エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




 男は毎日、自宅マンションのバルコニーの手すりから上半身をのり出して、30メートル下を走っている道路のアスファルトを見つめながらあれこれ思案しては、ため息をついていた。男は投身自殺を企てていた。

 自殺を決意してからもうひと月経つ。身辺整理もとうに済んでいる。
 残るは、バルコニーの手すりに立ち、体が地上に落下するように重心を移動するという単純な動作をするだけだ。後は引力という神の法則が責任をもって彼をアスファルト上で叩き潰してくれることになっているのだが、その単純な動作にどうしても踏み切れない。
 特に梅雨入りしてからは、灰色の容器のなかに密閉されているような強迫的な気分に毎日悩まされて、今日こそ何もかもお終いにしてやろうと、実際、手すりの上に立ったことも何度かあるが、いつもそこまでだった。

 その日は大雨だった。しかしふと、あそこなら実行できるかもしれないと思い、車で高速を飛ばして「名所」に行ってみたが、《考え直せもう一度》と書かれた立て札にしがみつきながら、はるか崖下で岩に砕け散る大波を見て足がすくんだ。
 まったく、こんなもの凄いところによく飛び込めるものだと、ここから身を投げた人びとの霊にすがるような気持で訴えかけた。
「僕を、そっちに連れて行ってください」

 翌朝、男は目覚めるとバルコニーに出た。
 爽快な梅雨晴れだった。前日の大雨のおかげで、遠くの山々の襞が数えられるほど大気が澄んでいる。
 あるがままの世界がこんなにも美しく、慈愛に満ちたものだということにこれまで気づかなかった。
「僕はなんて無意味に悩んでいたんだろう」
 男は、L・アームストロングの声色を真似て『この素晴らしき世界』を歌いながら手すりに上り、朝日を背にして立った。そして大草原のクッションの上に倒れ込むような幸福と興奮を感じながら、全身を引力にゆだねた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )