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南方熊楠記念館 番所旧蹟

2014-02-22 21:49:06 | 日記

紀州藩は、外国船の渡来をおそれて鎖国を守る幕府の意に従って沿岸のの警備のために、紀州藩沿岸に十数ケ所の遠見番所を設けていた。
そして浦方への報告を敏速に行えるよう、要所に狼煙台を置いた。
白浜の番所はその一つで瀬戸埼番所と言った。
しかし瀬戸埼番所が他と異なるのは、紀州藩藩租の頼宣公がこの番所傍の「桔梗平」(現水族館)に別荘を建てて、しばしば来遊して水軍の鯨船を訓練したことである。
紀州藩の他の番所は土地の庄屋らに見張らせていたが、瀬戸番所だけは田辺に住む与力に見張らせたことをみてもその重要性がうかがえる。
安藤田辺藩主は部下与力36名を輪番で黒船見張りにあたらせた。
交代時は田辺から船が綱不知に到着し、同所の真鍋伊右衛門家で引き継ぎが行われた。
番所は岬鼻の山中にあり、風がきつく頑丈に作られていたが、平屋12坪程度で、「軒は低く6畳と4畳台所があり、窓は二重構造で、まるで船室にいるようであった」
与力と二人の中間は6畳の部屋から、紐柄の遠眼鏡で沖の黒船の発見回数を競って四六時中睨み続け、沖遥かに蒸気船を発見して小躍りしてよろこび、蒸気船の型や航海状況を、藩主宛てにしたためて文箱に納め、中間はそれを担いで急いで山を下った。
庄屋はその急便を受けて早舟を仕立て、血気盛んな若者が三丁魯で瀬戸の裏を押し渡り、田辺藩錦水城の裏水に舟をつけ、文書を藩主に届けるのである。
この報告を受けた藩主は、ただちに黒船が瀬戸埼沖を通過したと、早飛脚で和歌山城紀州藩主の注進する。
しかし、黒船通過はめったにあるものでなく、一ケ月の当番は退屈なももので、釣りを楽しんだり、家族が季節には桔梗平へ花見にきたりして優雅な面もあったが、おおむね島流しのような気分であったらしい。


南方熊楠記念館 御製

2014-02-22 21:20:40 | 日記

昭和4年6月1日天皇陛下にはお召艦長門に御乗船になり、駆逐艦、警備艇6隻の出迎えの中、那智、灘風外六隻を従えて田辺湾に御入湊された。
小雨の中天皇ご一行は、京都帝国大学理学部附属臨海研究所に入られ,約二時間研究者の御進講や研究所、水族館内を巡覧される。
その後四双島、塔島、畑島にお立ちよりになり、神島に上陸された。
島では世界的に著名な生物学者南方熊楠のご進講を受けられた。
その際南方熊楠がキャラメルの大箱に入れた粘菌の標本を、天皇にお贈りしたことは後世にしられている。
神島には熊楠翁の赤誠の歌碑が建てられ、

  一枝も心して吹け沖つ風 
        わが天皇のめしてましし森に

の歌が刻まれている。
その後昭和37年、陛下は再び当地へ行幸の際、往年を御回想になり、今はなき熊楠翁追悼の歌をお詠みになられた。 

  雨にけふる神島を見て紀伊の国の 
             生みし南方熊楠を思う

陛下の思いで深い神島を望むこの地に、昭和40年常陸宮の鍬入れをたまわり、総工費3600万円を投じて記念館合わせて及び記念碑を完成させた。


南方熊楠記念館 モンステラ

2014-02-22 17:43:55 | 日記

駐車場から入った所にモンステラが生えている。
観葉植物で、うちにもあります。
しかし地植えで、しかもこんなに大きくなるとは想像がつきませんでした。
まさに巨木!!
そして皇太子殿下ご入園記念の立て札。
いつも思うが、天皇陛下や皇太子殿下と書かれているが、いつの?と思ってしまいます。
まあ当時はその通りなのだから仕方ないのですが。
立て札には昭和23年4月13日とあるので、今の天皇陛下の事ですね。


南方熊楠記念館 番所山

2014-02-22 17:23:24 | 日記

南方熊楠記念館へ行くには少し番所山を登らないといけない。
上まで車で行けなくはないのだが、狭く急である。
道中に観葉植物が地植えされている。
通常なら温室にある様な植物が多い。
このオオタニワタリは新宮の宮井戸遺跡にも普通に生えていました。
番所山は工事中で、灯台の方までは行けません。
10年位前にも来たが、その時にも行けなかった。