院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

このたびの地震に寄せて(24)(風評被害)

2011-04-30 06:35:14 | Weblog
 日本製品を輸入してくれない、これは風評被害だと言って、いろんな業者が悩んでいる。放射能汚染と関係がない物品まで輸入してくれないという。

 日本人は、これを科学的でないと非難する。だが、われわれに非難する権利なぞあるのだろうか?

 BSE問題のことを思い出してほしい。アメリカ人が平気で食べている牛肉を、我が国は禁輸にしたではないか。アメリカは日本を科学的でないと非難した。

 そのとき私はこの欄で、科学的云々の問題ではない、いくら科学的に清潔でも「尿瓶でビールは飲めないので、理解して欲しい」と書いた。

 今度は同じことをアメリカから言われているのである。いくら放射線汚染がなくても「尿瓶でビールは飲めない」とアメリカは言っているのだ。他の国でも同じことだろう。

 どこの国民であるかは問題ではない。人間というものは、科学的であるかどうかよりも、まず感覚、感情で動くのだ。だから、このたびの「風評被害」も、理を尽くして地道に解消していくしかない。

 BSE問題に対して我が国がとった態度を忘れて、外国の無知を非難することなぞできない。それは天に唾する所業である。

中国による北朝鮮支配

2011-04-30 06:11:47 | Weblog
 2年前のこの欄で(2009-06-20)、私は「北朝鮮が崩壊したら、韓国ではなく中国が北朝を鮮支配するだろう」と予測した。中国には領土的野心があり、帝国主義であるとも述べた。

 このたび、我が国が災害でおおわらわとというときに、中国軍は海上保安庁の艦船にヘリコプターを異常接近させた。これが本当なら言語道断である。中国は怖い国である。用心しなくてはならない。

 最近、もとキャスターで今は論客の櫻井よし子さんが、私と同じことを言い始めた。すなわち、北朝鮮は中国に支配されるだろうと。

 同じようなことを考える人は多いのだなと思った。北朝鮮を中国が支配したら、やっかいなことになる。今度は38度線が国境になる。我が国が韓国を応援すべきかどうか?韓国の嫌日感情には根強いものがある。

 私のような戦後世代でも、我が国民がいかに朝鮮人を差別してきたか知っているのだもの、被害者はもっと覚えているだろう。反中で素直に我が国の応援を受け入れてくれるかどうか分からない。

 韓国の嫌日感情は、中国も織り込み済みだろう。中国の帝国主義に対して、我が国がどのように振舞うかは、今から計画を立てておかなくてはならない。

漫画「ヘルプマン」を読んで

2011-04-29 07:24:12 | Weblog
 妹が「面白いから読んでみろ」と漫画「ヘルプマン」(講談社)を送ってきた。面白くて面白くて12巻まで出ている分を一気に読んでしまった。

 老人介護という重い問題を、エンターテインメントにしてしまうなんて、漫画家のすごい技量を感じた。

 物語は介護を志す2人の青年を中心に運ばれている。介護現場の現実も周到に調査されている。漫画だから幾分の誇張はあっても、おおむね正しい。私の知らない部分も描いてあった。

 私は介護保険の認定委員をやっている。だから市役所の当該課の人間と交流がある。「ヘルプマン」は面白いよ、と担当の役人に言ったら、すでに介護保険担当課の職員全員が読んでいて、確かに面白いという反応が返ってきた。少しホッとした。

 介護保険の個々の老人に関する臨床データは、科学的でないと前から思っていたが、私自身、名古屋市役所で役人を7年間やった経験からは、行政は科学でやるものではないと身に沁みていた。役所は医者のお墨付きがほしいだけだ、ということも分かっているから、安い謝礼でも認定委員を引き受けた。

 話は「ヘルプマン」に戻るが、認知症の描写が絵もストーリーも卓抜である。認知症の苦しい内面が描かれているけれども、認知症にもいろいろあって、あまり苦しくない認知症のほうがむしろ多い。そちらのほうも描いてほしい。

 認知症という病名を、日本精神神経学会は学術病名として認めていない。でも、dementia を痴呆と翻訳すのはどうか?痴呆とは、あんまりではないか?痴呆症でもきつい。

