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村上義光公の墓2

2014-01-29 21:56:02 | 日記

立派な墓である。
足元には小さな鎧兜がある。

村上彦四郎義光は信州埴科の人で、早くから大塔宮護良親王に従って北条幕府と戦ったが、元弘3年(1333)吉野城が落ちる時、大塔宮の身代わりになって蔵王堂二天門の高櫓の上で腹をかき切って果てた。
その義光の首を検分した北条方が大塔宮でないことを知り、ここに捨てられたのを里人が弔って墓としたものという。
太平記によれば、義光の首は京都へ持っていかれたので、ここには胴体が埋葬されたのであろうか?
忠烈碑は天明3年(1773)大和高取藩士内藤景文が義光の戦功を讃えて建てたもの。
なお、義光の子・義隆も、父と共に死のうとしたが、大塔宮を護って落ち延びるように諭され、高野山に向かう途中、追いかけてきた敵と戦い討ち死にし、義隆の墓が勝手神社の南西1kmの所にあるそうだ。


村上義光公の墓

2014-01-29 21:23:27 | 日記

ついに念願の村上義光公の墓を発見。
少し上がった所に墓はあった。

村上義光 元弘3年/正慶2年閏2月1日(1333年4月15日)は、鎌倉時代末期の武将。
村上信泰の子。
兄弟に国信、信貞らがあり、子に朝日、義隆らがある。
官位は従五位下、右馬権頭。
通称は彦四郎。
諱は義日とも記される。
大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)の忠臣として知られる。

『太平記』では元弘の変の頃、笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉した9名の1人として登場する。

元弘3年(1333年)、幕府方の二階堂貞藤が6万余騎を率いて吉野山に攻め入った。
護良親王軍は奮戦するも、いよいよ本陣のある蔵王堂まで兵が迫った。
親王はこれまでと最後の酒宴を開いていたが、そこへ義光がやってきて親王を説得し落ち延びさせる。
義光は幕府軍を欺くため、親王の鎧を着て自ら身代わりとなって「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と叫び、切腹して自刃した。
この時、自らのはらわたを引きちぎり敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、うつぶせに伏となって絶命したという壮絶な逸話が残る。
なお、子の義隆も義光と共に死のうとしたが、義光はこれを止め親王を守るよう言いつけた。
その後、義隆は親王を落ち延びさせるため奮闘し、満身創痍となり力尽き、切腹し自害した。



峰の薬師堂跡

2014-01-29 20:58:01 | 日記

村上義光の墓を探して走る。
大駐車場の手前にあった。
前から気になってたので見つけて嬉しい。
義光の墓のすぐ隣に峰の薬師堂跡なるものを発見した。
石碑と説明版があるだけで、後はただの空き地。

明治初年まで瓦葺の大きなお寺があったが、廃仏毀釈で取り壊され、本尊の薬師如来は行方不明となり、石造不動明王は如意輪寺の境内に移され、今も近畿36不動尊の第三十番難切不動尊として厚い信仰を受けているそうだ。