俳句
   気が付けば病院に居し春霞
   ひとし(豊橋市)

 ※富田達夫くん
   僕の郵便がとどいていたら簡単でよいから返事をください

昭和30年台の食事

2018-01-03 16:38:10 | 生活

(昭和30年台の学校給食、武蔵野市給食・食育振興財団より引用。)

 私たちの学校給食は、上の写真で食パンの部分がコッペパンだった。さらにクジラの竜田揚げついていた。特別おいしいとは思わなかったが、まずくもなかった。クジラの竜田揚げにかぶりついたことを覚えている。牛乳は脱脂粉乳で、これはまずかった。

 そもそも自宅の食事が大したことはなかった。そのころ近所の肉屋がハムカツやポテトフライを売るようになった。ハムカツは薄いハムを揚げただけだ。そこにウスターソースをたっぷりかけて食べる。ソースがちょっとしたご馳走だった。

 ハムカツより玉子のほうがずっと高価だった。母親が作る弁当はいつも海苔弁。ご飯に鰹節と醤油をかけて、その上に海苔を置く。おかずは玉子焼きだけ。さすがに飽きた。

 コロッケは5円で肉屋で売っていた。肉は入っていない。ジャガイモの皮が肉に見えた。杉浦茂の猿飛佐助のマンガに「コロッケ5円の助」というキャラが出てきて大いに笑った。

 肉は豚肉も牛肉もおそろしく贅沢だった。薄いとんかつを肉屋で売っていたが、ハムカツしか食べられないことが多かった。

 ※今日の俳句(新年)
   三日はやラーメンを煮る長き箸
   じゅん(船橋市)

日常から縁起担ぎ消えてゆく

2017-12-24 00:00:22 | 生活

(大熊手。ウィキペディアより引用。)

 東京、浅草でも酉の市が盛んである。あの大熊手を誰が買うのだろうか?

 幼いころ友人宅で見たことがある。一本で数万円もするらしい。でも、それは50年以上前の話である。

 今、買うのは誰だろうか?熊手を作って3代という家があるのだから、商売にはなっているのだろう。

 でも、日本では縁起を担がなくなって久しい。日常的に縁起を担ぐのはおせち料理くらいだろうか?(黒豆が「まめに生きられるように」との洒落だったり)。おせち料理もなくなりつつあるが。

 ※今日の俳句(冬)
   白菜と白たき炊いて夕餉なる
   ひとし(豊橋)

学生時代の食事

2017-12-15 14:25:38 | 生活

(焼きそば三郎の大盛り焼きそば。記事とは関係ありません。ロケットニュースより引用。)

 名古屋の大学に入って驚いた。外食がまずいのである。

 名古屋の飯がまずいのか、おいしい外食にありつくだけの金がなかったのかは分らない。

 学生相手の食堂がいくつもあった。学生運動が盛んだった時代で、乱雑なタテ看にかこまれて、焼きそばを食べた。それが油っ濃くてまずいのだ。油をおかずにして米を食べている猛者もいた。

 ラーメンライスというのがあった。ラーメンとご飯を同時に注文して、まず汁でご飯を食べて、そのあとにラーメンを食べるのだ。食が細い私には、とてもマネできなかった。

 学食はあった。今のようなオープンカフェのような洒落た学食ではなく、学生のエサ場といった感じで、そこの親父はいつも学生をカタキのように睨んでいた。

 出される食事は当然まずい。まず米の質が悪い。おかずは例えばレバーのソテーだったら肝硬変のようなレバーが出された。値段も安い。1セット100円くらいだったか。

 だが学食だけが、まずかったわけではない。実習で出向いた県立病院の食堂も似たようなものだった。

 演奏のアルバイトで呼ばれた伊豆の3流ホテルの食事もひどかった。木造の宿舎に1週間、滞在した。24時間営業だから常におにぎりが置いてあった。ただし、おかずは梅干しとタクアンだけ。救いはポテトサラダが付いていたことくらい。汁モノはなし。一見、華やかな世界の裏方の苦労を垣間見た。