 日本精神神経学会は、「症」は障害に付けるべき、すなわち「恐怖症」、「失調症」のように命名すべきであり、認知という機能に「症」を付けるのはおかしいという。よって「認知症」は行政病名であり、学術病名とは認めないというのだ。

 行政が学会に何の相談もなく病名を変更したことに対する不快感は分かる。だったら、そのように不快感を表明すればよい。「機能に症は付けるべきでない」なぞと屁理屈をこねると、墓穴を掘ることになる。

 それなら、学会が認めている「神経症」はどうか?「ダウン症」はどうか?いずれも「障害」に「症」を付けたものではない。

 schizophrenia を「精神分裂病」と訳すのをやめて「統合失調症」と響きを柔らかくしたのは、当の日本精神神経学会ではないか。病者に対してそれだけの思いやりがあるなら、認知症でもよいではないか?

あなたの分まで生きる??

2011-04-28 07:34:08 | Weblog
 身の回りの大事な人を亡くした者が「あの人の分まで生きる」と述べるケースが、最近目に付く。

 このたびの災害でも聞いた台詞だ。

 でも、私にはちょっと引っかかる。読者のみなさまは、どうだろうか?

 普通なら「私もあとから行きますからね」ではないだろうか?

 大時代的かもしれないけれども、私は「殉死」ということに、さほど否定的ではない。だからか、「あなたの分まで生きる」と言われると、なんだか欲深いように聞こえる。

 「後追い自殺」は最近、見かけなくなったが、これでよいのだろうか?とも思う。私が古すぎるのだろうか?

ホリエモン実刑確定

2011-04-27 07:50:01 | Weblog
 ホリエモンの2年6月の実刑判決が確定した。

 私がこの欄で、数年来「ホリエモンは無罪になるだろう」と言ってきた予想が外れた。私が無罪を確信していたのは、ホリエモンの言っていることに矛盾がなかったからである。

 TVが「街の声」を聞いていた。たまたま写った女性は「当然じゃないでしょうか」とコメントした。何を根拠に?これまでホリエモンのやったことを、追跡してみたことがあるの?

 これが「世論」の怖さ、言い換えれば「マスコミの怖さ」である。最高裁でも「世論」に抗することができなかった。

 検察は監視する組織がないから暴走する、とここに書いてから、2年後に検察はようやく批判されるようになった。

 三権分立というけれども、政府も国会も最高裁を批判しない。裁判所は検察とグルである。いつか批判されるだろう。

 検察特捜部は上級検察によって批判、起訴された。これって、おかしくないか?要するに検察内部での処分に過ぎないのでしょ?

 検察を監視する独立した組織を作らなくてはダメだ。政府や国会が裁判所を批判しないなら、国民が最高裁判事の国民審査を利用して、最高裁判事を辞めさせなければならない。でも、それにはマスコミの協力が必要である。

 マスコミは、街角の女性から(ホリエモン有罪は)「当然じゃないでしょうか」というコメントを取ってくるくらいだから、アテにはできないけれども。

 しかし、裁判所も世論とズレのある判断を往々にしてやっているから、まだ救いが残されている。それは、精神障害者の病期の犯罪についてである。

 よく他科の医者に聞かれる。「精神障害者が病気だからと言って、殺人でも無罪放免は変じゃない?」という疑問である。素朴な疑問だと思うが、私にも明快に答えられない。ただ、我が国では江戸時代からそうだったのである。外国のことは知らない。

 こうした「世論が疑問に思う制度」を裁判所は頑なに守っている。そのような頑なさが大切である。精神障害者の免責の良し悪しに矮小化するのではなく、一般論として裁判所には世論に迎合しない頑なさを持ち続けてほしい。

モダンジャズの歴史(5)

2011-04-26 06:58:01 | Weblog
 モダンジャズのオーケストラは最近流行らない。小さなバンド(コンボという)で演奏されることが多い。小さいから指揮者はいない。それでは、誰がペースメーカーになっているのかご存知だろうか?

