城郭の規模は、東西約180m、南北150mと比較的小規模な部類に入る。
ただし、多彩な構造物が施されており、瓢箪型の主郭とそれを取り囲む逆L字型の腰曲輪を中心に土塁と横堀が作られ、尾根には堀切、主郭の北側には切岸が設けられている。
当域周辺の諸城では、堀切が用いられるのが多いのに対して、当城は土塁と横堀の多くが効果的に配置された構造になっている。
現在の城郭は、織豊系城郭の三要素のうち、瓦の使用と礎石建物の建造が当てはまることから、中世の土塁を主とした城郭から発展していく過渡期のものであると推定されている。
元弘2年 / 正慶元年(1332年)、楠木正成が上赤坂城の支城として築城の伝承があり、南北朝時代に主に南朝の楠木氏の城として北朝の畠山氏との争奪戦が行われたと伝えられる。
平家物語には源行家が篭城した「長野城」が登場するが、当時の烏帽子形城があった地域が長野荘と呼ばれていたため、有力候補地のひとつとされている。
高野街道を眼下に見下ろす要所の地にあるため、室町時代・戦国時代には義就流畠山氏と政長流畠山氏の家督争いによる争奪戦が行われ、応仁・文明の乱へと発展していた。
天文年間には楠木正季の子孫である甲斐庄氏の当主隆成が城主であったが、敵対する義就流畠山氏の畠山定国によって落とされ、代わって碓井定純が入城した。
元禄10年(1567年)には三好三人衆が立て篭る当城を根来寺衆徒が攻めるが、落城しなかった。
元亀年間には甲斐庄正治(橘長治)が入り、畠山高政や根来寺衆徒等が幾度も入城して三好長慶に抵抗した。
正治はキリシタンであったため、城下でキリスト教を奨励し、南河内の一大拠点として大いに賑わいを見せた。
正治は徳川家康の家臣となって遠江へ移ったため、畠山氏滅亡後は、畠山氏の遺臣団である烏帽子形衆が織田信長の家臣団に組み込まれ、当域を支配した。
天正3年(1575年)には織田信長が河内を平定し、城郭の破却、徳政令を発布したが、当城は徳政令に背く金剛寺に対する拠点や周辺地域の戦略上の拠点として、そのまま維持された。
烏帽子形城は岸和田城主である中村一氏の支城となり、天正12年(1584年)には豊臣秀吉の命により紀州攻めの拠点として改築なども行われ、翌年に紀州が平定された。天正15年(1587年)には、キリシタン禁制により、キリシタン領主たちは、当域を追放され聖堂も破壊された。
その後の当城は、特に使用されることなく放置されただが、大阪の陣で正治の子正房が幕府方として河内の道案内を行ったことにより甲斐庄氏は戦後加増されて旗本として再び故地である烏帽子形城に戻ってくることが出来た。
しかし、大規模なこの城を維持できずに元和3年(1617年)に廃城処分にした。