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辰鼓楼

2016-04-30 21:52:28 | 日記
出石の町に入り、蕎麦屋を探す。
探すと言うか、蕎麦屋だらけ。
すると時計塔に遭遇。
辰鼓楼は、兵庫県豊岡市出石の出石総合支所敷地(旧出石町役場、旧弘道小学校敷地)にある明治時代初期の時計台。
豊岡市出石伝統的建造物群保存地区を代表する建造物である。
楼閣本体は1871年(明治4年)完成。
辰の刻(7時から9時)の城主登城を知らせる太鼓を叩く楼閣であった。
旧藩医の蘭方医、池口忠恕が大病を患った際、多くの人々が病気快癒の願掛けをした。
忠恕は回復後、病気中出石の人々に多大な精神的支援を受けた感謝の意思を形にしたいとして、時計技師2名を招くとともにオランダ製の機械式大時計を取り寄せ寄贈した。
これによって1881年(明治14年)より現在の姿の時計台となった。
以後、弘道小学校では機械式時計の錘を掛け替えるのが児童の大事な役割となった。
現在は時計本体は入れ替えられている。
日本最古の時計台とされることが多いが、時計台となったのは1881年(明治14年)であり、1878年(明治11年)完成の札幌農学校演武場に時計塔(札幌の時計台)が設置されたのも1881年である。
いずれが古いかははっきりしない。
しかし、建物から独立した洋式時計台、一般市民が時刻を共有するための洋式時計台、国以外が設置した洋式時計台としてはこれより古いものは知られていない。

出石神社5

2016-04-29 14:05:25 | 日記
神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の一宮縁起には、谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀って、天日槍命を祀ったと伝えておりますが、諸書によりますと奈良朝時代すでに山陰地方有数の大社であったことがうかがわれます。
但馬の国一宮として別名を一宮さんの呼び名で尊敬されており、当時泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出され、円山川の治水に、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めております。
また、鉄の文化を大陸から持って来られた神ともいわれております。

出石神社3

2016-04-29 10:09:03 | 日記
境内の広さは22,000平方メートル。
現在の社殿は大正3年(1914年)の再建による。
本殿は三間社流造で、屋根は銅板葺である。本殿前に幣殿・祝詞殿(いずれも切妻造)が接続し、両殿の左右から透塀が出て本殿を囲む。
幣殿・祝詞殿の前面には拝殿が建てられている。
拝殿は舞殿形式であり、入母屋造平入りで、屋根は銅板葺。
特に、身舎屋根とは独立して平唐破風出桁造の向拝を持つという特徴を有する。
これらの社殿は豊岡市指定有形文化財に指定されている。
また、境内入り口には神門が建てられている。
この神門は丹塗の八脚門で、多くの蟇股が飾られている。
そのほかの社殿としては、神饌所・社務所などがある。
また境内東北隅の一角には禁足地が存在する。
この禁足地の広さは1,000平方メートルほどで、現在は玉垣に囲まれている。
その由来は明らかでなく、江戸時代には「天日槍廟所」と称されていた。
なお、境内から西に約500メートル、鳥居橋を渡った地点の鳥居地区では昭和8年(1933年)に旧鳥居の残欠が古銭多数とともに掘り出されており、かつての神域の広大さを物語っている。
周辺の地名「鳥居」は、この旧鳥居に因むとされる。
伝承ではこの鳥居を第二鳥居とし、さらに西方の狭間坂(豊岡市出石町方間)に第一鳥居があったとする。
掘り出された鳥居残欠は豊岡市指定有形文化財に指定され、現在は神門内に保存されている。
鳥居跡の西方延長線上には但馬国府推定地が位置することから、出石神社自体もかつては但馬国府方向に西面したとする説がある。