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星田寺

2014-01-19 21:34:19 | 日記

星田神社のすぐ隣、というかほぼ同じ敷地ないに星田寺はある。

星田寺は星田神社に隣接し、同社の神宮寺であったので宮寺と呼ばれる。
『日本歴史地名体系』によると、「開創年代は明らかでないが、河内長野市金剛寺蔵『金剛界大灌頂次第』奥書には「長治二年(1105年)6月6日書了 星田寺」とみえ、平安時代に存在が確認される」とある。
中世の寺暦は不明だが、寺域内に室町様式の一石五輪塔を多数保管し、河内守護職畠山氏の臣で当地の豪族星田家の祖小松城主(その位置は廃小松寺の場所に在った)遠藤昌親の弟昌俊の墓塔と伝わる五輪塔が存在し、戦国時代には星田家の菩提寺であったと思われる。


星田神社

2014-01-19 21:18:16 | 日記

磐船神社を9時1分に発ち、9時18分に星田神社に到着。
神社付近の道が狭くて、ちょっと往生した。

『平成祭礼データ 星田神社』
田神社は旧の字向井にある。
境内一一八二坪。
祭神は住吉四神、すなわち表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帯姫命である。
社殿は住吉造りとせず、飛鳥造りになっているが、奈良飛鳥大社の二十年毎の建替の時、その旧社殿を譲り受けたからだといわれる。
建立の時期については、神殿に祀られている御神体を納めている桶代の表に「明治五壬申十一月」と記されており、推察するに、当時明治二年、明治政府より神仏判然令が布告されて、廃仏棄釈がさけばれ、明治五年に当神社も星田神社として、村社の社格が定められた時と、時を同じくして建立されたようである。
旧の拝殿も明治五年建立と推定されるが、昭和五十八年に現在の拝殿が建立される。
木造切妻造り銅版葺である。
星田の古傳によると、当地交野の磐船明神はもと星田、私市、田原、南田原の総氏神だったが、宝永年間(一七〇四-一七一一)、この村々の間に宮座についての争いが起こり、その後磐船神社の神霊を、それぞれの村に移して祀ることとなり、当時、平井源左衛門という人が神主職に在任中の折り、当地にその御分霊をお遷しお祀りする事となったという。
当社では大昔からこの土地に小さい祠を立てて、饒速日命を祀った宮、すなわち現在本殿の北側に古宮といわれる末社があったが、この時より、磐船の総社をこちらに遷すというので、古宮よりも大きい住吉四神の大きい神殿が建てられ、それ以来この社が主神の形となったものである。
伝えによると、現在本殿の住吉四神を祀ったよりも遥か以前、ここに一本の大杉があって、そこに当地の氏神として交野大明神を祀っていたが、後にそれが枯死したので、その芯を御神体とし、この古宮ができたという。
それは鎌倉か、室町幕府の時代か、いずれにせよ当社最古の神であった。
西井長和著『星田懐古誌』(昭和五十四年交野誌話会刊)によると、西井長和氏所蔵の天文四乙未年(一五三五)の奥書のある神明帳には、この交野大明神の名が記されているという。
この北河内にあって、遥か昔より当地方の交野物部の御祖である饒速日命を古宮として祀り続けてきたのは、この社だけであり、当地方第一であろう。
この社につづいて、石段・鳥居の正面に八幡社がある。
この社はもと新宮山の頂上にあったものを、明治維新神仏の分合整理によって、明治七年九月にここに遷されたものであり、昔は山城の男山八幡宮を本宮、こちらを新宮と言ったようである。
平安時代に交野市域の南東部の丘陵地帯である津田、倉治、私市、寺村、私部、星田などは三宅山といわれ、一千四〇〇町の山と免田二三町が石清水八幡宮の寺領荘園となり、この地域の守護神として八幡宮の御分霊を新宮山に勧請したのに始まる。
この外に境内に恵比寿社、天照大神社、菅原社、庚申塚、および祖霊社をお祀りする。
なお文化二年(一八〇五)の三浦蘭阪著『川内奨撫古小識』には、当住吉祠に正平二十一年(一三六六)の銘の石塔があったと記されている。
以上


