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五條市立民俗資料館

2017-09-30 21:12:06 | 日記
この資料館は、江戸末期には五條代官所の長屋門だった建物です。
現在の五條市役所のある場所に建っていたもとの代官所は、文久3年(1863)におこった天誅組大和義挙の際に焼き討ちにあい、元治元年(1864)10月、現在奈良地方裁判所五條支部のあるところに幕府があらたに代官所を立て直したのでした。
明治維新の後、代官所は五條県庁に引き継がれ、一時警察大屯所などに利用されていましたが、明治10年に五條区裁判所となり現在に至っています。
裁判所の改築の際、正門である長屋門と広場を五條市が譲り受け、広場を史跡公園、長屋門を民俗資料館として整備しました。

史跡公園

2017-09-27 22:18:37 | 旅行
文久3年(1863)8月、明治維新の魁といわれる天誅組の義挙により、現五條市役所の位置にあった五條代官所が焼き討ちにあい、元治元年(1864)10月、幕府はここに代官所をあらたに建て直しました。
明治元年(1868)5月、代官所は奈良県に引き継がれ、明治3年(1870)2月、五條県発足のおり五條県庁となり、その後、警察大屯所や中学校として利用され、明治10年(1877)には五條区裁判所となりました。
この広場は史跡公園として平成14年(2002)に整備され、また長屋門は、建て直された五條代官所の正門の姿残す歴史的記念物で、天誅組の義挙140年(2003)の記念にあたり修復改修しました。

天誅組150年 記念碑

2017-09-27 21:13:58 | 日記
天誅組150年にあたり
そのさきがけの志と行動を讃え
後世に伝えるために、これを建立する
天誅組大和義挙150年
記念事業実行委員会
五条出身の隊士三名の名を、ここに記しおく
乾 十郎 元治元年七月二十日 刑死 享年三十七
井澤宜庵 慶応元年七月十八日 獄死 享年四十三
橋本若狭 慶応元年六月    刑死 享年四十四

金剛・ハロー号

2017-09-27 20:17:45 | 日記
史跡公園の一角に蒸気機関車があります。
金剛・ハロー号とあります。

金剛ハロー号の命名の由来
この機関車は雄大な金剛山麓を走りつゞけ、そのたくましい姿と86形の愛称をあらわすために金剛ハロー号と名付けられた

8620形 78675号 蒸気機関車(金剛・ハロー号)の概要
大正初期に製作された旅客用の機関車で、それまでは英国製の2120形が過半を占めていた。
この8620形は我が国初めての国産機関車で、高速運転に適合して設計され特に先台車は1軸台車でありながら2軸台車の作用をしているのも8620形式のみである。大正14年までその数687輌の多くに達し、ハチロクの愛称を持って親しまれてきた。
終戦後、昭和24年奥羽本線(福島~大沢間)43kmが電化されたのを皮切りに各幹線の電化、近代化により車令50年をこす8620形は減少の一途をたどり、昭和47年4月には五能線(秋田)、唐津線、長崎線に合わせて30輌とな
った。洗練されたスタイル、三訓和音の汽笛、大きな働輪はいつまでも当時の雄姿をしのばせることでしょう。
またこのスポーク働輪は今でも国鉄のシンボルとして帽章に制服の釦に刻まれているのに馴じみ深いことと存じます。
8620形の元祖8620号(1号機は昭和37年10月東京青梅公園に当時のままの姿で保存されています。
ラストナンバーは88651号機であり、この78675号機は616輌目に製造されたものである。

五新線を走ってたのかと思いました。


明治維新発祥の地

2017-09-26 23:15:44 | 日記
史跡公園の入り口付近に目立つ看板が立ってました。
天誅組 明治維新発祥の地

説明版には 明治維新さきがけの地 大和五条
1863年、江戸幕府の直轄地であった五条地で「天誅組の変」は起きました。
新しい日本を目指す尊主攘夷思想の若者達が全国各地より集結して五条代官所を襲撃。
しかし決起は後に朝廷からも反乱とみなされ、討伐に出た幕府軍との攻防戦の末におよそ40日で東吉野に散りました。
天誅組の夢は破れましたが、実はこの事件が明治維新の導火線となり、時代は大きく激しく動いたのです。
そして140年後の今、貴重な史実としての天誅組を改めて振り返る記念のイベントが開催されます。
かつて五条を舞台に繰り広げられた熱いドラマに思いをはせる事で、これからの歴史の為の何かが見えてくるかも知れません。