 ある日、友人の下宿に泊まった。友人は朝食にご飯を炊いた。熱々のご飯にイカの塩辛を乗せて食べたときの美味しかったこと。自分で作ればこんなにおいしい食事が安く食べられると思い知った。

 ※今日の俳句(冬)
   冬日燦パンとチーズの朝餉かな
   ひとし(豊橋市)

幼き日のキャロライン・ケネディ

2017-12-15 00:40:03 | 生活

(キャロライン・ケネディの幼少期。ウィキペディアより引用。)

 12歳で逝った妹の愛読書に「少女フレンド」があった。この本にはマンガ以外に写真のページがあった。

 そのページにアメリカ大統領ケネディ一家の写真が載っていた。少女向け雑誌だから、幼いキャロライン・ケネディが中心に写っていた。蝶よ花よと育てられている印象だった。

 わが国でも高度経済成長が始まっていたけれども、車をもった家はすくなく、家庭に冷蔵庫もなかった。だから日本人の子どもはテレビでアメリカ製のドラマ「パパはなんでも知っている」や「名犬ラッシー」を見て、向こうの生活に憧れていた。

 日本の家庭に車や冷蔵庫がはいってくるには、あと数年の時間が必要だった。

 ※今日の俳句(冬)
    雪やんで浜辺の村の静かなる
    ひとし(豊橋市)

私にとって無用の宅配便ボックス

2017-11-07 15:43:45 | 生活

(宅配便のきつい作業。日経電子版より引用。)

 玄関の外に宅配便ボックスを取り付ける家が増えている。まず、宅配便配達人のために再配達を減らす思いやりが一つの目的。もう一つは一刻も早く荷物を手に入れるためだ。

 しかしながら、私にとって宅配便の一番のメリットは、荷物をトラックから玄関の上がりかまちまで運んでくれることである。スーパーで買い物をしていた時代には、それを自分でやらなくてはならなかった。

 たとえ玄関の外に宅配便ボックスを設けても、上がりかまちまで運ぶ労力はスーパー時代と変わらない。腰痛があったり荷物が重い時にはたったそれだけの運搬でさえきついから、上がりかまちまで、というサービスはありがたいのだ。

 この捨てがたい長所を、あまり言う人がいないので言ってみた。

 ※今日の短歌
   アイスキューブを乗せれば味のひきしまる素麺文化を持てる幸せ
   藤掛宏子(愛知県)

蔵があるお宅

2017-09-11 10:51:31 | 生活
 お金が儲かることを俗に「蔵が建つ」という。私が居住する地域には蔵をもっている家がけっこうある。(米蔵とか酒蔵のような特定の用途に使用するのではなく、燃えては困るお宝を収蔵するための蔵だ)。


(平福の土蔵群。ウィキペディアより引用)。

 上の平福の蔵町には商品がしまってある。きょう話したいのは、そういう蔵ではなく、大事なものを入れておく個人の蔵についてである。

 下の写真は拙宅の向かいの家。右側に蔵がある。手前の流れは川ではなくて農業用水路だ。この家も元来農家で、おじいさんがビニールハウスでせっせと仕事をしている。息子さんの仕事は知らないが、もう農業ではないだろう。

 この蔵はいつからあるのだろうか?新しく蔵を建てる人は少ないから、むかしからあるのだろう。何がはいっているのだろうか?


(向かいの家の蔵。筆者撮影)。

 蔵を壊したり整理したりするときに、思わぬお宝が出てくることがある。(これを蔵出しという)。そこをねらって骨董商が全国から群がる。さいきんは、そのようなことが少なくなったので骨董商は新しいお宝を発見できなくなったと嘆いている。

 まれにだが蔵に住んでいる人がいる。なぜだかは知らない。新築の家に蔵のデザインをほどこした人が少し離れたところにいる。なかなか見栄えのする家である。ちょっと遠いので写真は撮っていない。

 私は蔵が欲しいとおもっているけれども、入れておくものがないので蔵は建てていない。そのうちに観光用以外の蔵は絶滅するだろう。

 ※私の俳句(秋)
    秋深し蔵ある家の朝支度

住宅街の犬の声

2017-09-10 00:09:24 | 生活

(番犬。ウィキペディアより引用)。

 「猛犬に注意」というステッカーを貼った家が少なくなった。犬はあくまでもペットであって、何かの用途に使おうという考え方がなくなってきたのだろうか?

