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藤白神社6

2013-08-14 20:40:57 | 日記

後で調べたら、有馬皇子の墓は高架下にある様です。
それに鈴木屋敷も見ていない。
穴だらけです。
また出直さなければならない。

因みにここにも熊野古道がある。
熊野古道は京都から始まっているという。
京に都があった頃に京から熊野詣が始まるからだ。

藤白神社5

2013-08-14 20:27:35 | 日記

舒明天皇12年(640年)、軽皇子(後の孝徳天皇)の皇子として誕生。
母は左大臣・阿倍内麻呂の娘・小足媛。

孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日)に父が即位し孝徳天皇となる。
孝徳天皇は同年の大化元年12月9日(646年1月1日)に都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)は白雉4年(653年)に都を倭京に戻すことを求めた。
孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に倭京に移り、皇族たちや群臣たちのほとんどや孝徳天皇の皇后である間人皇女までも、中大兄に従って倭京に戻ってしまった。
失意の中、孝徳天皇は白雉5年10月10日(654年11月24日)に崩御した。
このため、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)、孝徳天皇の姉の宝皇女(皇極天皇)が再び飛鳥板葺宮で斉明天皇として重祚した。

父の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に赴いた。
飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。
飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄が近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方であると告げた。
皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。
なお近年、有間皇子は母の小足媛の実家の阿部氏の水軍を頼りにし、天皇たちを急襲するつもりだったとする説が出ている(森浩一『万葉集の考古学』など)。

ところが蘇我赤兄は中大兄皇子に密告したため、謀反計画は露見し(なお蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと考えられている)、有間皇子は守大石・坂合部薬たちと捕らえられた。
斉明天皇4年11月9日(658年12月9日)に中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。
私は何も知らぬ」(天與赤兄知。吾全不知)と答えたといわれる。
翌々日に藤白坂[1]で絞首刑に処せられた。

なお、処刑に先んじて、磐代の地で皇子が詠んだ2首の辞世歌が『万葉集』に収録されている。
ただしこの2首については、民俗学者・折口信夫により後世の人物が皇子に仮託して詠んだものではないかとも考えられている(『折口信夫全集』第29巻)。

有間皇子の死後、大宝元年(701年)の紀伊国行幸時の作と思われる長意吉麻呂や山上憶良らの追悼歌が『万葉集』に残されている。
以降、歴史から忘れ去られた存在となるが、平安後期における万葉復古の兆しと共に、幾ばくか史料に散見されるようになり、磐代も歌枕となる。
ただし『俊頼髄脳』では、辞世歌が父・孝徳と喧嘩して出奔した際の歌とされているなど、伝説化の一途を辿るようになる。
極端な例では、江戸時代の『百人一首』の注釈書などでは「後即位」とまでなっている。
また、藤白神社の境内には、有間皇子を偲んで有間皇子神社が創建された。
藤白坂には「藤白の み坂を越ゆと 白樽の わが衣手は 濡れにけるかも」(『万葉集』巻9・1675)という、皇子を偲んだものと思しき作者不詳の歌碑も残っている。


藤白神社4

2013-08-14 20:14:53 | 日記

藤白王子権現本堂
境内にある藤白王子権現本堂は藤代王子を顕彰するもので、祭神の本地仏3体が祀られている。
これらの仏像はもともと藤代王子の神宮寺であった中道寺に祀られていたものであったが、豊臣秀吉の紀州征伐に際して危害が及んだ際に縁の寺院に避難させていたものを江戸時代に復したものである。
明治の神仏分離の際の破棄を免れ今日に伝わっている。

仏像はいずれも平安末期の作で、主要な像に以下のものがある。

木造熊野三所権現本地仏坐像 - 県指定文化財(美術工芸品、2005年〈平成17年〉5月31日指定)
阿弥陀如来 - 家都美御子大神の本地仏
薬師如来 - 熊野速玉大神の本地仏
千手観音 - 熊野夫須美大神の本地仏
木造十一面観音立像 - 藤白若一王子の本地仏。
県指定文化財(美術工芸品、2005年〈平成17年〉5月31日指定)。
毘沙門天および不動明王三尊 - 熊野の入り口の守護

鈴木屋敷
熊野三党の一族で、全国の鈴木氏の総本家の屋敷跡。
邸内の庭園は平安時代の曲水泉の様式として評価されているが、建屋は朽崩がすすんでいる。


藤白神社3

2013-08-13 22:47:08 | 日記

創建年代については不詳であるが、景行天皇の代の創建とされる。
また、社殿は斉明天皇の牟婁の湯行幸の際に建立されたと伝わる。

中世熊野御幸の盛期には、九十九王子の中でも特に格式の高い五体王子のひとつとして崇敬され、熊野詣の途上における要所であった。
吉田経房の参詣記(『吉記』所収)承安4年(1174年)9月25日条に「於藤代王子行里神楽」、藤原経光の参詣記(『民経記』所収)承元4年(1210年)4月25日条にも参拝の折には馴子舞や藤代王子におかれていた巫女による里神楽が行われたと記され、後鳥羽院参詣記(『明月記』所収)建仁元年(1201年)10月9日条に「御経供養」「白拍子」といった文字が見えるなど、歌会・里神楽・相撲などの奉納が行われるのが通例であった。
境内東通用口から西へ抜けてゆく道はかつての熊野参詣道で、北側にある正面参道は近世の熊野街道の道筋につながっている。

後鳥羽院の建仁元年(1201年)の熊野詣の際には藤白の次の宿泊地であった湯浅で歌会が催され、その歌会で詠まれた歌が藤白王子に献納されている。
このときの後鳥羽院らの詠歌が熊野懐紙として3通が残されており、陽明文庫などに所蔵されている。

1400年(応永7年)付の禅林寺文書に「藤白王子免」として3町3反の記載があり、大野郷で最大の神田を有していた。
しかし、戦国時代の兵乱で社殿や神領を失ったが、慶長6年(1601年)に浅野幸長から藤白村に6石の寄進があった(『続紀伊風土記』)。
さらに、同年および寛文6年(1666年)に社殿の造営が行われた。
江戸時代後期に紀州藩が編纂した地誌『紀伊続風土記』は藤白若一王子権現社として記載し、境内東西二八間・南北三〇間、本社三扉、庁、御供所、鐘楼、石鳥居、末社三社などがあり、和歌山雲蓋院末の寺院が別当をつとめたと記している。

明治以降には村社に列格され、次いで昭和初期に郷社、1939年(昭和14年)には県社に列された。
1909年(明治42年)には祓戸王子を合祀した。


藤白神社2

2013-08-13 21:54:02 | 日記

藤白神社は、和歌山県海南市にある神社。
鈴木姓の発祥の地とされる鈴木屋敷がある。
九十九王子のなかでも別格とされた五体王子のひとつ藤代王子の旧址で、「藤代神社」「藤白権現」「藤白若一王子権現」などとも呼ばれた。