 ドラムだと考える人が多いかもしれないが、実はベースがいつもペースメーカーの役割をしている。ドラムの方ベースに合わせているのである。個人的に言えば、ベースはエレキベースでなく、木で出来た大型のウッドベースがよい。

 エレキベースのボンボンボーンではなく、ウッドベースのゥトゥーン、ゥトゥーンという少し遅れた感じが、この音楽はモダンジャズだということを物語る。ふつうの軽音楽もそうだが、ベースはすべてピツィカートで弾かれる。これもクラシックとは違う特徴である。

 ベースは最低音を受け持つ。それも、今流れている音楽のコードのルート(基礎音)を弾いている。ベースがルートを引き続けてくれるおかげで、ピアノを初めとする他の楽器は、まったく新しいコード(和声)を奏でることができる。

 新しいコードとは、ルートより9度、11度、13度高い音を含んだコードである。これらのコードは、耳障りなのでクラシックでは使用されなかった。(クラシックは7度高い音まで。)

 だが、こういう高い成分を含んだコードが、モダンジャズのそれらしさを出していて、テンジョンコードと呼ばれる。緊張感が高いコードなので、そう呼ばれる。

 ベースがルートを引き続けてくれるおかげで、他の奏者は、こうした自由なコードを使用しうる。ただし、他のコード楽器、ピアノやギターなどはルートを弾かない。音が濁ってしまうからだ。

 ところで、和音とは複数の音を同時に出すことである。だから聴き苦しい不協和音も和音の一種である。一方、和声というのは、和音の中で心地よいものだけを指す。

 ルネッサンスまでは、ルートと4度、またはルートと5度しか心地よい和声ではないとされた。すなわち、ドとファ、ドとソしか和声とは認められていなかった。

 それがベートーベン、モーツァルトの時代になって、ドミソ、ドファラ、シレソが和声として認められるようになった。つまり3度が和声の仲間入りをした。比較的最近のことである。

 さらに軽音楽は、7度を入れても和声として認めた。ドミソシ♭が和声となった。続いてモダンジャズは9度11度13度を入れても和声と見なすようになった。これがテンジョンコードの興りであり、その結果、音楽の緊張感を高めることになった。ドをベースが弾いて、ピアノがあとのミソシ♭レを弾くと、モダンジャズらしいサウンドとなる。

 モダンジャズの緊張感あふれるテンジョンコードに慣れてしまうと、クラシックや軽音楽の、ただ調和しているだけの和声では物足りなくなってしまう。モダンジャズを一番、特徴付ける音、それがテンジョンなのである。

このたびの地震に寄せて(23)

2011-04-25 06:47:20 | Weblog
 まえからそうだったが、このたびの地震で、大地震を「だいじしん」と読む人が多くなったような気がする。

 大地震は「おおじしん」と読む。大震災は「だいしんさい」である。これらは言い習わしであって、どちらが正しいということはないけれども、特別な理由がないのなら、言い習わしに従うべきである。

 早急は「さっきゅう」と読む。それを最近「そうきゅう」と読む人が多い。早速は「さっそく」は読めるはずなのに、なぜ「さっきゅう」が読めないのだろうか?早速は、ふり仮名問題で小学校の定番である。(早急は定番ではないからか?)

 礼拝は「らいはい」と読む。それが最近、NHKでさえ「れいはい」と読むようになってしまった。そのうちに、NHKでも早急を「そうきゅう」と読むようになるかも知れない。

モダンジャズの歴史(コピー編)

2011-04-24 09:55:38 | Weblog
 モダンジャズ演奏を志す若者は、みなチャーリー・パーカーをコピーすると「モダンジャズの歴史(4)」(2011-04-19)で述べた。パーカーのアドリブには、モダンジャズのエッセンスが詰まっている。ただし、これは管楽器においてのことである。

 ピアノをやりたい者は誰をコピーするのだろうか?メロディアスな演奏が好きなら、レッド・ガーランドを模倣するかもしれない。華麗な演奏なら、オスカー・ピーターソンだろう。モダンな雰囲気を前面に押し出したいなら、セロニアス・モンクかウィントン・ケリーということになる。

 オスカー・ピーターソンは、クラシックの素養がなければモダンジャズはできないと、生前主張していた。私も2回、彼の演奏を生で聴いたが、まるでショパンがモダンジャズを弾いているようだった。

 珍しく白人で上手なピアニストがいる。ビル・エバンスがその人であるが、和音が難しすぎてコピーができない。無理矢理コピーした人がいて、譜面が出版されている。エバンスが来日するおり、私はチケットまで買ってあったのだが、来日直前に急死してしまった。そのため、私はエバンスの生を聴いていない。

