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友情はいつも宝物

2016-09-25 22:32:00 | 日記
檜前の馬牧
大宝元年(七〇一)、大宝律令で厩牧令が出され、全国に牛馬を育てる牧場(官牧)が三十九ヵ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により三十二ヵ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。
東京には「檜前の馬牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられています。
浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者ではある、檜前浜成、竹成兄弟の逸話から、檜前牧は浅草付近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮嶋の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたとされています。

花塚と河竹黙阿弥顕彰碑
「濁流」の花道の師、笠翁斉乱鳥の死を悲しんだ弟子たちによって建てられた」とあります。
私は存じ上げないが、1803年死去とあるからさりげなく古い。
ただし、戦後に観音堂裏手東北よりこの地に移転、と記述されてます。その横には河竹黙阿弥の碑。

友情はいつも宝物
1976年に、「週刊少年ジャンプ」で連載を開始して以来、多くの人々に愛されてきた「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。
物語の舞台となるここ浅草は主人公である両津勘吉を育み、また多くの感動を生み出してきました。
この碑は、両津勘吉の少年時代の友情を描いた「浅草物語」にちなみ、人を思いやる気持ちの大切さ、そして子供たちが夢や遊び心を忘れず健全に成長してくれるよう願いを込めて建てられました。
ある日、浅草で一緒に遊んだ同級生が偶然再会。
かつての悪ガキ両津勘吉は警察官に、かつての優等生は、逃亡犯になっていました。
両津は、子供の頃にここ浅草神社(三社様)の神木、槐の木の下に一緒に埋めたベーゴマの話を持ち出して二人の友情を確かめ合いました。
そして、逃亡犯は自首することになったのです。


初代花柳壽輔略博

2016-09-25 18:38:19 | 日記
柵の中に沢山の石碑があります。
遠いので良く読めませんが。

扇塚

初代花柳壽輔略博
出生、文化四年二月二十九日、芝・新明にて出生。
六才、文政九年、四世西川扇蔵の許に入門し舞踊修行の道に入る。
八才、文政十一年、七世市川団十郎の鑑識に叶い市川鯉吉の芸名にて舞台を踏む。
十九才、天保十年、旧師西川扇蔵の許に復帰し、西川芳次郎として振付師の第一歩を踏み出す。
二十五才、吉原の玉屋小三郎より俳号の「花柳」なる二字を与えられ、以後花柳芳次郎と称す。
爾後、七世市川団十郎が嘉永二年、当時市川海老蔵を名乗り、その俳号「寿海」に因みて「壽」の字を贈られ、二十九才にして始めて花柳壽助を名乗り、後に「助」を「輔」に改め、と共に、諸流に冠絶して振付の第一人者として謳われる事、実に半世紀、その作品は一千五百種を超え、就中「土蜘」「茨木」「戻橋」「舟辯慶」のごときは不滅の傑作と讃される。
八十三才、明治三十六年一月二十八日、花柳流の祖としての偉業を樹て、門弟、縁者に見守られてその生涯を終わる。

初代中村吉右衛門句碑
「女房も同じ氏子や除夜詣」

等があります。


浅草神社

2016-09-24 19:40:09 | 日記
浅草神社のHPより

浅草神社の由緒
推古天皇の三十六年三月十八日のことでした。
漁師の桧前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁労に精を出していましたが、その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのはただ人型の像だけでした。
幾たびか像を水中に投げ捨て、何度場所を変えて網を打ってもかかるのは不思議と人型の像だけなので、最後には兄弟も不思議に思い、その尊像を捧持して今の駒形から上陸し、槐の切り株に安置しました。
そして、当時、郷土の文化人であった土師真中知にこの日の出来事を語り、一見を請うたところ、土師氏は、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして自らも帰依の念心仏体であることを兄弟に告げ、諄々と功徳、おはたらきにつき説明しました。
兄弟は初めて聞く観音の現世利益仏であることを知り、何となく信心をもよおされた二人は、深く観音を念じ名号を唱え、「我らは漁師なれば、漁労なくしてはその日の生活にも困る者ゆえ、明日はよろしく大漁を得させしめ給え」と厚く祈念しました。
翌十九日に再び網を浦々に打てば、願いのごとく大漁を得ることができました。
土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音像を奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという。
いわゆるこれが浅草寺の起源です。
土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであるとされています。
これによると創建は今を去る千三百五十年程の昔ということになりますが、これは少々無理のようで、平安の末期から鎌倉にかけて権現思想が流行しだした以後、三氏の末裔が崇祖のあまり浅草発展の功労に寄与した郷土神として祀ったものであろうと推定されます。
奇しくも明治維新の神仏分離令により浅草寺との袂を分かち、明治元年に三社明神社と改められ、同6年に現在の名称に至ります。
今もなお、「三社さま」として親しまれている浅草神社ですが、元来三人の神様をお祀りしたことからそのようによばれています。