エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




「客」と「店員」が対等な立場で向き合える時代が来るまでは、決して地上に平和は訪れないだろう。たとえ領土問題や貿易摩擦、宗教対立が完全に解消されても、商売というものは give-and-take なのだということを客が理解しない限り、人類の心に巣食う憎しみは解消されないのだ。
 店員もその業務を離れれば、どこかの店の客になるわけだし、客も自分の職場に入れば顧客を相手にしなければならない。接客をしなくても、モノを売るための仕事をしているのだから広い意味で「店員」である。にもかかわらず、人はいったん客になったが最後、店員の心がまったく理解できなくなるのだ。
 では警察官も店員なのか? 政治家は? 気象予報士は? 豆腐屋は? ……そんな揚げ足取りにいちいち構っているヒマはない。万物はすべて客と店員という二大元素に還元することができるのである。



 芸だけではおよそ食べていけないので、サイドビジネスとして食料品販売にかかわる仕事を《たまに》している。品出しや配送などの業務であるが、忙しい時にだけ仕事がもらえる日雇い派遣なので期間が短く交通費も支給されない不安定な立場である。
 だから、これはあくまで負け惜しみで言うのだが、私はこの仕事を誇りを思っている。死ぬ直前まで働き続けたいくらいだ。そして生きている間に必ずレギュラー派遣に昇格してやる。人生の終末を勝ち組として過ごすこと。それが私の悲願なのである。

 それはともかく、売り場に出ることもあるから当然、客と接することになる。いろんな客が来るが、どの客もみな自分を神様だと思い込んでいる。そんな誇大妄想に陥った暴君たちを年中相手にしているのだから、正社員やレギュラー派遣の店員はみな精神を蝕まれ、向精神薬の世話になっている。レギュラー派遣でなくてほんとうによかったと、つくづく思う。

 ところで三波春夫先生が残した名言「お客様は神様です」は、金を払ってくれるからお客様は神様だという意味ではなく、「歌う時は神前での祈りのように雑念を払い、客を神と見る」(Wikipedia)という意味なのだそうだ。
 この神聖な御言葉を、厚かましくも己の征服欲を満たすための大儀に利用する。それが客の実態なのである。三波先生が登場するまでは横柄な客などひとりとして見た記憶がない。「買ってもらう」「売ってもらう」という対等の関係が成立していた。このあたり、先生の功罪相半ばするところであろう。



 仕事中、客に襲いかかりそうになったことが何度もある。例えばあるとき、菓子売り場を通りかかった中年と思しき女性客が、買い物の入ったカゴから1.8リットルのパック入り焼酎を取り出して、陳列棚に並べてあったコアラのマーチの上に置いて行ってしまうのを見た。
 買うのをやめた商品を元の場所に戻すのが面倒だから近くの棚に置き去りにしたのだろう。そのマナーには呆れたが、それよりももし幼い子供が、コアラのマーチと間違えて焼酎を飲んでアル中になったらどうするんだと思うと怒りで理性を失い、気がついたら手許にあったスーパードライ350mlのケース(12本入り)を頭上に掲げてその客に投げつけようとしていた。
 たまに電車内でジュースなどの空き缶が放置してあるのを見るが、あれと同じである。放置した賊どもには、誰かが片付けてくれるだろう、という企みすらない。片付けられようがどうされようが知ったこっちゃないのだ。



 親が神様になるのを見れば、その子供も自分を神様だと思い込むようになるのは自明の理である。先日も、親子連れの客がレジで支払いをしている間、男児が買い物カゴを載せるカートを通路に押し出して遊んでいた。もし他の客に当たってトラブルに発展したら店の責任も問われることになるので、というより、なぜ止めなかったと上司から叱られるのが怖いので私は決然としてその餓鬼に言った。「危ないからカートは片付けましょうね~♫」
 やだやだー! と泣くのならまだ可愛いが、その餓鬼はカートを掴んで離さないばかりか無言で私を睨みつけるのである。それは子供の眼つきではなかった。客の立場から威嚇することに味をしめたサディストの眼つきであった。
 私はあからさまな作り笑いをかろうじて保ちつつ、しばらく餓鬼とカートの奪い合いを演じていたが、支払いを済ませた父親がやっと「〇〇、行くぞ」と言って餓鬼を連れていってくれたので私が勝利を収めることができたものの、他人の子供でも叱ろう、というスローガンは相手が客の子供の場合は無力であることを痛感したのでありましたとさ。

 その他にも、レジで精算している時に「これ、もうひとつ買うわ」といって商品を店員に持ってこさせる客。本人は売り上げに協力してやったのだから、もう店を挙げて欣喜雀躍しているに違いないと確信しているのだろうが、まったくのお笑いぐさである。店員は、この忙しいのに仕事増やしやがってくらいにしか思っていないのだ。
 また、「保健衛生上ペットの持ち込みはご遠慮ください」と店内でアナウンスしているにもかかわらず小型犬を抱いて持ち込むなども、自分は神だから許されると信じていなければできない悪魔の所業である。



 いささか大袈裟に書き過ぎたかもしれない。実際のところ、神の威光をかざして買い物をする客は年輩者に多く、若い人たちの方がおおむね謙虚である。神様意識が感じられない。どっちが客かわからないほど遠慮深い人も多い。
 たいして長い時間でもないのに、待たされるとすぐに痺れを切らすのはたいてい年輩者だ。包装や配送の方法などにいろいろ注文をつけてそれが聞き入れられないと怒り出すのも年輩者の専門分野である。自分ひとりのために店員に多大な時間を費やさせてもそれが客の権利だと思っているのだ。

 若人の諸君、君らの将来は明るい。あと2,30年もすれば、私も含めて年輩者はみなくたばり、日本は若者だけの国になるだろう。そうなれば客と店員の間に対等な give-and-take の関係が実現するのだ。私も、もし輪廻転生があるとしたら来生は若者に生まれ変わりたいものだ。

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