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古い墓地の六地蔵だが、首が無いものが多い。
明治の廃仏毀釈の時に上部が壊されたものらしい。
それで行くと獅子窟寺に行く途中の坂道沿いにあったお地蔵様も廃仏毀釈の運動が起こった時に飛ばされたのだろう。
墓地の少し奥に二基の奇妙な形の墓石がある。
どうやらこのお墓が王の墓である。
亀山上皇とその皇后の墓と伝えられている。
この墓陵について交野市史には、「亀山上皇は疾病をお持ちであったが、熊野に参詣されたとき叔父の静仁法親王にお逢いになり、法親王が祈願されて験のあった獅子窟寺の薬師如来の話をお聞きになったので、交野の私市に行幸になり、獅子窟寺下の行在所に滞在して病の治癒を祈願されたところ、平癒された。
喜ばれた上皇は、荒れていた当寺を再建し寺領を寄進された。
上皇が崩御されたとき(1305)、上皇の徳をしたっていた住民たちが寺領内の百重が原を均して上皇とその后のために2基の宝塔を建てて供養した」(大意)とある。
簡単な竹矢来に囲まれ一段高くなった区画に2基の墓碑が並んでいる。本来は古式の五輪塔かと思われるが、下から2段目の水輪部(丸形)を欠いているので、ずんぐりとうずくまった感じを与える。
百重ガ原陵ともいうが、公式の陵ではなく地元民が祀る私的な墓陵である。