院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

都営バス運転手同士の挨拶

2013-02-28 01:32:58 | マスコミ
 私は中学高校と都営バスで通学していた。当時、都営バスは同じ都営バスとすれ違う時、運転手同士が互いに少し右手を挙げて挨拶をかわした。

 私はそれを、同じバス会社の社員が互いに挨拶するのを好ましいことだ、と思って見ていた。

 あるとき、朝日新聞だったと思うが、次のような投書が載って、えーっ?と思った。投書者は女性だったが、年齢は忘れた。

 投書者が言うに、都営バスの運転手はすれ違う時に右手で挨拶をする。挨拶はよいことだが、運転中に右手を離すのは危険である。バスの運転手は乗客の命を預かっていることを忘れないでほしい。

 要するに挨拶をするなということか?少し右手を挙げるのが危険だと言うのか?

 投書者もどうかしていると思ったが、このような投書を載せる朝日新聞もどうかしていると思った。ときまさに交通戦争といわれた頃で、車の数が猛烈に増え、交通事故が多発した時代だった。

 朝日新聞はそのような社会の現状に便乗して、このような小言みたいな投書を載せたのだ。挨拶が駄目なら、ギアチェンジのために左手を離しても駄目だという理屈になる。

 私がマスコミを疑い始めたのは、このころに遡る。

シリーズ「日米同盟と原発」(中日新聞)

2013-02-27 00:04:09 | マスコミ
 中日新聞に不定期に連載されている表題の記事は、商業新聞としては珍しく極めて読み応えのあるものである。

 日本における原発を、ルーツからたどり、どうして現状の原発行政が生み出されたかを述べている。

 原子力委員会の初代委員長は正力松太郎であることは、よく知られている。だが正力が原発の輸出元のアメリカ側も驚くほどのブルドーザーのような実行力で、原子力の平和利用を推進したかはあまり知られていない。

 正力が激しく活動できた陰にはひとりの知恵者がいたと記事は説く。その知恵者(記事には名前が書いてあるが私は失念)は、唯一の原爆被爆国として、また第五福竜丸事件で原爆には痛い目に遭っている日本人に原発を認めさせるために「毒をもって毒を制す」と進言し、成功させた人物である。

 「原子力には原子力で」という意味だ。原子力の平和利用は、原爆の脅威を知っている日本国民に、意外にすんなり受け入れられたという。私の小学校時代の教科書には「第三の火」として原子力が紹介されていた。こうして、大人から子どもまで原子力を肯定的に受け止め、原発推進は上々の滑り出しをした。

 昭和39年に毛沢東支配下の中国が初めて核実験をした。核保有国が一国増えたわけで、日本政府はこれを脅威と感じた。このころ佐藤栄作首相が非核3原則を示し、日本は核兵器に関与しない旨をおおやけにした。

 このとき、また別の知恵者が現れた(名前失念)。彼は非核3原則の代償として、原発を推進することとロケットの開発を進めることを提案した。その心は、原発の技術があれば容易に核爆弾が造れること、ロケットがあれば容易に大陸間弾道弾が造れることだった。

 表向きは非核3原則で平和主義を標榜し、一方では原発を推進して「日本はいつでも原爆を造れるが、あえて造らない」という態度を世界に表明し、牽制した。

 いまやH2ロケットが成功し、原爆は少しの時間で造れる。こうして、我が国は外国にとって「隠れ核保有国」になっていると、記事は説いていた。

 歴史資料にもきちんと当たっており、立場は極めて中立である。このシリーズの担当は、寺本政司、北島忠輔、谷悠己の3記者だが、私よりもよほど若い人たちだろう。そのような人たちが知恵の粋を集めてこのような記事を書いていることにエールを送りたい。

 マスコミ嫌いの私がこれほど褒めるのだから、一度原文を読んでみてほしい(そのうち単行本になるかもしれない)。脱原発を莫迦のひとつ覚えのような党是にしている政党の人たちは、この記事を読んで、原発問題は一筋縄ではいかないことを、しっかり学んでほしいと思う。

オーケストラにおける指揮者の役割

2013-02-26 00:01:01 | 音楽
 私はオーケストラは指揮者と事前に練習とコミュニケーションを重ね、本番はその成果を表すものだと思っていた。事実そうなのだが、それだと新人指揮者コンテストが成立する理由が分からない。

 新人指揮者コンテストには、オーケストラとの事前の練習がないからだ。オーケストラと初対面で、前で指揮棒を振っても指揮者の巧拙なんか分かるはずがないじゃいかと、これまで思っていた。

 先日、テレビでイスラエルの指揮者が指揮法に関する解説を行っていた。カラヤンとか有名な指揮者の演奏場面をビデオで写して、ほらここがこうなっているだろうと事細かに説明した。それによって、指揮者に対する私の長年の疑問が解けた。

 イスラエルの指揮者によれば、オーケストラは指揮者がいなくても演奏ができるのだという。それではなぜ指揮者が必要なのか?

 イスラエルの指揮者はメトロノームみたいな指揮者を例に出した。そのような指揮者による演奏は確かにつまらなかった。イスラエルの指揮者によれば、メトロノームのような指揮者は権力を握りたがる。だから、全部思い通りにオーケストラを支配したいのだという。

 その結果、オーケストラ自身がもつ個性や独創性を殺してしまって、演奏がつまらなくなってしまうのだという。

 そこで、たとえばカラヤンの指揮法を見ると、ぜんぜんメトロノームではなく、体の動きがあいまいで、極端な場合、オーケストラはどこで音を出せばよいのか分からないような指揮法である。

 イスラエルの指揮者によれば、こうしたあいまいさがオーケストラの創造性を刺激し、新鮮な音楽が造られるのだという。ああ、そうだったのか!指揮者はただのメトロノームではなく、身体の動きによってオーケストラの良さを引き出す役目をしていたのか。

 それなら、新人指揮者コンテストが成立しうる。それにしても、指揮法とはなんて微妙で深い作用なのだろうかと、あらためて驚嘆した。

 指揮者の存在意義について、私は中学生の時から疑問に思っていた。なぜ指揮者に一流と末流があるのか?同じオーケストラが指揮者によって別の音楽を奏でるのか?しかし、誰もその疑問に答えてくれなかった。50年を経て、ようやく説得的な回答に出会った。けれども、50年間も説明されなかったということは、もしかしたらイスラエルの指揮者の説明も一面な見方に過ぎないのではないかとの疑惑が、今度は新たな疑惑として浮上してきた。

幸福とはなにか?

2013-02-25 00:01:20 | 経済
 夜は寝るものである。誰が何と言おうと、夜は真っ暗で人間は活動できないから、寝るものである。夜、電気を煌々とつけて働くのは不自然である。

 夜間労働の歴史は浅く、ほんの電燈が発明されてからに過ぎない。それまで人類は、夜は安らかに寝ていたのである。

 石器時代、夜には狩りや採集ができないから、みな寝ていた。農耕が発明されてからも、夜に農耕はできないから、夜は寝ていた。そして、つい最近まで人間は夜は寝ていた。

 農耕が発明されてから、人間は飢えに苦しむことが少なくなったというが、どうもそれは幻想らしい。発掘された古い骨を分析すると、石器時代人のほうが農耕時代人よりも栄養状態がよいと分かった。石器時代人は労働時間(狩りや採集の時間)は一日3時間くらいだったと推測されている。農耕時代になってから、人類は必ずしも幸福にはなっていなかったようだ。

 工業化の世の中になって、夜勤とか当直が発明された。夜勤や当直は苦しいものである。その苦しさを押して働くから、医療従事者は少しは尊敬されたのかもしれない。しかし、夜勤や当直は、生物としての人間には過酷な労働だ。やっぱり、夜は安らかに寝たい。

 幸福かどうか尋ねられると、石器時代からだんだんと人間は幸福でなくなってきたのではないか?

 私が疎い経済学の分野では、人間が幸福だと思うのに「相対所得仮説」という考え方があるらしい。広くは同時代、同一国内で相対的に所得が多い状態を、人間は幸福と感じるらしい。狭くは隣り近所で相対的に所得が多いかどうかが幸福度を決めるという。

 なぁーんだ、ずいぶんみみっちい話ではないか。どうせ比較するなら、石器時代人と比較するべきである。一日3時間の労働。夜は眠る。人口が過密でないから、伝染病はない。石器時代人は寿命は短かっただろう。でも、寿命が長ければそれだけ幸福だと思う人は、今日び、ほんとうは少ないのではないか?