 ドラムをやりたい人は誰をコピーするのだろうか。お手本のような人は見つからない。たぶん、いろんな人をコピーするのだろう。私が驚いたのは16歳でデビューしたアンソニー・ウイリアムスである。彼は8拍子でトップシンバルを鳴らし続ける、これまでにない演奏で、人々を驚かせた。

 残念なことに、40代前半で亡くなった。私はデビューから死去まで彼の演奏を聴いたことになる。マイルスに認められた人だった。同じくドラムのエルビン・ジョーンズと来日したときに、私はアンソニーの生を聴いている。エルビン・ジョーンズは名前はアンソニーよりも有名だったが、私にはどこがよいのか分からなかった。

 ベースはポール・チェンバースがよくコピーされるのではあるまいか?ピアノのレッド・ガーランドと組んでいた正統派で、私が高校1年でジャズにハマったとき、すでにこの世の人ではなかった。

 オスカー・ピーターソンと組んでいたベースのレイ・ブラウンも、正統派なのでコピーしやすいだろう。もう一人はもう解散したモダンジャズクヮルテット(MJQ)のベーシスト、ロン・カーターだろう。この人は弓でベースを弾いたり、同じフレーズを繰り返したり、面白いことをやるので印象に残る。

 世界中にビートルズのコピーバンドがある。ビートルズの人気の凄さを物語っている。ジャズにもコピーバンドならぬコピー演奏者がいる。一番うまいのは、マイルスをコピーしたウイントン・マルサリスというトランペッターだろう。

 マルサリスはマイルスのアドリブそのものをコピーしたのではない。マイルスのスタイルをコピーしたのだ。だから新曲でもマルサリスが吹くと、マイルスが吹いているような錯覚におちいる。彼はクラシック出身なのか、音色、音程がきわめてよく、マイルスのように外れたりカスれたりすることがない。テクニックも一流である。でも、整いすぎていてマイルスほど面白くないと、私は思っていた。

 20年ほど前に来日した。妻は聴きに行ったが、私は行かなかった。マイルスを生で何度も聴いている私は、マルサリスはレコードで十分だった。演奏会から帰ってきた妻も、お行儀がよすぎて面白くなかった、と言っていた。

このたびの地震に寄せて(22)

2011-04-23 23:23:15 | Weblog
 本日、オーストラリアの女性首相が、外国の首脳としては初めて被災地を訪問したと、美談のように報道されていた。

 私からすれば、いまごろ来ても遅い、ということになる。

 なぜならば、3月11日の震災後、真っ先に東京の大使館を閉鎖して逃げたのが、オーストラリアだったからである。(これについては、2011-03-17 のこの欄で報告した。)

 その罪滅ぼしのために、被災地を回ったのだろうけれども、侮ってはいけない。知っている人は知っているのである。

 上と同じ頁で、フランスが早々にチャーター機を飛ばして、在日フランス人を全員連れ帰ったことを報告した。この事実が押さえられていれば、サルコジ大統領がなぜいち早く来日したか、すぐに意味が分かるのである。

TV番組「スター誕生」

2011-04-23 16:38:08 | Weblog
 人気タレントの山口百恵さんは、TVのオーディション番組から出てきた。「人買い」みたいなスカウトの集団がいて、このタレントと契約交渉するかどうか、札を立てるのである。

 山口百恵さんが出たとき、スカウトの札がいっせいに挙がった。そのTV番組を私は見ていた。私にとって、当時の山口百恵さんはあまりサエない、普通の娘のように思えた。ところが、スカウトの札が林立したので驚いた。

 その後の山口百恵さんの出世は、みなさんご存じのとおりである。そして、絶頂のころサッサと引退してしまった。だから、なおのこと山口百恵さんは世間から忘れられない。スカウトはさすがにプロだと驚いた次第。

 番組の同じ回で、マッハ文朱さんという人がいた。この人には札は挙がらなかったが、別にスカウトされて、一時、女子プロレスをやっていたが、消えてしまった。

 この番組の何が面白かったかと言うと、作詞家の故阿久悠さんのコメントが優れているところだった。(番組自体、阿久悠さんの企画だった。)