磐船神社の御由緒

2014-01-19 20:42:41 | 日記

創祀の由来
磐船神社は御祭神饒速日命が天照大御神の詔により天孫降臨された記念の地であり、古典によると「河内国河上哮ヶ峯」と呼ばれているところです。
御神体は命の乗ってこられた「天の磐船」といわれる高さ12メートル、幅12メートルある船の形をした巨大な磐座で、初めて訪れた人々は皆一様にその威容に圧倒されるといいます。
当社は大阪府の東北部、交野市私市にあり、奈良県生駒市に隣接する、生駒山系の北端、まさに河内と大和の境に位置します。
境内を流れる天野川は、10キロほどくだって淀川に注ぎ込みます。
この天野川にそって古代の道ができ、「上つ鳥見路」と名付けられ、後世には「磐船街道」とか「割石越え」と呼ばれるこの道は現在の枚方と奈良の斑鳩地方をむすび、さらには熊野にまで続く道でした。
瀬戸内を通り大阪湾に到着した人々や大陸の先進文化は、大和朝廷以前にはそこから淀川、天野川を遡りこの道を通って大和に入るのが最も容易であったと思われます。
またその一方で、古代からの日本人の巨石信仰にも思いを馳せると、天の磐船は古代の人々にとってまさに天から神様の降臨される乗り物であり、その磐船のある場所は神様の降臨される聖域でありました。
そしてこの地に出現された饒速日命はまさに天から降臨された神様であり、長髓彦などの豪族たちをはじめ、大和の人々から天神として崇敬を集めたのであり、命のお伝えになられた文化が大和河内地方を発展させたものと思われます。
そして当社は、天神として初めて大和河内地方に降臨された饒速日命の天降りの地として信仰されてきました。

磐船神社と物部氏
古代における当社の祭祀は饒速日命の子孫である物部氏によって行なわれていました。
その中でも特に交野地方に居住した肩野物部氏という物部の一族が深く関係していたと思われます。
この一族は現在の交野市及び枚方市一帯を開発経営しており、交野市森で発見された「森古墳群」の3世紀末~4世紀の前方後円墳群はこの一族の墳墓と考えられており、相当有力な部族であったようです。
また饒速日命の六世の孫で崇神朝における重臣であった伊香色雄命の住居が現在の枚方市伊加賀町あたりにあったと伝承され、森古墳群中最大最古の古墳の被葬者はこの方ではないかとする説が有力です。

神仏習合の時代
物部守屋公が蘇我氏との崇仏・排仏論争に破れ、物部の本宗家が滅びるとともに交野地方の物部氏の勢力も一掃されることとなります。
このため当社の祭祀も衰退を余儀なくされますが、当社を総社としていた私市、星田、田原、南田原の四村の人達が共同で祭祀を行ってゆくようになりました。
その後、生駒山系を中心とする修験道や山岳仏教が盛んになると、当社もその影響を受けることとなり、修験道北峯の宿・岩船の宿としてその行場に組み込まれてゆきます。
また、平安朝になると交野が貴族の御狩り場や桜狩りの名所となり、歌所ともなります。
そして歌の神様でもあり、航海の神様でもある住吉信仰が広まり、当社も御神体天の磐船のそばの大岩に住吉四神がお祭りされるようになります。
この理由についてはお互いに船と関係の深い事により結びついたとも、「新撰姓氏録」という典籍によると、住吉大社の神主であった津守氏が饒速日命の子孫にあたり、その関わりで物部氏滅亡以後、住吉四神が祀られたとも考えられています。
住吉大社と当社の関係は意外と深く、「住吉大社神代記」という古典には、「膽駒神南備山本記 四至(中略)北限饒速日山」として、当社(=饒速日山)を、住吉大社の所領であるかあるいは住吉大神と縁の深い「生駒山」北の境界として、記していることは興味深いものがあります。
鎌倉時代にはこの住吉の神の本地仏としてその大岩に大日如来・観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩の四石仏が彫られ、四社明神として知られています。
その後四社明神の祀られた大岩の前に御殿が建てられ、現存はしていませんがその屋根や柱を立てた穴らしい跡が岩に残っています。
また境内の大岩には不動明王が彫られ、「天文十四(1545)年十二月吉日」の銘が彫られ、神仏習合の色合はますます強まりました。

近世以降
近世に入ると当社は先の四村の宮座による共同の祭祀が定着して行なわれていましたが、度重なる天野川の氾濫による社殿、宝物などの流失が続き、神社の運営は困難を極めました。
そして江戸時代宝永年間(1704~7年まで)に四村宮座の争いから、各村御神霊をそれぞれ神輿にのせて持ち帰り、それぞれの村に新たに社殿を設け氏神として祀りました。
このため当社は荒廃を余儀なくされます。
しかしその後も村人たちの努力により饒速日命降臨の地としての伝承は守られ、明治維新後多数の崇敬者の尽力により復興されました。
また日本中に吹き荒れた排仏毀釈運動の影響もなく神社境内の仏像も無事保護され、神仏習合をそのまま今に残しております。