「不公平があるのではない。あるのは不公平感だ」という主張を聞いて、高校生の私は膝を叩いた。
それから20年くらいたって「一億総中流」といわれた時代があった。私は「いよいよ理想的な社会が到来した」と感じた。しかし、当時の野党は「一億総中流は幻想だ。実際にはこんなに所得格差があるではないか。だまされてはいけない」と叫んでいた。
私は「待てよ」と思った。高校生のころ聞いた主張を思い出して「公平かどうかは事実がどうだというのではなく、フィーリング(すなわち「感」)でよいのではないか?みんなが中流と感じて満足しているなら、それが最高だ」と考え、身ぢかな人に賛同を求めたが、誰も興味を示してくれなかった。
私は世の中すべてフィーリングだと考える者である。ブータンのGDPがわが国より少なくても、ブータン国民の幸福度は高いそうだ。ブータン国民のフィーリングがそうなら、それでよい。(先日、ブータン国王が国賓として日本を訪問した。いまどきなぜ「国賓」なのかが分からなかったが、外交の裏舞台のことはまた別の話。)
とにかく当時「幻想だ」と騒いでいた野党は、いったい何に八つ当たりしていたのだろうか?現実を見ているようで見ていなかった当時の野党。センスの悪さにあきれた。その野党は現在ほとんど壊滅状態である。
(「一億総中流」を知らない若い読者のために説明します。1990年前後に、国民のほとんどが「自分は(社会階層の中で)上流ではないかもしれないが、少なくとも下流ではない」と感じていた一時期があったのです。)
それから20年くらいたって「一億総中流」といわれた時代があった。私は「いよいよ理想的な社会が到来した」と感じた。しかし、当時の野党は「一億総中流は幻想だ。実際にはこんなに所得格差があるではないか。だまされてはいけない」と叫んでいた。
私は「待てよ」と思った。高校生のころ聞いた主張を思い出して「公平かどうかは事実がどうだというのではなく、フィーリング(すなわち「感」)でよいのではないか?みんなが中流と感じて満足しているなら、それが最高だ」と考え、身ぢかな人に賛同を求めたが、誰も興味を示してくれなかった。
私は世の中すべてフィーリングだと考える者である。ブータンのGDPがわが国より少なくても、ブータン国民の幸福度は高いそうだ。ブータン国民のフィーリングがそうなら、それでよい。(先日、ブータン国王が国賓として日本を訪問した。いまどきなぜ「国賓」なのかが分からなかったが、外交の裏舞台のことはまた別の話。)
とにかく当時「幻想だ」と騒いでいた野党は、いったい何に八つ当たりしていたのだろうか?現実を見ているようで見ていなかった当時の野党。センスの悪さにあきれた。その野党は現在ほとんど壊滅状態である。
(「一億総中流」を知らない若い読者のために説明します。1990年前後に、国民のほとんどが「自分は(社会階層の中で)上流ではないかもしれないが、少なくとも下流ではない」と感じていた一時期があったのです。)