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磐船神社 磐座

2014-01-13 18:58:12 | 日記

岩窟巡りのすぐ下というか、横というか、川原に沢山の巨石があります。
丁度天野川を覆う様に巨石が埋め尽くされてます。
この巨石の下を潜るのが岩窟巡りの様だ。

この神社には沢山の岩座があります。
拝殿の後ろの巨石が天磐船で、同時にご神体になっています。
今回行きそびれたものに天の岩戸があります。
今度来た時には是非行って見たいと思います。


磐船神社 岩窟巡り

2014-01-13 18:12:05 | 日記

岩窟巡りをしようと社務所に申し込む。
すると今は岩が冷えて冷たく、しかも凍っているので滑りやすく、危険でお勧めできないと言われました。
しかも中は狭く、四つん這いになって這って行かないと駄目な所もあると言う。
確かに気温はマイナス2度。
神様に参拝に来て怪我をしてもしかたがない。
残念だが今回は諦め、また気温が上がった頃に来る事にしました。

磐船神社の岩窟は古来より神道家や修験道の行場として知られ、多数の巨石が形作る岩窟は或るところは広い洞窟を成し、或るところは人一人がやっとくぐり抜けられるような狭い穴のようになっており、中には天野川が流れ込み急流となり岩を削り、特別な行法を知らない人でも岩窟巡りをするだけでも行になると言われる所です。まさに神業とも言えるこの岩窟は、現在一般の方でも拝観していただけるようになっていますが、昔のままの姿を保つため、必要最低限の安全措置しか講じておりません。そこで拝観者には次のような事を守っていただきます。
1、行衣(しろたすき)着用の事(社務所で貸します)
2、滑りやすい靴はわらぞうりに履き替えます(同上)
3、年齢制限があります(10歳以上75歳未満の方入窟可)
4、飲酒後の入窟はできません
5、夜間、雨天時、増水時は拝観できません


磐船神社3

2014-01-13 17:51:01 | 日記

河内国川上哮ヶ峯 磐船神社略記 磐船神社御由緒

当社御祭神は天照皇大神の御孫神であり、日本書紀等国史によりますと、神武天皇のご東征以前に日本の国の中心である大和の国(現今の奈良県)に入らんとして天の磐船に乗り天降られた天津神であります。
また先代旧事本紀によりますと「天孫瓊瓊杵尊に先立ち天祖の詔をうけて十種瑞の神宝を捧持し三十二人の伴緒を率い天の磐船に乗り天翔り空翔り河内の国川上哮ヶ峯に天降られた」とあります。
太古淀川は枚方(シラカタノ津)付近まで入江となっており、大和に入るには当地哮ヶ峯の麓を流れる天野川を溯りつつ大和に入るのが至便であったと考えられます。
御祭神は当地に降臨された後は先ず十種瑞神宝を以て病み災う者を助け給い和を以て人々を導き給わったのであります。
十種瑞神宝は後世神道家必修の祝詞「十種の祓」の根元をなし、現在でも鎮魂作法の根本として、神職・宗教家の修行研鑽する処であります。
その後時代を経て神武東征の砌御祭神の子孫は、東征軍に敵する鳥見の首長である長髄彦を諫し神武天皇大和創業の基幹となり代々武人の一族である物部として朝廷に仕え、御祭神はその遠祖と崇められたのであります。
その教義(十種瑞神宝)は永く代々の朝廷と共に栄えましたが、用明天皇二年(西暦五八七)物部蘇我の争いから遂に物部氏の滅亡をみ、仏教の隆盛を来したのであります。
以来当社はその影響を受け社勢の衰退を余儀なくされましたが、御祭神のご事績と十種神宝の御稜威は磐船の磐座と共に人々に篤く信仰され、その根本意義はなお現として神道の血肉となり伝承されております。
古事記日本書紀以外の書物では、先代旧事本紀巻五に天照�査貴(天照皇大神)の太子正哉勝々速日天押穂耳尊、高皇産霊尊が女、万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命を妃となし天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を誕生す。(略)
天祖、天爾瑞宝十種を以て、饒速日尊に授けたまふ。
即ち此の尊、天神の御祖の詔を稟けて、天の磐船に乗りて天降りて、河内国の河上哮ヶ峯に坐す。(略)
所謂、天の磐船に乗りて大虚空を翔行きて、是の郷を睨りて天降りたまひて、「虚空見つ日本の国」と謂ふは是なり。
続歌林良材集(貞享元年(一六四四)刊)
饒速日尊と申せし神天祖の詔を受けて天磐船に駕し給いて天降りて河内国河内哮ヶ峯にいたりこれより遷りて大和国鳥見の白庭にいましき云々今河内国に磐船明神とておはすはかの饒速日尊をいはひ申すと云う。
雲根志 後編巻之三(安永八年(一七七九)刊)
河内国交野郡天河に岩船大明神と云大社あり。
此処に岩船あり、かたち船のごとし。
六月晦日神事なり。
その他貝原益軒の南遊紀行に磐船明神の事を伝え、明治維新の先覚者伴林光平の捕へらりし時磐船山間近より「梶をなみ乗りて遁れん世ならねば岩船山もかひなかりけり」と詠み古来より有名でありました。
当社は古くは物部氏、特に交野に在住した肩野物部氏が祖先降臨の地として祭祀を行い、物部滅亡後も磐船・星田・河内田原・大和田原の近隣四村の総氏神として崇敬されておりました。
また、当社は生駒・葛城の修験道の発祥の地近くに位置し、中世以降その影響を強く受け、生駒修験の北端の霊地として栄えましたが、江戸時代の半ば宝永の頃相次ぐ天災により社殿を失い、交通その他種々の事情により、村々ではついにそれぞれにご分霊を祀り、宝物をも分祀されたことにより、本社は衰退の一途をたどり、磐座のみが残る有様でありましたが、昭和に入り社殿などが整えられ、ようやく復興を遂げたのであります。


磐船神社

2014-01-13 13:56:03 | 日記

8時46分に磐船神社に到着。
ここは前から来たかった神社です。
特に物部氏の始祖、饒速日命を奉る神社。
というかそのものの様な神社です。
天磐船に乗り高天原より降臨したとされています。
邇邇芸命よりも先に降臨された神とされています。
降臨した地は生駒山だと言われてますが、ここではここ交野とされています。
交野は大昔に隕石を落ちた地で、星やら天やらが地名に着いています。
ここ磐船神社も天の川を跨いで建っています。
興味も突っ込み所も満載で、今回参拝出来てとても嬉しい。

説明には天孫降臨と書かれてます。
僕の解釈では天孫というのは天照大神の孫の事だと思ってました。
という事は饒速日命は天照大神の孫なのか?
邇邇芸命も天照大神の孫ですよね?
ではお二方は親戚という事ですか?
じゃあ神武東征の際、神武天皇と饒速日命が戦ったのはどうなのだろう?
饒速日命が長髄彦を裏切ったのもその辺に関係があるのかな?