 これらの犬は、郵便や新聞の配達人を困らせていた。また、よく吠えるので、住宅街の騒音の元だった。私は犬は好きだが、住宅街の犬の声には悩まされてきた。このごろ、それが少なくなった。(犬の声には犬の感情がはいっているから、ときに機械の騒音よりも神経に障る)。

 東京でも、むかしは「犬の鳴き声公害」があった。しかし最近ではマンションは飼い犬禁止だし、広い庭がある家も少ないから犬の声はめっきり減った。喜ばしいことである。

 拙宅があるような地方都市でも「犬の声公害」は、この10年で激減した。庭のある家が多いにもかかわらず・・。やはり犬を家畜としてではなく、家族のようなものとして飼う人が増えてきたからだろうか?

 私が幼少時、犬の遠吠えがよく聞こえた。あれはなんなのだろうか?こちらの犬が遠吠えを始めると、かなたの犬が応えて遠吠えする。かくして、住宅街に犬の遠吠えが響きわたることになる。(テレビの動物映画でオオカミの遠吠えが映される。同種どうしの意味があるコミュニケーションなのだろう)。

 街から犬のフンが消えた。私の幼少時、草むらに犬のフンがあって、そこに座ってしまったことがあった。犬を飼う人のマナーが向上したのは、とても嬉しい。

 いまの私に犬を飼う気持ちはない。なぜかというと、我が家は仕事などで家を空けることが多く、誰もいない家に犬だけ一人で置いておくのは忍びないからである。

 ※私の俳句(秋)
    秋の夜石鹸のまま電話に出

商売人らしからぬ商売人

2017-09-06 04:46:05 | 生活
 夫婦ふたりで営業している天ぷら屋がある。親父さんはなかなかの腕前で、おいしい。だが料理を運ぶ奥さんがいけない。にこりともしないのだ。怒っているふうでもないのだが、とにかく笑顔をみたことがない。この天ぷら屋は随分、損をしていると思う。5回行きたくても3回で「やめとこう」となってしまう。

 近くにタバコ専門店がある。その辺のタバコ屋とは全然違って喫煙関係の品が葉巻からパイプから喫煙道具までタバコ一色である。嫌煙運動が広がっている昨今、頑固な愛煙家は最終的にここに頼らざるをえないだろう。

 そこの50絡みの親父も、にこりともしない。迷惑そうに客を迎える。かつて愛煙家だった私は、いつもタバコのカートン買いをしていたのだが、それでも愛想はなかった。だから一見さんなんて洟もひっかけないという感じ。


(電車。「足成」よりサヨ氏撮影)。

 幼いころノドから手が出るほど欲しかったが得られなかったオモチャにNゲージの鉄道模型がある。駅からちょっと離れたところにNゲージ専門店があり、大きなジオラマが置いてある。

 孫が小学校半ばになったので、いつまでもプラレールではなかろうと買ってやることにした。「基本セットというようなのがありますか?」と私。親父は親切に教えてくれた。そこへ鉄道に詳しそうな青年が来た。(クハ67がどうたらこうたらと)こちらには分からないような用語で話し始めた。それに対する親父の反応の冷たいことといったらなかった。

 知ったかぶりが許せないのだろう。親父は全国の実際の鉄道に詳しい。青年が何か言っても目も合わせずその上をのことを言って、聞いているこちらがドギマギしてしまった。せっかくお得意さんになるかもしれないのに・・。

 みんな商売人じゃないなぁ。医者の私だってもっと笑顔だぞ。患者さんがネットでちょっと調べただけの知識をひけらかすのにはムカッともするが、顔にはださない。弱い立場の人をやりこめるわけにはいかない。

 天ぷら屋もタバコ屋もNゲージ屋も真正の商売人ではないようだ。接客が医者に負けるようではマズいのではないか?へつらわなくてもよいが、商売人でなくても感じの良い人はいくらでもいるのだから、見習ったらどうか?

