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桜井市外山の不動院の本尊としてまつられる等身像で、ほぼ正面を向き、眼は片目をすがめた天地眼とし、牙を上下に出す。
総髪として頭頂に莎髻を結い、花飾のある冠帯を巻き、弁髪は束ね目を表さずにねじれながら左胸に垂れる。
基本的に不動十九観に基づく図像だが、この種の象に一侵的な巻髪でなく、弘法大師様以来の形式の、髪を杭きあげた総髪としている例は比較的珍しい。
寄木造で頭体幹部を左右矧ぎとし、背面に背板風に一材を足し、両脚部に一材、両腰に各一材を寄せ、三道下で割首とする。
両肩より先は別材製。
光背は三材を矧ぎ寄せており、台座は各段ごとに四材を矧ぐ構造をもつ。
いかにも平安後期彫刻らしい高雅な気品にみちた造形をもつ像で、忿怒相をとりながらもその表情には静謐さが漂い、一肩幅と膝の張りを大きめにとって腰を絞ったプロポーションもバランスがよい。
微妙な起伏を的確にとらえた面貌表現、過不足ない体軀の肉付け、浅く柔らかなタッチで簡潔に刻まれた衣文など、随所に洗練された彫技が発揮されており、中央の有力仏師の手になる本格的な造像であったと推測される。
持物や腕・臂釧など一部が後補のものに替わるが、着衣表面に施される華麗な彩色・裁金も含めた本体はもとより、二重円相をもち、ゆらめく火炎を表現する光背や重厚なつくりの瑟々座に至るまで大部分が当初の姿を残している点でも極めて価値が高い。
伝来が不詳であることが惜しまれるが、院政期の坐形の不動像のなかでも屈指の優作の一つに数えられよう。
平安時代に登美山とみやま鎮座宗像むなかた神社が創始され、村の鎮守として祀られていましたが、仏教の興隆と密教の流布により、また神仏混淆こんこうの時代に入り、併せて村内鎮護の寺として建立されたものと考えられています。
藤原一門が談山神社に参詣のおり、当院で身を清めた後に登山したと言われ、当時の天台座主慈円書の扁額が掛けられており、山号も藤原山となっています。
南北朝時代には僧兵が南朝側について戦い、堂塔伽藍が焼打ちにあったといわれ、当時はかなりの寺観を保っていたと思われます。
かろうじて焼失を免れた本尊不動明王は小さいお堂の中で大切に保存されてきました。
江戸時代には四代将軍家綱の上覧に供したと言われています。
その後、住職不在の時代も続き荒廃していた様ですが、昭和56年から57年にかけ、本尊の修復と外山地区区民皆様のご協力により本堂および脇部屋の改修が行われました。
その際の棟木札によると元文5年(江戸中期)に屋根瓦を新調、翌寛保元年(1741年)に葺き替え完成。
文久元年(1861年)幕末に本堂の大修理が行われています。
いずれも120年毎の辛酉の年にあたり、お不動さんが酉年生まれの守り本尊と言われる由縁で益々明王信仰を深くするものであります。
現在では真言宗の寺院として「とびのお不動さん」の愛称で親しまれています。
最近では藤原一門にならって、談山神社へ参拝する前に不動院でお参りしてから談山神社のある多武峰へ入山される方も少なくありません。