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勧業山記念碑

2015-12-17 23:01:08 | 日記
上平主税碑の向かい合わせに勧業山記念碑があります。

『幕末、十津川郷士は京都に出て勤皇運動に従うこと数年に及んだ。
この為維新後、山林は荒れ失業者続出、村は疲弊した。
この窮乏を救うため、明治15年(1882)更谷喜延をはじめ同憂の士が、政府に働きかけ、勧業資金の貸付を請願した。
しかし、事は急には捗らず、明治20年(1887)になって漸く士族授産資金、3万円の貸与が許可された。
村はこのすベてを産業復興資金として、こりかき山・北又山554町歩、300万本の杉桧の植栽にあて、明治27年(1894)完成した。
後年、この山林は勧業山と呼ばれ、村の基本財産となり、一部は文武館財政の基盤となった。
尚、借受けた資金は、年々返済の予定であったが、明治大水害の為免除された。』
建碑は昭和15年(1940)、文は文武館長古川正澄である。

上平主税碑

2015-12-17 22:38:18 | 日記
8時35分、上平主税碑に到着。
上平主税?
ちょっと調べてみた。

文政7年(1824)9月14日野尻に生まれる。
若くして紀州松岡梅軒に医術を学び、また京都において国学を修める。
嘉永6年(1853)6月黒船の来航により、天下騒然たるとき同志と共に、一郷を鼓舞して、国事に奔走せん事を謀る。
同年9月郷中総代として五條代官へ一郷挙げて奉公致したき旨、建白書を提出した。
安政元年(1854)1月、梅田雲浜を京都に訪い私淑する。
9月ロ艦大阪湾に入るを聞き上平は、雲浜を盟主として、十津川郷士を伴い打ち払いを謀るが、ロ艦港外に去ったため実行に至らず止む。
4年(1857)同志と共に滝峠に護良親王御詠の碑を建て、郷民の士気を鼓舞した。
5年(1858)上京、諸国の志士と交わる。
孤島に日はのぼる、医者ザムライとそのまご 文久3年(1863)3月中沼了三の門に入る。
同月同志と共に再び建白書を中川宮に奉り、十津川は御所の警衛を許されることになった。
8月天誅組の変に際しては、急ぎ帰郷、郷中総代として収拾に努める。
元治元年文武館開館に際しては、師儒宮中沼了三を案内し、吉田正義と折立に来り式に参列する。
明治2年(1869)横井小楠要殺事件起こるや、首謀者と見なされ、伊豆新島に終身流刑となった。
流刑中医業を生かし種痘をするなど、多くの島民や流人の命を救い、又手習師匠をする等新島の恩人と尊敬された。
今も主税の在島記念の流人塔が、門人によって建てられている。
碑面には“大君の恵みにもれぬ民なれば あしきをよきに かえせ罪人”と刻まれ、側面には大和十津川郷士上平主税などと記されている。
島の資料館には、主税の使った薬箱が保存されている。
12年(1879)3月、特赦により島民に別れを惜しまれながら、10年振りに故郷に帰り、医業に従い親に孝養を尽くした。
20年(1887)郷社玉置神社の神官となり、24年(1891)3月20日、玉置、松平にて67歳の生涯を閉じた。
野尻に帰葬し、玉置山の頂上近くに碑が建てられた。
主税早くから勤王の志篤く、神道を敬い、王政復古を目的とした。
身体小なるも識見高く、機をみるに敏、策を樹つる事速、十津川の知恵袋といわれ、常に郷士たちのリーダーと目され活躍した。
主税亡き後、孫の上平喜晴も新島に渡り、島民の医療に尽くした。

宝冠の森へ

2015-12-17 21:16:33 | 日記
8時31分。
いよいよ念願の宝冠の森へ向かいます。
心配していた雪も問題ありません。
ここから少し下りになります。
宝冠の森までは50分とあります。
普通50分とあれば、我々の足なら3、40分位で行けると思ってました。
それが甘かった。
少し下ると、石碑に辿り着く。