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七曲り下の千本 昭憲皇太后

2014-01-30 23:30:51 | 日記

昭憲皇太后御野点跡とあります。
明治23年4月21日とあります。

昭憲皇太后(嘉永2年4月17日(1849年5月9日) - 1914年(大正3年)4月9日)は、明治天皇の皇后。
旧名・一条美子。
病弱で実子はなかったが、嫡妻として、明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。



七曲り下の千本

2014-01-30 21:21:45 | 日記

吉野山大駐車場を出て直ぐ。
七曲り下の千本の説明版がある。

「昭憲皇后野点の跡」展望台で、「七曲り下の千本」です。
ここには、近鉄吉野線の終着駅「吉野駅」から「幣掛神社」を経て、吉野山への「七曲り」の急坂を登って来ることも出来ます。
そして、この付近一帯に植わっている桜が下の千本で、昔の一目千本と云う眺めもこの辺りです。
元禄頃の「吉野紀行」に「日本が花」七曲りなと過ぎ行くに、諸人桜苗を求め自らも又桜30本を植えて蔵王権現に奉る、とあり。

いつかまた 訪ふと云ひつつ美吉野の 我が植えおきし花を来て見む



村上義光公の墓2

2014-01-29 21:56:02 | 日記

立派な墓である。
足元には小さな鎧兜がある。

村上彦四郎義光は信州埴科の人で、早くから大塔宮護良親王に従って北条幕府と戦ったが、元弘3年(1333)吉野城が落ちる時、大塔宮の身代わりになって蔵王堂二天門の高櫓の上で腹をかき切って果てた。
その義光の首を検分した北条方が大塔宮でないことを知り、ここに捨てられたのを里人が弔って墓としたものという。
太平記によれば、義光の首は京都へ持っていかれたので、ここには胴体が埋葬されたのであろうか?
忠烈碑は天明3年(1773)大和高取藩士内藤景文が義光の戦功を讃えて建てたもの。
なお、義光の子・義隆も、父と共に死のうとしたが、大塔宮を護って落ち延びるように諭され、高野山に向かう途中、追いかけてきた敵と戦い討ち死にし、義隆の墓が勝手神社の南西1kmの所にあるそうだ。


村上義光公の墓

2014-01-29 21:23:27 | 日記

ついに念願の村上義光公の墓を発見。
少し上がった所に墓はあった。

村上義光 元弘3年/正慶2年閏2月1日(1333年4月15日)は、鎌倉時代末期の武将。
村上信泰の子。
兄弟に国信、信貞らがあり、子に朝日、義隆らがある。
官位は従五位下、右馬権頭。
通称は彦四郎。
諱は義日とも記される。
大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)の忠臣として知られる。

『太平記』では元弘の変の頃、笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉した9名の1人として登場する。

元弘3年(1333年)、幕府方の二階堂貞藤が6万余騎を率いて吉野山に攻め入った。
護良親王軍は奮戦するも、いよいよ本陣のある蔵王堂まで兵が迫った。
親王はこれまでと最後の酒宴を開いていたが、そこへ義光がやってきて親王を説得し落ち延びさせる。
義光は幕府軍を欺くため、親王の鎧を着て自ら身代わりとなって「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と叫び、切腹して自刃した。
この時、自らのはらわたを引きちぎり敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、うつぶせに伏となって絶命したという壮絶な逸話が残る。
なお、子の義隆も義光と共に死のうとしたが、義光はこれを止め親王を守るよう言いつけた。
その後、義隆は親王を落ち延びさせるため奮闘し、満身創痍となり力尽き、切腹し自害した。