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忍坂坐生根神社 磐余玉穂宮?

2013-07-31 21:43:05 | 日記

9時48分。
忍阪の集落を南へ辿ると旧道の左側に「生根神社」が鎮座しています。
本殿はなく忍阪山の一部が神体山です。
祭神は、少彦名命、境内に陰陽石が一基あり、宮座も古風な形を伝えて、頭屋の記録「忍坂庄神事勤帳」も室町時代、コロンブスが米国を発見した1492年(延徳4年)からあるが、この辺りは神武東征時、宇陀から峠を越え土蜘蛛八十建を征伐した忍坂大室屋の伝承地で、意紫沙加宮の地とも云われ、継体天皇が磐余玉穂宮で即位する前に住んだ所です。


忍坂山口坐神社

2013-07-31 21:35:19 | 日記

9時34分、赤尾忍坂山口坐神社に到着。
鳥見山の東部、その東側の山麓を北西流する粟原川(忍坂川)により開折された谷間のほほ出口の地に鎮座する。
古い赤尾集落の北入口にあたる。
「古代ヤマト」の戌亥の隅に大坂山口神社、辰巳の隅に忍坂山口神社が鎮座する。
本殿なく拝殿のみで、拝殿奥(北側)に広さ30~40㎡の一区画を設け、中央東端に高さ63cm、基部幅53cm、奥行33cmの磐座(巻入岩)が立っている。
大正時代には「御神体ハ現存セル老杉一本ヲ崇ム」とされているがこの杉は現存しない。
境内北部にクスノキの巨樹がある。
目通り周囲7.3m、高さ25m、根元から高さ2mのとろから二股に分かれ、約15m四方に枝葉を廣げる。
応永4年(1397)に足利義満が伐つたという第一世のあとに植えた第二世らしく、樹令六百年になる。
本来は山を祀る神社であったが、いつしか木を祀る神社になりその神木も何代か失われて今日のようになったのではあるまいか。
現祭神は昭和5年11月15日を以つて決定された。
それまでは天一神といつた。


外山不動院2

2013-07-30 20:39:37 | 日記

像高 85.0cmで、弁髪を垂らし、花形飾りの金線冠を付ける。
目は天地眼、頭頂に沙髺をあらわす平安後期の不動明王の姿である。
左右の牙を上下出させる忿怒相で、上半身に条帛、下半身に裳を着け、その一部には切金模様が認められる。
右手には剣、左手は羂索を執る。
現状はほぼ古色を呈しているが、当初の華麗な色彩を留めており、二重円相を透かした火炎光背と七重の瑟々座が揃う不動明王の本格作は、県下でも珍しいとされている。

高さ455cm。
凝灰岩製で、搭身及び一重、三重から五重、九重の五笠石が当初のものであろう。
搭身は四方に顕教四仏(薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒)の梵字を薬研彫りしており、摩滅が著しいが古様な字体は、平安時代後半期の特色を見せている。


外山不動院

2013-07-29 22:18:06 | 日記

桜井市外山の不動院の本尊としてまつられる等身像で、ほぼ正面を向き、眼は片目をすがめた天地眼とし、牙を上下に出す。
総髪として頭頂に莎髻を結い、花飾のある冠帯を巻き、弁髪は束ね目を表さずにねじれながら左胸に垂れる。
基本的に不動十九観に基づく図像だが、この種の象に一侵的な巻髪でなく、弘法大師様以来の形式の、髪を杭きあげた総髪としている例は比較的珍しい。
寄木造で頭体幹部を左右矧ぎとし、背面に背板風に一材を足し、両脚部に一材、両腰に各一材を寄せ、三道下で割首とする。
両肩より先は別材製。
光背は三材を矧ぎ寄せており、台座は各段ごとに四材を矧ぐ構造をもつ。
いかにも平安後期彫刻らしい高雅な気品にみちた造形をもつ像で、忿怒相をとりながらもその表情には静謐さが漂い、一肩幅と膝の張りを大きめにとって腰を絞ったプロポーションもバランスがよい。
微妙な起伏を的確にとらえた面貌表現、過不足ない体軀の肉付け、浅く柔らかなタッチで簡潔に刻まれた衣文など、随所に洗練された彫技が発揮されており、中央の有力仏師の手になる本格的な造像であったと推測される。
持物や腕・臂釧など一部が後補のものに替わるが、着衣表面に施される華麗な彩色・裁金も含めた本体はもとより、二重円相をもち、ゆらめく火炎を表現する光背や重厚なつくりの瑟々座に至るまで大部分が当初の姿を残している点でも極めて価値が高い。
伝来が不詳であることが惜しまれるが、院政期の坐形の不動像のなかでも屈指の優作の一つに数えられよう。

