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いたすけ古墳

2014-01-03 21:25:42 | 日記

10時28分に大仙公園を発ち、10時35分にいたすけ古墳に到着。
ここには野良狸の一家が住んでいて、おーい!おーい!と声をかけると古墳の森からぞくぞくと出てきます。
どうやら近所の方が餌をやっているみたいです。
これで今回の初春さわやかウォークは終わりです。
この後11時11分に陵南南公園に行き、解散しました。
今回の歩数は16201歩です。

百舌鳥古墳群のほぼ中央、大仙陵古墳の南、上石津ミサンザイ古墳の東に位置する。
全長約146m、後円部径約90m、高さ約11.5m、前方部幅約99m、高さ約10.5mで、百舌鳥古墳群では8番目の大きさである。
墳丘は3段に築かれ、南側に造り出しがある。
主体部の構造や副葬品などは不明。
台地の南端に位置するため、周濠の南側には大規模な堤が築かれている。
陪塚は数基あったとされるが、善五ヱ門古墳のみが現存している。
昭和30(1955)年頃、土砂の採集と住宅造成のため破壊されそうになったが、市民運動によって保存された。
その際、後円部から出土した衝角付冑の埴輪は、現在、堺市の文化財保護のシンボルマークになっている。
この工事の際には、土砂を取る重機を入れるため周濠に橋が架けられ、樹木の伐採が行われた。
伐採は半ばで中断されたものの、古墳の半分ほどがはげ山となった。
橋は現在でも古墳側から伸びる半分が残されている。
はげ山となった部分には草が生い茂っているため、いたすけ古墳の航空写真は樹木と草によりまだらな外見となっている。
1980年代に、水質の悪化による異臭に対して周辺の住民から苦情が上がり、池干しとヘドロの除去が行われた。
その際に環濠の南西部に沈没していた木造の小型船について調査が行われ、少なくとも昭和初期以前に製造された和船である事が確認された。
1999年頃に、古墳東南部の雑木林に住んでいたと思われる狸が造成に追われて古墳内に移り住み、2004年11月に新聞やニュースで報道された時は11頭の家族となっていた。
狸は本来は夜行性なのだが、晴れた日の昼間などに前述の壊れた橋の上で日に当たる姿が見られる。
世代を重ねており、春先には子狸が姿をあらわすが、不思議な事に目撃できる成獣の総数には大きな変化がみられない。
徒歩圏内の北東方向にある御廟山古墳内でも狸の目撃例があり、グループから離れた個体が移住した可能性もある。


旗塚古墳

2014-01-03 21:18:58 | 日記

百舌鳥夕雲町の大仙公園内、ぐわしょう坊古墳の隣にあります。
墳丘は全長約53.8メートル、後円部径約41メートル、高さ約3.8メートル、前方部幅約21メートル、前方部高1.3メートルの、帆立貝形古墳と呼ばれる前方部が短い前方後円墳です。
2段築成で、前方部を西に向け、盾形の濠がめぐっています。
本格的な調査は行われていないので、主体部の構造や副葬品の内容や性格などはわかっていませんが、葺石と埴輪があり、円筒埴輪・朝顔形埴輪のほかに盾・蓋などの形象埴輪も出土しています。

ぐわしょう坊古墳

2014-01-03 21:10:47 | 日記

大仙公園の中には仁徳天皇陵の倍塚とされる古墳が沢山あります。
ただ、このぐわしょう坊古墳はそれではないのでは?とされています。

旗塚古墳のすぐ西側にある直径約58メートルの大形の円墳です。
墳丘は2段築成と考えられ、周囲には濠がめぐり葺石と埴輪があります。
主体部の構造や副葬品はわかっていませんが、円墳で径58メートルという大きさは、仁徳天皇陵古墳の陪塚とされている径60メートルの大安寺山古墳に次ぐ大きさで全国でも有数です。
仁徳天皇陵古墳や履中天皇陵古墳の陪塚ではないようです 。


百舌鳥耳原由来の像

2014-01-03 21:03:06 | 日記

10時前に仁徳天皇陵を発ち、向かいの大仙公園に入ります。
入口に百舌鳥耳原由来の像があります。
百舌鳥耳原中陵の由来になったと思われます。

日本書紀によると、仁徳天皇が当地で陵の工事をはじめられました。
その時、野から鹿が走り出て、工事をしている人をめがけて突進してきましが直前でその鹿が倒れてしまいます。
不思議に思ってその鹿を調べてみますと、鹿の耳から『百舌鳥』が飛び立ちました。
そして鹿の耳の中は、もずに食い割かれていました。
工事人の危ないところを百舌鳥が助けた訳です。
この百舌鳥の勇ましい働きをたたえて、この地を『百舌鳥耳原』と呼ぶようになったのです。
尚、百舌鳥は、大阪府と堺市の府鳥・市鳥に指定されています。


仁徳天皇陵

2014-01-03 20:57:19 | 日記

9時37分に御廟山古墳を発ち、9時49分に仁徳天皇陵に到着。
ここで全体撮影があった。

大仙陵古墳は、大阪府堺市堺区大仙町に存在する日本最大の前方後円墳。
墓域面積が世界最大であるとされる。
周囲の古墳と共に百舌鳥古墳群を構成している。
宮内庁により仁徳天皇の陵墓と治定されており、百舌鳥耳原中陵との陵号が与えられており、一般的には仁徳天皇陵と呼ばれている。

後円部に存在する埋葬施設は江戸時代には露呈しており、既に盗掘されているようである。
江戸時代の1757年(宝暦7年)には、後円部の埋葬施設には長持型石棺が認められている。
前方部正面の中段にも竪穴式石室が築造されている。
1872年(明治5年)には、風雨によって前方部前面の斜面が崩壊し、埋葬施設が露出している。
その際の発掘調査で石室と石棺が掘り出されているが、この時の記録は関東大震災で焼失してしまっている。
残された絵図面によれば、その埋葬施設は長持形石棺を納めた竪穴式石槨で、東西に長さ3.6~3.9メートル、南北に幅2.4メートル。周りの壁は丸石(河原石)を積み上げ、その上を3枚の天上石で覆っている。
その中に組合せの長持形石棺が納められ、下半分は埋もれたままである。