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立派な墓である。
足元には小さな鎧兜がある。
村上彦四郎義光は信州埴科の人で、早くから大塔宮護良親王に従って北条幕府と戦ったが、元弘3年(1333)吉野城が落ちる時、大塔宮の身代わりになって蔵王堂二天門の高櫓の上で腹をかき切って果てた。
その義光の首を検分した北条方が大塔宮でないことを知り、ここに捨てられたのを里人が弔って墓としたものという。
太平記によれば、義光の首は京都へ持っていかれたので、ここには胴体が埋葬されたのであろうか?
忠烈碑は天明3年(1773)大和高取藩士内藤景文が義光の戦功を讃えて建てたもの。
なお、義光の子・義隆も、父と共に死のうとしたが、大塔宮を護って落ち延びるように諭され、高野山に向かう途中、追いかけてきた敵と戦い討ち死にし、義隆の墓が勝手神社の南西1kmの所にあるそうだ。
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