平安時代に登美山とみやま鎮座宗像むなかた神社が創始され、村の鎮守として祀られていましたが、仏教の興隆と密教の流布により、また神仏混淆こんこうの時代に入り、併せて村内鎮護の寺として建立されたものと考えられています。
藤原一門が談山神社に参詣のおり、当院で身を清めた後に登山したと言われ、当時の天台座主慈円書の扁額が掛けられており、山号も藤原山となっています。
南北朝時代には僧兵が南朝側について戦い、堂塔伽藍が焼打ちにあったといわれ、当時はかなりの寺観を保っていたと思われます。
かろうじて焼失を免れた本尊不動明王は小さいお堂の中で大切に保存されてきました。
江戸時代には四代将軍家綱の上覧に供したと言われています。
その後、住職不在の時代も続き荒廃していた様ですが、昭和56年から57年にかけ、本尊の修復と外山地区区民皆様のご協力により本堂および脇部屋の改修が行われました。
その際の棟木札によると元文5年(江戸中期)に屋根瓦を新調、翌寛保元年(1741年)に葺き替え完成。
文久元年(1861年)幕末に本堂の大修理が行われています。
いずれも120年毎の辛酉の年にあたり、お不動さんが酉年生まれの守り本尊と言われる由縁で益々明王信仰を深くするものであります。
現在では真言宗の寺院として「とびのお不動さん」の愛称で親しまれています。
最近では藤原一門にならって、談山神社へ参拝する前に不動院でお参りしてから談山神社のある多武峰へ入山される方も少なくありません。


宗像神社2

2013-07-28 17:32:02 | 日記

少し離れた場所に子供神社(鬼子母神)がある。
大切にされている神社の様だ。

[由緒]

伴信友は、胸形徳善の女である尼子娘が、天武天皇の後宮に入って高市皇子の母となった縁によって、同皇子の外戚の氏神として祀られたものであろうと推測しているが、それ以前に宗像氏が本貫地から奉斎する宗像三女神を分霊・分祀したものともされている。

その後、高市皇子の後裔である高階氏が氏の神として崇め、元慶4年に官社に列し(『日本三代実録』)、翌5年に本社である筑前宗像神社に准じて神主職を置き、高階氏をこれに補任するよう定められ(同年10月16日の「太政官符」(『類聚三代格』所収))、寛平5年には修理料として近在の傜丁8人を充てる旨の「太政官符」が下された(上述寛平5年「太政官符」)。
延喜の制で3座ともに名神大社に列し、月次・新嘗の両祭にも預かっていた。

以後の由緒は詳らかでないが、南北朝以後は高階氏の後裔玉井氏の家伝に詳しい。
それによれば、高階義岑が弟の玉井勝坊入道西阿とともに赤尾城(現桜井市赤尾)を拠点に南朝方に与して、興国2年(1341年)7月3日に渡辺渡と鵄(とび)村(現在の外山一帯)に合戦した際、当社は兵火に罹って焼亡し、近辺の社領17町も興福寺領となるなど衰退に傾き、興福寺の縁で春日明神とその若宮が勧請せられるに及んで、「春日社」と称されるようになり、宗像神社自体はあってなきが状態に至った。
そのために正平9年(1354年)、高階忠正が自邸内に神霊を遷して、「中島宗像社」と称えて来たが、天正18年(1590年)に玉井忠滋が旧社地に再興し(但し、春日社も併祭)、幕末には鈴木重胤の尽力もあって、安政6年(1859年)に改めて筑前宗像神社から神霊を勧請し、翌万延元年(1860年)には社殿等を復旧した。

明治に入ってまず無格社に指定され、同8年に「宗像神社」に復称、同21年(1888年)には宗像神を主祭神とする体裁に改めて、同40年(1907年)に村社に昇格した。
第二次大戦後は神社本庁に属している。