デジタル画像データの保存可能性

2013-02-24 00:14:29 | 技術
 さくらフィルムが「100年プリント」と称してフィルムを売り出し、印画紙でなくフィルムが何故100年プリントか?と多くの人が考えて、「100年プリント」を最後にさくらフィルムがフィルム市場から撤退したことはいつぞや書いた。

 カラーフィルムの歴史は浅く、いつか画像が消えてしまうのではないかとの疑念が拭い去れなかった。事実、私が1960年代に撮ったカラープリントは、ほとんど見えないほどに画像が劣化した。とくにサービスサイズが駄目で、別に引き延ばしたキャビネ版は消えずになんとか残った。

 だから、写真が趣味だった私は、どうしても残したい写真はわざわざモノクロで撮った。モノクロは明治時代からの実績があるからだった。案の定、モノクロで劣化した写真は今日までない。

 さて、世はデジカメ時代である。写真のデジタルデータをPCに残しておくと、PCをモデルチェンジしたときに移植し忘れるだろう。写真再生ソフトがどんどん変わっていって、いずれ写真データを再生できなくなるだろう。

 そこで、デジタルデータをプリントして紙に残しておくという手段が考えられるわけだが、プリンターで印刷された写真のインクが劣化しないとの保証がない。インクには銀塩プリントほどの歴史がまだない。そこで、デジタルデータでも銀塩プリントにしている私だが、上記のように銀塩プリントでもカラーは消えることがあるので、もう防衛手段はない。

 中世の絵画が残り、明治時代の写真はセピア色に劣化している。もっと新しいカラー写真は、すぐに消えてしまうほど保存年限が短い。新しい技術ほど保存が難しいという逆説が起こっている。これが技術の宿命なのかもしれない。

 女優の扇千景さんが京都弁でコマーシャルした「私にも写せます」というカセット式の8mmカラーフィルムをご存知の方は、けっこう年配である。8mmフィルムで映画を撮影することが、かつてはやった。しかし、今それらの8mmフィルムを再生できるだろうか?映写機があまり残っていないのではないか?

 つい最近までビデオの主流だったカセットビデオを、いま再生して楽しんでいる人がどれだけいるだろうか?それより前のオープンリールのビデオを再生できる機械なぞ、いまどき持っている人がいるのだろうか?

 つまり、映像保存が大衆化したら、結局なにも保存されていないという状況になってしまった。現在盛んなデジタル動画も同じ運命をたどるだろう。

註:古いモノクロ写真がセピア色になるのは、定着液の洗い流しが不十分だったからだ。定着液を十分に洗い流した写真はセピア色にはならないことは、意外に知られていない。

誤植の罪

2013-02-23 00:11:12 | 日本語
 私が小学校低学年だったか、歯医者の待合室で子供向けの本を読んでいた。そこにはカイツブリという鳥の生態が書いてあった。

 中に一か所だけ「カイブリ」と印刷してある部分があった。小学校低学年だから、それが誤植とは分からない。そもそも「カイツブリ」でさえ初めて出会った鳥の名前だ。だから、少年の私は「カイツブリ」という鳥と「カイブリ」という鳥が別々にいるのだと思った。そのため、その記事全体の意味が分からなくなった。

 「カイツブリ」と「カイブリ」の謎が解けるまで、その後何年も要した。たった一か所の誤植だが、なんの罪もない少年を苦しめるのには十分だった。活版印刷からワープロ印刷になって、活字が横向きになるような誤植はなくなったが、文字を落とす誤植はなくならない。

 俳句の会(句会)では、短冊に書いた俳句をシャッフルしてから清記をしなおす。その俳句が誰の作か筆跡から推察できないようにするためだ。俳句は短いから、一文字でも違うとまったく別の俳句になってなってしまう。そのため、清記にはみなが細心の注意を払う。

 でも、清記下手の人はどこにでもいて、句会には「あの人に清記されたら、もう選句されない」と出句者が諦めるような人が必ずいる。清記が間違っていると指摘する時間は句会にはない。