 阿久悠さんは、例えば次のようなことを言った。「君はきれいだが、華がない。芸能界に入るべきじゃない。ふつうのお嫁さんになりなさい」。こうしたコメントによって、「スター誕生」は伝説となった。

 同じような趣向の番組に「勝ち抜き歌謡選手権」というのがあった。10人勝ち抜くとプロへの切符が渡される。ここで10人勝ち抜いてプロになった人に、歌手の八代亜紀さんがいる。

 八代亜紀さんは、うまかった。しかし、歌うときの顔つきが、力が入りすぎて鬼のようになってしまうのだ。審査員にそこを指摘された。誰だったか忘れたが、次のように述べた。「あなたは歌がうまいのだから、顔を何とかしなさい。もともと、きれいな顔なんだから」。八代さんはプロになってから、オーディションのときのような、険しい顔は絶対にしなくなった。

 当時はオーディション番組がブームで、名称はあやふやだが「お笑い勝ち抜き選手権」といった番組があった。この番組でプロになったのは、モノマネのコロッケさんだ。コロッケさんは、ちあきなおみさんのモノマネをして、顔まで似ていて爆笑した。

 ちあきなおみさんは、うまかったが20年以上前に突然姿を消したから、コロッケさんのモノマネが分かる人は少なくなっただろう。

 AKB48などのオーディションや人気投票が盛んである。これもまたTVエンターテインメントにしたら面白いと思うし、私は視聴するつもりである。

鞭打ち症とPTSD

2011-04-22 17:47:32 | Weblog
 私が中学高校生だった頃、すなわち昭和40年前後はモータリゼーションの時代だった。街中に車があふれ、インフラの整備が追いつかず、交通事故がひっきりなしに起こった。歩道と車道の分離をしている場所は少なく、今では信じられないような危険な道路に車と人が同居していた。

 当時「流行」したのが「鞭打ち症」である。主に追突によって起こるとされ、「鞭打ち症」患者が整形外科にあふれた。みな首の牽引をしていた。首を牽引している人々が一箇所に集まった異様な光景が、写真週刊誌を賑わした。

 しかし、治る人もあったけれども、治らない人も多かった。漠然とした頭重感や倦怠感が特徴で、明確な症状とは言えなかった。特に損害賠償をもらい続けている人の治りが悪かった。精神科医は分かっていた。それらが本当の「鞭打ち症」ではなく、ノイローゼの一種であることを。当時、私は高校生で、そんなことは知らなかった。

 医学部に入って、鞭打ち症の講義があった。担当は整形外科。鞭打ち症の名称は、鞭をしならせるように首が振れることからきている。その際、脊髄を包む硬膜という膜に皺ができて、皺が脊髄を圧迫する、というような説明を受けた。

 硬膜に皺が寄るほどの衝撃といったら、ものすごいものである。ところが、実際の鞭打ち症患者の衝撃は、そういう激しいものもは少なく、多くはコツンと追突されただけの軽微なものである。

 学生の私でも「変だな」と思っていた。そうしたら、整形外科が難治の「鞭打ち症」を精神科に回し始めた。整形外科が、多くの「鞭打ち症」は本物ではなく、ノイローゼだと気づいた一瞬だった。

 そのとき運輸省が動いた。車の座席すべてに枕を付けることを義務づけたのである。私は「運輸省もなかなかやるなぁ」と思ったものだ。「枕」というおまじないで、「鞭打ち症」は激減した。諸外国で車の座席に「枕」を義務づけている国があるのかどうか、私は知らない。

 だが、「鞭打ち症」の亡霊は現在でも出る。2階から落ちても「鞭打ち症」にならないのに、コツンと追突されただけで、「鞭打ち症」になったと騒ぐ人がいる。

 「軽い鞭打ち症」という表現もある。本物の鞭打ち症に「軽い」なんていうのはない。一度、染み付いた観念は40年たっても、抜けないのだなと思う。このたびのPTSDを、かつての「鞭打ち症」にしてしまってはならない。注目しておこう。

残るタレント残らないタレント

2011-04-21 08:45:44 | Weblog
 今、活発にTV出演しているタレントで、どれだけの人が残るだろうか?

