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村上義光公の墓

2014-01-29 21:23:27 | 日記

ついに念願の村上義光公の墓を発見。
少し上がった所に墓はあった。

村上義光 元弘3年/正慶2年閏2月1日(1333年4月15日)は、鎌倉時代末期の武将。
村上信泰の子。
兄弟に国信、信貞らがあり、子に朝日、義隆らがある。
官位は従五位下、右馬権頭。
通称は彦四郎。
諱は義日とも記される。
大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)の忠臣として知られる。

『太平記』では元弘の変の頃、笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉した9名の1人として登場する。

元弘3年(1333年)、幕府方の二階堂貞藤が6万余騎を率いて吉野山に攻め入った。
護良親王軍は奮戦するも、いよいよ本陣のある蔵王堂まで兵が迫った。
親王はこれまでと最後の酒宴を開いていたが、そこへ義光がやってきて親王を説得し落ち延びさせる。
義光は幕府軍を欺くため、親王の鎧を着て自ら身代わりとなって「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と叫び、切腹して自刃した。
この時、自らのはらわたを引きちぎり敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、うつぶせに伏となって絶命したという壮絶な逸話が残る。
なお、子の義隆も義光と共に死のうとしたが、義光はこれを止め親王を守るよう言いつけた。
その後、義隆は親王を落ち延びさせるため奮闘し、満身創痍となり力尽き、切腹し自害した。



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