 私が所属する俳句結社の会誌は、たぶんまだ活版印刷だろうと思われるのだが、俳句が間違えて印刷されることはまずない。係りの人がボランティアでそうとう注意深く校正しているとしか思えない。俳句結社は趣味の会だし、参加者も年金生活者が多いので、会費がとても安い。それなのに、まったく誤植のない会誌を出していることに脱帽の念を禁じ得ない。

活版印刷よ、さようなら

2013-02-22 00:37:07 | 技術
 私の若いころには活版印刷しかなかった。(写真植字はあったが高かった。)だから、出版物はみな活版印刷で、校正が大変だった。

 私の処女論文は活版印刷だった。原稿はむろん手書きである。学術雑誌に投稿すると、レフェリーから意見がついて戻ってくる。意見になるほどと思えば、原稿を書き換える。その際、当時の論文原稿の習いとして、すべて最初から書き直さなくてはならない。一部分を直しただけの原稿は、正式な投稿論文として認められなかった。だから、投稿者は手書きで書き直すことに大きな労力を割かれた。

 その上、印刷された原稿(これをゲラ刷りと言った)は、誤字や脱字だけではなく、活字がさかさまになっているようなことがあった。これを直すのも一苦労だった。

 当時、活字をひとつひとつ拾う職人を文選工といった。彼らはものすごいスピードで活字を拾うことができた。その代わりに、誤りも多かった。

 そのころワープロが出現して、瞬く間に広まった。これにより、文選工と和文タイプ技術者は職を失った。ワープロ単能機とPC用のワープロソフトが出たのは、ほぼ同時だったように記憶している。

 PC用では一太郎というワープロソフトが一世を風靡した。そのころ、松茸というマイナーなPC用ワープロソフトがあった。私は学位論文を書くのにそれを使用した。原稿用紙200枚ほどの大論文で、レフェリーとのやり取りが2回あったが、松茸のおかげで最初からすべて書き直すという無駄をせずにすんだ。

 もう手書きの原稿なんて受け付けてくれる学術雑誌なんてない。(欧文雑誌はワープロができる前から、タイプライターによる原稿しか受け付けていなかった。)しかし、なぜなのかは分からないが、電子媒体での投稿を受け付けている学術雑誌は見かけない。みな、紙に印刷してからでないと受け付けてくれない。

 分子生物学や生化学の分野では、レフェリーとやり取りしていては発表が遅くなる時代になってしまった。だからかどうか、有名学術雑誌はみな「電子版」というのを持っている。精神医学の分野は一刻を争うような論文はないから、まだ紙媒体でもよいが、分子生物学などの研究の最前線ではみな一番乗りを競っている。

 こういう研究者には「電子版」が必要なのだろうが、レフェリーがどのように電子投稿に応じているのか、私は知らない。

クラウドコンピューティングとは何か?

2013-02-21 01:04:09 | コンピュータ
 最近、クラウドコンピューティングがしきりと言われるが、いったいそれは何なのだろうか?

 私がまず出会ったのは、セキュリティーソフトのクラウド化だった。セキュリティーソフトはメモリの膨大な領域を占めるので、PCのスピードが目立って遅くなった。それがクラウド化されると、PCの重さがなくなった。

 原理はよく分からない。セキュリティーソフトをPC内に置かず、クラウドに置いたからスピードがアップしたのだろうか?セキュリティーをサーバー側で実現しているのだろうか?

 いまひとつ、自分のデータをクラウドに預けるというものがある。たとえば写真データをクラウドに預けて自由に引き出せるという。そうすると、この機能は銀行の貸し金庫のように考えてよいのだろうか?

 しかし、個人ユーザーで預けなければならないほど大量のデータを持っている人がどれだけいるのだろうか?どんなに写真や動画のデータをもっていても、たいがい自分のPCのHDDに納まってしまうのではないか?

 しかも、大量のデータをクラウドに預けていて、クラウド会社がそのデータをバックアップもろともなくしてしまったという話も聞いた。これでは、銀行の貸し金庫どころか、データを野積みにしているのと同じではないか?