 先日、この欄で述べたように、お笑い芸人はほとんど残らないだろう。

 名前は忘れたが、戦場カメラマンと称している髭のおじさんも、残らないだろう。わざとゆっくりしゃべって、今は受けているようだが、じきに飽きられる。コメントも面白くない。だから、残らないと断言できる。

 マツコ・デラックスは残るかもしれない。オネエキャラで毒舌はけっこう残っている。美和明宏然り、最近あまり見かけないがカルーセル麻紀然りである。

 ほんものの女性でないから、性的魅力だけでは勝負できないので、頭がよくなければならない。マツコ・デラックスは頭がよい。だから、美和のように残る可能性がある。

交互色彩分割法

2011-04-20 09:18:01 | Weblog
 表題の技法は対人コミュニケーションの一方法である。私はこの技法を、1978年にある学術雑誌に発表した。当時、重症の慢性統合失調症者との言語的コミュニケーションの難しさに苦しんでいた私は、苦し紛れに表題の方法を、非言語的コミュニケーションの一技法として考案した。

 その後、九州大学のS医師を初めとして、いろんな「変法」が考案され、1980年台には盛んに利用された。そのうちに、私は慢性統合失調症者との付き合いが少なくなり、私自身、この技法を使わなくなっていた。

 私はもうこの技法のことをすっかり忘れていた。そんな先日、25年ぶりにS医師から電話があった。私の所在はネット検索で調べたようだった。用件は「九州の若い医療者が先生(私のこと)に会いたがっているから、九州で講演をしてほしい」と言うものだった。

 思いもよらぬ要望だった。私にとって表題の技法はもうセピア色になっている。でも、九州ではまだ行われているという。裁判所などで調査官が行ったりしているらしい。私は開業してしまって、九州へ行く時間がないこと、また私自身この技法を行っていないこと、などを述べてお断りしたが、タイムスリップしたように昔のことが思い出されてきた。

 考えてみれば、対称図形を見せて何に見えるかを問うロールシャッハ・テストも、本人は原案を示しただけで、むしろロールシャッハ氏の死後、このテストは発展した。私がロールシャッハ氏に比肩するというのではないけれども、私の知らないところで、原法が改良されているのを散見して、悪い気分はしなかった。

 S医師がネットで私の所在(電話番号)を調べたように、私もネットで「交互色彩分割法」を検索してみた。そうしたら、けっこう記事があるではないか。

 精神医療の現場はもちろん、裁判所、学校などでも使用されているようだ。それも、原法のままではなく、例えば親子や家族でこの技法でコミュニケーションしてもらうとか、必ずしも医療場面でないところで使用されていることも分かった。

 さらに驚いたのは、この技法が大学で教えられているらしいということだ。立命館大学の心理学科を初め、数校で教えている。もう考案者(私)は忘れられて、技法だけが一人歩きしているのだろう。

 中国や台湾に紹介されていることも分かった。英語で検索をしてみたら、ロシア語の論文が1件ヒットした。

 九州の若い人たちがこの技法を行い、たまたまS医師が考案者(私)と面識があることを知って、彼らが考案者に会いたいとS医師にねだった場面が想像されて、一日ほのぼのとした気分になった。

 「交互色彩分割法」原著論文
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モダンジャズの歴史(4)

2011-04-19 06:18:38 | Weblog
 モダンジャズの祖といえば、チャーリー・パーカーだろう。彼は「バップ」を始めた。「バップ」は最初、難解だと言われたけれども、今そんなことを言う人はいない。私なぞは「バップ」すなわちモダンジャズだと思っている。

 もっともチャーリー・パーカーが一人で「バップ」をやったわけではない。モダンジャズにもアカペラのようなものがないではないが、ふつう合奏(バンド)でやる。彼のグループからは、マイルス・デビスやジョン・コルトレーンなど、錚々たるメンバーが輩出している。

 マイルス・デビスもジョン・コルトレーンも、チャーリー・パーカーを超えようとして頑張った。マイルス・デビスは当時「クール・ジャズ」と呼ばれた演奏スタイルで名盤(LP)を残している。

 クール・ジャズの次はモード奏法である。マイルスは自らのスタイルを変えては変えて、とうとう死ぬまで変え続けた。モードとは旋法のことである。モード奏法とは、コード進行を決めるのではなく、あらかじめ旋法の変化だけを決めておいて合奏する方法である。

