941年、安房国の太守であった平公雅が、武蔵国への配置転換を祈願。
翌年、配置転換の願いが叶ったことから、新天地での天下泰平と五穀豊穣を祈願し伽藍などの寄進を行った。
初代の雷門に相当する門は、その際に造られたとされる。
雷門の呼称は、江戸時代の川柳に初めて登場するが、それ以前のいつの段階から呼ばれるようになったかは不明である。
知名度に関しては、雷門の名が書かれた提灯が1795年に初めて奉納されており、浮世絵の題材に用いられたことから、以降、日本各地へ浸透したものと考えられる。
山門はしばしば火災により消失しており、江戸時代だけでも2度も建て替えられている。
最後の火災は1866年(慶応元年12月14日)であり、以後、100年近く恒久的な建築物としての山門は姿を消す。
明治年間から太平洋戦争後にかけては、さまざまな形態の仮設の雷門が登場したと伝えられる。
いずれも博覧会の開催や戦勝記念など、その時々のイベント的な要素が強く、素材は鉄骨やコンクリートなどの構造もあったほか、大きさもさまざまであった。
1904年の日露戦争終結時には、凱旋門として雷門が建てられている。
1960年、松下電器産業(現パナソニック)の創設者、松下幸之助が病気だったころに浅草寺に拝んだ。
そして、治ったためそのお礼として門及び大提灯を寄進し、現在の雷門が成立した。
風神・雷神像は、江戸時代の頭部(火災により焼け残ったもの)に、明治時代に造られた胴体をつなげた物を引き続き使っている。
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