 クラウド、クラウドと言うけれども、いまひとつ信用が置けないなと感じている私である。

花粉症の原因

2013-02-20 00:11:30 | 医療
 花粉症の薬のテレビコマーシャルが活発である。眠くなりにくいなどのことを売りにしている。花粉症の薬はもともと抗ヒスタミン剤だから眠くなるのだ。

 根治療法として、鼻の粘膜を焼く方法などが提唱されているが、大丈夫なのだろうか?人体の器官でひとつとして不要なものはない。その粘膜を焼いてしまって、不可逆的に粘膜機能を失わせて、あとで困ったことにはならないのだろうか?

 治療はいろいろ試みられているけれども、すべて対症療法である。原因がなぜ問われないのか不思議でならない。むろん花粉症の原因については精神医学の雑誌には載っていない。しかし、医者一般が読む総合誌には載っていてもよいと思うのだが載っていない。

 花粉症が日本だけの現象なのか?海外でも増えてきたのか?・・調べればすぐに分かるようなことさえ伝えられていない。

 ただ漠然と「杉の木を植林しすぎた」と言うだけである。ほんとかよと思う。もともと杉林の近くに住んでいた人たちはどうだったのだろうか?杉林の近くで明治時代から花粉症が多かったという報告は見かけない。だから、杉を植林しすぎたから、という説には信頼がおけない。

 花粉症は30年前から出てきた。それまでは存在しても数が圧倒的に少なかった。国民病ではなかった。そこで、いろんな説が出ているが、決め手はない。たとえば、人体が寄生虫をもたなくなったからだという説がある。人体は寄生虫をもっているのが「正常」な姿で、それに対して免疫機構が発達してきたのに、寄生虫がいなくなったから免疫機構が暴走したという説だ。

 黴菌との同居が少なくなったからだという説もある。除菌がブームになって、子供のうちに汚いことをさせないから、免疫系に異常を生じるのだという説である。

 早いところ、これらの説を実証してほしい。実証しようと思えばできるはずなのだが、なぜか実証した研究がいつまでたっても出てこない。

 アレルギー反応で悪さをするのはIgEという免疫グロブリンで、これは日本人が発見した。なのに寄生虫説も黴菌説も実証されていない。対症療法はもういいから、早く原因を突き止めてほしい。

活断層論争

2013-02-19 00:40:04 | 科学
 活断層とは10万年以内に動いた形跡がある断層のことらしい。つまり、活断層とは活火山、そうでない断層は死火山と解釈してよいようだ。

 原子力発電所の地下の断層が、活断層かそうでないかが争われている。双方とも科学的な根拠を出そうとしているが、話が噛み合わない。

 話は飛ぶようだが、大きな病院には必ず病理医という医者がいる。病理医は直接患者さんを診察することもなく、手術もやらない。彼らの役目は細胞や組織がどうなっているのか見極めることだ。

 例えば、ある腫瘍の細胞が良性か悪性かを判断するのが病理医である。病理医はひたすら顕微鏡を見て検体が良性か悪性かを判断する。熟練技でもある。

 しかし、病理医の経験や勘ばかりに頼っていてはいけないと、客観的な悪性度の分類が提唱されている。今でも使用されているかどうかは知らないが、私の学生時代にはキャットサット分類というのがあって、その分類に照らして悪性度を判断していた。

 病理学の教授の話によると、キャットサット分類を用いても、良性か悪性かで議論が分かれることがあるとのことだった。そのようなときにはどうするのかと言うと、声の大きいほうが勝つのだそうだ。

 このたびの活断層論争もそれに似ていはしまいか?科学的な根拠を出し合っても、それに対する解釈が異なってしまっている。そうなると、活断層論争でも声の大きいほうが勝つのではないか?どういう声を大きいというのは分からないけれど・・。

アベノミクスとは何か?

2013-02-18 00:05:05 | 経済
 私が株式投資もしたことのないような、経済にはズブの素人であることは、この欄で再三述べてきた。だから、ここで述べることは素人のたわごとかもしれない。

 最近、中央銀行の独立ということが言われるが、それがピンと来ない。三権分立なら分かる。同じように中央銀行はまったく政府とは独立したものなのだろうか?歴史的に中央銀行の独立を保証しないとロクなことはないと言われても、どこの国でどのような不都合があったのかマスコミは言わない。

 株式市場であっても、どんな市場でも「こうすれば確実に儲かる」という方法はない。そんな方法があれば、みなそうするからであり、みなそうした結果が市場を形成しているのだと思う。

