橘寺 2014-09-30 23:09:53 | 日記 帰りは橘寺の裏から回り帰ります。 前に栗を買った民家の前を通ったが、栗は売ってなかった。 まだ早かったのかな? 残念。 途中、予定していた定林寺の近くを通ったが、流石にクタクタなので今回はやめときます。 また今度にします。 何とか歩いて戻り、12時3分に甘樫丘を撤収しました。 しかし病み上がりで歩きすぎました。 近場で軽く、のつもりだったのですが、少し後悔しました。 今回の歩数は19143歩でした。 9月21日の明日香紀行はこれで終わりです。
都塚古墳4 2014-09-29 23:12:47 | 日記 外見の古墳の小ささに反して石室は巨大で立派です。 確かにそこそこの被葬者が想像出来ます。 そしてくつな石、気になります。 しかしここからまだ1キロも登らないといけない様です。 流石にもう体力の限界。 今回は諦めます。 次回に先送りします。 本当はまだ定林寺跡にも行きたかったのですが、もう無理。 まだ甘樫丘の駐車場まで歩かないといけません。 これから駐車場に向けて帰途につきます。
都塚古墳3(金鳥塚) 2014-09-29 22:58:11 | 日記 村教委と関西大の調査で、川原石を計5段以上(高さ4・5メートル以上)、階段状に積み上げた墳丘とみられることや、東西約41メートル、南北約42メートルの方墳であることがわかった。 中国東北部から朝鮮半島北部を支配した高句麗の古墳と類似した特異な形態や規模の大きさなどから、大きな権勢を誇った大豪族・蘇我氏の礎を築いた稲目の墓との説が出ている。 このピラミッド型の古墳は高句麗に見られるとの事だが、蘇我氏は百済の木満致の子孫との事だった筈。 でもその割には蘇我稲目の父は蘇我高麗と言います。 高麗と言えば高句麗の事。 調べてみると蘇我高麗の母は高句麗人との事。 そういう意味では稲目も高句麗とつながってたのかも知れません。 前に稲目の墓かもと言われた菖蒲池古墳。 結局そこも謎のままです。