 これはマイルスの「発明」というよりも、チャーリー・パーカーのコード奏法があまりに華麗すぎて、マイルスにはそれをマネするほどのテクニックがなく、しかたなくモード奏法でごまかした、という見方もある。モード奏法でもカデンツァ(終止形)の部分はコードが決められていた。

 それはともかく、マイルスがモード奏法で新境地を開いたのは紛れもない事実である。名盤「マイルス・スマイルズ」は、マイルスでなくては実現しなかった音楽だ。このレコードは今や「古典」となった。この流れを汲むのが我が国では日野テルマサである。

 マイルスはその後さらに変化して、エレキ・トランペットや電子効果音を出す「ワウワウ」を使用して、別の音楽を始めた。そのころのLPが「ビッチズ・ブルー」だが、これは今では聴く人が少ない。居酒屋のBGMで使われるのは、せいぜい「マイルス・スマイルズ」までか、多くはそれ以前の演奏である。(つまり、モード奏法は、あまりBGMには使用されない。)

 モード奏法の時代を飛び越えて、突然のようにフリージャズ的な方向に向かったのがジョン・コルトレーンである。彼の難解だが胸にしみる「至上の愛」や「マイ・フェーバリト・シングズ」などの演奏(LP)には今でもファンがいる。

 そのファンたちも、コルトレーンの生演奏は聴いたことがないはずだ。自慢話しで恐縮だが、私は1965年に来日したコルトレーンの生演奏を聴いている。すばらしかった。当時、コルトレーンは日本ではまだメジャーではなく、演奏会場も半分くらいの入りだった。彼は来日の翌年に急死したから、日本人でコルトレーンの生に接した人は少ないと、私が言うのには根拠がある。

 コルトレーンと同じころ、オーネット・コールマンという人がフリージャズを引っ提げて来日した。私はコールマンのジャズを好まなかったので、演奏会には行かなかった。現在、もうフリージャズは忘れられ、コールマンも忘れられた。

 モダンジャズを志す多くの若者がコピーするのは、今でもやはりチャーリー・パーカーである。マイルスでもコルトレーンでもなくて、パーカーなのだ。現在の我が国の居酒屋で鳴らされているBGMは、その大元はパーカーによって造られたものなのである。

コンピュータ将棋

2011-04-18 10:54:38 | Weblog
 プロ棋士がコンピュータと将棋をさすことを、日本将棋連盟会長の米長邦雄氏が禁止している。

 囲碁のほうには、そうした禁止事項はない。いまのところ囲碁のコンピュータソフトは将棋ほどに強くない。

 つまり、プロ棋士がコンピュータと将棋を指すと、負けてしまう可能性があるから、禁止されているのだろう。でも、いつまで禁止するつもりだろうか?将棋ソフトはどんどん強くなっている。

 スーパーコンピュータがもっと速くなれば、さらに強くなるだろう。スーパーコンピュータがもっと速くなるきざしはある。量子コンピュータが実用の段階に入ってきている。量子コンピュータが作られれば、今のスーパーコンピュータより1000倍くらい速くなるだろう。

 プロ棋士はそうなる前に、コンピュータソフトの弱点を研究しておくべきである。そうしないと、本当にコンピュータに負けてしまうだろう。

 将棋ソフトの弱点は中盤である。ソフトには「感覚的な」手というのが打てない。中盤は感覚がものを言う。だから、そのあたりの弱点を研究しておけと言っているのだ。

 「寄せ」や「詰め」はコンピュータの得意なところである。何10手も何100手もコンピュータなら読んでしまう。いくらプロ棋士でも100手の詰将棋を読まれたら、もうコンピュータには勝てない。

 そのうちに将棋ソフトは中盤も強くなるだろう。そこには怨念が懸かっていることをプロ棋士は忘れてはならない。怨念とは、プロになりたくてプロになれなかった、すなわち奨励会を卒業できなかった強豪たちの怨念である。

 奨励会からプロになれなかった者たちは、将棋ソフトの改善に積極的に協力している。メモリ容量も、量子化されれば激増するだろう。これまで打たれたすべての棋譜をメモリに置いておくことも夢ではない。

 そうなる前にプロ棋士は、将棋ソフト攻略法を練っておかないと、手遅れになるだろう。いや、もう手遅れかもしれない。