 ※私の俳句(秋)
    いちじくの殊に熟れたる厠裏

昭和30年ころの渋谷界隈

2017-08-31 12:00:32 | 生活
 私もよい歳になりましたので、たまに幼少時を思い出して余韻にひたらせてください。読者のみなさまが飽きないように配慮いたしますから。

 私は渋谷から道玄坂を世田谷方面に行った大橋池尻近辺で生まれ育ちました。とうじ玉川電車(玉電)という路面電車がありまして、それに乗って渋谷まで出て、渋谷から日赤産院行の都バスで通学していたのでした。玉電は現在、地下鉄の田園都市線になっています。


(玉電。ひどく混雑しました。ウィキペディアより引用)。


(上に向かう道が道玄坂。下が現在、世界的に知られている渋谷のスクランブル交差点。道玄坂の両脇に洋食屋が出来てきた。ウィキペディアより引用)。

 道玄坂の反対側に行くと青山学院や表参道に着きます。大した距離ではありません。青山学院の近くに「紀伊国屋」という米国人向けのスーパーマーケットがあり、日本人から見ればとても贅沢なものを売っていました。(「紀伊国屋」は現在でもあります。)

 それら以外は木造住宅で、周囲には原っぱが残っていたのですよ(2007-05-18)。私はそこの原っぱで遊びました。

 渋谷には東横百貨店があって、その大食堂でホットケーキ(2014-07-07)やパフェーを食べるのが楽しみでした。大食堂は和洋中なんでも提供していました。デパートが一大レジャー産業だった時代のはなしです。


(東横百貨店。ウィキペディアより引用)。

 現在の渋谷にはバスのプールがありますが、むかしからあそこはバスのプールでした。ただし、バスはみなボンネットバスで、最終が8時か9時だったと思います。まえに書いたように渋谷は不夜城ではありませんでした(2017-08-17)。祖母は山手線のことを省線(しょうせん)と呼んでいました。


(とうじのバス。ウィキペディアより引用)。

 まだ東京には進駐軍がいて、なんと戦車をのせたトレーラーが町なかを走っていました。空には双胴の飛行機。名称は知りません。米軍の兵士は簡易宿舎に寝泊まりしていました。私たちはその宿舎の形から「かまぼこ兵舎」と呼び、それらは東京の各地にありました。


(戦車を乗せたトレーラー。煙を吐いていました。ウィキペディアより引用)。


(かまぼこ兵舎。ウィキペディアより引用)。

 信じられないかも知れませんが当時は年に一回、観光バスを仕立てて日帰りの「町内旅行」があったんです。海水浴をするためですね。年に一度の遠出ですから、町内の子どもたちは嬉しくて嬉しくて、朝早くおもてに出て観光バスを待ったものです。

 行先は毎年、江の島。とうじから江の島のタワーはありました。ですが、今のような立派なものではなく、送電線の鉄塔のような、囲いは柵だけ、床は板張りで木の節穴から下界が見えるスリル満点の鉄塔でした。


(現在の江の島。ウィキペディアより引用)。

 日にちは毎年、7月22日と決まっていました。たまに梅雨が明けていないことがあり、そういうときには江の島界隈の散策や水族館見学をしました。みな弁当をもっていきました。それが豪華なのです。私の父親は「江の島ごときで豪華な弁当をもってくるとは・・」とお高くとまっているところがありました。だから私はおにぎりだけ。もっとも近所の人がおかずをくれましたけどね。

 江の島までの途中に観光バスのプールがあって、そこで運転手やバスガイドは休憩しました。居並ぶ観光バスのあいだを、アイスクリーム売りのおばさんが「アイスクリン、アイスクリン」との呼び声で回っていました。

 町内の青年たちはバスが出発したと同時に酒盛りを始めました。そのときの青年で現在ご存命のかたも結構おられます。彼らが手拍子で大声で歌うのは決まって「ノーエ節」でした。ふつうの宴会でも最後は「ノーエ節」で締めていました。



 長くなりましたので今回はこのへんで。渋谷は父が友人と飲みに行く場所でもありました。でも、とうじは汚い店しかありませんでした。中には低級なホステスがいる酒場もあったみたいです。友人に無理に連れていかれたなぞと父は言っていましたが、じつはそうでもなかったのでは?私も同じことを言いそうだから・・。(^^; 

 ※私の俳句(秋)
    新涼やサラダを混ぜる妻の素手

パン屋の名称に、ひらがなが多いのではないか!?