 野田政権でも経済政策は行っていただろう。なのに目立ってうまく行っていたようには見えない。それはやはり、「こうすれば最善だ」という方法がなかったからだ。(エコノミストや経済学者がまちまちなことを言う。まちまちなこと自体が「最善」がないことの証拠である。)

 そこでアベノミクスである。最善の経済政策が特定されない以上、アベノミクスもひとつの賭けではないのだろうか?市場にアクションを起こすということは、すなわち相場に手を出すのと同じことではないのか?(素人の暴論かもしれない。経済政策と相場に手を出すことは根本的に違うことかもしれない。)

 アベノミクスが成功すれば、安倍総理大臣は称えられるだろう。でも、相手が市場である以上、必ずリスクがある。私はアベノミクスが失敗しても、それは総理大臣のせいではないと思うのだが、たぶんマスコミや世論は後知恵で総理大臣を叩くだろう。失敗した相場師は出資者から必ず叩かれる。

 最近の円安はアベノミクスの効果ではないと言われる。そうなのかもしれない。このほどのG20で「日本は円安誘導をしている」と非難されたそうだが、麻生財務大臣は「円高のころはてめえら黙って儲けておいて、円安になってから急に文句を言うのかよぉ」と啖呵を切ってきたらしい。胸のすく思いである。

スポーツにおける体罰と戦争

2013-02-17 00:10:20 | スポーツ
 私は「戦争を知らない子どもたち」だから、亡父からの伝聞でしか知らないが、旧軍隊では体罰が横行していたらしい。

 「足を開け、歯をくいしばれ」という命令は、これからビンタをする前置きのような言葉だったらしい。このように、日常茶飯事にビンタが行われ、階級が下の兵卒はほとんどいじめのように、下士官から暴力を受けた。それも、さしたる理由はないようだった。

 海軍でも「海軍精神注入棒」というクリケットのスティックのような棒があって、水兵の尻を叩くために使われていたという。

 なぜ暴力が正当化されたかと言うと、推測だが、「そんな根性では戦争に負けてしまうぞ」という気分が軍隊を支配していたのだと思われる。この根性論に誰も反対できなかった。反対できないことは、しばしばいじめの言い訳にも利用されただろう。

 だから、軍隊は卑劣ないじめの巣窟だったと私は考えるのだが、本当にそうだったのかは存命の軍隊経験者に訊いてみれば分かることだ。

 スポーツ強豪校で体罰が行われていたことが今問題になっている。スポーツ強豪校にとって、試合は戦争のようなものではないのだろうか?だから、旧軍隊と同じく「そんな根性では試合に負けてしまうぞ」という着想が出てきても不思議ではない。

 旧軍隊の「戦争に負けてしまうぞ」という殺し文句と同じく、スポーツ強豪校では「試合に負けてしまうぞ」ということになったのだろう。体罰教師は戦争を知らない。でも、旧軍隊と同じような考え方になってしまったことから、人間とはいつでも似たようなことしか考えられないのだなぁ、と嘆息する。

 生物学者の池田清彦氏は、スポーツの指導者に金で報酬を与えれば体罰はすぐになくなると指摘している。お金を支払って料理教室に来ている生徒に教師が体罰をしないのと同じ原理である。言われてみれば、無報酬というのは奇形的な契約のあり方かもしれない。

死亡事案に対するマスコミの態度

2013-02-16 02:02:20 | マスコミ
 私事だが私は中学3年生のときに小学6年生の妹を病気で亡くした。妹の死は私の人生航路に甚大な影響を及ぼした。その詳細は省くが大きく感じたことは、他ならぬこの私ではなく妹が亡くなったのは非合理だという感覚だった。今一つは、妹の死をなぜマスコミは取り上げないのだろうか、という答えは分かっているのだが、割り切れない感情だった。

 妹の死は病死ゆえにマスコミに取り上げられなかった。交通事故だったら地方版くらいには取り上げられたかもしれない。飛行機事故なら全国版に取り上げられるだろう。

 この差別はなんなのだろうか?先日のグァムでの無差別殺人の被害者は、大きく報道されたばかりか、マスコミは友人までを引っ張り出して「ほんとに思いやりのあるいい人でした」なぞと感想を言わしめた。