2017-08-03 23:14:02 | 生活


パン屋にひらがなの店名が多いような気がする。元来かたかなにするべきところをひらがなにしてある。可愛い感じがするからだろうか?

(反対にひらがなにするべきところを、カタカナにしてある店はない)。

障害者がやっている店にひらがながおおい感じがするが、これは錯覚だろうか?


 ※私の俳句(夏)
    梅雨明けかかなたに残る雲少し


億ションは買わない!

2017-08-01 00:51:10 | 生活

(JIN/LIN より引用)。

もし私が1億円もっていたとしても、億ションは買わない。

上階は眺望がよいと言うが、眺望とは苦労して山に登って初めて開けるものだ。エレベーターで汗もかかずに、毎日同じ眺望を見ても面白くないだろう。

「財産保全」の立場からも得ではない。建物は自動車と同じで、買ったその日から値下がりしていく。あまり値下がりしない「土地の権利」も面積が小さすぎる。戸数が多いから、一件当たり1平方メートルは広いほうで、ふつう「下敷き」くらいの大きさの権利しかない。

そんなわけで、1億円あったら私は、7,000万円の土地に3.000万円の家を建てたい。地の利は少々悪くても。

高層マンション群はいずれ、千里ニュータウンのように廃墟化していくだろう。

(左の散文詩の著者は、マンションを「空中楼閣」と呼んで住みたくないのだが、収入の関係でやむなく住んでいる。お薦めです)。

 ※私の俳句(夏)
    あぢさゐの毬ごとに水かがよひぬ

今日は、超個人的なこと(孫について)

2015-12-04 21:19:42 | 生活


 写真の赤子は、娘の3番目の子。女児、もうすぐ2歳。

非常に個人的なことだが、ブログは日記の意味もあるので、ここに書きとめておく。

(俳句で孫のことを詠むのは禁忌!!孫はかわいいに決まっているからだ。)


※私の俳句(冬)

  冬の雨はしけに屋根のなかりけり

車椅子用のリフトが付いたバス

2015-10-29 06:37:12 | 生活


 先日、老母の介護ホーム旅行に付き合った。車椅子のリフトが付いている観光バスを初めて見たので、上の写真で紹介しておきたい。


※私の俳句(冬)

  ここからは単線となり雪が降る


NHKスペシャル「老人漂流」を見て

2015-09-02 05:16:11 | 生活


 NHKスペシャル「老人漂流」には心を揺さぶられた。

 これまで独居老人にスポットが当てられていたが、そこに中高年になった無職の子どもが帰ってくると、もっと絶望的なことになると報道されていた。

 NHKはその原因として、非正規労働が飛躍的に増えたことと、同時に日本人の平均給与が年間100万円も下がったことを挙げていた。

 だが、NHKはなぜそうなったのかを言わなかった。私はIT化が進んで、読み書きそろばんさえできれば何とかなる時代が終わったことも一因だと思う。

 私が幼少時の銀行や郵便局では、通帳の記載もお金の出し入れもすべて手作業だった。腕に黒い袋をはめた職員が、そろばん片手に着けペンで通帳に数字を書きこんでいたのだ。

 無職になった中高年の子弟は、むかしなら銀行や郵便局の窓口のようなところに就職できただろう。それが今は完全にコンピュータにとって代わられた。つまり、最低限の読み書きができるだけでは、この先進的な世の中では生きていけない構造になってきたのではないか?(いつも言うことだが、そのうち医者も要らなくなる。下の記事もそう予想している。)

参考:あと10年でなくなる仕事・オックスフォード大発(「現代ビジネス」の記事)


※今日、気にとまった短歌

  5000円 母が暮らしに困り果て質屋に入れた結婚指輪  詠み人知らず