 グァム無差別殺人の被害者に家族や物語があるように、交通事故死者や病死者にも家族とそれにまつわる物語が、同等に存在しているのだ。

 ニュースの大小は、社会的影響の大小だとマスコミは言うが、実は彼らが勝手に決める基準によっている。話が逆なのだ。

 ニュースの大小を決めるのはマスコミそれ自身にほかならない。ニュースバリューとはマスコミが取り上げる取り上げないばかりではない。一面トップかどうか、扱いが大きいか小さいかなどで、マスコミはニュースに格差を付ける。テレビニュースなら報道の順位や時間、回数によって格差をつける。

 人の死は原因のいかんを問わず平等である。その死を報道するのに尺度を付けるのがマスコミである。平等である死にさえ大小を付けるのだから、もっと微妙な問題(大小を測りにくい問題)にはマスコミは、得手勝手に格差を付けるだろう。

 こうしてマスコミは、野次馬の親玉として正義面して、ますますのさばるのである。

趣味は実益を兼ねうるか?

2013-02-15 01:56:05 | 日本語
 俗に趣味と実益を兼ねるというが、趣味と実益は兼ねてはいけないのではないか?

 例えば釣りは趣味である。獲った魚も家族で食べるほどの小規模なものである。これが、大量に魚を釣って魚市場に流すようになれば、もう趣味と言ってはいけないのではないか?

 例えば、山歩きが趣味の人はなにか報酬を得てはいけないのではなかろうか?つまり、何かを山小屋まで運んで小遣いを稼いでは、趣味と言えなくなるのではないか?

 花栽培、洋裁、陶芸なども売るほど作っては趣味と言えなくなるような気がする。

 囲碁将棋も、それを行うことによって収入を得れば、趣味とは言えない。(もっとも、囲碁将棋は天才でなければ収入を得ることはできないが。)

 趣味が趣味であり続けるのは、それによって報酬を得ないことが大前提であり、趣味と実益を兼ねるというのは、そもそも語義矛盾なのではないか?

東京大阪カジノ構想

2013-02-14 08:27:13 | 社会
 賭博と言えば、私がやったことがあるのは、賭け麻雀、パチンコ、ポーカーくらいだろうか?賭け麻雀は点棒ひと箱300円、パチンコは3000円くらいまで、ポーカーは仲間内で数回やった。2万円くらいの金額が動いた。競輪競馬競艇はしたことがない。

 私があまり賭け事をしないのは面白くないからではない。見苦しいと思うからだ。

 新米の医者のころ、私は生活費を稼ぎにときどき浜松の病院に当直のアルバイトに行っていた。名古屋からJRで浜松まで明るいうちから行ったのだが、ちょうど浜名湖競艇が終わる時間にぶつかることがあった。

 その時間になると、最寄りの駅から浜名湖競艇を終えたばかりの人々が、どどっとJRに乗り込んでくるのだ。それまで穏やかだった車内は突然、席を取り合う者たちでごったがえす。彼らはほとんどが中高年の男で、手に手に競艇新聞を持っていた。

 白髪頭に野球帽をかぶった彼らが、私にはとても醜く見えた。まったく金の亡者の集まりである。こういう中高年にはなりたくないと思った。すべてではないが、それが私が賭博をやらない理由のひとつだった。

 石原慎太郎さんが東京都知事のころ、東京にカジノを作ろうと言っていた。最近、橋下徹大阪市長が大阪にカジノを作ろうと言っている。大都市にカジノを作って大丈夫なのだろうか?

 カジノで知られるラスベガスは砂漠の中にあり、飛行機を使わないと行けない。それが障壁となってある程度の以上の金がないと行けない。

 東京や大阪の交通至便な地域にカジノを作ったら、浜名湖競艇に目の色を変えていた御仁たちが来るのではないか?カジノは瞬く間に不良中高年のたまり場になりそうな気がする。それとも、カジノは外人専用にして日本人を排除するのだろうか?

 私はカジノを作るなら、北海道の原野に作ればよいと考えている。交通至便な場所に作ると、善良な市民が寄り付きたくない場所になってしまわないだろうか?石原さんや橋下さんは、その辺りをどう考えているのだろうか?